「小渕恵三」の版間の差分
SEOに熱心なMuttley (トーク | 投稿記録) 細 (rxy=森谷辰也=LTA:ASPE、 LTA:DCHANCE、LTA:SASHOという動かせない事実。) |
RxyはクロスウィキLTA (トーク | 投稿記録) |
||
1行目: | 1行目: | ||
− | + | {{日本の内閣総理大臣 | |
|[[小渕内閣|84]] | |[[小渕内閣|84]] | ||
|小渕 恵三<br />(おぶち けいぞう)<br />[[Image:Keizo Obuchi.jpg]] | |小渕 恵三<br />(おぶち けいぞう)<br />[[Image:Keizo Obuchi.jpg]] |
2020年1月9日 (木) 00:25時点における最新版
小渕 恵三 (おぶち けいぞう)
| |
在任期間 | 1998年(平成10年)7月30日 - 2000年(平成12年)4月5日 |
生没年月日 | 1937年6月25日 |
出生地 | 日本 群馬県吾妻郡中之条町 |
出身校 | 早稲田大学大学院政治学研究科 |
学位・資格 | 政治学修士 |
前職 | 大学院生 |
世襲の有無 | 2世 父・小渕光平(衆議院議員) |
選挙区 | 群馬5区 |
当選回数 | 衆12回 |
党派 | 自由民主党 |
花押 | |
目次
概説[編集]
総理府総務長官、沖縄開発庁長官、内閣官房長官、外務大臣、自由民主党総裁などを歴任。「人柄の小渕」の異名をとり、内閣総理大臣に就任した。自由党、公明党と連立政権(自自連立、自自公連立)を樹立した。郵政族の実力者としても知られ、郵政事業懇話会会長などを歴任した。
年譜[編集]
- 1937年(昭和12年) - 出生。
- 1963年(昭和38年) - 衆議院議員選挙初当選。
- 1979年(昭和54年) - 大平内閣に総理府総務長官・沖縄開発庁長官として初入閣。
- 1986年(昭和61年) - 衆院予算委員長に就任。
- 1987年(昭和62年) - 竹下内閣で官房長官に就任。
- 1991年(平成3年) - 自民党幹事長に就任。
- 1994年(平成6年) - 自民党副総裁に就任。
- 1997年(平成9年) - 橋本内閣で外務大臣に就任。
- 1998年(平成10年) - 自民党第18代総裁に就任し、第84代内閣総理大臣に就任。
- 2000年(平成12年) - 脳梗塞のため永眠。
来歴(出生 - 自民党議員)[編集]
出生-早稲田大学時代[編集]
1937年(昭和12年)、群馬県吾妻郡中之条町に製糸業を営む小渕光平(衆議院議員・群馬県トラック協会会長)・小渕ちよ(光山社役員)夫妻の次男として生まれる。戦時中に北軽井沢に疎開していた学習院大学の教授と懇意になり、編入を勧められた父の意向により中之条町立中之条中学校1年の時に、学習院中等科に編入。以後は東京都北区王子に移住。
学習院に編入したものの、周りは名家の子息ばかりだった事から、地方出身の小渕にとっては決して居心地の良い環境ではなかったらしく、クラスメートからはからかいの対象となり、「群馬」という渾名を付けられていたという。
この事から、中等科卒業後は外部の高校を目指す事を決め、東京都立小石川高等学校進学を志すも断念。東京都立北高等学校(現東京都立飛鳥高等学校)に進学。東京外国語大学モンゴル語科を受験したが、不合格。二浪後、早稲田大学第一文学部英文学科に進学。
父・光平が衆議院議員在職中に脳梗塞で亡くなると、政治家になるためのスキル獲得のため、サークル活動に積極的に取り組んだ。雄弁会、富木流合気道(日本合気道協会)の合気道部(小渕は合気道四段)、詩吟サークルの稲吟会、書道会、観光学会(堤義明主宰)、アジア友の会、沖縄東京学生文化協会など、数多くのサークルに所属した。加えて、選挙対策として吾妻青年政治研究会会長・群馬早稲田会会長等を歴任した。
政治家へ[編集]
光平の死後、1960年(昭和35年)に第29回衆議院議員総選挙が行われた。当時23歳でまだ被選挙権がなかったため、地元では元参議院議員で群馬県知事・長野県知事を歴任した伊能芳雄らを立てたが落選。結果的にこの時、伊能が議席を取れなかったことが小渕の政界進出を導いた。
