安倍晋太郎
日本の政治家 安倍 晋太郎 あべ しんたろう [[画像:|0200px|安倍 晋太郎]]
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生年月日 | 1924年4月29日((2024-1924)+((12-4)*100+(27-29)>=0)-1歳) |
出生地 | 東京市四谷区 |
没年月日 | 1991年5月15日((1991-1924)+((5-4)*100+(15-29)>=0)-1歳没) |
死没地 | 東京都文京区 |
出身校 | 東京帝国大学法学部卒業 |
前職 | 内閣総理大臣秘書官 |
現職 | |
所属政党 | 自由民主党 |
所属委員会 | |
議員会館 | |
選挙区 | |
当選回数 | 11期
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元首 | |
称号・勲章 | 従二位 勲一等旭日桐花大綬章 法学士 |
世襲の有無 | 2世 |
親族 | 安倍寛(父) 岸信介(義父) 安倍晋三(二男) 岸信夫(三男) |
配偶者 | 安倍洋子 |
サイン | [[画像:|128px|サイン]] |
公式サイト | [ ] |
第112-113代 外務大臣 | |
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内閣 | 第1次中曾根内閣 第2次中曾根内閣 第2次中曾根第1次改造内閣 第2次中曾根第2次改造内閣 |
就任期間 | 1982年11月27日 |
第42代 通商産業大臣 | |
内閣 | 鈴木善幸改造内閣 |
就任期間 | 1981年11月30日 |
第41代 内閣官房長官 | |
内閣 | 福田赳夫改造内閣 |
就任期間 | 1977年11月28日 |
第46代 農林大臣 | |
内閣 | |
就任期間 | 1974年12月9日 |
衆議院議員 | |
内閣 | |
就任期間 | 1958年 - 1991年
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その他の職歴 | |
安倍 晋太郎(あべ しんたろう、1924年4月29日 - 1991年5月15日)は、日本の政治家。衆議院議員(11期)。従二位勲一等旭日桐花大綬章。
竹下登、宮沢喜一と共に「ニューリーダー」、「安竹宮」と呼ばれ、「三角大福」後の自由民主党を担う有力政治家の一人であった。第56、57代内閣総理大臣岸信介の女婿にあたり、第21代自由民主党総裁、第90代内閣総理大臣である安倍晋三は次男に当たる。通称「アベシン」。また、人柄が良く脇が甘いことから「プリンスメロン」とも言われた。
目次
経歴[編集]
政治家になるまで[編集]
政治家・安倍寛、静子夫妻の長男として東京に生まれる。生後間もなく郷里の山口に戻り幼少期を過ごす。「晋太郎」の名は、明治維新の志士であった高杉晋作の一字を取って命名された。
父の寛は村長、山口県議を経て、1937年の第20回衆議院議員総選挙で衆議院議員に当選した。同期には三木武夫、赤城宗徳がいる。反骨精神旺盛な気性から軍部に対しても一歩も引かず、太平洋戦争下でおこなわれた1942年の第21回衆議院議員総選挙においても、非推薦候補として選挙戦に臨んだ。
安倍が幼い頃に両親が離婚。安倍は「母は死んだ」と聞かされていたが、山口県立山口中学校(現山口県立山口高等学校)に進学した際、母親が生きていて東京で再婚していると聞かされる。安倍は二度に渡り上京し母親の居所を探すも、再会は叶わなかった。山口中学から一年間浪人した後、岡山県の第六高等学校に入学。翌年東京帝国大学法学部に推薦入学する。学徒動員で海軍に入隊する前夜、父親から母について家の事情で離婚したことと、再婚して子供(この異父弟が、後に日本興業銀行最後の頭取となる西村正雄である)をもうけた後、亡くなったことを聞かせられる。敗戦直後に父と祖父を相次いで亡くす。
