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2012年5月2日 (水) 18:52時点における版
石原 慎太郎 (いしはら しんたろう、旧字体:石原 愼太郎、1932年 (昭和7年) 9月30日 - ) は、日本の政治家、作家。東京都知事 (第14・15・16・17代) 。
参議院議員 (1期) 、衆議院議員 (8期) 、環境庁長官 (第8代) 、運輸大臣 (第59代) を歴任した。
所属政党 = (自由民主党→) (無所属→) (自由民主党→) 無所属
- 東京都 第14・15・16・17代東京都知事 当選回数4回
- 1968年7月8日~1972年11月25日第33回衆議院議員総選挙立候補により自動失職
目次
- 1 概要
- 2 略年譜
- 3 学生時代
- 4 作家として
- 5 東京都知事として
- 6 政治姿勢・発言
- 6.1 天皇・君が代に対する姿勢
- 6.2 障害者に対する発言
- 6.3 老人に対する発言
- 6.4 在日外国人・諸文化への態度
- 6.5 移民「賛成」
- 6.6 外国人参政権
- 6.7 日本人への態度
- 6.8 「ニート」・フリーターに対する見解
- 6.9 震災の被害者に対する発言
- 6.10 ジェンダー・性について
- 6.11 女性専用車両について
- 6.12 同性愛者に対する発言
- 6.13 原子力発電所事故の問題に対する発言
- 6.14 核武装についての発言
- 6.15 東京中央郵便局建替問題
- 6.16 賃貸住宅の所有者と賃借人の法的権限に関する問題
- 6.17 諸外国に対する見解
- 6.18 諸団体との関係
- 6.19 新党構想
- 6.20 首相への暴行呼びかけ
- 6.21 交流
- 6.22 日本青年社への賞賛
- 6.23 TPP反対
- 7 家族 親族
- 8 系譜
- 9 著書
- 10 共著
- 11 作詩曲
- 12 翻訳
- 13 関連作品
- 14 演じた俳優
- 15 その他
- 16 脚注
- 17 参考文献
- 18 関連項目
- 19 外部リンク
概要
兵庫県神戸市須磨区生まれ。湘南高等学校、一橋大学法学部卒業。
一橋大学では社会心理学の南博ゼミに所属。大学在学中の1956年 (昭和31年) に文壇デビュー作である『太陽の季節』が第34回芥川賞を受賞、「太陽族」が生まれる契機となる。また、同作品の映画化では弟・裕次郎をデビューさせた。作家としては他に芸術選奨文部大臣賞、平林たい子文学賞などを受賞。『「NO」と言える日本 -新日米関係の方策-』 (盛田昭夫との共著) 、弟・裕次郎を題材にした『弟』はミリオンセラーとなった。現在、芥川賞選考委員。
ベトナム戦争を取材した経験から政治家を志し、1968年 (昭和43年) に参議院議員選挙に全国区から出馬し初当選。1972年 (昭和47年) には衆議院に鞍替え出馬し当選、以後当選8回。1975年 (昭和50年) 、現職の美濃部亮吉に挑戦する形で東京都知事選挙に自民党推薦で出馬するも落選。その後衆議院議員に復帰し、1976年 (昭和51年) に福田赳夫内閣で環境庁長官を、1987年 (昭和62年) に竹下内閣で運輸大臣を歴任、1989年 (平成元年) には自民党総裁選に立候補し、海部俊樹に敗れる。1995年 (平成7年) 、議員勤続25年を祝う永年勤続表彰の場で、突如議員辞職を表明した。
1999年東京都知事選挙に出馬。立候補の表明は有力候補中最も遅かったが、舛添要一・鳩山邦夫・明石康・柿澤弘治といった有力候補を抑え初当選する。2003年東京都知事選挙では史上最高の得票率で再選、2007年東京都知事選挙では浅野史郎らを破り3選を果たす。2011年東京都知事選挙では当初不出馬が取り沙汰されたものの、東国原英夫らを破り4選。
都知事就任以降、毎年8月15日に靖国参拝する。新しい歴史教科書をつくる会に賛同している。日本会議代表委員、戸塚ヨットスクールを支援する会会長を務める。江藤淳の後を引き継ぎ、産経新聞にエッセイ『日本よ』を連載している。
趣味はヨット、テニス、スキューバダイビング、射撃。身長181cm、体重77kg、天秤座。俳優の石原裕次郎は弟。家族は妻 (石原典子) と4男 (自由民主党幹事長の石原伸晃は長男、俳優・タレントの石原良純は次男、前衆議院議員の石原宏高は三男、画家の石原延啓は四男) 。
石原は様々な差別的思想の考えを持っており、それに関しての部分が批判されることもあるが、逆に作家としての能力は高く評価されている。
略年譜
- 1932年 (昭和7年)
- 9月30日 - 兵庫県神戸市須磨区にて海運会社山下汽船に勤める石原潔・光子の長男として生まれる。父・潔は愛媛県の長浜町に生まれ、旧制宇和島中学 (現在の宇和島東高校) を中退し山下汽船に入社した。店童 (てんどう) あがりだったにもかかわらず、最後は関連会社の重役にまで出世した。母・光子は広島県厳島の出身。なお石原自身は神奈川県を出身地としている。
- 1934年 (昭和9年)
- 12月28日 - 弟の裕次郎が生まれる。
- 1936年 (昭和11年)
- 1943年 (昭和18年)
- 1945年 (昭和20年)
- 4月 - 神奈川県立湘南中学(後の神奈川県立湘南高等学校)へ進学。
- 1949年 (昭和24年)
- 1951年 (昭和26年)
- 1952年 (昭和27年)
- 1955年 (昭和30年)
- 12月 - 当時18歳だった石田由美子 (後に典子と改名) と結婚。
- 1956年 (昭和31年)
- 1月 - 『太陽の季節』により第34回芥川賞を当時史上最年少で受賞、ベストセラーとなる。一橋大学法学部を卒業。『太陽の季節』が日活で映画化され、弟・裕次郎が日活俳優としてデビューする。また自らも映画初出演を果たし、「太陽族」、「慎太郎刈り」が流行する。
- 映画『太陽の季節』が公開された際、登場人物が強姦・不純異性交遊等を行う反社会的内容から映画を見た青少年への影響が取りざたされ、映画倫理委員会 (通称、映倫) が作られる契機となった。
- 1957年 (昭和32年)
- 4月19日 - 長男・伸晃が誕生。
- 1958年 (昭和33年)
- 1960年 (昭和35年)
- 1962年 (昭和37年)
- 1月15日 - 二男・良純が誕生。
- 1963年 (昭和38年)
- 3月 - 『狼生きろ豚は死ね・幻影の城』を新潮社より出版。
- 1964年 (昭和39年)
- 6月19日 - 三男・宏高が誕生。
- 1966年 (昭和41年)
- - 四男・延啓が誕生。
- 1967年 (昭和42年)
- 1968年 (昭和43年)
- 7月 - 第8回参議院議員通常選挙に自民党から全国区に出馬し、史上初の300万票得票でトップ当選。2位青島幸男・3位上田哲であり、ライバル関係になっていた。
- 1969年 (昭和44年)
- 11月 - 『スパルタ教育』を光文社より出版。
- 1972年 (昭和47年)
- 1973年 (昭和48年)
- 1975年 (昭和50年)
- 1976年 (昭和51年)
- 12月5日- 衆院選で国政に復帰(同区で民社党新人大内啓伍も当選)。同月24日発足の福田赳夫内閣_(改造)で環境庁長官に就任。
- 1981年 (昭和56年)
- - 弟の裕次郎が倒れた際に小笠原諸島から海上自衛隊飛行艇を呼び寄せて帰京し、公私混同として問題になる。燃料代は160万円かかっていた。
- 1983年 (昭和58年)
- 1987年 (昭和62年)
- 1988年 (昭和63年)
- 4月8日 - 『漁業施設がヨットに危険』と発言し、海上保安庁に漁業施設を総点検させることになる。
- 1989年 (平成元年)
- 1990年 (平成2年)
- 2月18日 - 第39回衆議院議員総選挙が旧東京4区で長男の伸晃が初当選し、父子揃って衆議院議員となる。
- 1995年 (平成7年)
- 1996年 (平成8年)
- - 弟の石原裕次郎をテーマに『弟』を発表。
- 1999年 (平成11年)
- 4月11日 - 1999年東京都知事選挙に出馬。立候補表明の記者会見での第一声の、「石原裕次郎の兄でございます」と言う挨拶ギャグが話題を呼ぶ。鳩山邦夫、舛添要一、明石康、柿澤弘治ら有力候補がひしめく中、166万票を得票して当選 (舛添と喧嘩別れした栗本や、栗本が同年末に復党する政党自由連合代表徳田虎雄の支援受けた)
- 2003年 (平成15年)
- 4月13日 - 2003年東京都知事選挙に出馬。308万票(得票率史上最高)を獲得し、樋口恵子、若林義春らを破り再選。石原の圧勝が事前に予想されていたためか、珍しく候補者の少ない都知事選であった。
- 2004年 (平成16年)
- 11月17 - 21日 - 「弟」テレビドラマ化。
- 2007年 (平成19年)
- 4月8日 - 2007年東京都知事選挙に出馬。投票の過半数にあたる281万票を獲得し、浅野史郎、吉田万三、黒川紀章らを破り3選。
- 2010年 (平成20年)
- 4月10日 たちあがれ日本・応援団長就任
- 2011年 (平成23年)
- 4月10日 - 一時は3期目での退任を考慮した中で、2011年東京都知事選挙に出馬を決断し、立候補。東国原英夫、小池晃らを破り、2,615,120票を獲得して四選を果たした (得票率は43.4%) 。
学生時代
『太陽の季節』を引っ提げて華々しくデビューしたとき、マスコミは慎太郎をこぞってとりあげた。「五つの道をゆく“石原慎太郎”批判」と題し、9ページもの大特集を組んだ『サンデー毎日』 (1956年9月9日号) もその一つだった。この記事の中に、湘南高校時代の慎太郎の左翼活動に関する一節がある。
慎太郎が高校一年の時だった。学生運動が盛んになろうとしていた1948年に、民主学生同盟にいち早く入り、学内に社会研究会を作った。日本共産党へのヒロイックな気持にかられていた時、母は“大衆のために両親や弟を、そして地位も財産も捨て、獄につながれても後悔しない自信があるなら、私は反対しないが、その覚悟をしてほしい。それならお父さんが、どんなに反対しても、私は賛成する”この言葉にそのあくる日から彼は学生運動を離れている。
慎太郎は後にこの点について、『芸術生活』編集長の御木白日との対談の中で「女親っていうのはバカだから。主義主張が母親の意見で変わるなんてウソですよ。精神風俗としてそういうものに興味をもったから、親が心配したというだけの話です」と否定的に語っている。
作家として
芥川賞受賞
一橋大学在学中に、『太陽の季節』で第34回「芥川賞」を受賞。
『ひばり裕次郎 昭和の謎』によると、「昭和三十年、まだ一橋大生だった石原慎太郎が書いた『太陽の季節』が芥川賞を受賞したが、その余りにえげつない風俗描写に世間は眼を剥 (む) いた。青い海原にうかぶ白いヨットやモーターボートの上でくりひろげられる若い男女の赤裸々なセックス、恋人交換、殺人。そして―、
[裸の上半身にタオルをかけ、離れに上がると彼は障子の外から声を掛けた。“英子さん”部屋の英子がこちらを向いた気配に、彼は勃起 (ぼっき) した陰茎を外から障子に突き立てた。障子は乾いた音をたてて破れ、それを見た英子は読んでいた本を力一杯障子にぶつけたのだ。本は見事、的に当って畳に落ちた。その瞬間、竜哉は体中が引き締まるような快感を感じた (『太陽の季節』) 。〕
この"勃起 (ぼっき) する男性シンボル"場面は文壇にも旋風を巻き起こし、支持派と反対派の真っ二つに分れた。支持派の舟橋聖一は、"若い石原が世間を恐れず、率直に生き生きと《快楽》に対決してその実感を容赦なく描き上げた肯定的積極感が好きだ"と述べ、反対派の佐藤春夫は、"この作者の鋭敏げな時代感覚も、ジャーナリストや興行者の域を出ず文学者のものではない。美的節度の欠如"と評し、カンカンガクガクの論争が続いた」