1962年、大学を卒業、大学院政治学研究科に進学、在学中の1963年(昭和38年)、海外視察旅行に出かけ、当時アメリカの施政権下にあった沖縄県から出発し、台湾、タイ、インドネシア、パキスタン、インド、スリランカ、イラン、サウジアラビア、クウェート、ウガンダ、エチオピア、エジプト、トルコ、ポルトガル、スペイン、ノルウェー、フィンランド、フランス、スイス、ドイツ、イタリア、イギリス、アイルランド,アメリカ、アルゼンチン、チリ、ウルグアイ、ブラジルなど計38ヶ国を歴訪。
早大大学院在学中の1963年11月、第30回衆議院議員総選挙に旧群馬3区から自民党公認で出馬し、47,350票を獲得し初当選(4議席中3位当選)。26歳という若さであった。同期には橋本龍太郎、中川一郎、大出俊、田中六助、伊東正義、渡辺美智雄などがいる。
しかし、同一選挙区には福田赳夫、中曽根康弘、社会党書記長に登りつめた山口鶴男などがおり、小渕は、自らを「ビルの谷間のラーメン屋」「米ソ両大国の谷間に咲くユリの花」と喩えていたが、その後も議席を維持した(連続12回当選)。
1967年(昭和42年)、現在環境保護運動家として活動する大野千鶴子と結婚。仲人は橋本登美三郎。
自民党内では佐藤派→田中派→竹下派→小渕派と一貫して保守本流を歩き、渡部恒三・小沢一郎・橋本龍太郎らとともにいわゆる「竹下派七奉行」に列せられた。また、竹下登に一貫して師事し、竹下直系として力を握った。
1970年(昭和45年)1月20日に郵政政務次官(第3次佐藤栄作内閣)に就任。就任時、「郵政省で政務次官をやるからには現場の職務を深く理解したい」と考え、郵政外務職員に混じって自ら郵便配達を行い、当時の郵政省職員、郵便局局員を驚かせ、また、支持を得ていった。こうしたパフォーマンスは現在では珍しくないが、当時としては異例で大いに話題をよんだ[1]。
1972年(昭和47年)、自民党総裁選で田中角栄と福田赳夫が対決した際、同郷の福田ではなく同じ派閥の田中に投票した。そのため、福田首相を熱望していた群馬県民の怒りを買い、その年の暮れに行われた第33回総選挙で苦戦を強いられたが全国最低得票で辛くも当選した。
1972年7月12日に建設政務次官(第1次田中角栄内閣)に就任し、1973年(昭和48年)11月25日には総理府総務副長官(第2次田中改造内閣)に就任した。このように、小渕は3回も政務次官に就任しているが、政務次官就任は通常2回が限度とされており、非常に異例であるといえる。
1979年(昭和54年)11月9日、総理府総務長官兼沖縄開発庁長官(第2次大平正芳内閣)として初入閣。同期のなかで大臣になったのは最も遅かった。
この間、木曜クラブ常任委員会議長として竹下総裁実現に奔走。1987年(昭和62年)11月6日に発足した竹下登内閣で内閣官房長官に就任し、内閣総理大臣臨時代理を務めた。また、官房副長官を務めた小沢一郎とのコンビは、竹下によって「小・小コンビ」(スモールコンビ)と呼ばれた。
「平成おじさん」から首相へ[編集]
官房長官時代に昭和天皇が崩御。元号変更にあたり、記者会見で「新しい元号は「平成」であります」と平成を公表した。新元号の発表は、国民的な注目を集めていたこともあり、小渕は「平成おじさん」として広く知られるようになった。小渕が「平成」と書かれた額を掲げるシーンは、いまだに時代を象徴する映像として多く利用されている(平成の項も参照)。
昭和天皇崩御にともない官房長官として大喪の礼などの重要課題を取り仕切った。
しかし、官房長官に就任してすぐの閣僚名簿の発表時に堀内俊夫環境庁長官の名前を呼び忘れるなど、発言の訂正が多く「訂正長官」と揶揄されることもあった。
1991年(平成3年)4月、当時自民党幹事長だった小沢一郎が東京都知事選挙に際し、NHK論説主幹だった磯村尚徳を強引に担ぎ出したものの、自民党都連は小沢に反発し現職の鈴木俊一を推すという分裂選挙を引き起こし、結局鈴木が完勝。小沢が引責辞任したため自由民主党幹事長に就任。このとき、金丸は小渕幹事長就任の経緯について「ファースト・インプレッションだ」と語った。
