盧武鉉
盧 武鉉(ノ・ムヒョン) 노무현
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盧 武鉉(ノ・ムヒョン) | |
韓国 第16代大統領
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任期: | 2003年2月25日 – 2008年2月24日 |
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出生: | 1946年9月1日((2024-1946)+((12-9)*100+(28-1)>=0)-1歳) (旧暦8月6日) |
死去: | 2009年5月23日((2009-1946)+((5-9)*100+(23-1)>=0)-1歳没) |
政党: | |
配偶者: | 権良淑 |
サイン: | [[Image:|128px|サイン]] |
テンプレート:韓国の人物 盧 武鉉(ノ・ムヒョン、노무현、1946年9月1日(旧暦8月6日)- 2009年5月23日)は、大韓民国の政治家、第16代目韓国大統領(2003年-2008年)。本貫は光州盧氏。カトリック教徒で、洗礼名はユストゥス。妻の権良淑(クォン・ヤンスク)とのあいだに1男1女。歴代で初めての、日本統治時代を経験していない世代の大統領である。
目次
生い立ち・弁護士として[編集]
慶尚南道金海市進永邑(チニョンウプ)烽下(ポンハ)の貧しい農家に生まれる。苦しい家計を思い、一度は高校進学を諦めるが、兄の強い説得と助力で釜山商高に進学した。在学中に農協の就職試験を受けるも叶わず、卒業後に「三海工業」という小さな魚網会社に就職するが、その待遇に失望して一カ月半で退職。司法試験への挑戦を決意する[1]。当時、高卒では司法試験を受ける資格が与えられなかったが、村外れのぼろ家に手を加えて「磨玉堂」と名づけて勉強の場とし、日雇い労働をしながら1966年11月に資格試験(司法及び行政要員予備試験)に、1971年に三級公務員の一次試験に合格。兵役をはさんで勉強を続け、1975年司法試験に合格した。司法研修院で研修を終えた後、1977年大田地方法院(裁判所)判事に就任。1978年判事を辞めて弁護士事務所を開業。租税関連の訴訟を専門としていたが、1981年に別の弁護士の代理として釜林事件の弁護を引き受けた事が転機となり、人権派弁護士として活動を始めた。
1982年の釜山アメリカ文化院放火事件では被告側弁護人を担当した。1987年には大統領直接選挙制を求める6月抗争を主導し、大宇造船事件では逮捕と拘留も経験している。盧武鉉は後年、人権派弁護士への変身は覚悟や決意を要求されたものではないと語った。平凡な常識と良心、そして「拷問されて真っ黒になった学生の足の爪」を見ての憤りと怒りであったという[2]。
政界進出[編集]
1988年に統一民主党(当時)の金泳三に抜擢され、同年4月に行なわれた13代国会議員選挙で当選し、政界入りした。国会の労働委員会では、李海瓚や李相洙とともに「労働委員会三銃士」と呼ばれ、活発な活動を行った。同年、第五共和国の不正調査特別委員会の委員となり、第五共和国聴聞会における全斗煥時代の不正追及の場面がテレビ中継されたことがきっかけで、国民的スターになった。
1990年に民主党の金泳三派が盧泰愚の民主正義党、金鍾泌の新民主共和党と合党し(三党合同)、大与党・民主自由党を結成した。盧武鉉はこれを野合として合同への参加を拒み、他の議員とともに1990年6月に改めて結成された民主党に加わり野党に残った。盧武鉉は金大中率いる新民主連合党との野党統合運動を推進し、1991年9月に統合野党としての新・民主党を発足させた。
その結果、恩師でもあった金泳三に睨まれることになり、1992年には14代国会議員選挙で落選。1995年の釜山市長選挙および翌1996年の15代国会議員選挙も落選した。1998年の補選にてようやく国会議員(ソウル市鐘路区[3]で当選。新政治国民会議)に復帰した。2000年の16代国会議員選挙でソウル・鐘路区ではなく釜山市の北・江西乙選挙区から出馬(新千年民主党)し、再度落選するが、勝てなくても立候補し続ける姿が一部の国民の共感を得て、2000年にインターネット上で盧武鉉のサポーター組織「ノサモ」(ノムヒョヌル・サランハヌン・モイム=盧武鉉を愛する集まりの意)が結成された。
2000年8月、盧武鉉は金大中政権の海洋水産部の長官に任命された。これは湖南(全羅道)を地盤とする民主党が、民主党の支持が薄い嶺南(慶尚道)出身者を次期大統領候補(のひとり)として遇しようとしたためと言われている。
大統領選挙[編集]