現在に至るまで
その後『処刑の部屋』 (映画原作) 、『聖餐』といった現代の世相を鋭くえぐり出すのが特徴の同種の作品を多数発表した。1957年10月『新潮』に発表した「完全な遊戯」について、高見順宅へ行った際、『群像』編集長の大久保房男と口論になり、『群像』には一度も執筆していない。
政治家への転身以降、発表する作品数は減ったものの、現在に至るまで一貫して創作活動を行っている。1970年 (昭和45年) に書下ろし長篇『化石の森』で芸術選奨文部大臣賞、1988年 (昭和63年) 、『生還』で平林たい子文学賞を受賞。弟裕次郎を描いた1996年 (平成8年) の『弟』は120万部を売り上げ、毎日出版文化賞特別賞を受賞した。創作以外でも『スパルタ教育』 (1969年、70万部) 『「NO」と言える日本』 (1989年、125万部) 、『法華経を生きる』 (1998年、33万部) 『老いてこそ人生』 (2002年、82万部) などのベストセラーを刊行している。
1995年から2012年まで芥川賞の選考委員を務めていたが、辛口の批評が多かった。石原が推して受賞した者に辻仁成、町田康、青来有一、中村文則、青山七恵、西村賢太などがいる。また1992年から1999年まで三島由紀夫賞選考委員を務めた。2012年の第146回芥川賞の選考会の前に候補作のほぼ全てを中傷したが、選考会後に受賞者の田中慎弥に批判を受けると「田中君の作品は評価していた」と発言をし、その直後に選考委員を辞任した。
映像作家としては、弟の裕次郎を世に送り出すことになった自作の映画化『狂った果実』で脚本を担当して以降、映画やテレビで自作小説の脚色を多く手がけている他、1958年 (昭和33年) 、東宝映画『若い獣』で初監督を務める。2007年 (平成19年) 5月には映画『俺は、君のためにこそ死ににいく』を発表。制作・指揮・脚本を手がけた。
東京都知事として
財政運営面では、財政危機に対応し自らの知事給与を10%カットするなど、人件費の圧縮や福祉・教育及び学術研究予算の削減を行い、一方で「東京から国を変える」をスローガンに自らの発案になる大型プロジェクトや臨海開発事業へは積極的な投資を行うのが石原都政の特徴である。銀行への外形標準課税 (銀行税) の導入、日本初で世界三番目のキャップ・アンド・トレード型排出量取引制度の導入、浮遊粒子状物質 (SPM) を減らすためのディーゼル車排ガス規制での硫黄除去装置導入、中小企業の支援のため1000億円の都予算を投入した新銀行東京 (石原銀行とも) の設立、首都大学東京の開学など、全国に先駆けた政策は注目を浴びた。知事三期目は二度目の東京オリンピックの開催を実現することを選挙公約とした。
特別会計や監理団体なども含めた東京都の連結での負債 (借金) は、バブル経済崩壊後の景気回復の影響を受けた都税収入の増加などにより、都の財政が黒字化して債務は減少しつつある。一方、特別会計や監理団体の財政は厳しく、これまで都が運営してきた多くの施設の財団化、もしくは指定管理者制度の導入による民営化を進めている。
また、日本の警察官の増員、警察官僚出身の竹花豊の副知事への任命など治安対策を重視しており、新宿歌舞伎町などの違法営業店の数が激減した。
2007年 (平成19年) には猪瀬直樹を副知事に起用。猪瀬は東京DC特区構想 (山手線の中側を中心とした区域を政府直轄地にして東京から切り離す) を提案し、オリンピック誘致にも懐疑的であるなど主張が異なる部分もあるが、石原は猪瀬について、「個人的に次の知事にふさわしいと思う」と話している。知事・副知事共に現役の作家というのは異例の組み合わせである。同年、東京マラソンの開催を実現した。
選挙公約
- 選挙公約 (1期目)
- 都が主導の債券市場にYES
- 踏切のない東京にYES
- 健康を損なう排ガスにNO
- 福祉に立ちはだかる規制にNO
- 借金漬けの財政にNO
- 横田返還にYES
- 首都移転にNO
- 住みやすい東京にYES
- 命が守れない危機管理にNO
- 新しい道徳教育にYES
- 選挙公約 (2期目)
- 安心・安全の確保、都市の再生から始める「都民福祉の充実」
- 中小企業の能力を引き出す「新しい銀行を創設」
- 都民、国民の健康を損なう「大気汚染を解消」
- 利用者から高い評価を受けている「認証保育所を大増設」
- これまでの日本にない「まったく新しい大学を実現」
- 千客万来の「観光都市を実現」
- 雇用促進のため、利用者に便利な「職業紹介を都独自に実施」
- 都庁の一層の合理化と「第二次財政再建に着手」
- 選挙公約 (3期目)
- 環境革命の続行
- 子育て支援プログラムと中学3年生まで医療費ゼロ
- 都立施設や都立小中高校の食事・給食に東京ブランドの食材導入推進
- 神奈川県・千葉県・埼玉県の各知事と首都圏知事連合をつくって、道州制を実現
- 2016年に東京オリンピックを招致 (2009年に招致失敗)
- 高齢者の起業やNPO法人の活動を支援する機関を作る
- 都庁の展望台や都の保有財産を有効利用して、歳入を増やす
- 公立小中高校グラウンドの芝生化
浜渦副知事の重用と辞任
浜渦武生参照
石原は衆議院議員時代の公設秘書で青嵐会の裏方も務めた浜渦武生を副知事に就任させた。石原自身の登庁が週2 - 3日程度であるため、実質的な政務は浜渦がトップダウンでおこなった。意に沿わない幹部を早期勧退させるなど、浜渦の威圧的な姿勢は「知事の威光を背に絶大な権力を振るう“側近政治”」「恐怖独裁」として共産党などから批判された。特に、東京都交響楽団の予算削減問題では、音楽関係者からの反発に加えて、サンデー・プロジェクトに生出演した石原自身に疑問が投げかけられ、石原が弁明する場面などもあり、同交響楽団に対する浜渦による予算削減は、トーンダウンしている。 2005年 (平成17年) 3月には、都が練馬区に建設した東京都社会福祉総合学院について都議会予算委で浜渦が民主党に質問を依頼した事実が35年ぶりに設置された百条委員会で判明し、同年5月12日には同委員会は質問依頼を否定した浜渦の偽証を認定した。6月2日の都議会では浜渦の問責決議が可決され、浜渦は7月に副知事を辞職した。
石原は浜渦が民主党にやらせ質問を依頼したことについて、「やっぱり責任政党の自民党が質問してくれたら一番よかったと思うし、だから僕はそうさせろと言った」と述べ、自民党に質問を依頼するよう指示したことにも言及している。また、「どうも自民党も動きそうもない。それで、民主党ということになったのかな」と述べた。石原は「やらせ質問」の是非に関しても「話題になれば非常にいいなと思った。それが議会ってもんじゃないの?」と肯定的な見解を示している。
石原は定例記者会見で浜渦を「非常に有能な腹心」「余人を持って代え難い」と再三持ち上げ、「最後は浜渦と私で涙を流して話した。泣いて馬謖を切る以上に大事な人材」と心境を吐露した。
また、浜渦が度々暴力事件を起し、問題になっていたことについては「 (殴り合いなど) 男の世界には良くあること。むしろ無い方が嘆かわしいね」と発言している。
浜渦の天下りと再雇用
浜渦は副知事辞任直後の2005年 (平成17年) 9月から、東京都が出資している外郭団体である第3セクターのビル会社東京交通会館の副社長に就任した。
石原は「その後の就職の世話を都としてするのは当然じゃないですか」「あの人材を埋もらせるわけにいかないでしょう、それっきりにして。東京都のためにこれからも働いてもらいますよ」との見解を示し、2006年 (平成18年) 7月22日に浜渦を年度末まで都の参与(都政の課題について知事に助言する非常勤の特別職)に迎えたことを明らかにした。
政党との関係
東京都議会では自民党と公明党が一貫して与党である。民主党や生活者ネット、社民党 (ただし、社民党は2001年東京都議会議員選挙で公認候補全員落選以降議席0が続いている) なども、都知事選挙では対立候補を立てるものの、都議会での議案に対する姿勢などから通常はいわゆるオール与党であるという意見があり、日本共産党からは選挙前の批判はポーズに過ぎないと批判されている。2007年(平成19年)の知事選以降、民主党などは距離を取ることが増えていたが、政権交代後は築地市場の移転関連予算計上に一転賛成したりなど再接近の機会も増えている。共産党は初期には「是々非々」の立場を取っていたが、次第に対決姿勢を強めている。
石原は自民党の都議の選挙には選挙ポスターに一緒に写ったり、応援の演説などを行っていたが、3 期目の知事選出馬の表明後は早々に自ら自民党に推薦を依頼していたが、2007年 (平成19年) 2月19日に突如「政党の看板に支えられた選挙は合わない」と自民党からの推薦を辞退することを表明した。石原は同年2月22日の都議会において、「手打ち」として都議補選の自民党候補に協力することを約束したが、メンツを潰された自民党都議団は「安倍内閣の支持率が落ちていることを気にしたのだろうが、知事は小心過ぎる」と不満を露わにした。
また、石原は2007年 (平成19年) 3月21日に公明党に協力を要請しており、公明党側も実質的な支援を決定した。しかしかつては公明党及びその支持母体である創価学会を痛烈に批判していたこともあった。
2010年 (平成22年) 4月10日、「たちあがれ日本」の命名者として、平沼新党の結党の発起人に名を連ねた。
情報公開
全国市民オンブズマン連絡会議による2006年 (平成18年) の第11回全国情報公開度ランキングでは、東京都は閲覧手数料を徴収するという理由により「失格」となり、ランキング外となった (他の失格自治体は香川県のみ) 。情報公開度のポイント評価は全国47都道府県中ワースト3に相当する位置付けとなっている。東京都のこの調査における失格評価は石原都政以前も含み2007年まで10年連続である。石原は「公開請求の55%は都外の人で、東京での業務展開に必要とする人が多い。都民の税金を使うわけにいかず、『失格』というのはとんちんかん」と反論している。
不透明な政策・私物化疑惑
トーキョーワンダーサイトと四男
トーキョーワンダーサイト#石原慎太郎一家による私物化疑惑参照
東京都の若手芸術家支援事業トーキョーワンダーサイトを2002年 (平成14年) に設立。石原都政下では既成の都文化施設に対する予算の減額とは対照的に、ワンダーサイトのみが別格として増額されているが、芸術家としては無名の四男・石原延啓を重用したり、家族や知人を運営に参画させるなど、事業計画・予算決算の不透明な点について公私混同の疑いを指摘されている。
新銀行東京
新銀行東京は本来の目的である中小企業向け融資が1225億円で貸出金全体の約52%にとどまるなど、設立目的が揺らいでいる。また、融資の大半が三男・石原宏高の地盤である品川区と大田区の企業に集中していたことから、身内の選挙対策との疑いも持たれている。石原は設立当時の記者会見 (2003年5月) では、貸し倒れが多くなった場合の都税投入の可能性について「公私混同であり幼稚・粗雑・週刊誌的発想」と否定していたが、2008年 (平成20年) には都税400億円が経営再建のために出資された。
官官接待
私的な飲食に公費を流用したとして、2000年 (平成12年) 6月から2003年 (平成15年) 12月まで78件の飲食費支出は違法だとして計1,194万円の返還を求め、葛飾区の市民団体が知事を提訴していた。