戦後東大に復学し、卒業後は毎日新聞社に入社。入社試験では面接の時「父親のように将来は政治家になる」と、正直に自分の希望を吐露した。毎日新聞では社会部記者を経て政治部に移った。政治部記者としては、可もなく不可もなかったといわれる。
政治家として[編集]
岸信介の長女・洋子と結婚し、1956年、岸が石橋湛山内閣の外相として入閣したのを機に毎日新聞を退職し、外務大臣秘書官となり、岸に仕えた。岸内閣が成立すると、内閣総理大臣秘書官に就任。外相秘書官になった頃から、総選挙に出馬を考えていたが、岸も岸の実弟の佐藤栄作も時期尚早と反対する中、「岸に迷惑がかかるなら、妻を離縁してでも」と決意し、1958年の第28回衆議院議員総選挙に、郷里の山口1区(当時)から自民党公認も得て出馬、2位当選する(この時の総選挙では竹下登、金丸信が初当選しており、新人時代からの盟友関係が後の「安竹同盟」まで繋がった)。1963年の第30回衆議院議員総選挙では落選したが、1967年の第31回衆議院議員総選挙以降は連続当選を続けた。
自民党では、岸派とそれを継承した福田派に所属し、派閥領袖であった福田赳夫を支え、田中派と「角福戦争」を争った。安倍は岸の全面的支援を背景として、福田派における世代交代の旗手と位置づけられていった。1974年、三木武夫内閣において農林大臣として初入閣。以後、1976年に自民党国会対策委員長を務め、1977年、福田改造内閣の内閣官房長官となる。
1979年から1981年まで大平総裁の下で政調会長を務めるが、福田派が大平と対立する中で、それぞれ籍をおく執行部と福田派の板ばさみになる。ハプニング解散の際には、政調会長と党執行部の一員でありながら内閣不信任決議採決直前に福田派議員によって議場から連れ出される一幕もあった。政調会長退任直後に鈴木善幸内閣で通商産業大臣に就任。
この時期までに内閣・党の要職を次々と歴任し、総裁候補としての地歩を固めたが、当時の派閥会長であった福田が政局の節目で再登板に意欲を示したため派閥の継承は遅れる形になった。安倍は派内の若手の支持を得ていたものの、長老たちを掌握しきれていなかった。
1982年、鈴木善幸の首相退陣表明後、田中派の支援する総裁候補中曽根康弘に対抗すべく、福田は安倍の総裁選出馬への支持を表明。総裁予備選開催に必要な4人の立候補者を出した上で河本敏夫を総理総裁とする反田中派政権を樹立する目論見[1]であったが、安倍への党員の支持が伸び悩み、泡沫候補と思われていた中川一郎にも脅かされ最下位に転落する可能性も見えた。岸は最悪の場合、安倍の将来に関わると考え、立候補取りやめを要求したが容れられなかった。予備選の結果は3位だったが、中曽根が過半数を大きく上回る得票で1位につけたため、河本以下の候補は本選挙を辞退し、福田派の目論見も潰えた。
中曽根は安倍に閣僚人事の相談をするなど、安倍重視の姿勢を見せる。中曽根康弘内閣では外務大臣として入閣し、連続4期務めた。「外交の安倍」と言われ、義父・岸信介の対米人脈を生かした。アジア諸国との関係も重視し、親韓派と言われることも多かった。一方でパフォーマンスに長けた中曽根の陰に隠れ、外相としても新機軸を打ち出せずに終わったとも言われ、ポスト中曽根を目指して打ち出した政策である「グローバル・ニューディール」も、国民世論の理解を得たとは言い難かった。また、長きに渡って激務である外相を任されたことが、寿命を縮めた面も否めない。1986年、衆参同日選挙となった第38回衆議院議員総選挙で自民党が大勝し、第3次中曽根内閣で、安倍は党総務会長に就任。同時に派閥会長の座も禅譲された。中曽根の総裁任期満了により、後継総裁候補として安倍、竹下、宮沢が出馬するが、中曽根の巧妙な戦略とニューリーダーたち自身のひ弱さにより、中曽根に指名権が握られ、世論などでは雰囲気として安倍有利とされたが、結局、中曽根は竹下を後継総裁に指名した(中曽根裁定)。この際竹下が自分を総裁にするのに協力すれば次は安倍に譲ると禅譲を持ちかけたという説もあるが、当時彼の秘書であった次男の安倍晋三ら関係者は否定している。後継総裁を逃したことで、安倍派の中堅議員だった小泉純一郎が激怒し、他の議員たちの前で安倍を叱咤したという。