2002年大統領選挙に際し、新千年民主党(以下、民主党)の大統領候補の選出は、アメリカ合衆国の予備選挙制に似た国民参加選挙(国民競選)を通じて行われた。立候補登録を行ったのは、金重権、盧武鉉、鄭東泳、金槿泰、李仁済、韓和甲の各常任顧問と柳鍾根全羅北道知事の7名だった。世論調査では李仁済が優勢とされ、またハンナラ党の大統領候補李会昌による忠清圏票の独占を防げるということで、「李仁済大勢論」(李仁済以外にいない)と思われた。だが、李仁済では李会昌に勝てず、進歩主義陣営の票を取りこぼすと主張する意見もあり、それは急速に「盧武鉉代案論」として浮上した。
全国で行われた予備選挙で、盧武鉉は蔚山、光州と勝利を重ねた。嶺南と湖南で勝利したことにより、民主党候補が地域対立を越えて大統領に当選する期待を抱かせた。苦戦する李仁済は盧武鉉の思想、財産、盧武鉉の義父の左翼歴にいたるまで取り上げて批判した[4]。だが大勢を覆すに至らず、盧武鉉は勝利を重ねて「盧風」(盧武鉉旋風)を巻き起こした。そして4月27日に民主党の大統領候補に選出された。
しかし金泳三との和解を演出した「YS腕時計事件」[5]は、進歩・改革の旗手として支持者が描いていた盧武鉉のイメージを傷つけた。また、金大中の側近や親族の逮捕は民主党の大統領候補である盧武鉉への逆風となり、6月の統一地方選や8月の補選に惨敗した民主党では候補の交代や、鄭夢準との候補一本化が取り沙汰されるようになった。
このような事情から、盧武鉉は鄭夢準との候補一本化を模索した。調整の結果、二人はテレビ討論会を行い世論の支持を集めた側を統一候補として擁立する事にした。テレビ討論会は11月22日に行われ、その後の世論調査で盧武鉉は46.8%、鄭夢準は42.2%の支持率となり、盧武鉉が統一候補に決定した。そして大統領選挙戦は、事実上盧武鉉とハンナラ党の候補李会昌の一騎打ちとなった。
11月20日、在韓米軍の軍事法廷は6月に女子中学生を交通事故死させたアメリカ兵に無罪の判決を下した。これは米韓行政協定(SOFA)のもとに行われたことだったが、民主活動家たちが運動を活発化させるきっかけを与えた。労働組合や左派団体はソウルや各地の都市で繰り返しキャンドルデモを扇動し、メディアもそれを報じて反米機運を増幅した。アメリカは11月27日にハバード駐韓大使とラポート在韓米軍司令官が謝罪し、さらに大統領(当時)のジョージ・W・ブッシュの謝罪声明を発表して事態の沈静化を図ったが、デモの主催者たちはこれを欺瞞とし、デモを続けた[6]。投票日を前に発生したこの事件は、有権者の投票行動に少なくない影響を与えた(→議政府米軍装甲車女子中学生轢死事件も参照)。
2002年11月27日および28日、盧武鉉と李会昌、民主労働党の權永吉ほか4名が大統領選挙の候補に登録を行い、選挙戦が正式に開始した。盧武鉉は金大中による太陽政策(包容政策)の継承、行政首都を忠清圏に移転するといった政治改革や、7%の経済成長を公約に掲げた[7]。一方、比較的親米的な李会昌は金大中政権の路線を全面的に転換することを望み、対北・対米方針の違いが、大統領選挙の主要な争点の一つとなった。
投票日前日の12月18日、鄭夢準が盧武鉉への支持を撤回するというハプニングが起きた。対北朝鮮政策の違いや、将来の大統領をめぐる盧武鉉の発言など原因であるといわれている[8]。しかし土壇場での「裏切り」はかえって盧武鉉への同情を呼び起こし、またノサモによる盧武鉉への投票の呼びかけが功を奏して、盧武鉉は約57万票差の僅差で李会昌を制し、第16代大統領の座を射止めた。なお、地方での得票率においては盧武鉉は湖南地域で軒並み90%以上を獲得する一方、大邱広域市の一部で20%を下回るなど一部地域間での差が顕著に表れた。
大統領職[編集]
就任[編集]
盧武鉉は相対的に高い国民の支持を得て大統領職に就任したが、与党の新千年民主党は国会では少数派だった。国会ではハンナラ党が過半数を占めており、選挙訴訟、人格攻撃、大統領としての適性を取り上げ、あるいは言葉尻をとらえて盧武鉉を攻撃した。さらに与党の新千年民主党では、全羅道を基盤とする金大中派と盧武鉉を中心とする主流派との間で与党内抗争が激化し、主流派が「ヨルリン・ウリ党」を結成したことによって新千年民主党は下野した。議会での基盤を大幅に損なった盧武鉉は苦境に立たされた。
与野党共に大統領選挙における不正資金疑惑が浮上した。経済運営も難航した。イラクに韓国軍を派遣したことが支持者離れを引き起こし、支持率は急落した。起死回生を図るべく、盧武鉉は国民投票による再信任を提案するが、各方面から批判を浴び撤回を余儀なくされた。盧武鉉は与野党代表と会合を行い「われわれが昨年の大統領選挙で使った不法資金の規模がハンナラ党の10分の1を超えれば、大統領職を退き、政界を引退する」と述べたが[9]、調査が進んで8分の1に迫ると、敵対的なメディアでの主観的な計算の問題としてその数字に異議を唱えた。
イラク追加派兵問題をめぐり、外交通商部と国防部の「韓米同盟派」と、大統領府・国家安全保障会議(NSC)を中心とした「自主派」が軋轢を起こした。2004年1月、盧武鉉は外交通商部幹部の失言と監督責任を理由に尹永寛外交通商部長官を更迭し[10]、後任に潘基文を任命した。