1992年(平成4年)10月、竹下派(経世会)会長の金丸信が東京佐川急便事件で議員辞職に追い込まれると、金丸の後継をめぐって小沢一郎と反小沢派の対立が激化。小沢派が推す羽田孜と、反小沢派が推す小渕との間で後継会長の座が争われた。
激しい権力闘争の末、最後は竹下の後ろ盾を得ていた小渕が、半ば強引に後継の派閥領袖と決まった。しかし小沢、羽田らは反発して改革フォーラム21(羽田・小沢派)を旗揚げし経世会(小渕派)は分裂。1993年(平成5年)、羽田らは自民党を離党して新生党を結成した。
その後、1994年(平成6年)に自民党副総裁に就任したものの、党務に従事したため、重要閣僚のポストには無縁で埋もれかけた。
1995年(平成7年)、自由民主党群馬県支部連合会の会長選挙に際し、衆院選での小選挙区の候補者選考をめぐって小渕に不満を持っていた中曽根康弘が小渕の県連会長続投に異議を唱え、それに同調した福田康夫らにより小渕は自民党群馬県連会長の座を退任に追い込まれた(後任は尾身幸次元経済企画庁長官)。群馬県では「小渕の政治生命もこれで終わり」という声がもっぱらであった。
1996年(平成8年)1月、村山富市首相の辞任に伴い、小渕派の橋本龍太郎が内閣総理大臣に就任。小渕派会長の小渕は政権への意欲を示したものの、野中広務らの説得により、現実的判断をとって橋本支援に転換。橋本の対抗馬であった河野洋平とソリの合わなかった加藤紘一に党幹事長のポストを渡すなどの工作を行った。
また、同年10月の第2次橋本内閣の発足に当たって、小渕の衆議院議長就任の話がもちあがる。小渕自身、一時は意欲を示したが、弱冠59歳でいわゆる「上がりポスト」である議長に就けば、将来の首相の芽がなくなると地元の支持者たちが猛反対し、側近の額賀福志郎や青木幹雄、綿貫民輔らや秘書の古川俊隆らも反対であったため、就任を固辞した。小渕の名前が消えた後、議長には竹下に近い伊藤宗一郎が就任した。
1997年(平成9年)9月、第2次橋本内閣改造内閣で外務大臣に就任し表舞台に復帰。対人地雷全面禁止条約(オタワ条約)を外務省の強い反対を押し切って締結した。この事業に関しては土井たか子や菅直人から高い評価をうけている。
1998年(平成10年)7月30日、第18回参議院議員通常選挙での敗北の責任をとって辞任した橋本の後継首相になる。しかし、橋本と同派閥の小渕の登板に当初は各方面から批判を浴びることとなった(首相としての活動は別記)。
突然の発病と死[編集]
首相在任中の2000年(平成12年)4月2日に脳梗塞を発症した。実はこの前日、連立与党を組んでいた自由党との連立が決裂しており、4月2日午後、政権運営がより困難になったと思われるこの緊急事態について記者から質問されると小渕はしばし答弁できず無言状態となっていた。言葉を出すのに10秒前後の不自然な間が生じていた。これは一過性の脳梗塞の症状と考えられており、梗塞から回復したときに言葉を出すことができたとされる。
元々小渕には心臓病の持病があり、それに加えて首相の激務が脳梗塞を引き起こしたと考えられている。執務終了後、公邸に戻ってもおびただしい書類、書籍、新聞の切り抜きに目を通し、徹夜でビデオの録画を見るのが普通で、一般国民にまでかける数々のブッチホンも激務に拍車をかけた[2]。
小渕は意識の判然としないまま、当日夜、順天堂大学医学部附属順天堂医院に緊急入院したとされる。そして、執務不能のため内閣官房長官の青木幹雄を首相臨時代理に指名したとされる。しかし、青木の首相臨時代理就任に関しては脳梗塞で既に意識を完全に失っていたかもしれない小渕本人に果たして指名を行うことが出来たか否かが野党・マスメディアに「疑惑」として追及された。
「疑惑」の張本人であり小渕首相の臨時代理でもある青木自身が「脳死ではないのか?」との記者からの異議申し立てを却下したため、また、担当医師たちが曖昧な説明ないし指名は不可能だったと思わせる説明しかしなかったため疑惑は残り、後任の森喜朗総裁誕生の舞台裏と併せて「五人組による密室談合政治」と批判される原因となった。