1987年に竹下内閣が成立し、安倍は自民党幹事長に就任。消費税導入などで国会対策の先頭に立ち、「ポスト竹下」の最有力候補として自他共に認める存在であった。
発病・死去[編集]
1989年、自身の秘書がリクルートコスモス(現「コスモスイニシア」)の非公開株を譲り受けていたためにリクルート事件に巻き込まれ、その最中に膵臓癌で緊急入院(当時は、リクルート事件のほとぼりを冷ますための避難入院と見る政治評論家もいた)。1989年5月、総胆管結石治療と称して手術を受けた。1990年1月にはソビエト連邦を訪問。総理・総裁就任に向けて、全国各地で安倍派の新人議員を擁立し、同年2月に行われた第39回衆議院議員総選挙では、自派から若手議員を大量に当選させた。同年6月に訪米するが、8月に病状が悪化し入院。9月に予定されていた訪ソを断念したが、病身を押してソビエト連邦初代大統領ミハイル・ゴルバチョフの来日に尽力、ゴルバチョフとの会談を行った(これが最後の政治活動となった)。
1990年9月に再入院。次男の晋三から「癌です」と告げられた時、「ああ、やっぱりそうか」と反応しただけだったという[2]。
1991年5月15日、入院先の東京都文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院で死去。(1991-1924)+((5-4)*100+(15-29)>=0)-1歳没。
年譜[編集]
- 1924年
- 1949年
- 1956年
- 12月:毎日新聞社退社、外相秘書官に就任
- 1957年
- 2月:首相秘書官に就任(~1958年)
- 1958年
- 5月:衆議院議員に当選
- 1967年
- 11月:農林政務次官(~1968年11月)
- 1974年
- 12月:農林大臣に就任(~1976年9月)
- 1976年
- 12月:自民党国会対策委員長に就任(~1977年11月)
- 1977年
- 11月:内閣官房長官に就任(~1978年12月)
- 1979年
- 11月:自民党政調会長に就任(~1981年11月)
- 1981年
- 11月:通商産業大臣に就任(~1982年11月)
- 1982年
- 11月:外務大臣に就任(~1986年7月)
- 1986年
- 7月:自民党総務会長(~1987年10月)
- 1987年
- 1991年
- 5月15日:永眠
- 墓所は山口県長門市油谷、静岡県富士霊園にある
吉田松陰記念館の安倍晋太郎人形[編集]
地元・山口県萩市の松蔭神社境内にある吉田松陰記念館には、山口県出身の歴代総理大臣の蝋人形が展示されている。1985年、将来の「安倍総理誕生」を見越して、安倍の蝋人形が作られ展示された。他の歴代総理大臣の近くに並べられた等身大の安倍の蝋人形は、ひときわ背が高く目立っていた。安倍が総理大臣になった暁には、一つ前に山口県から選出された佐藤栄作の隣に移す手筈であったが、総理にならないまま安倍は他界した。記念館では、歴代総理と安倍の蝋人形を並べて展示するわけにはいかず、椅子に座る姿に変えた上で「郷土の政治家」として片隅に展示することになった。
関係する人物や団体[編集]
義父・岸信介は「国際勝共連合」・「統一教会」(世界基督教統一神霊協会)と友好的な協力関係を持っていたが、晋太郎も同じく、関連が深いとの見方がたびたび取り沙汰されていた。「自民党内部の統一教会シンパとしてさかんに議員に統一教会員を秘書として紹介し、セミナーへの勧誘をしていた[3][4]」と言われており、1999年には『週刊現代』が統一教会と国会議員の繋がりを暴いた記事で「安倍晋太郎氏がセミナー等への勧誘を行っていた」と報じた(参考:現職国会議員128人の「勝共連合・統一教会」関係度リスト [4])。事実、統一教会は晋太郎を総理大臣にするべく応援[5]してきており、当時、竹下を後継指名した中曽根を強く非難していた。