弾劾[編集]
総選挙を控えた2004年3月9日、野党であるハンナラ党、新千年民主党は国民の理解を得られると踏んで大統領の弾劾訴追を発議した。3月12日、投票(賛成193、反対2)の結果、大統領弾劾訴追案が可決され、一時的に大統領職務を停止された。これにより、当時国務総理(首相)だった高建が大統領職務代行を務めた。
しかし、党利党略から大統領を弾劾し、国政を混乱させた野党に世論が反発、総選挙でのウリ党の地滑り的勝利に繋がり、これをもって事実上の信任と見なされた。5月14日には憲法裁判所により大統領弾劾訴追が棄却され、職務に復帰した。結果として、盧武鉉は政治基盤を大幅に強化し、政策を推進する体制を整えることとなった。
改革[編集]
盧武鉉は自らの政権を「参与政府」(国民が政治に参与する政府)と称し、より進歩的かつ理念的な改革を指向した。「ノサモ」などのインターネットの力を借りて政権の座に就いたこともあり、ホームページを通して積極的な情報公開を行うだけでなく、重大な政策論争に行き当たるたびに、国民に直接語りかける機会を設け、ネットを利用したポピュリズムを形成して、既存の保守勢力の抵抗を突破しようとした[11]。この節を書こうとした人は途中で寝てしまいました。後は適当に頑張って下さい。 |
大連立論争[編集]
与党のウリ党はすべての補選で敗北を喫した。2005年4月30日の補選も例外でなく、ウリ党は6選挙区すべてで議席を獲得できず、惨敗を喫した。不人気に直面した盧武鉉は、野党ハンナラ党に権力を渡すことを含めた選挙制度改革と大連立(挙国連立)政権を提案した。国民一般の世論とかけ離れたこの提案は、国論を沸騰させた。憲法学者は違憲の疑いを指摘し、ハンナラ党は繰り返し連立政権の交渉を辞退した。与党議員の3分の2が連立政権に反対したが、盧武鉉はこの提案に執着した。
2005年9月7日、盧武鉉とハンナラ党の朴槿恵代表との単独会談が行われ、2時間30分にわたり二人は意見を交わしたが、双方は合意を見出せずに物別れに終わった[12]。大連立構想はいずれの政治派閥からも支持を得ることなく廃棄された。
レームダック[編集]
2006年5月31日に行われた統一地方選挙では、盧武鉉政権の経済無策への批判やハンナラ党代表の朴槿恵への襲撃事件も重なって、与党のウリ党は歴史的惨敗を喫した。事実上大統領および政府与党への信任選挙であったため大統領の責任論が浮上したが、「一度や二度の選挙結果に惑わされるようでは民主主義とはいえない」と述べ、与野党双方からさらに批判が巻き起こった。この選挙結果により以前から言われていた「レームダック(死に体)政権」のイメージがますます強くなってしまい、支持率は20%を切るようになった[13]。
2006年8月、盧武鉉は任期切れとなった尹永哲憲法裁判所所長の後任に、全孝淑憲法裁判所裁判官を内定した。しかし任命手続きに法的な瑕疵があったことを理由に国会が同意せず、憲法裁判所所長の座が空位となった。
2006年10月、国家情報院は386世代民主化闘士が北朝鮮と通じてスパイ活動をしたとして、民主労働党の幹部などを国家保安法違反で逮捕した。しかし、捜査の指揮を執っていた金昇圭国家情報院院長が突如辞意を表明し、その後情報機関の長としては異例にも朝鮮日報へのインタビューに応じて捜査内容を語るという事件が発生した。同月、尹光雄国防部長官が辞任した。宥和政策に対する批判の高まりから統一部長官の李鍾奭も辞意を表明し、国連事務総長へ転出するため辞任した外交通商部長官の潘基文と合わせて、外交・安保の責任者がすべて入れ替わることとなった。
2006年11月、盧武鉉は憲法裁判所所長の指名を撤回した。盧武鉉は議場を占拠して任命同意案の採決を阻んだ国会を非難するとともに、指名撤回を「屈服」と表して、任期を終えることのできない最初の大統領にはなりたくないと述べた[14]。
2006年12月、盧武鉉は民主平和統一諮問会議の席上で、韓国の国防力に自信を示すと共に、在韓米軍基地移転や戦時作戦統制権の返還に反対する退役軍人に対し「米国の後ろに隠れて『兄貴、兄貴のパワーだけ信じるよ』とばかりしてはいられない。一度は度胸をみせるべきじゃないか」「自国軍隊の作戦統制さえきちんとできない軍隊を作っておいて、『私は国防長官です』、『私は参謀総長です』と威張りたいというのか」と反論した[15]。
党争[編集]
度重なる補選の敗北と次期大統領選挙を見据えて、与党ウリ党では金槿泰を中心に、かつて袂を分かった民主党との再統合を模索する動きが活発化した(統合新党論)。盧武鉉は再統合を地域主義への回帰であるとして非難し、長文の手紙を発して党員への呼びかけを行った。また次期大統領選挙の有力候補であり、進歩主義陣営結集の核と目された高建を激しく攻撃し、大統領選挙への出馬辞退に追い込んだ。