判決が違法支出として認定したのは、2003年 (平成15年) 6月、東京都中央区築地の高級料亭で石原、棚橋都参与ら8人の会食計341,992円、2003年 (平成15年) 3月、石原、特別秘書・高井英樹、民放テレビプロデューサーの3人が中央区銀座の割烹料理店で行った会食計58,065円の計約34万1000円の飲食費を支出した2件である。78件中67件は住民監査請求の期限が過ぎているとしたり、残りの9件については棄却した。2007年 (平成19年) 1月30日、東京地方裁判所の鶴岡稔彦裁判長は2件分の計約40万円については「社会通念を逸脱する違法な支出にあたる」と認定し、石原と特別秘書に対し同額を都に返還するよう命じた。原告側は請求が容認されなかった残件について控訴したが東京高等裁判所は1件のみを認める判決に変更。また最高裁判所 (中川了滋裁判長) も2009年5月20日、原告の上告を不受理とした。
現金2000万円受け取り疑惑
石原が元衆院議員や支援者ら計3人 (糸山英太郎、水谷建設元会長の水谷功、埼玉県の石材業者T) が用意した現金2000万円を受け取りながら、政治団体の政治資金収支報告書に記載していなかったと共産党機関紙である「赤旗」が主張し、「都内の男性ら」が、石原と資金管理団体の会計責任者を務める特別秘書の2人について、政治資金規正法違反の疑いで東京地検に告発状を提出した。
石原は料亭で元衆院議員らと会食したことを認めているが、現金については「疑惑は一切ない」と全面的に否定し、宴席に同席した糸山も「焼酎は渡したが、現金など渡すわけがない」「作り話」としている。
一方、同じく同席した水谷は金銭授受について「直接はやってない。Aさん (=女性経営者) が用意してた」と、女性経営者が500万円を立て替えたことし、2000万円の金銭授受についても「その話は聞いた」「 (石原は) そりゃ、感謝してたわな!」「 (宴席後は) みんな上機嫌だった」と話したと『週刊朝日』 (2006年12月29日号) は伝えた。
東京マラソン
石原の主導で2007年 (平成19年) から始まった東京マラソンに関して、次男・石原良純がフジテレビからスペシャルサポーターとして現場での司会と選手などへのインタビューを担当した。良純は今回の出演を依頼される以前に石原から「何かあったら広報として力を貸してくれ。頼むよ」と言われていたことをフジテレビの広報ページで語っている。石原が良純に協力を依頼した後にフジテレビ出演が決まったことから、「週刊朝日」は石原とフジテレビの関係に疑問を呈した。
選挙対策と見做された花粉症対策ポスター
2007年 (平成19年) に入ってから、"STOP花粉"という文字と石原の写真が大きく写った花粉症対策のポスター5万2000枚が、都内23区と全ての市町村に配布された。東京都森林課により製作され、デザイン、印刷等に要した費用は227万円である。石原は都庁における花粉対策会議の席上「自分ができることをしたい」と積極的な姿勢を示し、15の図案から自身の顔が一番大きく写っている図の採用を決めた。
この「顔写真ポスター」に対し、中央区など7つの区や町内会が、選挙運動期間中の候補者や政治団体による文書図画の頒布を禁じた公職選挙法第146条に抵触する恐れがあるとして、掲示板への掲載を拒否していたが、残りの16区や町内会は問題がないとして掲載していた。
政治姿勢・発言
政治的には、歯に衣着せぬ発言が支持を得る一方、他の民族・文化に対する否認や揶揄と受け取られる発言などが批判され、訴訟に発展するケースもある。しかしながら批判にたいしては安易な謝罪や訂正を拒否し、臆することなく堂々と反論を表明するという強気のスタンスを貫き、結果的にこれまで発言によって公職を辞任に追い込まれたことはない。
ABCからはフランスの極右政治家に例えて「日本のル・ペン」、中央日報からは「極右勢力の代表」、フィガロやリベラシオンからは「国家主義的思想の持ち主」「右翼ポピュリスト」と呼ばれるなど外国マスコミからは極右政治家と認識されている。
天皇・君が代に対する姿勢
天皇に関しては、「天皇が国家の象徴などという言い分は、もう半世紀すれば、彼が現人神だという言い分と同じ程度笑止千万で理の通らぬたわごとだということになる、というより問題にもされなくなる、と僕は信じる」と過去に発言したことがある。また、オリンピック誘致活動において皇族の協力を求めている。今上天皇へ皇居のライトアップを奏上したことを公表し、宮内庁に咎められたこともある。これに対して石原は「宮内庁ごときが決める問題ではない」と宮内庁を批判し皇族の協力を要求した。また東日本大震災後の記者会見では復興に邁進する国民を賞賛した上で「戦前の日本は天皇を現人神とあがめるなどおかしな国だった。今の北朝鮮と大差がなかった。」と戦前の国体等に否定的な発言をしかつて復古主義的だと一部左派勢力から批判された言動とは一線を画す発言をしている。
また、2008年 (平成20年) 2月には「あそこで装備を見せることで国民の自覚、危機感が出てくる」として弾道ミサイルを地上から迎撃する航空自衛隊の地対空誘導弾ペトリオットPAC-3を皇居前広場で展開すべきとの見解を示した。
毎日新聞 (1999年3月13日付) のインタビューにて「日の丸、君が代を学校の行事に強制しますか?」という質問に対し「日の丸は好きだけれど、君が代って歌は嫌いなんだ、個人的には。歌詞だってあれは一種の滅私奉公みたいな内容だ。新しい国歌を作ったらいいじゃないか。好きな方、歌いやいいんだよ。」と答えている。しかし、都知事就任後は文部省の決定に則して都立学校の公式行事における君が代の斉唱と国旗掲揚の徹底をし、君が代を起立して斉唱しなかった教師に対し懲戒処分を行った。
天皇の靖国神社親拝を期待する発言を行う一方、A級戦犯の靖国合祀に関しては異議を唱えており[1]、「戦争の明らかな責任者を外して合掌している」と述べている。拳銃が決して致命に至らぬ最小の22口径で自決しようとした東条英機より、潔く自決した大西滝治郎中将や阿南惟幾陸相を靖国へ合祀しない事に異議を唱え、さらに東條を嘲笑した文章を述べ、これに日本文化チャンネル桜で東條由布子も抗議した。石原は東条の「戦陣訓」の中の「生きて虜囚の辱めを受けず」なる文言が当時の日本の社会の中でいかに恐ろしい拘束力を持ち、いかに多くの犠牲者を生み出したか、と述べている。ただし石原自身かつて小谷喜美との対談の中で「日本が行った戦争がすべて侵略だから靖国に参拝するななんていう進歩的文化人の連中はおかしい。」とも述べている。
障害者に対する発言
1999年 (平成11年) 9月に東京都知事として府中療育センター (重度知的・身体障害者療育施設) を視察した後、記者会見で「ああいう人ってのは人格あるのかね。ショックを受けた。ぼくは結論を出していない。みなさんどう思うかなと思って。 絶対よくならない、自分がだれだか分からない、人間として生まれてきたけれどああいう障害で、ああいう状態になって」と発言した。次いで「おそらく西洋人なんか切り捨てちゃうんじゃないかと思う。そこは宗教観の違いだと思う。ああいう問題って安楽死につながるんじゃないかという気がする」と発言意図を説明した。
上記の発言が一部のメディアで問題発言として報道され、知的障害者団体からも抗議された。石原は「文学者としての表現」と弁明している。
東京新聞はさらに詳しく発言を取材しており、視察の帰りがけに「入所者は自分がだれだか分からない。 (彼らに) 人生がない、というくくり方をする人もいるが、それなりの人生があるんだという一つの確信を持って仕事をしているのは、素晴らしいことだ」と発言していることを報じた。
石原は自身の発言を差別発言として報道した朝日新聞社に対して、産経新聞紙上で「卑劣なセンセーショナリズムであり、アジテーションであり、社会的には非常に危険なこと」として批判している。
老人に対する発言
1975年 (昭和50年) 、初めて東京都知事選挙に出馬した際の演説にて対立候補の美濃部亮吉に関して「…もう新旧交代の時期じゃありませんか、美濃部さんのように前頭葉の退化した六十、七十の老人に政治を任せる時代は終わったんじゃないですか」と発言した。しかしながら、彼自身は78歳になってもなお、自らの東京都知事4期目当選を狙って、2011年都知事選への出馬を表明し、当選した。
在日外国人・諸文化への態度
在日韓国・朝鮮人をはじめとする日本の外国人、及び外国文化を否定・揶揄する発言を頻繁に行い、政治問題化することがよくあるが、一方賛同する意見もある。
1983年の衆議院議員総選挙に際して、東京2区で対立していた自民党候補新井将敬の選挙ポスターに石原の第一秘書である栗原俊記が「'66年北朝鮮より帰化」というシール3千枚を貼って回り、現行犯逮捕された (黒シール事件) 。この件に対して民族派右翼の野村秋介が石原の自宅に押しかけ「日本民族の顔に泥を塗る破廉恥行為である」として抗議行動を行っている。なおこの際に総務会で「帰化人に被選挙権を与えるべきではない。」と述べており後述のとおり外国人地方参政権に強硬に反対する石原だが帰化人の被参政権にも否定的な見解を持っていると思われる。
黒シール事件参照
2000年 (平成12年) 4月9日の陸自記念式典において「不法入国した多くの三国人、外国人が凶悪な犯罪を繰り返しており、大きな災害が起きた時には騒擾 (そうじょう) すら想定される」。石原は自身のウェブサイトでこの発言について、単に外国人犯罪について言及した発言であり朝日新聞や特定組織に三国人という語の差別性だけを拡大解釈された、との考えを示している。また「謝罪の必要はない」とも述べた。
2001年 (平成13年) 5月には、中国人犯罪について「民族的DNAを表示するような犯罪が蔓延することでやがて日本社会全体の資質が変えられていく恐れが無しとはしまい」と主張した。
2003年 (平成15年) 11月2日、TBS『サンデーモーニング』が「日韓合併を100%正当化するつもりはない」という石原が述べた発言の語尾を編集して「日韓合併を100%正当化するつもりだ」とテロップ入りで事実とは異なる放送をした。石原側はこの放送内容に抗議を行ったもののTBSから誠意ある回答が得られないとして刑事告訴した。その結果、名誉棄損容疑で TBSの社員ら4人が東京地検に書類送検されたが、東京地検は証拠不十分による不起訴処分とした。TBSは「ミス」として番組で謝罪した。
2004年 (平成16年) 10月、都庁内であった首都大学東京の支援組織設立総会で「フランス語は数を勘定できない言葉だから国際語として失格しているのも、むべなるかなという気がする」「都立大はフランス語の講師が8人いて、受講者は1人もいない」などと発言。これに対し東京都立大学人文学部フランス文学専攻教員らが「石原東京都知事に発言の撤回を求める」と声明を発表した。後にフランス語教育関係者らによる訴訟に発展した。
韓国人については「韓国に対する差別意識はない。私がもっとも尊敬する政治家は朴正煕大統領だ」との認識をインタビューで語っている。また金田正一の項目に引退時のエピソードが詳述されているように帰化人の金田とも親交があり一部左派が言うように在日朝鮮人全体に対する嫌悪意識はない。他方で、オリンピックの福岡誘致を応援した姜尚中を「怪しげな外国人が出てきてね。生意気だ、あいつは」と非難した。
移民「賛成」
移民の受け入れについては大賛成との立場をとり「アジアの人々を秩序ある移民政策のもとで正式に受け入れるべきである」と主張している。
外国人参政権
民主党や公明党などが成立を目指す外国人地方参政権については「危ない試み」「発想そのものがおかしい」「絶対反対」「日本に永住する方なら日本の国籍取ったらいい、問題起こしてないんだったら」等々、反対意見をはっきり述べている。
2010年 (平成22年) 3月3日、都議会で、永住外国人に対する地方参政権付与問題について見解を問われ、「絶対反対だ」と答弁、外国人参政権について改めて反対の意思表示をした。
日本人への態度
