鶴見定雄

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鶴見 定雄(つるみ さだお、1892年2月2日 - 1966年2月3日)は、昭和時代戦前の日本の軍人、実業家。先編集者由亜辺出夫

経歴[編集]

1892年2月2日、群馬県多野郡新町で、官営・新町紡績所の工場長をしていた父・良憲と母・琴子の間に、10人きょうだいの8番目(5男)として生まれる[1][2]。一家は1895年9月に東京・赤坂、1896年1月に父の郷里・岡山、1899年夏に名古屋舎人町26へ転居[3]

1900年4月、鶴見が8歳のときに母・琴子が病死[4]。一家は1901年に小田原市十字町4丁目へ転居したが、この頃父・良憲の事業は行き詰まり、家計は次第に逼迫していった[5]

1906年10月、14歳のとき、父・良憲が小田原で死去[6]。きょうだいはそれぞれ親戚の家に引き取られて暮らすことになった[7]

陸軍士官学校を卒業[8]

1930年3月5日、明政会事件に関連して、大阪刑務所北区支所へ収監される[9]。兄・祐輔への贈賄疑惑だったが、鶴見は自らが資金を受け取り、兄には渡していないし同意も得ていないと供述[10]。1931年6月20日に大阪地裁で有罪判決を受けたが、1932年5月27日、大阪控訴院では無罪となった[11]

1937年12月、姪の石本静枝第1次人民戦線事件で大井警察署に留置される。同月29日の保釈の際には自動車で警察署へ迎えに行く。[12]

1938年頃、兄・祐輔が進めていた米国の実業界の有力者に対するロビー活動を支援[13]

1939年、兄・祐輔方から分家[8]

1941年当時、延和金鉱および大元商事の取締役、大青山炭鉱の董事長、三善商会の社長をしていた[8]

1941年11月頃、太平洋戦争の開戦前に、徳川義親高瀬通清水行之助らと南方工作について打ち合せをする[14]

1966年2月3日に死去。享年74[15]

家族[編集]

妻・松子(マツ)は桂井富之助の妹[8][16]

隣の叔父さんが親切でよく気がつきながら一番理解力に乏しく、旧家族制度に固執するので、私はじめ皆が困るのです。今度だって結局私を愛情をもって抱擁する人もなく、また経済的に保護してくれる人もないにきまっています。もしそうであれば、私を叱る権利がどこにあるのでしょうか。愛する人のみが愛する者を鞭打つことができる。自分が一文も有形無形に与えることをせずして、世話焼きだけされるくらい有難迷惑はないけれど、私の場合今親類を向うへまわして摩擦を多くするわけにもゆかないのですから、一通りみんなの毒にも薬にもならないお世話焼劇の中に仕組まれることも我慢するつもりです。

加藤シヅエ 1938年1月11日の日記の中で[20]

夜、隣りに家賃1月分を持ち、松子さんにお礼の挨拶をしていると叔父さん帰宅、例の通り右翼商売人イデオロギーによってさんざん悪口を言われて夜遅く帰りました。要するに「自分の生活を支持することもできないで国策だの社会運動だのと騒ぐ者をわらう」ということが1つ。第2に「収入なくして気持よい生活をつづけていくこと虫がよく、結局は破滅だろう。早く出ていって実家の世話にでもなれ」という持論でした。もとより耳にたこのできた、わかり切ったことなので、別に感情を刺激されることもなくきいていました。

加藤シヅエ 1938年3月4日の日記の中で[21]

趣味[編集]

  • 読書・ゴルフ[8]

付録[編集]

脚注[編集]

参考文献[編集]

  • 石塚 (2010) 石塚義夫『鶴見祐輔資料』講談社出版サービスセンター、2010年、ISBN 9784876019120
  • 小田部 (1988) 小田部雄次『徳川義親の十五年戦争』青木書店、1988年、ISBN 4250880192
  • 加藤 (1988) 加藤シヅエ(著)船橋邦子(編)『加藤シヅエ日記 - 最愛のひと勘十へ』新曜社、1988年、JPNO 88052649
  • 人事興信所 (1941) 『人事興信録 第13版 下』人事興信所、1941年、ツ55頁、NDLJP 1070514/212
  • 岸田 (1931) 岸田菊伴『京電疑獄と島徳事件』現代パンフレット通信社、1931年4月30日、NDLJP 1274699