ウリ党の親盧勢力も、盧武鉉の意を受けて党を死守するとの立場を見せた。金槿泰らが党の進路を決める全党大会を前に、外部人材の受け入れを妨げるとして基幹党員制の撤廃に踏み切ると、改正手続きに不備があると仮処分を申し立て、法院はこれを認めた。ここに至り、ウリ党の現職議員が全党大会を待たずに脱党を始めた。盧武鉉は党の現状を知り、青瓦台に親盧勢力を招いて党の分裂を防ぐように方針転換を促した結果、党憲の改正は改めて議決されたが、現職議員の脱党を完全に押し留めるには至らなかった[16]。
この節を書こうとした人は途中で寝てしまいました。後は適当に頑張って下さい。 |
内政[編集]
盧武鉉は金大中の後継者として、「左派新自由主義」路線を推進した。
経済政策[編集]
アジア通貨危機以来の新自由主義政策を継承した。
社会政策[編集]
左派が課題としてきた問題に取り組み、過去の軍事政権下における人権抑圧について検証を進めた。
朝鮮日報、東亜日報という既存の保守系メディアとは鋭く対立し、その力を殺ぐべく言論改革を唱えた。これは後に大手新聞社の発行部数を抑制し、政権に融和的な中小言論を経済的に支援する「新聞法」や、報道被害に訴訟で対抗する道を拓く「言論仲裁法」といった言論改革法の成立に結びついた。北朝鮮の工作員から反米活動の大衆化や金泳三元大統領と黄長燁元北朝鮮労働党秘書に圧力をかけることなどの指令を受けていた南北共同宣言実践連帯[17]などの親北朝鮮団体に政府補助金を支援した[18]。
首都移転計画[編集]
最大の公約である地域主義を解消するべく、極度に人口が集中するソウル一極集中を正すために首都移転計画を進めたが、2004年10月21日に憲法裁判所が「ソウルは朝鮮王朝以来の慣習的首都」として「違憲」と判断、修正を余儀なくされた[19]。
歴史認識問題[編集]
盧武鉉は歴史の見直しにも強い意欲をもって臨んだ。民主化以降の文民政権は、政権の正当性を確立するために現代史の見直しや清算を進めてきたが、盧武鉉はこれを一歩進めて日韓併合や日本統治時代の親日派、朝鮮戦争時の韓国軍による民間人虐殺、軍事政権下での人権抑圧事件の真相究明を主張した。韓国国会は過去清算に関わる立法を進め、金泳三・金大中政権で成立したものを含めて13の特別法が効力を持つことになった。また、これらの法律を総括するために、植民地時代から軍事政権期にいたる全ての事案に適用して真相究明や責任の追及、補償を行うための過去史基本法(真実・和解のための過去史整理基本法)を成立させた[20]。
2006年3月20日、全斗煥元大統領ら170人の叙勲を取り消す[21]。
外交[編集]
対北朝鮮政策においては太陽政策を継承し、北朝鮮に対しては宥和的な姿勢で臨んだ。独自外交路線を推し進め、米韓同盟を見直しつつ、日本とは一定の距離を置いた。
日本[編集]
日本との主な外交問題については日本海呼称問題、竹島問題、靖国神社参拝問題、歴史教科書問題を参照
就任当初は「未来志向」を謳い、日本と良好な関係を結ぶと期待された。初めての訪日が顕忠日という殉国者に敬意を払う日と重なり批判を浴びたが、盧武鉉は「私たちはいつまでも過去の足かせに囚われているわけにはいかない」[22]と主張して、訪日の重要性を強調した。日韓首脳が頻繁に会談し意見交換する必要があるとの認識から、当時の日本の首相である小泉純一郎との間でシャトル首脳会談を推進することで合意し、相互を往復して会談を重ねた。
しかし従来から日本と韓国の間にあった双方が必要に応じて棚上げしてきた問題について、人権派弁護士として軍部独裁に反対する学生とともに歩んだ盧武鉉は文民政権の正当性を確立するために歴史の清算にこだわったが、小泉には通じなかった。盧武鉉は期待を裏切られたと感じて失望していった[23]。
2005年3月、盧武鉉は三・一節の演説で日本に植民地支配への明確な謝罪と反省、賠償を要求し、ついに対日強硬政策へと舵をきった。丁度この時期は小泉首相が靖国参拝をやめずに常任理事国入りを目指しており、韓国の反日感情を刺激させていた。しかし演説への論評を求められた小泉は盧武鉉の発言は国内向けと応じて取り合わなかった[24]。両者の亀裂は決定的なものとなり、盧武鉉は「外交戦争も辞さない」という強い表現で日本への批判を続け、最終的には小泉の靖国神社参拝を理由として首脳会談を中止した。日本の左派系大手マスコミは日韓関係の悪化の責を小泉に求めたが、小泉はこれを容れず、また北朝鮮による拉致が明らかになることで変化した日本の世論も、小泉を支持した。日韓シャトル外交も以後中止となった。
盧武鉉政権では日本統治時代の「親日派」の子孫を排斥弾圧する法律(日帝強占下反民族行為真相糾明に関する特別法及び親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法)が施行され、この法律は明らかに法の不遡及の原則に反しており、憲法違反である。そのためか韓国のメディアや親日派名簿のリストに載った者からは批判を受けた。
2006年4月25日に盧武鉉は特別談話を発して、日本にこれ以上の新たな謝罪を求めないとしながらも、幾度か行われた謝罪に見合った行動を求めた[25]。