「日本人には携帯電話を使って売春する子供が、小学生でもざらにいる。300万円、1000万円も貯めて、それを駅のコインロッカーに隠している。こんな風俗は他の国にはまずない」と主張している。石原はその主張の根拠として読売新聞社会部が著した「親は知らない―ネットの闇に吸い込まれる子どもたち」という書籍を挙げているが、実際の「親は知らない」には前述したような売春して大金を稼ぐ小学生は紹介されていない。
「ニート」・フリーターに対する見解
ニート・フリーターについて、「ニートなんて格好いいように聞こえるけど、みっともない。無気力・無能力な人間のことです」「フリーターとかニートとか、何か気のきいた外国語使っているけどね、私にいわせりゃ穀つぶしだ、こんなものは」との見解を示している。田中良都議から、石原が (働いている) フリーターも穀つぶしと非難したことはワーキングプアに対しての無理解であるとの指摘を受け、「私の言葉を勝手に引用されまして歪曲されていますが、私が穀つぶしといったのは、これはフリーターじゃありませんよ。ニートのことはそう申しました。こういう歪曲した引用というのは非常に卑劣だと思います」と反論した。
ネットカフェ難民についても否定的な意見を持っており、2008年10月3日の定例会見では、「山谷に行けば1泊200円、300円で泊まれる宿がいっぱいあるのに、ファッションみたいな形で1泊1500円払いながら『オレは大変だ』なんて言うのはねえ」と述べ、彼らが苦境に陥っているとするのはマスコミの偏向だと主張した。この発言は台東区長から猛抗議を受け、1週間後の定例会見で「数字が異なった」と撤回したが、同時に「1500円より安いとこ行ったらいいじゃないですか」とも述べている。
年越し派遣村問題については、2009年 (平成21年) 1月5日、年頭の挨拶において厚生労働省の対応を批判した。
震災の被害者に対する発言
2007年 (平成19年) 4月8日の都知事選で当選が決まった直後、会見で「阪神大震災では首長の判断が遅くて2000人が死んだ」と発言。震災当時の兵庫県知事・貝原俊民が「見当違い」と反論を行った。反論を受けた石原は4月27日の定例会見で、「ちょっと数字は違ったかもしれない」「佐々さんの受け売りなので、彼に聞いてほしい」と発言。また、選挙中の3月26日には、能登半島地震について、「震度6の地震がきた。ああいう田舎ならいいんです」「東京ならかなりの被害が出ただろう」と発言したと共産党機関紙の「しんぶん赤旗」は主張している。
2011年 (平成23年) 3月14日には、東日本大震災により日本の東北地方で広範囲が津波の被害を受けたことに関して、「被災者の方々はかわいそう」としながらも、「アメリカのアイデンティティーは自由。フランスは自由と博愛と平等。日本はそんなものはない。日本人のアイデンティティーは我欲。物欲、金銭欲。この津波をうまく利用して我欲を1回洗い落とす必要がある。やっぱり天罰だと思う」とコメントした。同日、記者会見で「天罰」発言について「意味がどうあれ、被災された方にとっては非常に不謹慎な発言だと思いますが、撤回されるお考えはありませんでしょうか」と追及されると、「『被災された人は非常に耳障りな言葉に聞こえるかもしれないが』と言葉を添えた」と釈明して撤回をしなかったが、実際にはそのような言葉は添えていなかった。この発言に対し、津波被害を受けた宮城県の村井嘉浩知事が不快感を示したほか、メールや電話による批判が東京都庁に多数殺到したため、石原は翌3月15日の会見で「天罰」発言を撤回して謝罪をするに至った。
この石原の「天罰」発言は、日本だけでなく韓国でも大きく取り上げられた。韓国メディアは、「日本の韓国併合は韓国人が望んだことだ」とする石原の過去の問題発言にも触れつつ、「韓国人が望んで日本人が韓国を併合したとの妄言で悪名高い石原知事が今度は自国民に大きな傷を負わせた」「石原知事が自国民にまで毒舌」などと批判的な報道を繰り広げた。さらに、石原が折しも自らの4期目当選を狙って都知事選への出馬表明をした直後に「天罰」発言を行ったことについて、韓国メディアは「苦しみや悲しみに耐えながら頑張っている国民に慰めるどころか大きな傷を与えた石原知事に対し、東京の有権者が (今回の都知事選で) どのような判断を下すのか注目される」とコメントしている。また、三宅久之が支持をする一方、桂ざこばからは「共感できない」と苦言、泉谷しげるなどからは激怒しながら批判をした。
ジェンダー・性について
ジェンダーフリー問題を巡り、リベラル・左派勢力やフェミニストとは犬猿の仲で日常的に応酬し合っている。「女性が生殖能力を失っても生きているってのは無駄で罪です 」「男は80、90歳でも生殖能力があるけれど、女は閉経してしまったら子供を生む能力はない。そんな人間が、きんさん・ぎんさんの年まで生きてるってのは、地球にとって非常に悪しき弊害」「文明がもたらしたもっとも悪しき有害なものはババァ」と識者の話を引用する形で発言をし、裁判に発展したが、最高裁で石原側の勝訴が確定している。ババア発言参照
性の問題については『太陽の季節』などの小説で奔放な性を描き、『国家なる幻影』で明かした様にかつて自身もベトナムで買春行為を行うなど、自由な性行為を行っている。都政でも未成年者の性交を禁止する条例案には疑問を示しており、必ずしも保守派と同じ歩調を取っているわけではない。
女性専用車両について
2012年2月24日の都庁定例記者会見で、記者から「女性専用車両は差別では」との質問に際に、「混雑差はそんなにあるのか」「女性は弱者ではない」「今度俺が女性専用車両乗ってみるが痴漢扱いされたら問題提起する」と、女性専用車両にある数々の問題を厳しく指摘する見解を示された。
同性愛者に対する発言
2010年 (平成22年) 12月3日、都青少年健全育成条例改正に関して、「子供だけじゃなくて、テレビなんかにも同性愛者が平気で出るでしょ。日本は野放図になり過ぎている。使命感を持ってやります」とホモフォビアを伺わせる発言。
同年12月7日にこの発言の真意を記者から尋ねられ、「どこかやっぱり足りない感じがする。遺伝とかのせいでしょう。マイノリティーで気の毒ですよ」と答えた。さらに過去に米・サンフランシスコを視察した際の感想を振り返り、「ゲイのパレードを見ましたけど、見てて本当に気の毒だと思った。男のペア、女のペアあるけど、どこかやっぱり足りない感じがする」と話した。同性愛者のテレビ出演についても、「それをことさら売り物にし、ショーアップして、テレビのどうのこうのにするってのは、外国じゃ例がないね」と改めて言及した。この発言は日本国外でも日系メディアが問題として取り上げない人権問題の失言として注目を浴び、国際人権団体ヒューマン・ライツ・ウォッチは発言を撤回すべき声明文を発表した。
同性愛者コミュニティや一般社会の橋渡し役となった個人や団体を表彰する目的で開催されるTokyo SuperStar Awards (TSSA) の「ラズベリー賞」 (ゴールデンラズベリー賞のオマージュ) を受賞した。TSSA公式サイトよると、反同性愛的な独自の主張を展開しながらも、同性愛者が市長や市議会議長であるパリ市・ベルリン市及びニューヨーク市との姉妹友好都市を提携し、また、都民サービスの一環として東京都庁をTSSAの授賞式に利用させるなど、「私利私欲・主張を傍らに、真摯に東京都民の公益のみに邁進」している点が評価されての受賞となった。副賞として、苺のミルフィーユ味のアイスクリームが送られた。
その後、2012年、吉田豪によるインタビューでは同性愛者の美輪明宏について「大体男が、あの歳であんな格好で出てきやがってと思ってたけど、美輪も同時に気の毒になってきた」、同じくおすぎとピーコについて「おまえらオカマか! 俺はオカマとナマコは大嫌いなんだよ!」とも語り、また、同性愛者蔑視ゆえにこの3人から激しく憎まれていることを笑いながら話している。
原子力発電所事故の問題に対する発言
石原は自らを「原発推進論者」であると公言している。東京都知事に就任した翌年の2000年 (平成12年) 4月26日、東京国際フォーラムで開かれた日本原子力産業会議の第33回年次大会の場において、石原は「完璧な管理技術を前提とすれば、東京湾に原子力発電所 (原発) を造っても良いと思っている」などと発言していた。ただし石原の構想は、東京都の電力依存を軽減するために、 (津波や巨大地震をやり過ごせる) フローティングシステムの上に、東芝製の4S炉のような5万キロワットクラスの超小型原発を必要数東京湾に浮かばせるという具体的なものであった。
その後、2011年 (平成23年) 3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震の影響で福島第一原子力発電所が爆発事故を起こし、大規模な放射能汚染が福島県のみならず東京都民の生活にも深刻な悪影響を及ぼしている状況の中で、石原は同年3月25日に福島県災害対策本部を訪問した際、報道陣の前で「私は原発推進論者です、今でも。日本のような資源のない国で原発を欠かしてしまったら経済は立っていかないと思う」などと発言した。2011年東京都知事選挙において、東国原英夫・渡邉美樹・小池晃など他の立候補者が原発の危険性を強く指摘し、原発の廃止や見直しを訴えていた中、原発の増設・推進に賛成の意を表していた立候補者は石原だけである。 ただし東京の臨海地帯に東京風ぐるまの建設を許可するなど、再生エネルギーを否定しているというわけではない。
核武装についての発言
石原は『論座』2001年5月号において、「アドルフ・ヒトラーになりたいね、なれたら」と尊敬的な発言している。また、石原は2011年3月29日の記者会見において、東北地方太平洋沖地震の被災者・節電への配慮から今年は花見を自粛すべきとした上で、太平洋戦争を引き合いに出して「同胞の痛みを分かち合うことで初めて連帯感ができてくる」「戦争の時はみんな自分を抑え、こらえた。戦には敗れたが、あの時の日本人の連帯感は美しい」という考え方を示した。また、2011年6月20日の記者会見では、「日本は核 (兵器) を持たなきゃだめですよ。持たない限り一人前には絶対扱われない」「日本が生きていく道は軍事政権を作ること。そうでなければどこかの属国になる。徴兵制もやったらいい」という考え方を示した。この石原の発言について、ANNは「今の政治の現状を憂う石原知事の発言でしたが、反核団体をはじめ各方面から反発を呼びそうです」とコメントした。2011年8月5日にも、石原は記者会見で「日本は強力な軍事国家にならなかったら絶対に存在感を失う」と主張している。
東京中央郵便局建替問題
2009年 (平成21年) 、当時の総務大臣鳩山邦夫が東京中央郵便局建物の文化財的価値に鑑み、建替えに反対の立場をとっている問題に関して、石原都知事は、計画前後までに文化財的価値を指摘すれば計画自体に大きな変化があったのであり、そのため建物を残すことには無理があり、大きな計画そのものを棄損しかねないことだとして、建物の一部を保存した現行の建替え案を容認する考えを示し、鳩山総務相に苦言を呈した。併せて都は同日中に建替えを認める都市計画決定を行った。
賃貸住宅の所有者と賃借人の法的権限に関する問題
2012年3月、立川市の都営アパートで住民が孤立死した事件に関し、記者会見で「住んでいる人たちは権利者じゃなく使用者。管理人が合鍵で入って、元気ならああ失礼しました、お元気でって帰ればいいじゃないですか」と、管理者の都住宅供給公社の姿勢を批判した。
諸外国に対する見解
国際連合
国際連合に対して、「国際連合憲章の精神って何ですか。金科玉条なんですか。国連てそんなに大したものなんですか。神様みたいな存在ですか。冗談じゃないですよ」「今ごろ国連憲章なんて、まともに信じている馬鹿いませんよ」。
台湾