2006年には、息子の安倍晋三(当時は官房長官)が「統一教会」の関連団体のイベントに祝電を寄せた(合同結婚式も行われたと報じられたが、「統一教会」は否定している)ことが報道され、岸信介、安倍晋太郎の代からの深い関係があるのではと見られ波紋を呼んだ(この件に関しては本人サイドは「秘書が行った行為で、誤解を招く行為であった」という旨のコメントしており、「統一教会」からの面会の申し入れも断っていると語っている)。
晋太郎は韓国政界と太いパイプを持っていたので、親韓派と言われることが多い。晋太郎の福岡事務所が入っていたビルはパチンコ事業で成功を収めた在日コリアンの実業家の経営する本社のビルであり、1980年代末には、その実業家との癒着に疑惑がもたれたこともあった。
家族 親族[編集]
- 寛信の妻幸子(ウシオ電機会長牛尾治朗の長女)
- 牛尾治朗は「僕と安倍さんは二十年来の友人で、安倍さんの後援会のひとつ『総晋会』の会長を務めている。親同士が旧知の仲だというのはありがたいが、それだけに少々とまどっている。これからはいままで以上に節度を持って交際しないと寛信くんや娘にも失礼になりますなぁ」と述べている[6]
系譜[編集]
- 安倍家
- 明確でないが奥州安倍氏の流れを汲むとされており、前九年の役にて源頼義、源義家率いる軍勢に厨川柵(岩手県盛岡市)で破れ、九州に配流された安倍宗任の末裔を称している。安倍家は、山口県大津郡日置村(後に油谷町に分割→現長門市)の大地主であり酒や醤油の醸造を営んでいた。父の安倍寛が日置村村長、山口県議会議員などを経て、1937年、衆議院議員に当選し政治一家となった[7]。安倍家の元家政婦は東北地方に飛び、安倍一族の関係地と言われた地域の市町村役場などを丹念に回りながら、各地に古くから伝わる家系図を調べ歩いた。その結果、油谷町に住み着いた一族が宗任の流れをくむ者たちであること、青森県五所川原の石搭山・荒覇吐(あらはがき)神社に始祖である宗任が眠っているらしいことを調べ上げた。元家政婦からの報告を聞いた晋太郎は1987年7月末、出馬表明した総裁選の全国遊説の折、妻洋子と晋三夫妻を伴い同神社に出向き、先祖供養を果たした。なお案内役を兼ねて晋太郎たちに同行したのが画家の岡本太郎であり、岡本もまた安倍一族の流れをくむ一人として、自らのルーツに関心を持って調べたことがあったという[8]。1989年に発刊された『安倍一族』(盛岡タイムス社編纂)という一冊に晋太郎は『わが祖は「宗任」』と題する、次の序文を寄せている。“宗任より四十一代末裔の一人として自分の志した道を今一度省みながら華咲かしてゆく精進を続けられたら、と願うことしきりです”[9]。2006年9月には、『週刊朝日』(10月6日付)で晋太郎の家の元家政婦が晋太郎が生前、自ら「私は朝鮮(人)だ。朝鮮」と言っており、家政婦自身も、晋太郎の入棺のときその骨格を見て朝鮮人だと思ったという記事が載った。統一教会系の韓国の『世界日報』(セゲイルボ)もこの『週刊朝日』の記事を引用した。[10]
┏昭和天皇━━━━━━━━━今上天皇 明治天皇━━━大正天皇━━━━━┫ ┗三笠宮崇仁親王━━━━━━寬仁親王 ┃ ┏彬子女王 ┣━━━━━┫ 麻生太賀吉 ┃ ┗瑶子女王 ┃ ┏信子 ┣━━┫ ┃ ┗麻生太郎 ┏和子 吉田茂━━━━┫ ┗桜子 吉田祥朔 ┃ ┣━━━━━吉田寛 ┏さわ ┃ ┏寛子(栄作夫人) ┣佐藤松介━━┫ ┃ ┗正子 佐藤信孝━━佐藤信立━━佐藤信寛━━佐藤信彦━╋佐藤寛造 ┃ ┃(池上) ┣佐藤作造 ┃ ┗茂世 安倍晋太郎 ┏安倍寛信 ┃ ┃ ┃ ┣━┳佐藤市郎 ┣━━━━╋安倍晋三 ┃ ┃ ┃ ┃ (佐藤)┃ ┃(岸) ┃ ┗岸信夫 ┏岸秀助 ┣佐藤信介━━洋子 ┃ ┃ ┃ ┃ 岸要蔵━━┫ ┗佐藤栄作━┳佐藤龍太郎━━佐藤栄治 ┃ ┃ ┃ ┗佐藤信二 ┗岸信政━━良子 (信介夫人)