2006年7月5日には竹島(韓国名:独島)周辺の日本の排他的経済水域および領海内で、韓国船が日本の抗議を無視し海洋調査を行った。日本が海洋調査を実施しようとした際には「武力行使もありうる。国際法上合法だというならば、そんな国際法に意味はあるのか」[26]と猛反発したことから、一連の動きは露骨な対決姿勢の表れとみなされ、日本との外交関係は更に悪化した。同日に北朝鮮が行ったミサイル乱射に対しても両国は連携できず、国連安保理での制裁議論に際して、日本は韓国に対する配慮を行わなかった。 また、2006年4月21日付のワシントンポストにおいて、盧武鉉政権が海上保安庁の竹島周辺海域海洋調査を阻止するために日本政府への具体的な圧力として、『島根県内の防衛庁(現防衛省)施設』に対する軍事攻撃を検討していたことが明らかとなり、仮に攻撃が行なわれたとして自衛隊との軍事的衝突はおろか、国際的な非難と信用の失墜及び最悪経済制裁を受けていた可能性もあっただけに、韓国国内からも盧武鉉政権の独断ぶりに憂慮の声が強く挙がった[27]。
2006年10月9日、小泉のあとを受けて首相に就任した安倍晋三とのあいだで約11カ月ぶりに日韓首脳会談が行われた。しかし盧武鉉は同日に北朝鮮による地下核実験があったにも関わらず、会談時間の半分近くを歴史認識問題に割いたために両国の溝は埋まらず、共同文書の発表に至らなかった[28]。
2007年1月、盧武鉉が前年ハノイで行われた安倍との会談の席で、日本海呼称問題の解決のために日本海(韓国名「東海」)を、日韓どちらの名称でもなく新しく「平和の海」と呼称するよう提案し、即座に拒否されたことが報じられた。この提案は政府内の調整を経ておらず、国際社会に「東海」への改名を働きかけている韓国官民の努力を無にするものであると保守派・右派を中心に非難された[29]。
俳優・草彅剛との対談を行った時は、両国で生中継された。
アメリカ[編集]
盧武鉉は大統領選挙の前から反米主義で知られ、それは選挙戦の間も不利な条件とはならなかった。在韓米軍による女子中学生死亡事故と、北朝鮮に対するブッシュの強硬姿勢によって高まった反米機運が、2002年には一般的だった。盧武鉉は大統領に当選する前「反米だからどうだと言うのだ?」と述べ、それは盧武鉉への支持に繋がると同時に、多くの国民に彼がアメリカとの関係に独立した一線を導くと信じさせた[30]。
しかし大統領就任後、この様な見解が負債として彼に圧し掛かった。韓国の保守派とアメリカは疑念を抱き、反共の野党ハンナラ党はたびたび盧武鉉を極左として非難した。盧武鉉はこの否定的なイメージを覆すべく、初訪米の際に「もし53年前にアメリカが韓国を助けなかったら私は今ごろ政治犯収容所にいたかもしれない」[31]と発言したが、アメリカからの支持は得られず、発言自体があまりにも自虐的かつ国家的自尊心を侮辱するものとして、国民に受け取られた。そしてこの「転向」はマスコミ向けのポーズをするためだけにアメリカを訪問しないと述べていた大統領選挙戦中の発言と一致せず、一層警戒されることとなった。
盧武鉉がアメリカのイラク戦争を支持して軍を派兵する事を決めた時、多くの国民は裏切られたと感じた。あくまでも平和維持任務であることを説き、北朝鮮の核危機を解決するにあたり、アメリカの支持を得るために派兵が必要なのだと主張したが、反対勢力は盧武鉉をアメリカの傀儡と非難した。
アメリカとの関係は、北朝鮮の核危機が進むにつれ悪化した。アメリカは、韓国の宥和政策はアメリカの強硬政策と両立せず、韓国による北朝鮮への経済援助が、北朝鮮の頑なな態度を強化させて交渉のための協調を傷つける、と繰り返し主張した。
韓国が北東アジアのバランサーの役目を果たすという盧武鉉の宣言は、さらにアメリカを苛立たせた。周辺諸国と案件ごとに選択的協力関係を築くという基本方針は、アメリカが紛争当事者になったときに韓国は中立的立場を維持する可能性があると受け取られた。国防次官補のリチャード・ローレスは露骨に不快感を示し、米韓同盟の役割に疑問を呈した[32]。
盧武鉉は親北、親露政策をとり、共産圏を擁護する発言が見られた。韓国の中央日報が2005年9月に伝えた報道によると、「朝鮮半島分断の責任はどこの国にあるか」というアンケートにおいて、アメリカ53%、日本15.8%、ロシア(ソ連)13.7%、中国8.8%という結果になっている[33]。統一に最も友好的な国としてロシア(37.1%)が挙げられ、反面、最も敵対的な国は米国(44.7%)、日本(28.8%)などの順だった。[34]。ヘリテージ財団のピーター・ブルックス上級研究員はダグラス・マッカーサー将軍の銅像撤去論争に言及して「恩を忘れる者ほど悪いものはない。今週の『恩知らず大賞』は韓国が獲得した」と皮肉った[35]。 ダグ・ベンド米カント研究所研究員は、 「米国において韓国は莫大な費用と犠牲を注ぐほどの 死活的な利益の対象ではない、韓米両国は友好的な決別を準備しなければならない」と述べた。[36]。そのためかアメリカでは嫌韓感情がわきあがり、韓国はアメリカの三番目の敵国と見なされた。