昏睡状態は続き、意識を回復する事の無いまま、倒れてから約1か月半を経た同年5月14日午後4時7分に死去。62歳だった。なお奇しくも父と同じ病気で倒れ同じ病院で亡くなっている。また内閣総理大臣の在職中の病気を理由とした退任は1980年(昭和55年)6月に急逝した大平正芳以来20年振りのことであった。
5月15日、その前日(死亡当日)の日付で大勲位菊花大綬章が贈られた。5月30日、衆議院本会議で村山元首相が追悼演説を行った。衆院での首相経験者への追悼演説は野党第一党党首が行うのが通例であり、本来なら民主党代表の鳩山由紀夫の予定であった。しかし、遺族側がこれを拒否し、例外的に首相経験者で野党社会民主党衆院議員(前党首)の村山による追悼演説となった。
これは当時、鳩山が小渕のドコモ株疑惑[3]を強烈に追及していたためである。野中広務は後日、国会で、小渕への哀悼の意を表明した鳩山を「前首相の死の一因があなたにあったことを考えると、あまりにもしらじらしい発言」と痛烈に批判した。遺族は鳩山に強烈な悪感情を抱いていたという。しかしながら鳩山はあくまで野党党首としての責務を果たしていただけであり、決して怨恨によるものでなかった。
6月8日、日本武道館において内閣・自民党合同葬が執り行われ、それに合わせた弔問外交も行われた。
2か月後の衆議院選挙には次女の小渕優子が後継として群馬5区から出馬した。この選挙は小渕前首相の弔い合戦であるかのような様相を呈し、小渕優子は次点の山口鶴男(元日本社会党書記長・元総務庁長官)に13万票以上の大差をつけて当選した(以後、小渕優子は3期連続当選)。
2006年5月、七回忌を前に「小渕元首相を偲ぶ会」が開催され、森喜朗・橋本龍太郎・青木幹雄・小寺弘之らが参加した。
小渕内閣の実績[編集]
1998年の参議院選挙で自民党が追加公認を含め45議席と大敗すると橋本内閣は総辞職に追い込まれ、現職外相の小渕が自民党総裁選に出馬した。当初、橋本からの政権禅譲が期待されたが、前官房長官梶山静六と現職厚相の小泉純一郎が総裁選に出馬し激しい選挙戦を展開。三候補について田中眞紀子からは「梶山は士官学校卒業だから『軍人』、小泉は変な人だから『変人』、そして小渕は『凡人』などと評された。
ニューヨーク・タイムズには「冷めたピザ」ほどの魅力しかないと形容された(後に、記者団にピザを配った事がある)。亀井静香らが同派閥出身の小泉ではなく梶山に票を流すなどの工作もあり(後に亀井らは清和会を離脱)、梶山と小泉を破り党総裁に就任した。
7月30日、国会で首班指名を受け第84代内閣総理大臣に就任。しかし、与野党が逆転している参議院では民主党代表の菅直人が首班指名され、日本国憲法第67条の衆議院の優越規定により辛くも小渕が指名されるなど、当初の政権基盤は不安定だった。加えて、マスコミからの小渕批判も強く、新聞誌上に「無視された国民の声」などという見出しが並び、就任早々から「一刻も早く退陣を」と書きたてた新聞もあった。
総理大臣当時、目指すべき国家像として「富国有徳」を打ち出す。この概念は静岡県知事に就任した石川嘉延により引き継がれ、石川知事時代の静岡県のスローガンの一つに掲げられた。
同年10月、金融国会において金融再生法案は野党・民主党案丸飲みを余儀なくされ、10月16日には参議院で防衛庁調達実施本部背任事件をめぐって、額賀福志郎防衛庁長官問責決議が可決され、額賀は辞任に追い込まれた。この時から、当時の参議院議長の斎藤十朗と政治手法をめぐって火花を散らしていた。
しかし、その一方で、政権基盤の安定を模索し、野党の公明党、自由党に接近。11月に公明党が強引に主張した地域振興券導入を受け入れ、自由党党首・小沢一郎とは連立政権の協議開始で合意した。
1999年(平成11年)1月、自由党との連立政権発足。この事で政権基盤が安定し、周辺事態法(日米ガイドライン)、憲法調査会設置、国旗・国歌法、通信傍受法、住民票コード付加法(国民総背番号制)などの重要法案を次々に成立させた。この様な政治手腕に対して中曽根康弘元総理は文藝春秋誌において「真空総理」と評した。