中国共産党の一党独裁国家である中華人民共和国への批判的な姿勢 (詳細は下記を参照) とは対照的に、同国と対立関係にある議会制民主主義国家である台湾に対しては非常に友好的な姿勢を取っている事で知られている (但しその台湾も1987年までは中国国民党が戒厳を布告していた独裁だった) 。都知事就任後も数回に渡り同国への渡航を行う他、各種行事に参加している。また、中華人民共和国との間に国交を樹立し中華民国との国交を断絶した日本政府の姿勢 (「一つの中国」論) に対しても批判的である。
なお、2008年中華民国総統選挙において国民党の馬英九は台北市長時代の性風俗の取り締まりの厳しさやパフォーマンス的な言動から「台湾の石原慎太郎」と民進党支持者から揶揄された。
中華人民共和国
2005年の中国における反日活動では「民度が低い」と非難し、中華人民共和国を「支那」と呼んでいるが、本人は「蔑称ではなく、尊敬して昔の呼び名で呼んでいる」「中国の人が屈辱に感じていることを知らなかった」と主張している。北京オリンピックについては「ヒトラーの非常に政治的なベルリンオリンピックに、ある意味似ているような気がする」と発言していた。その反中の姿勢が東京でのオリンピック開催の実現を困難にする可能性が高かったが (中華人民共和国は、ODAを元にアジアやアフリカの一部の発展途上国に影響力を持つ) という指摘もあったが、 2016年夏季五輪招致に北京市の協力を要請して、中華人民共和国の招待に応じて開会式に出席した。「大国の度量を見せるもの」として中国のネットも支持した。感想として
「13億の人口のすごさってのはね、ひしひしと感じましたね。一番感じたのはね、ボランティアの大学生ですね、みんな。とってもね、いいね。アメリカのボディーチェックするような空港の役人なんかと違ってね、本当に横柄で何様だっていう感じだけど、 (大学生は) とっても親切で礼儀正しくてね。やっぱり、それはね、いろいろ (政治) 体制に対する批判はあるでしょうけど、私もいろいろ異論はあるけども、国家社会の前途にね、あの世代の若者が明らかに日本の大学生と違って期待を持っているということに、青春の生き甲斐を感じているということは、聞いてみてもうらやましく感じましたね。(中国の若者と比較して) 日本の若者はある意味でかわいそうだな。青春にある者としてアイデンティティーがないから。やっぱり『2ちゃんねる』の書き込みとかそんなもんで本当のコミュニケーションができるもんじゃないし。全部現実から逃避しているし」
さらには「日本と中国が組めば技術でヨーロッパと対抗できるんだからいろいろやりましょう。」とまで述べ、高評価した。2009年 (平成21年) に北京副市長の黄衛が訪日の際に石原は「東京の技術は進んでおり、見たいものは全部見ていってください」と述べ、黄副市長は「これからも交流を活発にしていきたい」と応じた。日中間の領土問題において、東京都の沖ノ鳥島は岩である旨主張し続ける中国共産党政府の態度、また事前通知無しで調査船を派遣していることに対し反発している。そのため、都知事の立場から「日本の経済水域であることを実証する」として、沖ノ鳥島に上陸して日章旗を掲げる等のパフォーマンスを行っている。在日中国人による犯罪について「民族的DNAを表示するような犯罪が蔓延することでやがて日本社会全体の資質が変えられていく恐れが無しとはしまい」と発言した。2008年1月、中華人民共和国から輸入された冷凍餃子に毒が混入していた事件 (毒入り餃子事件) に関して「独裁統制国家なんだから、しっかりしてもらわないと困りますな」と、中華人民共和国当局を批判した。2月には「中国の領土拡張姿勢に日本が賢明に対処しなければ、五星紅旗の"六番目の星"になるだろう」と発言している。
北朝鮮
北朝鮮による日本人拉致問題が公になって以降は強硬な姿勢を貫いている。Webキャスターの草薙厚子によれば、1998年 (平成10年) に「朝鮮民主主義人民共和国がノドン何号かを京都へ撃ち込んでくれれば、この社会もちっとはピリッとするんだろうけどね」との発言を行ったという。2002年には『ニューズウィーク』のインタビューに応じ、映画『風とライオン』の内容 (モロッコのリフ族に拉致されたアメリカ人教師をセオドア・ルーズベルト大統領が軍艦を送って取り戻したエピソード) について語り、「国家の国民に対する責任を示している」「私が総理であったら、北朝鮮と戦争してでも(拉致被害者を)取り戻す」「アメリカがそれに協力しないとしたら、日米安保条約は意味がなくなる」と述べている。2009年には、北朝鮮による拉致被害者を救出する知事の会を泉田裕彦新潟県知事や上田清司埼玉県知事らと共に設立し、会長に就任。47都道府県の知事のうち達増拓也岩手県知事ただ一人が参加しなかったため、会見では「民主党代表の小沢一郎さんの出身地である岩手の知事を除いて……何でかは知りませんよ私は」と皮肉った (後に達増知事は一転、参加を表明) 。また会見で、北朝鮮は中国に併合されたほうが良いと発言した。
米国
日米安保に反対する「若い日本の会」に大江健三郎、江藤淳らと共に参加し、反安保集会に日活俳優を総動員するよう指示するなどした。
政治家となって以降は、日米安保は支持するものの、日米両国で話題を呼びベストセラーとなった『「NO」と言える日本』を出版するなど、常に第二次世界大戦以降のアメリカの覇権主義的な態度には疑問を呈し続けている。1989年代のジャパンバッシングの際には「何の努力もせずに文句だけつけて来る」として批判した。もっとも21世紀に入ってからは転向したのか、「都で尖閣諸島を買う」とヘリテージ財団で講演する(2012年4月)など、親米保守ぶりが目立つ。
南アフリカ共和国
1984年 (昭和59年) 6月に結成された日本南ア友好議員連盟の副長であった。同議連には40人が参加し、南アフリカ共和国で実施されていたアパルトヘイト政策に対する国際的非難が強まっていた状況下で、レアメタルなどの希少金属の確保を目的とした活動をおこなっていた。アパルトヘイト政策の撤廃後にBBCが行ったインタビュー内で、BBCの女性インタビュアーから日本南ア友好議員連盟に所属していた理由を尋ねられた際、手元の水を彼女に浴びせてインタビュー会場から立ち去っている。
諸団体との関係
全国犯罪被害者の会 (あすの会) の支援活動
2000年 (平成12年) 、犯罪被害者の権利確立を目指す全国犯罪被害者の会代表幹事の岡村勲弁護士が文藝春秋に寄稿した「私は見た『犯罪被害者』の地獄絵」を読み感銘を受けた石原のほか、瀬戸内寂聴 (作家) 、奥田碩 (経団連会長、如水会理事長) 、樋口廣太郎 (アサヒビール名誉会長) が代表発起人となり「犯罪被害者の会を支援するフォーラム」が設立された。事務局長には石原と大学同期の高橋宏 (首都大学東京理事長、如水会副理事長) と、山本千里 (如水会理事兼事務局長) が就任した。
同フォーラムは全国犯罪被害者の会へ経済的支援を行い、2004年 (平成16年) の犯罪被害者等基本法の成立、2007年 (平成19年) の刑事訴訟法改正による被害者参加制度創設、2008年 (平成20年) の犯罪被害者等給付金の支給等による犯罪被害者等の支援に関する法律改正の実現などに尽力した。
岡村は2007年 (平成19年) 4月に開かれた如水会有志による「石原慎太郎東京都知事、激励と懇親の会」に出席、来賓祝辞を述べ、2007年東京都知事選挙で再選を目指す石原を激励した。2010年 (平成22年) には全国犯罪被害者の会創立10周年記念シンポジウムが有楽町で開催され、代表幹事の岡村の開会あいさつの後、石原の祝辞があった。
霊友会への入信
石原は政界進出にあたり、自身の後見人的立場だった当時の産経新聞社主水野成夫を介して霊友会の支持を取りつけ、大量の組織票を獲得する。霊友会初代会長小谷喜美を師として仰いでおり、霊友会現会長大形市太郎と対談を行っている。
創価学会批判と公明党支持
公明党は自由民主党と並んで事実上石原都政の与党である。2003年と2007年の選挙では選挙支援を受けている。2007年参院選では公明党による都知事選支援の見返りとして、東京選挙区から出馬する公明党公認の山口那津男の応援で街頭演説するなどしている。
1999年 (平成11年) の都知事選の直前の週刊文春誌における「あなたの池田大作氏への人物評価をお聞かせ下さい」との質問に対して、「悪しき天才、巨大な俗物」と回答していた。あわせて創価学会に日本の政治が壟断されている現実を「情けない限り」と評していた。かつては創価学会に対する批判はしばしば辛辣を極め、『悪辣にして極めて危険なカルト集団』と表現するなど、長年にわたり『亡国の徒に問う』などの著書類をはじめとして、様々な媒体で批判を行っていた。日本の新興宗教論「巷の神々」を産経新聞に連載中に創価学会を取り上げ学会と争いになる。
戸塚ヨットスクールを支援
「戸塚ヨットスクールを支援する会」を組織し、戸塚ヨットスクールの教育方針を全面的に支持している。殊に、戸塚ヨットスクール主宰者である戸塚宏の教育方針の支柱をなす「脳幹論」(脳細胞そのものをトレーニングしてその機能を高めることにより、教育問題の解決を目指すと主張する)に共鳴し、「今の日本人が弱くなったのは脳幹が弱くなったからだ。これは医学的にも証明されている」という主張を産経新聞のコラム (『日本よ』) や、自らの公式サイト上で公開している (実際は医学的な証明がされた事実はない。cf.疑似科学) 。
冒険家堀江謙一に対する中傷
堀江謙一の277日間単独無寄港世界一周に対して、『週刊プレイボーイ 1975年11月25日号』において、
「堀江クンの世界一周は、ヨット仲間の常識からいってウソなんだ。絶対にやってないよ。」
と全否定した。本多勝一は、『貧困なる精神 (121) 』において、この石原の行為を「小心者の卑劣な嫉妬心」と批判した。
崇教真光の代表との家族ぐるみの付き合い
石原と同じく日本会議代表委員である「崇教真光」代表者・岡田恵珠と『岡田光玉師御対談集』 (崇教真光編集) において、対談を行っている30ページの記事がある。
長男の石原伸晃が少年の頃、岡田光玉と岡田恵珠が自宅に訪れたエピソードを伸晃が同宗教団体の42周年秋季大祭 (2001年) の祝辞にて披露するなど、家族ぐるみの付き合いが明らかになっている。また、伸晃は45周年秋季大祭 (2004年) にて自身が信徒であることを明らかにし、信徒としての立場をメインに祝辞を述べている。
新党構想
中央政界の政変の度に石原首相待望論・石原新党構想などが保守系マスコミを中心として頻繁に取り沙汰され、国民的な知名度の高さも手伝って、一時は中央政界のキーマンと目されていたこともあった。しかし1982年の自民党総裁選で、自由革新同友会 (中川派) の領袖であり総裁立候補者でもあった中川一郎が自ら票集めに奔走する一方、中川派に所属し総裁選では参謀役となっていた石原は裏で安倍晋太郎を擁立していた清和政策研究会 (福田) との連携を模索するなど、しばしば反派閥的ともとられる行動があり、自民党内をはじめとした中央政界での影響力は議会外での評価ほど高くなかった。石原は中川の没後に派閥を継承したが派をまとめきれず、石原派は福田派に吸収され、石原は永年勤続表彰の場での議員辞職表明という形で中央政界を去った。結局、「石原新党」は「たちあがれ日本」への発起人参加という形で現実のものとなった。
首相への暴行呼びかけ
2010年 (平成22年) 6月19日、札幌市内で開かれたたちあがれ日本の集会で、菅直人内閣総理大臣について、「もし、自衛隊の観閲式の国旗入場で立たなかったら、構わないから殴れ。殴られてもしょうがない」と首相への暴行を呼びかける発言をした。
交流