2006年3月、韓国はアメリカとの自由貿易協定(FTA)締結に向けた交渉を開始すると発表した。盧武鉉の元経済政策助言者を含む多くは、政府があまりにも拙速であり韓国経済に否定的な影響を与えると懸念を表明した。そのような反対にも関わらず、盧武鉉は繰り返し自由貿易協定を支持し、それが韓国経済に良い影響を与えると主張した。
アメリカとの伝統的な関係が変化する過程で、戦時作戦統制権[37]の移譲問題が浮上した。盧武鉉はこの問題を「自主国防」という視点で捉えて積極的に推進した。アメリカは当初、韓国にその能力が整っていないと消極的だったが、盧武鉉が「作戦統制権こそ自主国防の核心、自主国防こそが主権国家の花」と政治テーマに掲げて自国のメディアに喧伝する[38]につれ、積極姿勢に転じた。これは、韓国が自国の防衛に主要な責任を持つことはアメリカにとって損とならず、北朝鮮の侵攻を抑止するために朝鮮半島に固定された在韓米軍を抽出して、他の目的に再活用し得ると意識されたことが大きいとされる。 冷却化する米韓同盟に危機感を覚えた歴代の国防長官や退役軍人などの一部が、尹光雄国防長官に戦時作戦統制権の返還推進を中止することを求めたが、この意見は容れられず、10月の米韓定例安保協議会(SCM)で、移譲が正式に決定した。これにより、現在まで韓国の安全保障を担保してきた米韓連合司令部は近い将来に解体され、韓国防衛における在韓米軍は副次的地位に引き下げられることとなった。
2006年9月14日(日本時間15日0時)、盧武鉉は欧州歴訪についでアメリカを訪問し、ブッシュと6回目の首脳会談を行った。冷却化する米韓関係を象徴するようにアメリカのメディアの扱いは冷淡であり、同日付のニューヨーク・タイムズ紙では「米韓関係はここ数ヶ月で『日本海ほど広がった(as wide as the Sea of Japan)』」と評された[39]。また、会談後の共同文書の発表に至らず、一つの時代の終わりと、同盟構造の解体を視野に入れた「白鳥の歌」を世界に知らしめることとなったと評す者もいた[40]。
北朝鮮[編集]
北朝鮮に対しては金大中の太陽政策を引き継ぎ、関与政策と包容政策を継続している。2004年11月にはロサンゼルスで「核とミサイルが外部の脅威から自国を守るための抑制手段だという北朝鮮の主張には一理ある」と述べ[41]、北朝鮮の主張に理解を示した。経済破綻状態にある北朝鮮を安定させるべく、肥料や米などの物質的支援、開城工業団地や金剛山観光開発といった経済的支援を行い、北朝鮮への圧力を強めるアメリカと意見の違いを見せた。
このような盧武鉉の配慮にも関わらず、北朝鮮は2006年7月5日、ミサイルを発射し、盧武鉉の立場を苦しいものとした。しかし、7月9日、政府見解として「果たしてわが国の安保上の危機だったか」「(政府対応が遅れたのは、国民を不安にしないために敢えて)ゆっくり対応した」「敢えて日本のように夜明けからばか騒ぎを起こさなければならない理由は無い」などと、国際社会の見方とは非常に大きな隔たりのある見解を発表し[42]、韓国国内からも批判を受けた(当時、着弾海域付近では韓国漁船が操業していた)。日本政府が国連安全保障理事会へ北朝鮮への制裁決議案を提出した事については強い警戒感を示し、包容政策を継続する韓国政府と、制裁論に向かう日本政府との間で明白なズレが生じた。
7月13日には第19次南北閣僚級会談が決裂。「南は北の先軍政治の恩恵をこうむっている」という恩を仇で返される言葉をもらい、宥和政策の行き詰まりを示す出来事となった。それでも8月15日の第61周年光復節では「決して容易なことではない」としながらも、北朝鮮が過去に行った戦争や拉致を赦すと演説し[43]、宥和的姿勢を維持した。そして同時期に発生した北朝鮮の水害に対する援助として、米、セメント、重機などの支援を行った。
10月9日、北朝鮮は「核実験実施」を発表した。それを受けて国連安全保障理事会は2006年10月15日に制裁決議を採択した。一時は与野党代表や歴代の大統領経験者を集めて意見を聴くといったふらつきを見せたが、その後は従来の路線に立ち戻り、アメリカから求められた対北朝鮮への制裁拡大に同意しないなど、なおも宥和姿勢を継続する意思を明らかにしている。
中国[編集]
「北東アジアバランサー論」に沿って、日本や伝統的な同盟国であるアメリカとの関係を見直しながら、中国との接近を図っている。北朝鮮の核開発問題では宥和的姿勢で協調し、また靖国神社問題や歴史教科書問題では暗黙の共闘を演じた。2006年11月には、自由貿易協定(FTA)締結に向けた交渉を始めることで合意している。