同年9月、自民党総裁選でYKKの一角・加藤紘一元防衛庁長官と山崎拓元防衛庁長官を破り総裁に再任。10月に公明党が正式に与党参加。続く内閣改造・党三役人事では、幹事長・森喜朗を留任させ、総務会長には加藤派が推挙した小里貞利を拒否、政調会長・池田行彦を総務会長に起用し、河野洋平を外相に起用した。また山崎派が推挙した保岡興治の入閣も拒否し、深谷隆司を通産相に起用した。これは総裁選後の報復人事と囁かれた。
この時の人事では早稲田大学雄弁会OBから玉沢徳一郎農林水産大臣、青木幹雄官房長官を起用。また地元の群馬県から福田赳夫の娘婿の越智通雄金融再生委員長、中曽根康弘の息子・中曽根弘文文部大臣、山本富雄の息子・山本一太外務政務次官を起用した。この国会では、労働者派遣法を改正し、派遣を原則禁止・例外容認から、原則容認・例外禁止に大きく転換させた。
2000年2月、自由党の要求を受け衆院の比例代表区定数を20削減する定数削減法を強行採決で成立させた。3月には、教育改革国民会議の開催を始めた。
同年4月1日、自由党との交渉が決裂し、連立離脱を通告されるが、翌日に脳梗塞で緊急入院。4月4日に正式に内閣総辞職した。在職616日。いわゆる五人組によって後継に森喜朗が選出され、森内閣に引き継がれた。
小渕内閣の特徴として、全体の方針を策定するだけで、各省庁の個別の案件は国務大臣自らの裁量に任せるというのが小渕内閣であった。
また、「日本一の借金王」と自嘲したように、無駄な公共事業を推し進めた張本人として批判される(栗本慎一郎は橋本龍太郎の構造改革を全て無にしたと酷評している)。合計約42兆円の経済対策の内訳は、公共事業が約4割を占めているが、減税や金融対策などにも充てられた。
在任中は、日本銀行のゼロ金利政策やアメリカの好景気もあって、経済は比較的好調で、ITバブルが発生した。また公明党の発案で地域経済の活性化と称し地域振興券を国民に配布したがこの政策は「ばら撒きの極致」と酷評された。
また、労働者派遣法を改正した結果、特殊分野だけだった派遣業種は大幅に拡大した。この政策は非正社員増加の一因となった。一方で所得税の最高税率を引き下げ、法人税の基本税率を引き下げた。
周辺事態法、通信傍受法、国旗・国歌法など、戦後、処理すべきだった課題を一気に片付け、外交手腕も長けていたことなどから、近年、再評価もされている。また日本でのサミット開催地を沖縄に定めたことも小渕の決断能力の高さを表すものとして語られることがある。
小渕が任期途中で倒れ、志半ばで退場を余儀なくされたことが結果としてその後の小泉純一郎政権の登場による構造改革と地方格差を招き、日本の運命を変えてしまったという指摘をする向きもある。
政策[編集]
外交防衛[編集]
江沢民中国国家主席(当時)の来日時、江主席の日本に対する謝罪要求をはねつけた。
普天間飛行場移設について辺野古沖移設を閣議決定した。しかしその後、小泉純一郎が米国の要求のまま沿岸部移設を決定した。
行政改革[編集]
橋本政権から引き継いだ課題のひとつである中央省庁再編を積極的に推進した。中央省庁再編に伴い新設された総務省、財務省、文部科学省、厚生労働省、経済産業省、国土交通省の名称を決定したのは小渕である[4]。
情報通信[編集]
郵政省が所管するアマチュア無線に造詣が深く、熱心なアマチュア無線家でもあり、議員で構成する「国会アマチュア無線クラブ」の会長も務めていた。1986年8月13日の日本初アマチュア衛星JAS-1の打ち上げに大きく貢献。また、アマチュア衛星JAS-1b・アマチュア衛星JAS-2の打ち上げにも貢献した。
人物[編集]
- 歴代の首相で初めて修士号を貰っている。
- 身長168cm、体重68kg、血液型A。
- トヨタ自動車相談役の奥田碩からは「一見おっとりされているが、人の話をよく聴く方」と評されていた。
趣味嗜好[編集]
スポーツ[編集]
- 1999年5月、アメリカシカゴを訪問し1日(現地時間)、大リーグのシカゴ・カブス対サンディエゴ・パドレス戦に登場。サミー・ソーサをキャッチャーにして始球式を行ったことがある。