大学同期の高橋宏 (後の日本郵政副社長) 、高原須美子 (元経済企画庁長官) 、鳥海巌 (元丸紅社長) と親しく、4家族で毎年旅行にいく仲であった。のちに石原都政で、高原は都営地下鉄12号線路線名称選考委員会委員長、鳥海は東京都の外郭団体から民営化された東京国際フォーラムの初代社長、高橋は都立大学を統合して設立された首都大学東京の初代理事長などをそれぞれ務めた。
慎太郎は大学2年の終わり頃から、小金井の下宿を出て小平の一橋寮で暮らすようになった。これを機に高橋との交流は深まり、3年になると高橋のいる柔道部に入部した。
日本青年社への賞賛
2010年 (平成22年) 10月4日、石原が産経新聞で執筆しているコラム「日本よ」で、尖閣諸島の魚釣島に指定暴力団住吉会傘下の右翼団体である「日本青年社」が本格的な灯台を造ったことを「造ってくれた」と賞賛した。石原は2003年 (平成15年) 2月3日付の「日本よ」でも、日本青年社による灯台の建造を賞賛する文章を書いている。
TPP反対
2011年10月現在、日本国内で大きな議論を呼んでいる日本のTPP参加問題について、10月28日の記者会見で「あんなものはアメリカの策略で、みんなもうちょっと頭を冷やした考えたほうがいい」「国民皆保険や日本の寿命の高度化はおそらく基本的にぐらついてくる」などと主張、TPP参加反対の姿勢を示した。
家族 親族
- 父・潔 (山下汽船社員)
- 生い立ち
- 愛媛県八幡浜に隣接する長浜という港町に生まれた。警察官石原信直・ササヨの三男。父・信直の人事異動に伴って、幼い頃は信直の赴任先である愛媛県各地の派出所を随分転々とさせられた。1922年 (大正11年) 、父・信直が59歳で亡くなり、子供たちはみんな非常に苦労したという。
- 山下汽船へ
- 1913年 (大正2年) 3月、宇和島男子尋常高等小学校を卒業し、旧制宇和島中学 (現在の宇和島東高校) に進んだが、入学から一年もしないうちに同校を中退している。中退の理由はわからない。1914年 (大正3年) 山下汽船に入社。当時潔はまだ14歳の少年だった。潔の山下汽船入社時の身分は店童 (てんどう) だった。
- 慎太郎によれば、「 (潔は) 本当は大学へ行きたかったんだけど、家の事情で行けなかったようです。家は落魄する一方だったようですからね」という。
- 店童 (てんどう)あがりだったにもかかわらず、最後は関連会社の重役にまで出世した。
- 人柄
- 妻光子が書いた『おばあちゃんの教育論』によると、潔は身長百七十五センチ、体重は八十キロもあった大男であだ名は“クマさん”だったという
- 先妻は元大同海運社長崎山好春の妻の姪にあたる。
- 佐野眞一によれば、「山下汽船OBたちの間からは潔を絶賛する声が次々とあがった。その評価のなかに仕事に関するものはほとんどなく、酒や人とのつきあいに関するものばかりだったといってよい。潔が“人間的”魅力にあふれていたことは間違いないようである」という。
- 慎太郎によれば、「親父は僕ら兄弟と一緒にいると、いつも相好を崩していた。怒るときは怒ったけど、ああいう偏愛っていうか溺愛っていうか、動物的な愛情の示し方は、おふくろはしなかった。ですから、どこが似てるかっていわれれば、そういうところが似てると思うし、なんか言わなくていいことを言って、平気で相手をコキオロシたりするところは、おふくろに似てるし… (笑) 」という。
- 晩年
- 晩年には今まで家になかった仏壇をしつらえて、毎朝出勤する前に必ず合掌してお経を上げるようになったという。
- 慎太郎によれば、「朝など時折、前夜の接待が遅くまでになって、好きではあったが医者に禁じられている酒を毒と知りつつ自らに強いて接待に努め疲れて戻った父が、眠りも足りなかったのだろう、高血圧のせいもあって、舌がもつれてお経を読む声がいつもと違って少し呂律が回らず、自分でもそれがわかるのかいらいらしながら同じ部分を何度も唱えなおしているのを床の中で聞きながら、子供なりに心を痛めたのを覚えています。そして結局父は五十一歳で、当時としても若死にしました」という。
- 評価
- 吉田司によれば、「石原潔は、その経歴を見ると、プロレタリア的な徒手空拳からたたき上げた中産階級の先駆的な例ですよね。だとすると、そのマイホーム主義のプチブル的な生活から転落しないように会社に忠誠を誓い一生懸命家族を守った。小樽の『蟹工船』的な、蜂起するぞ!みたいな都市下層民がいっぱいいる中で、おそらく慎太郎と裕次郎の兄弟は、冬になれば暖炉の前でぽかぽかという生活だったと思うんだけど。さらに言えば、潔は、もう一段階上の、エスタブリッシュメントへと移行しようとしたのではないか。」という。
- 佐野眞一によれば、「慎太郎、裕次郎兄弟は十代から湘南の海でヨットを乗り回した。そのブルジョワ的イメージから、そもそもからして資産家階級の出身だと思われがちである。父親も大学出のエリートサラリーマンだったと思うのが一般的な見方だろう。だが実際の潔は中学もまともに卒業せず、当時飛ぶ鳥を落とす勢いの船会社にもぐりこんだとはいえ“痰壺洗い”という最末端の仕事から這いあがっていかざるをえない男だった。肉体労働者階級出身でありながら、そんなことはおくびにも出さずリッチな生活はあたかも天与のものだったかのごときにふるまう。イメージと現実のこのあまりにも大きすぎる落差のなかに、慎太郎という男の謎を解く一つのカギがかくされている」という。
- 母・光子 (加藤三之助の娘)
- 生い立ち
- 2002年 (平成14年) 2月24日にテレビ朝日系で放送された『グレートマザー物語』では、光子は広島県の生まれと紹介しているが、佐野眞一によると、「光子の出生地は大阪だが、大阪での生活は短く、父加藤三之助とともにまもなく広島県厳島に移った」という。加藤家は厳島神社の参道で土産物屋を開いた。光子は継母と折り合いが悪くなって厳島を出た。1927年 (昭和2年) 3月に神戸市立第二高等女学校 (現神戸市立須磨高校) を卒業した。第二高女を卒業した光子は絵描きを目指して上京した。
- 評価
- 佐野眞一によれば「潔は光子と見合いだったにもかかわらず、慎太郎は結婚から二か月足らずで誕生している。男女の間に何があっても不思議はないが、それにしてもちょうど十歳年の離れた潔と光子の組み合わせは、奇妙といえば奇妙である。一方は、没落した一家から中学も出ぬまま、大正バブルそのものともいえる海運会社に入った店童 (てんどう) あがりのサラリーマン。一方は、複雑な家庭環境で育ち、絵描きになることを夢みた、やや自己演出するところのある高女出の女性。この夫婦は明治の村落共同体が崩壊し、都市プチブル層が澎湃 (ほうはい) として誕生してきた大正という時代の典型的カップルだったともいえる」という。
- 弟・裕次郎 (俳優、歌手)
- 1934年 (昭和9年) 12月生 - 1987年 (昭和62年) 7月没。
- 妻・典子 (石田光治の娘)
- 1938年 (昭和13年) 1月生 -
- 典子の父親石田光治は落下傘の紐などを製造する東洋麻糸という紡績会社に勤めていた。典子は父光治が同社の彦根工場に赴任し召集令状を受け中国戦線に出征した後、母方の実家のある広島市己斐町 (現・西区己斐) で生まれた。光治は典子が生まれて十ヵ月後の1938年 (昭和13年) 秋、中支の攻略戦で敵の弾丸を受け、胸部貫通銃創で戦死した。
- 典子が慎太郎と母同士が知り合いだった関係で出会い、淡い憧れのような感情を抱いたのは12歳の頃だったという。典子の母政子と慎太郎の母光子が知り合ったのは宗教活動を通じてだった。
- 結婚について慎太郎は阿川佐和子との対談で「まあね、面倒臭いからしちゃったんですよねえ。今でいうラブホテルから二人で出てくるのを親戚に見つかって、おっかないおばあさんにいいつけられちゃった (笑) 。それで、呼びつけられて"切れるか結婚するか、どっちだ?”って言われて、しょうがないから"結婚します"って決心しちゃったのよ (笑)」と述べている。
- 長男・伸晃 (政治家)
- 1957年 (昭和32年) 4月生 -
- 次男・良純 (俳優・タレント、気象予報士)
- 1962年 (昭和37年) 1月生 -
- 三男・宏高 (銀行員、政治家)
- 1964年 (昭和39年) 6月生 -
- 四男・延啓 (画家)
- 1966年 (昭和41年) 生 -
- 祖父・信直 (警察官)
- 1862年 (文久2年) 生 - 1922年 (大正11年) 没
- 佐野眞一によれば、「石原家のルーツが、慎太郎が言うように、没落士族だったとすれば、没落した元士族の信直が、維新後の最も手っとりばやい生計の道として警察官となったのは、当時とすればごく常識的な選択だったといえる」という。
- 祖母・ササヨ
- 1867年 (慶応3年) 生 - 没
- 末弟 (あるいは従兄弟)
- 1940年 (昭和15年) 3月生 -
- 最初、潔の戸籍に入っていたが、のち他家に養子縁組した。この男性によれば、父親は潔ではなく潔の弟の真砂 (まさご) であるという。なおこの男性の"父"という真砂 (まさご) と"母"という女性の間に正式の婚姻関係はない。この男性が養子縁組した祖母の家と、山下亀三郎の生家は直接の血縁関係はないが、遠い縁戚にあたる。
- 佐野眞一によれば、「潔の故郷の八幡浜周辺を取材中、潔に関する思わぬ話を耳にした。潔には前妻との間にもうけた小河氏、慎太郎、裕次郎兄弟のほかにもう一人子どもがいるという。 (中略) 町起こしの起爆剤として、八幡浜にも小樽の裕次郎記念館のようなものをつくれないか。そう考えた町の有力者が、石原家が間違いなく八幡浜にルーツをもつかどうかを確認するため、戸籍をとったところ、潔にもうひとりの息子がいるという事実が判明したという。この有力者に会うと、驚いたことに、その場で戸籍をそっくり見せた。そこには確かに、噂を裏付ける事実が記載されていた。父の欄には潔、母の欄には光子とあり、昭和十五年三月七日出生の三男と書かれている。出生地は小樽の松ヶ枝町となっている」という。
- 佐野眞一によれば、「"父”という真砂 (まさご) を生まれる前に亡くし、“母”という女性もまた彼を生んで間もなく別の男性と再婚するという不幸な境遇そのままに、彼の両親についての記憶ははなはだおぼろげだった。それに比べると、一度しか会ったことがないという潔の思い出は、なぜか鮮明な残像を結んでいるような気がした。潔はよその女との間に生まれた子どもを、死んだ真砂 (まさご) の妻の実家の戸籍に因果を含めて入れたのか。それとも、これとはまったく逆に、道ならぬ関係となった女性との間に子をなしながら、顔も見ずに他界した弟の真砂 (まさご) と、その真砂に先立たれた女性、そして二人の間に生まれた一粒種の境遇を不憫に思い、男気を出して自らの戸籍に入れたのか。単に自分本位の勝手なふるまいだったともとれるし、意外に繊細な心遣いだったともとれる。そのどちらだったかは、もはや誰にもわからない。ただここではっきり言えるのは、潔につながるもう一人の血族が、慎太郎、裕次郎とはまったく別の影のような人生をおくり、いまひっそりと老境に入ろうとしていることだけである」という。
- 異母兄 (小河姓)
- 父・潔が先妻との間にもうけた子。
- 潔の姉壽万 (すま) 夫婦に子供がなかったため養子に行った。1952年 (昭和27年) 、神戸商大を卒業して山下汽船と同じ資本系列にある第一汽船に入社した。
- 伯母・壽万 (すま、教員)
- 父・潔の姉、異母兄 (小河姓) の養母。
- 慎太郎によれば「壽万 (すま) さんという伯母さんは苦労して資格をとって学校の先生になった」という。
- 慎太郎の異母兄 (小河姓) によれば「(壽万 (すま) の夫は)一時獣医をやっていましたが、すぐにやめて明石市の市役所の公吏になりました。仕事は税務関係です。養母も明石小学校の教員をやっとったから、生活的には困ったことはありません」という。