中国の推進する東北工程では高句麗を古代中国の地方政権と見なし、これを自国の歴史の一部であるとする韓国側と意見の相違がある。2004年には、中国外交部がこれまで韓国の歴史として紹介していた高句麗の記述をホームページから削除し、韓国政府がこれに抗議するという騒ぎが起こった[44]。しかしその後、両国外交部の間で「民間レベルの学術討論で解決していき、政治問題としない」という口頭の合意を交わして関係の修復を図った。この合意は2006年10月に盧武鉉が中国を訪問した際にも、胡錦涛国家主席との間で再確認された[45]。
大統領退任後と死[編集]
退任後は故郷に戻り、金海市の生家近くに新居を建設した(盧武鉉タウン)。李明博政権の不人気で、インターネット上での再評価が進んだ。
一方で、国庫補助金で地熱を利用した冷暖房設備を設置していたことが報道され、非難の的となった。[46]
不正献金疑惑[編集]
退任後、盧武鉉の側近・親族が相次いで逮捕された。2008年11月、盧武鉉政権の側近の一人が贈賄容疑で逮捕された。また、盧武鉉の兄盧建平が証券会社「世宗証券」の買収を韓国農協幹部に働きかけ、約20億ウォン(約1億3000万円)相当の見返りを得ていた疑惑が浮上し[47]、後に逮捕された。兄の盧建平は、逮捕されるまでは「ポンハ大君」「大先生」「慶南大統領」と呼ばれていた[48]。2004年に朴淵次泰光実業会長に対して慶尚南道知事補欠選挙に出馬したヨルリン・ウリ党候補を全面的に支援するよう要請し、8億ウォン(約5700万円)を出させた[48]。2005年の4・30補欠選挙では、5億ウォン(約3600万円)を同じように出させた[48]。2006年1月には農協による世宗証券の買収にも介入し、30億ウォン(約2億2000万円)近い裏金を自らの懐に入れたことも分かっている[48]。2009年8月25日、盧武鉉の秘書官が大統領特殊活動費を着服したことや盧武鉉の支援者から金品を受け取ったことで横領と収賄罪で懲役6年の実刑判決を受けた[49]。
さらに盧武鉉自身も捜査対象となり、2009年4月30日には韓国最高検察庁が合計600万ドル(約6億円)を超える不正資金疑惑について、包括収賄罪の容疑で本人に事情聴取を行なった[50]。盧武鉉支持派の人々は一連の捜査を李明博政権下でおきたスキャンダルに対する煙幕だとして抗議している。
死去[編集]
その後、盧の逮捕も近いのではと思われていた矢先の同年5月23日早朝、慶尚南道の金海市郊外の烽下村にある自宅の裏山のミミズク岩と呼ばれる岩崖から投身自殺を図り、頭部を強打するなどして3時間後に死去した[51]。先の事情聴取から1ヶ月足らずの出来事であり、韓国の報道機関は一般の番組を中断して特別報道番組を組むなど、韓国内に大きな衝撃を与えた。
これに際して、盧が常用したとされるPCから自身が書いたと思われる遺書が発見され、その全文が公開されている。「非常に多くの人に面倒をかけた。(以下略)」と、上記の贈賄疑惑に関する心境が書かれていた[52]。尚、その内容については、全文公開以前の側近により一部公表されていたものとは、大きく文面が異なる部分もあった[53]。
韓国国民の56%が李明博大統領は盧武鉉前大統領の死について謝罪するべきだとしている[54]。6月3日には、学界からはソウル大学教授124名が李明博大統領に謝罪を求める宣言文を出し、中央大学教授68人も謝罪と総辞職を求める宣言を出した[55][56]。同日、林采珍検察総長が辞表を提出することとなり、「原則と正道、節制と品格に基づいた正しい捜査、政治的不公正論争のない公正な捜査で、国民の信頼を一段階高めようとしたが、力不足だった」などとした声明も出した[57]。
葬儀[編集]
盧武鉉前大統領の死去に対する韓国社会の反響は大きく、遺体が安置された慶尚南道金海市郊外の烽下村には連日多数の弔問客が詰め掛け、死亡当日の5月23日から28日までの6日間の弔問客の数は100万人を超えた[58]。韓国の大手サイト(ネイバー、ダウム、ネート、Yahoo!、Google、MSN)では、トップのロゴを白黒に差し替え、特設ページも設けた。また、エヌシー・ソフトは5月29日の午前10時から午後5時まで全てのゲームのサービスを一時停止とし、オンラインゴルフゲーム『スカッとゴルフ パンヤ』も白黒背景と献花に差し替えた。
一方、韓国政府は、5月24日の臨時閣議で、盧前大統領の葬儀を国葬に次ぐ格式の「国民葬」として執り行うことを決定し、国民葬の期間を23日から29日の7日間に定めた[59]。5月26日、韓国行政安全部が告別式の日時と会場を正式に発表- ↑ 『韓国の希望 盧武鉉の夢』、115-116頁及び134頁。盧武鉉が貧しさ故に高卒で社会に出たこと、就職に失敗して独学で弁護士の道を志すようになったことは、盧武鉉の政治家人生における一種の稀少価値となった。
- ↑ 『韓国の希望 盧武鉉の夢』、122頁。
- ↑ この補選は1996年の国会議員選挙で同区から当選した李明博(ハンナラ党)がこの年に行なわれたソウル特別市の市長選挙に出馬するため、議員辞職したことに伴って実施されたが、選挙法違反の裁判で有罪判決が言い渡されたため、李明博はハンナラ党の市長候補を決定するための予備選挙からの撤退を余儀なくされた。