- 合気道は四段の達人。議員になったばかりの頃、早稲田大学を訪れ、三段であった鈴木邦男を軽く投げ飛ばしたという。
交友[編集]
- 河口湖に別荘を建築した竹下に誘われ、小渕も竹下の横に別荘を建築。しかし、途中で建設会社が倒産し、別荘としては機能しなかった。
- 渡部恒三と親しく、福島県西郷村の渡部所有の土地の隣に、6000平方メートルの土地を所有していた。
ブッチホン[編集]
- 2000年1月5日、日本テレビ『ズームイン!!朝!』に、突如電話で生出演し、キャスターや視聴者を驚かせた。これは、番組内でブッチホンを取り上げて貰ったことに対するお礼を兼ねた電話だった。また、4日後のテレビ朝日『サンデープロジェクト』にも、突如電話で生出演した。ただし、後者の出演に関しては、後に記者クラブ側からクレームが来た。
銅像[編集]
村山富市元首相による追悼演説(抜粋)[編集]
サミットを無難にこなすためなら、開催地は東京でも大阪、京都でもよかった。むしろ、東京から遠く離れ、今なお生活・産業基盤の整備がおくれている沖縄は避けるべきだという意見も当然あったはずです。ところが、君は毅然として、サミットの開催地を酷暑の沖縄に決断したのであります。
思えば、この沖縄サミットに、君の政治家としての誠実さが象徴的にあらわれています。君は、学生時代から何度も沖縄に足を運び、本土防衛のために二十三万人が犠牲となり、戦後は、アメリカの施政権のもとに、本土から切り離され、苦しい中で本土復帰を訴えた姿を目の当たりにして、沖縄への思いを心に刻みつけたと聞いています。
革新が、日米安保反対、沖縄の本土復帰を訴えて大規模なデモを組織した一九六〇年前後、君は保守の側で沖縄文化協会をつくり、沖縄問題への取り組みを始めていたのであります。
サミット開催に当たって無難を大事にするなら、若いころからの思いに目をつぶることでした。だが、やすきにつくため信念をあいまいにし沖縄の人々の痛みを無視することは、君には到底できない相談でした。だから、困難を承知で、あえて沖縄サミットに踏み切ったのです。その熱い思いが沖縄の人々をどれほど勇気づけているかは、立場こそ違え、長年沖縄問題に取り組んできた私には痛いほどわかります。
七月二十一日から二十三日にかけて沖縄を訪れる先進国の首脳たちは、亜熱帯の美しい海、高い空、濃い緑、それに豊かな文化と人々の優しい人情に目をみはることでしょう。多くのマスコミが沖縄を全世界に報道することで、工業国の印象が強い日本が実は多様な歴史と文化を持った国であることを、改めて認識し直すに違いありません。そして、あの美しい沖縄で苛烈な戦いがあった歴史に思いをはせるとき、世界の平和に重要な責任を有している先進国の首脳たちは、平和のたっとさを改めて心に刻むはずです。
君は、早稲田大学雄弁会に属していたが、決して多弁ではなかった。でも、朴訥な語りは、人々の心にしみ込む独特な説得力があった。もしも君が沖縄サミットを主催していたら、ホスト国の首相にもかかわらず、かなり控え目に沖縄を語ったことでありましょう。だが、君ならそれで十分だった。君の含羞を帯びた語りは、何物にも増して説得力を持ち、君は存在そのものが雄弁だった。そんな君の姿を見ながら、多くの国民は沖縄の痛みを改めて自分の痛みと感じたに違いない。
今となってはかなわぬ夢となってしまいましたが、沖縄に集まる首脳たちの輪の真ん中に、どうしても君にいてほしかった。この沖縄サミットだけは君の手で完結させてほしかった。それが、悔やんでも悔やみ切れない思いとなって、私の心に大きなひっかかりとなっているのです。
主な役職[編集]
内閣[編集]
- 内閣総理大臣
- 外務大臣
- 官房長官
- 総理府総務長官
- 沖縄開発庁長官
- 総理府総務副長官
- 郵政政務次官
- 建設政務次官
自由民主党での主な役職[編集]
- 自由民主党総裁 (1998-2000)
- 自由民主党副総裁 (1994)
- 自由民主党幹事長 (1991)
- 自由民主党副幹事長
- 自由民主党国会対策副委員長
- 自由民主党総務