- 伯父・克己、静夫
- 父・潔の兄。
- 叔父・真砂 (まさご)
- 1939年 (昭和14年) 没
- 父・潔の弟。
- 真砂 (まさご) の息子によれば「真砂は宇和島中学時代からボートをやっていたそうです。そこを卒業後進んだ拓大でもボート部に入り、エイトの選手だったと聞いています」という。
- 慎太郎によれば「潔は自分が行きたくとも行けなかった大学に、末弟の真砂 (まさご) だけはどうしても行かせたいと、学費を工面して東京の拓大に行かせた」という。
- 叔母・美壽 (みす)
- 父・潔の妹。
- 認知した子 (男、元ホステスとの間に出生、1994年認知)
- 1996年 (平成8年) 3月、慎太郎の愛人問題が発覚。このスキャンダルをスクープした写真週刊誌は、「愛人は銀座の高級クラブの元ホステスで、二人の間には一九八〇年代はじめに生まれた男の子もいる。母子はいま母の故郷の雪深い町でひっそりと暮している。」と報じた。
系譜
- 家系
- 石原家は潔 (慎太郎の父) の2代前の石原安太夫の時代に絶家となった (理由は不明) 。それを再興するため服部家から服部信義の二男の信直が石原家に入った。石原家再興の当主となった1862年 (文久2年) 生まれの信直と、1867年 (慶応3年) 生まれの妻ササヨの間には、潔を含めて6人の子供が生まれた。長男の克己、長女の壽万 (すま) 、二男の静夫、三男の潔、二女の美壽 (みす) 、四男の真砂 (まさご) の6人である。信直の職業は警察官だった。
- 石原本家の菩提寺は愛媛県八幡浜市保内町の龍潭(りょうたん)寺である。佐野によると、「本堂裏の位牌堂には潔の父の信直や兄の克己などの位牌はあったが、分家したらしく潔の位牌はなかった。それらにまじって"服部信義"という古ぼけた位牌があるのが目をひいた。」という。
- 佐野との対談の中で慎太郎は「うちの本家はそもそも石原ではなく服部なんです。そんな大家でもないけれど、元は、落魄した士族です。先祖は武田の残党でそれが松山に流れて服部姓を名乗った。弓の名人だったらしく、戦 (いくさ) で七人殺したか、まあ七十人は殺さなかったでしょうが (笑) 、それで七つ矢車の家紋を許された。歴代、服部勘助を名乗った服部本家の血筋をひいている親父の親父が石原家に入って、それ以来石原姓を名乗った。」と述べている。
- 佐野によると、「ただし、服部家出身の信義の祖先が、本当に武田武士の流れをくむ服部本家の末裔だったかどうかまでは、調べようがなく確認がとれなかった。龍潭 (りょうたん) 寺の住職によると約20年前の先代住職の頃、慎太郎本人から“石原家のルーツを知りたい”との連絡があったがそのときもはっきりしたことはとうとうわからずじまいだった」という。
- AERA誌のインタビューのとき、ノンフィクション作家の吉田司に慎太郎は「うちは士族の出でね。カッコいいんだ。武田の武士でね、弓矢の名人でね、家紋が7つ矢の矢車なんですよ。武田軍団って、戦強かったでしょ。うちの家訓はね、『明日の戦、わが身無念と心得べし』ってんですよ。つまり死ぬだろうと……。だから俺の親父もわりと覚悟して、毎晩接待で酒飲み続けて、仕事で死んでいった。『今宵の宴、わが身無念と心得べし』じゃないけどね (笑)」と述べている。
- 山下家と石原家の縁戚説について
- 佐野眞一によれば「亀三郎と石原潔の関係についてはいろいろといわれている。それは、店童 (てんどう)あがりの潔が、関連会社とはいえ、最後は重役にとりあげられたことと関連している。大学出でもない潔が、重役にまで出世するわけがない。亀三郎の強いひきのようなものがあったに違いない、というのが世間一般の見方である。
- … (中略) …慎太郎 は“石原家と亀三郎の間には血縁関係があるのですか”という質問に (亀三郎さんとは) "縁戚だと聞きました。ウソか本当か知りませんけど、そう聞いた憶えがあります。"といって山下家と石原家の縁戚説をあえて否定はしなかった。これに対し亀三郎を大叔父にもち、吉田町にある亀三郎の生家をいまも守る現山下家当主の山下源一郎は“山下家の係累の中に石原の名前はありません。聞いたこともないし、系図にも出てきません。”と血のつながりをきっぱり否定した」という。
- 小泉家との関係
- 妻典子の従兄弟の子にあたる美枝子が政治家の小泉純一郎 (元首相) の実弟・正也と結婚した。
小泉又次郎━━芳江 ┃ (元総理大臣) ┣━━━━┳━小泉純一郎━━┳━小泉孝太郎 ┃ ┃ ┃ 小泉純也 ┗━小泉正也 ┗━小泉進次郎 (鮫島) ┃ ┃ ┏石田重蔵━━石田吉之輔━━━美枝子 ┃ ┃ ┗石田光治━━典子 ┃ (平井) ┃ ┏━石原伸晃 勝子 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┣━━━━╋━石原良純 ┣━━男 ┃ ┃ ┃ (小河) ┃ ┃ (服部) ┃ ┃ ┣━石原宏高 石原安太夫・・石原信直━━石原潔 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┏━石原慎太郎 ┗━石原延啓 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┣━┫ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┗━石原裕次郎 服部信義━━━━┛ 光子 ┃ (加藤) ┃ ┃ まき子
著書
創作
- 太陽の季節 新潮社、 (1956年芥川賞受賞・1955年文学界新人賞受賞) のち新潮文庫 ISBN 4-10-111901-5
- 北壁 三笠書房 1956
- 狂った果実 新潮社、1956 のち角川文庫
- 日蝕の夏 三笠書房 1956
- 理由なき復讐 三笠書房 1956
- 若い獣 新潮社 1957 のち角川文庫
- 完全な遊戯 新潮社、1958 のち角川文庫
- (完全な遊戯、若い獣、乾いた花、鱶女、ファンキー・ジャンプ、狂った果実)
- 海の地図 角川書店 1958 のち文庫
- 亀裂 文藝春秋新社、1958 のち角川文庫、新潮文庫 1960, ISBN 4-10-111902-3
- 月蝕 角川書店、1959 のち文庫
- 夜を探がせ 光文社 1959 のち角川文庫
- 男の掟 角川書店 1959
- 乾いた花 文藝春秋新社 1959
- 殺人教室 新潮社 1959 のち角川文庫
- 青年の樹 1-2 角川書店 1959-1960 のち文庫
- 挑戦 新潮社 1960 のち文庫
- 見知らぬ顔 新潮社 1960
- 青い糧 講談社 1961
- 汚れた夜 新潮社 1961 のち集英社文庫
- 死んでいく男の肖像 角川書店 1961
- 雲に向かって起つ 第1-2 集英社 1962
- 禁断 角川書店 1962 のち文庫
- 断崖 新潮社 1962
- 狼生きろ豚は死ね・幻影の城 新潮社 1963[戯曲]
- 日本零年 文藝春秋新社 1963 のち角川文庫
- 密航 新潮社 1963
- てっぺん野郎 青雲編 集英社 1963
- 死の博物誌 新潮社 1963
- 石原慎太郎文庫 全8巻 河出書房新社 1964-1965
- 行為と死 河出書房新社 1964 のち新潮文庫
- てっぺん野郎 昇竜編 集英社 1964
- 銀色の牙 講談社 1964 のち角川文庫
- 傷のある羽根 文藝春秋新社 1964
- 終幕 集英社 1964 のち文庫
- 青春とはなんだ 講談社 1965 のち角川文庫
- 命の森 読売新聞社 1965 のち角川文庫
- 星と舵 河出書房新社 1965 のち新潮文庫
- おゝい、雲! サンケイ新聞出版局 1965 のち角川文庫
- 砂の花 新潮社 1965
- 人魚と野郎 集英社 1965 のち角川文庫
- 大いなる海へ 集英社 1965
- 還らぬ海 講談社 1966
- 飛べ、狼 講談社 1966
- 青い殺人者 集英社 1966 のち文庫
- 野性の庭 河出書房 1967
- 黒い環 河出書房新社 1967
- 野蛮人のネクタイ 読売新聞社 1968 のち集英社文庫
- 鎖のついた椅子 新潮社 1969
- 化石の森 (芸術選奨文部大臣賞受賞) 新潮社 1970 のち文庫
- 野蛮人の大学 集英社 1971 のち文庫
- 信長記 河出書房新社 1972
- 石原慎太郎短編全集 新潮社 1973
- 男の海 集英社 1973
- 風の神との黙約 北洋社 1975[散文詩集]
- 大いなる手との黙約 文藝春秋 1976
- 光より速きわれら 新潮社 1976
- 刃鋼 文藝春秋 1976 のち角川文庫
- 暗闇の声 光文社 1977
- 嫌悪の狙撃者 中央公論社 1978 のち文庫
- 一点鐘 集英社 1979
- 亡国 日本の突然の死 角川書店 1982 のち文庫
- 大いなる海へ 舵社 1983 (海洋文庫)
- 秘祭 新潮社 1984 のち文庫
- 生還 (平林たい子賞受賞) 新潮社 1988 ISBN 4-10-301505-5
- 不思議な不思議な航海 白泉社 1990[絵本]
- わが人生の時の時 新潮社 1990 のち文庫
- 十代のエスキース 成瀬書房 1991[画集]
- 遭難者 新潮社 1992
- 風についての記憶 集英社 1994 のち幻冬舎文庫 ISBN 4-08-774059-5
- わが人生の時の会話 集英社 1995 のち幻冬舎文庫 ISBN 4-08-774163-X
- 弟 (毎日出版文化賞特別賞受賞) 幻冬舎 1996 のち文庫 ISBN 4-87728-119-3
- 肉体の天使 新潮社 1996
- 聖餐 幻冬舎 1999 のち文庫 ISBN 4-87728-306-4
- 僕は結婚しない 文藝春秋 2001 のち文庫 ISBN 4-16-320380-X
- 『石原愼太郎の文学』全10巻 文藝春秋 2007 (以下が収録作品。括弧の数字は収録巻)
- 刀鋼 (はがね) (1) ISBN 4-16-641580-8
- 化石の森 (2)
- 亀裂 (3)
- 死の博物誌 (3)
- 星と蛇 (4)
- 風についての記憶 (4)
- 行為と死 (5)
- 暗殺の壁画 (5)
- 光より速きわれら (6)
- 秘祭 (6)
- 生還 (7)
- 弟 (7)
- わが人生の時の時 (8)
- 短編集I『太陽の季節』『完全な遊戯』 (9)
- 短編集II『遭難者』 (10)
- 火の島 文藝春秋、2008
- 生死刻々 文藝春秋、2009
- 再生 文藝春秋、2010
その他
- 青春にあるものとして 河出書房 1956
- 価値紊乱者の光栄 凡書房 1958
- これが恋愛だ 講談社 1960
- 南米横断一万キロ 講談社 1960
- 孤独なる戴冠 河出書房新社 1966 のち角川文庫
- 青春との対話 (人生のことば) 番町書房 1967
- 巷の神々 サンケイ新聞出版局 1967
- 怒りの像 サンケイ新聞社出版局 1968 のち角川文庫
- 祖国のための白書 集英社 1968
- プレイボーイ哲学 集英社 (プレイボーイ・ブックス) 1968
- スパルタ教育 強い子どもに育てる本 光文社 1969 (カッパ・ホームス)
- 慎太郎の政治調書 講談社 1970
- 慎太郎の第二政治調書 講談社 1971
- 男の世界 集英社 1971
- 真実の性教育 学校では教えない人間の性 光文社 1972 (カッパ・ホームス)
- 酒盃と真剣 対話集 参玄社 1973
- 新和漢朗詠集 現代に息づく日本人の鼓動 いんなあとりっぷ 1973
- 対極の河へ 河出書房新社 1974
- 息子をサラリーマンにしない法 わが子よオレを越えて行け 光文社 1975 (カッパ・ホームス)