┏岸秀助━━岸信介━━━┳岸信和 ┃ ┃ ┃ ┗洋子 岸要蔵━┫ ┃ ┃ ┃ ┏安倍寛信 ┃ ┃ ┃ ┗岸信政━良子 ┃ ┃ ┣━━╋安倍晋三 大島義昌━秀子 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ 本堂恒次郎━静子 ┃ ┃ ┃ ┃ ┗岸信夫 ┣━━━━━━━━━━安倍晋太郎 ┃ 安倍慎太郎……安倍彪助━安倍寛
参考文献[編集]
脚註[編集]
- ↑ 党所属国会議員による本選挙だけでは中曽根を支持する田中派・鈴木派・中曽根派の主流三派の優位を動かせなかったが、1978年の総裁選で予備選の結果を受けて福田が本選挙辞退に追い込まれた前例があった。河本、あるいは安倍・中川を含む非主流派候補の得票が中曽根を上回れば政局で優位に立てるという思惑があった。
- ↑ 『気骨 安倍晋三のDNA』 169頁
- ↑ 自民党の古屋圭司(当時は法務政務次官)や鴻池祥肇(当時は沖開発政務次官)は安倍晋太郎の紹介で「勝共連合」のセミナー、集会に参加したとアンケートに答えている)
- ↑ 4.0 4.1 『週刊現代』(1999年2月27日号)」
- ↑ 「統一教会」の教祖、文鮮明は「日本の今度の選挙だけでも、私たちが推してあげたのが百八議席当選した。」、「派閥で見れば、中曽根派は六十二議席にもなって、安倍派は八十三議席。私が全部そういうふうに作ってあげた。」と述べている(韓国の『統一教会』機関紙『統一世界』1990年4月号)
- ↑ 神一行著『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』224頁
- ↑ 『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』 216-217頁
- ↑ 『気骨 安倍晋三のDNA』 41-44頁
- ↑ 『気骨 安倍晋三のDNA』 44頁
- ↑ 安倍宗任と安倍晋三
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
官職 | ||
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先代: | 外務大臣 第112・113代:1982年 - 1986年
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次代: |
先代: | 通商産業大臣 第42代:1981年 - 1982年
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次代: |
先代: | 内閣官房長官 第41代:1977年 - 1978年
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次代: |
先代: | 農林大臣 第46代:1974年 - 1976年
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次代: |
党職 | ||
先代: | 自由民主党幹事長 第24代 : 1987年 - 1989年
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次代: |
先代: | 自由民主党総務会長 第29代 : 1986年 - 1987年
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次代: |
先代: | 自由民主党政務調査会長 第29代 : 1979年 - 1981年
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次代: |
先代: | 自由民主党国会対策委員長 第22代 : 1976年 - 1977年
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次代: |
先代: | 清和会会長 第2代 : 1986年 - 1991年
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次代: |