- 自由民主党顧問
- 自由民主党青年部長
- 自由民主党学生部幹事
- 自由民主党政調対外経済協力特別委員会副委員長
- 自由民主党こんにゃく対策議員懇談会代表世話人
- 自由民主党電気通信問題調査会長
- 自由民主党都市公園緑地対策特別委員長
- 自由民主党医療基本問題調査委員長
- 自由民主党群馬県支部連合会会長
- 自由民主党衆議院群馬県第5区支部長
- 自由民主党新聞販売懇話会会長
- 自由民主党訪ソ団長(1990年)
派閥内[編集]
- 木曜クラブ常任委員会議長
- 経世会事務総長
- 経世会会長
- 平成研究会会長
国会での主な役職[編集]
- 衆議院大蔵委員長
- 衆議院予算委員長
- 衆議院安全保障特別委員長
- 衆議院議院運営委員会理事
- 衆議院沖縄問題等に関する特別委員会理事
- 衆議院沖縄及び北方問題に関する特別委員会理事
- 衆議院逓信委員会理事
- 憲政記念館運営委員
- 衆議院懲罰委員会委員
- 衆議院議院運営委員会図書館運営小委員会小委員
- 衆議院農林水産委員会委員
- 衆議院外務委員会委員
- 衆議院商工委員会委員
- 衆議院地方行政委員会委員
議員連盟[編集]
- みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会会長
- 郵政事業懇話会会長
- 自動車整備議員連盟会長
- 消防議員連盟会長
- 映画議員連盟会長
- 釣魚議員連盟会長
- 浄化槽対策議員連盟会長
- 情報産業振興議員連盟会長
- 大規模リゾート建設促進議員連盟会長
- 大学設立推進議員連盟世話人
- 日独議員連盟理事長
- 日本・スリランカ友好議員連盟会長
- 日本・ベトナム議員連盟会長
- 日本・モルディヴ友好議員連盟会長
- 日本ブラジル国会議員連盟副会長
- 日本アルゼンチン友好議員連盟会長
- 日本・モザンビーク共和国議員連盟名誉顧問
- 日本会議国会議員懇談会発起人
- 国会アマチュア無線クラブ会長
- 国会フィラテリスト議員クラブ会長
- 国際連合貢献議員研究会会長
首相在任時[編集]
- 国土開発幹線自動車道建設審議会会長
- 阪神・淡路復興対策本部長
- 中央省庁等改革推進本部長
- 男女共同参画推進本部長
- 産業構造転換・雇用対策本部長
- 高度情報通信社会推進本部長
- 地球温暖化対策推進本部長
- 障害者施策推進本部長
- 放射能漏れ事故対策本部長
- 食料・農業・農村政策推進本部長
その他の役職[編集]
- 日本・ベトナム文化交流協会会長(理事長は杉良太郎)
- 日本釣振興会会長
- グアテマラ大統領就任式特派大使
- 日本国際交流センターロシア・中央アジア対話ミッション団長(1997年)
- パレスチナ選挙監視団団長(1996年)
- 群馬県アマチュアボクシング連盟会長
- 「アジアの未来」講師
賞罰[編集]
おもな受賞歴[編集]
- クルゼイロ・ド・スル国家勲章(2003年)
- 第18回ベスト・ファーザー イエローリボン賞(1999年)
- 第19回新語・流行語大賞大賞(1999年)
- 群馬県名誉県民(2000年)
- 中之条町名誉町民(2002年)
栄典[編集]
家系[編集]
家族・親族[編集]
- 父・小渕光平(元衆議院議員、光山社創始者)
- 母・小渕千代(光山社重役)
- 妻・小渕千鶴子
- 長男・小渕剛
- 長女・小渕暁子(イラストレ―ター)
- 次女・小渕優子(衆議院議員)
- 兄・小渕光平 (2代目)(前中之条町長)
- 叔父・小渕岩太郎(実業家)
- 叔父・小渕浪次 (実業家)
- 女婿・瀬戸口克陽(TBSプロデューサー)
系譜[編集]
- 小渕氏
信平━━光平━━┳光平 ┗恵三 ┏剛 ┣━━┣暁子 千鶴子┗優子
主な著作・論文[編集]
- 「政治と文学」(早稲田大学卒業論文、1962年)
- 「三十九人目の大蔵委員長」(1977年)
- 「石油と砂漠と人間と 小渕恵三対談集」(上毛新聞社)
- 「鈍牛 角を砥ぐ」『諸君!』(1998年)
脚注[編集]
- ↑ ただ、竹下登は「代議士が郵便配達員になったのではなく、郵便配達員が代議士になったようだ」と語ったという。