- 真の革新とはなにか 対論集 読売新聞社 1976
- 伯爵夫人物語 ヨットと海を愛する歓び 集英社 1976
- 情熱のための航海 大和出版 1976 (わが人生観)
- 戦士の羽飾り 男の博物誌 角川書店 1979
- バカでスウェルな男たち 男の美学 プレジデント社 1984
- 暗殺の壁画 河出書房新社 1984[ノンフィクション]
- 流砂の世紀に 新潮社 1985
- 現代史の分水嶺 文藝春秋 1987 のち文庫
- 拝啓息子たちへ 父から四人の子へ人生の手紙 光文社 1987 (カッパ・ホームス)
- 時の潮騒 日本と世界をめぐる父と子の14の対話 PHP研究所 1990 のち文庫
- 光速の時代に PHP研究所 1991
- 来世紀の余韻 中央公論社 1991
- 三島由紀夫の日蝕 新潮社 1991 ISBN 4-10-301507-1
- 禁断の島へ 加納典明、大津善彦写真 集英社 1992
- かくあれ祖国 誇れる日本国創造のために 光文社 1994
- 亡国の徒に問う 文藝春秋 1996 のち文庫
- "父"なくして国立たず 光文社 1997 ISBN 4-334-97150-4
- 法華経を生きる 幻冬舎 1998 のち文庫 ISBN 4-87728-271-8
- 国家なる幻影 わが政治への反回想 文藝春秋 1999 のち文庫
- この日本をどうする 再生のための10の対話 文藝春秋 2001 のち文庫
- いま魂の教育 光文社 2001 ISBN 4-334-97225-X
- 生きるという航海 海竜社 2001 のち幻冬舎文庫
- 東京の窓から日本を 1-3 文春ネスコ 2001-2003
- わが人生の時の人々 文藝春秋 2002 のち文庫 ISBN 4-16-712809-8
- 老いてこそ人生 幻冬舎 2002 のち文庫 ISBN 4-344-40382-7
- 日本よ 扶桑社 2002 のち文庫
- 惰眠を貪る国へ 東京をテコに国を変える挑戦 扶桑社 2004
- 息子たちと私-子供あっての親 幻冬舎 2005 のち文庫 ISBN 4-344-01064-7
- 人の心を動かす「名言」 新装版 ロングセラーズ 2005 ISBN 978-4845404483
- 日本よ、再び 産経新聞出版 2006
- 東京の窓から世界を 対談集 PHP研究所 2007 ISBN 4-569-64656-5
- オンリー・イエスタディ 幻冬舎 2008
- 私の好きな日本人 幻冬舎 2008 のち新書
- 新・堕落論-我欲と天罰 2011 新潮新書 ISBN 978-4106104268
共著
- 新旧の対決か調和か 賀屋興宣 経済往来社 1969
- 人間の原点 対話 小谷喜美 サンケイ新聞社出版局 1969
- いかに国を守るか 羽仁進、藤原弘達 日新報道 1970
- エベレスト 日本エベレスト・スキー探検隊の記録 三浦雄一郎共著 文藝春秋 1970
- 闘論 君は日本をどうするか 野坂昭如 文藝春秋 1975
- 「NO」と言える日本 (共著: 盛田昭夫) 光文社カッパ・ホームス 1989 ISBN 4-334-05158-8
- それでも「NO」と言える日本 -日米間の根本問題- (共著: 渡部昇一・小川和久) 光文社 1990 ISBN 4-334-05174-X
- 断固「NO」と言える日本 (共著: 江藤淳) 光文社 1991 ISBN 4-334-05184-7
- 「No」と言えるアジア 対欧米への方策 マハティール 光文社 1994
- 宣戦布告「NO」と言える日本経済 アメリカの金融奴隷からの解放 一橋総合研究所共著 光文社 1998 ISBN 4-334-97190-3
- 「アメリカ信仰」を捨てよ 二〇〇一年からの日本戦略 一橋総合研究所共著 光文社 2000
- 勝つ日本 田原総一朗 文藝春秋 2000 のち文庫
- 永遠なれ、日本 元総理と都知事の語り合い 中曽根康弘 PHP研究所 2001 のち文庫
- 人生への恋文-往復随筆 瀬戸内寂聴 世界文化社 2003 文春文庫 2008
- 日本の力 田原総一朗 文藝春秋 2005 のち文庫
- 生きる自信 健康の秘密 石原結實対談 海竜社 2008
- 鍛える! 嫌われても憎まれても果たすべき大人の役割 松平康隆対談 小学館 2009 ISBN 978-4093878449
作詩曲
- 狂った果実 (曲: 佐藤勝、歌唱: 石原裕次郎)
- 青年の樹 (曲: 山本直純、歌唱: 三浦洸一)
- 夏の終わり (曲: 石原慎太郎、歌唱: ペギー葉山&石原慎太郎)
- 青年の国をつくろう (曲: 小林亜星、歌唱: 石原裕次郎)
- 泣きながら微笑んで (曲: 石原慎太郎、歌唱: 石原裕次郎)
- さあ太陽を呼んでこい (曲: 山本直純、歌唱: 倍賞千恵子)
翻訳
- 型破りで勝つ! ロバート・J.リンガー 三笠書房 1978.12
関連作品
映画
- 太陽の季節 (1956年、原作・出演)
- 処刑の部屋 (1956年、原作)
- 狂った果実 (1956年、脚本・原作・出演)
- 日蝕の夏 (1956年、脚本・原作・出演)
- 婚約指輪 (1956年、脚本・原作・出演)
- 月蝕 (1956年、原作)
- 危険な英雄 (1957年、出演)
- 穴 (1957年、唄・出演)
- 俺は待ってるぜ (1957年、脚本)
- 錆びたナイフ (1958年、脚本・原作)
- 霧の中の男 (1958年、脚本・原作)
- 死の壁の脱出 (1958年、脚本)
- 若い獣 (1958年、監督・脚本・原作)
- 完全な遊戯 (1958年、原作)
- 海は狂っている (1959年、脚本・原作)
- 海の地図 (1959年、原作)
- 海底から来た女 (1959年、脚本・原作)
- 夜を探がせ (1959年、原作)
- 青年の樹 (1960年、原作)
- 接吻泥棒 (1960年、原作・出演)
- トップ屋を殺せ (1960年、脚本)
- 愛と炎と (1961年、原作)
- 青い狩人 (1961年、原作)
- 雲に向かって起つ (1962年、原作)
- 禁断 (1962年、原作)
- 二十歳の恋 (1962年、監督・脚本)
- 素晴らしい悪女 (1963年、原作)
- 狼の王子 (1963年、原作)
- 小さな冒険旅行 (1963年、原作)
- 乾いた花 (1964年、原作)
- 敗れざるもの (1964年、原作)
- おゝい雲! (1965年、原作)
- 青春とはなんだ (1965年、原作)
- 処刑の島 (1966年、製作・脚本)
- これが青春だ! (1966年、脚本監修)
- 男なら振りむくな (1967年、原作)
- 復讐の歌が聞える (1968年、脚本・原作)
- 狂戀詩 Summer Heat (1968年、原作)
- 野蛮人のネクタイ (1969年、原作)
- スパルタ教育 くたばれ親父 (1970年、原作)
- 化石の森 (1973年、原作)
- 青年の樹 (1977年、原作)
- 秘祭 (1998年、脚本・原作)
- 俺は、君のためにこそ死ににいく (2007年、製作総指揮・脚本)
- 宇宙戦艦ヤマト 復活編 (2009年、原案)
テレビドラマ
- 深夜のメス (1957年、原作)
- 幽霊と宝石と恋 (1958年、原作)
- 見知らぬ顔 (1959年、原作)
- この情報を買ってくれ (1959年、脚本)
- 分身 (1960年、脚本)
- 降霊 (1960年、脚本)
- 怒りの果実 (1960年、原作)
- これが恋愛だ (1961年、原作)
- 密航 (1961年、原作)
- 殺人キッド (1961年、原作)
- 青年の樹 (1961年、原作)
- 死んでゆく男の物語 (1961年、脚本)
- 喪われた街 (1962年、原作)
- 夜を探せ (1962年、原作)
- 闇から来る (1962年、原作)
- アラスカ物語 (1962年、脚本)
- 青い糧 (1963年、原作)
- 断崖 (1963年、原作)
- 雲に向って起つ (1963年、原作)
- 夜の道 (1963年、原作)
- 喪われた街 (1964年、原作)
- 小さき斗い (1964年、原作)
- 有馬稲子アワー 喪われた街 (1965年、原作)
- てっぺん野郎 (1965年、原作)
- 青春とはなんだ (1965年、原作)
- おゝい雲! (1965年、原作)
- 人魚と野郎 (1967年、原作)
- おおい雲 (1971年、原作)
- 恐怖の人喰い鱶 鱶女 (1980年、原作)
- 太陽の季節 (2002年、原作)
- 狂った果実2002 (2002年、原作)
- 弟 (2004年、原作)
演じた俳優
その他
- Ustreamでの放送にて田原総一郎が献金をしている事が明らかになる。
- 『正論』の特集「2012年注目の政治家50人を値踏みする」では、安倍晋三・小泉進次郎・西田昌司とともに10点満点中9点の評価を得ている。
脚注
- ↑ 『産経新聞』2005年9月5日
参考文献
- 神一行『閨閥 改訂新版 ―特権階級の盛衰の系譜―』 角川文庫 2002年 231、244頁
- 同 『石原慎太郎と都知事の椅子』 角川文庫、2000年がある。
- 佐野眞一『てっぺん野郎 ―本人も知らなかった石原慎太郎―』 (講談社 2003年) ISBN 4-06-211906-4
- 増補改題され、『誰も書けなかった石原慎太郎』 講談社文庫、2009年
- 斎藤貴男『空疎な小皇帝 「石原慎太郎」という問題』 (岩波書店 2003年、ちくま文庫 2006年)
- 江藤淳『石原慎太郎論』 (作品社 2004年)
- 鈴木斌『作家・石原慎太郎 価値紊乱者の軌跡』 (菁柿堂 2008年)
- 前野徹『救世主石原慎太郎』 (扶桑社文庫、2004年)
- 別冊宝島編集部『石原慎太郎の値打ち』 (宝島社文庫 2003年)
- 嶋田昭浩『解剖・石原慎太郎』 (講談社文庫 2003年)
- 浅野史郎ほか8名『石原慎太郎の東京発日本改造計画』 (人物文庫・学陽書房、2002年)
- 上杉隆『石原慎太郎「5人の参謀」』 (小学館文庫、2000年)
- 『特集石原慎太郎研究 ポリティーク08号』<労働法律旬報別冊> (旬報社 2004年)
- 一ノ宮美成+グループK21『黒い都知事 石原慎太郎』 (宝島社) ISBN 978-4796676328
関連項目
- 服部氏
- 太陽の季節
- 狂った果実
- スポーツ刈り
- 太陽族
- 石原裕次郎
- 東京都知事選挙
- 自由革新同友会
- 清和政策研究会
- 青嵐会、平沼赳夫、塩谷一夫
- 新しい歴史教科書をつくる会
- 北朝鮮に拉致された日本人を早期に救出するために行動する議員連盟
- 非核三原則 - 日本の核武装論
- 日本共産党(日本のこえ)
- 三国人
- タカ派
- マッチョイズム
- 反フェミニズム
- ババア発言
- ネッシー
- 弟
- 南京の真実 賛同者
- 国家基本問題研究所 理事
- 軍国主義
- 自衛隊
- スパルタ教育
- 戸塚ヨットスクール
- 戸塚宏
- 成田空港高速鉄道 - 運輸大臣時代、成田空港アクセスの不備を感じた際「鶴の一声」で建設が決定された。
- 京谷好泰
- UFO - 三島由紀夫や星新一らとともに日本空飛ぶ円盤研究会の会員であった。
- 二神範蔵
- 亀井静香
- 伝統と創造の会
- たちあがれ日本 - 同政党の支援者であり、党名を命名した。
- 野中広務 - プライベートで食事をするなどの仲。もっとも、野中は石原を“ボンボン”と評している。
- 鈴木直道
- 大阪維新の会
外部リンク
- 公式サイト「宣戦布告.net」
- 知事の部屋 - 東京都の広報ページ
- 石原慎太郎都知事の記者会見 - 東京都公式
- TOKYO MX 東京都石原知事定例会見中継 - 東京メトロポリタンテレビジョン