- ↑ 竹中治堅 『首相支配--日本政治の変貌』 中央公論新社〈中公新書〉、2006年5月25日、127頁。ISBN 4121018451
- ↑ 実兄の小渕光平と秘書の古川がドコモの未公開株を保有し、実質70億円とも90億円ともいわれる利益を得たとの疑惑。
- ↑ 中央省庁等改革推進本部 (1999-04-15) 中央省庁等改革推進本部 中央省庁等改革推進本部・顧問会議(第13回)議事録 中央省庁等改革推進本部顧問会議 総理大臣官邸 1999-04-15 [ arch. ] 2008-09-22
関連項目[編集]
- ブッチホン
- 金帰火来
- 自由民主党総裁
- 自由民主党幹事長
- ネオ・ニューリーダー
- 小渕内閣
- 小渕内閣第1次改造内閣
- 小渕内閣第2次改造内閣
- 平成
- 総理大臣官邸:小渕内閣時に、新官邸の建設開始
関連人物[編集]
関連文献[編集]
- 「石油と砂漠と人間とー文化と経済から中東を語る」(小渕恵三対談集)上毛新聞社
- 「小渕恵三の615日。―第84代内閣総理大臣の全公務記録」光進社
- 「小渕恵三 全人像」後藤謙次
- 「自民党の若き獅子たち」大下英治
- 「永田町の”都の西北”」大下英治
- 「凡宰伝」佐野眞一
- 「父のぬくもり」小渕暁子
- 「父が読めなかった手紙」小渕暁子
- 「三人の総理と一人の親友について語ろう」竹村健一
- 「奔流の中の国家」櫻田淳
- 「健児の塔」松本国雄
- 「激録!総理への道―戦後宰相列伝 田中角栄から森喜朗まで」大下栄治
- 「野中広務 差別と権力」魚住昭
- 「政治とは何か 竹下登回顧録」竹下登
- 「永田町大乱」鈴木棟一
- 「クライマーズ・ハイ」横山秀夫
- 『滞日写録』中国人記者が見た日本 唐暉(とうき)著 東京文献センター ISBN 978-4-925187-34-3
外部リンク[編集]
官職 | ||
---|---|---|
先代: | 内閣総理大臣 第84代:1998年 - 2000年
|
次代: |
先代: | 外務大臣 第125代:1997年 - 1998年
|
次代: |
先代: | 内閣官房長官 第49代:1987年 - 1989年
|
次代: |
先代: | 沖縄開発庁長官 第10代:1979年 - 1980年
|
次代: |
先代: | 総理府総務長官 第29代:1979年 - 1980年
|
次代: |
党職 | ||
先代: | 自由民主党総裁 第18代 : 1998年 - 2000年
|
次代: |
先代: | 自由民主党副総裁 1994年
|
次代: |
先代: | 自由民主党幹事長 第27代 : 1991年
|
次代: |
先代: | 経世会会長 第3代:1992年 - 1996年
|
次代: 改称
|
先代: 改称
|
平成研究会会長 初代:1996年 - 1998年
|
次代: |
歴代内閣総理大臣 | |||||
第82・83代 橋本龍太郎 |
第84代 1998年 - 2000年 |
第85・86代 森喜朗 | |||
第代 [[]] |
第代 |
第代 [[]] | |||
第代 [[]] |
第代 |
第代 [[]] | |||
第代 [[]] |
第代 |
第代 [[]] | |||
第代 [[]] |
第代 |
第代 [[]] | |||
伊藤博文 黑田清隆 山縣有朋 松方正義 大隈重信 桂太郎 西園寺公望 山本權兵衞 寺内正毅 原敬 |
高橋是清 加藤友三郎 清浦奎吾 加藤高明 若槻禮次郎 田中義一 濱口雄幸 犬養毅 齋藤實 岡田啓介 |
廣田弘毅 林銑十郎 近衞文麿 平沼騏一郎 阿部信行 米内光政 東條英機 小磯國昭 鈴木貫太郎 東久邇宮稔彦王 |
幣原喜重郎 吉田茂 片山哲 芦田均 鳩山一郎 石橋湛山 岸信介 池田勇人 佐藤榮作 田中角榮 |
三木武夫 福田赳夫 大平正芳 鈴木善幸 中曾根康弘 竹下登 宇野宗佑 海部俊樹 宮澤喜一 細川護熙 羽田孜 |
村山富市 橋本龍太郎 小渕恵三 森喜朗 小泉純一郎 安倍晋三 福田康夫 麻生太郎 鳩山由紀夫 菅直人 野田佳彦 |