- ↑ 盧武鉉の義父は朝鮮戦争中に北朝鮮側に立って労働党昌原郡党副委員長などを歴任し、反動分子の調査と虐殺に加担したとされる。『「盧大統領の義父はパルチザン」発言が無罪に』、朝鮮日報、2004年10月27日。また、このような李仁済の指摘に対し、盧武鉉は「ならば愛する妻を捨てろというのか」「どうしてそれが問題になるのか」と反論した。
- ↑ 『盧候補がYSを12年ぶりに訪問』、朝鮮日報、2002年4月30日。
- ↑ 『全国で「中学生追悼」のキャンドルデモ』、朝鮮日報、2002年12月15日。
- ↑ 李会昌が6%の経済成長を公約に掲げたため、対抗して7%という数字を出したといわれている。『7%成長公約を「腹が立って」出したとは』、朝鮮日報、2004年11月5日。
- ↑ 『鄭夢準氏、盧候補の支持を撤回』、朝鮮日報、2002年12月18日。
- ↑ 『盧大統領「不法資金がハンナラ党の10分1超えれば辞任」』、朝鮮日報、2003年12月14日。
- ↑ 『盧大統領と尹前長官、出会いから別れまで』、朝鮮日報、2004年1月15日。
- ↑ 金浩鎮『韓国歴代大統領とリーダーシップ』小針進・羅京訳、柘植書房新社、2008年、346-347頁。ISBN 978-4-8068-0574-8。
- ↑ 『盧大統領・朴槿惠代表会談、合意なく終了』、朝鮮日報、2005年9月8日。
- ↑ 2006年10月24日に韓国社会世論研究所が行った調査では12.9%まで下落している。『盧大統領、今の支持率では核問題への対応困難』、朝鮮日報、2006年10月28日。
- ↑ 『大統領任期発言:その内容とは』、朝鮮日報、2006年11月29日
- ↑ 『「私は正気」盧大統領、演壇叩いて70分「決意に満ちた発言」』、中央日報、2006年12月22日
- ↑ 基幹党員制とは全党大会の1カ月前を基準に、6カ月以上党費を納めた「基幹党員」にのみ、党内選挙権と非選挙権を認めるもの。外部人材の登用が難しくしていると問題視されていた。ウリ党中央委員会は、金槿泰らが率いる非常対策委員会に党憲・党規改訂権を与えていたが、法院はこれを無効とする仮処分を決定した。
- (韓国語)『ヨルリン・ウリ(党)結局割れるか』、ハンギョレ、2007年1月19日。
- (韓国語)『与党参政連(参加政治実践連帯)「基幹党員制」苦心』、ハンギョレ、2007年1月27日。
- 『盧大統領が驚いた韓首相の報告の中身とは』、朝鮮日報/朝鮮日報JNS、2007年1月26日。
- 『新党派の一部「脱党論議は引き続き」』、東亜日報、2007年1月30日。
- ↑ 「実践連帯、北朝鮮の指令で活動していた」 中央日報 2008.10.01
- ↑ 「利敵団体」の嫌疑の「実践連帯」に国民の税金を出した盧武鉉政権 現代コリア 2008.10.28
- ↑ 後に規模を縮小した行政首都移転計画となった。
- ↑ 文京洙 『韓国現代史』、岩波書店、2005年、208頁-217頁。
- ↑ 今日の歴史(3月20日) 聯合ニュース 2009/03/20
- ↑ 『「韓日、過去の足かせから自由になるべき」』、朝鮮日報、2003年6月6日
- ↑ 『「似て非なる」日韓首脳の誤算』、日本経済新聞、2006年9月3日。
- ↑ 『韓日首脳の衝突 発端は小泉首相の「国内向け」発言』、朝鮮日報、2005年3月18日。
- ↑ 『韓日関係についての大統領特別談話文』、駐日韓国大使館、2006年4月25日。
- ↑ 『【海洋調査】盧大統領「第二の侵略行為だ」』、朝鮮日報、2006年4月19日
- ↑ 無論これは大韓民国憲法で定められている第1章「総則」の第5条「大韓民国は国際平和の維持に努力し、侵略戦争を否認する」に違反する。
- ↑ 『盧大統領 歴史認識にこだわり』、毎日新聞、2006年10月10日。
- ↑ 『「平和の海」発言:韓国政府内で事前協議はあったのか』、朝鮮日報/朝鮮日報JNS、2007年1月9日。
- ↑ 2002年9月11日の講演における発言。新千年民主党の大統領候補であった盧武鉉は、韓国の大統領候補者が行ってきたアメリカ訪問を拒否し、「アメリカに行ったことがない、ということは反米主義者を意味するのか。もしそうなら、反米主義者でもいいのではないか」と語った。劉敏鎬 『反米と親米との間-盧武鉉新大統領』、独立行政法人経済産業研究所、2003年1月20日。
- ↑ 2003年5月12日、コリアソサイアティー主催の夕食会における発言。『【韓米首脳会談】盧大統領の対北観変わったか』、朝鮮日報、2003年5月15日。
- ↑ ローレスは盧武鉉のバランサー発言を受けて駐米韓国大使館を訪れ、「北東アジアのバランサー論は韓米同盟と両立できない概念だ。もし同盟を変えたければいつでも言ってくれ。希望通りにする」と発言したという。『ローレス米国防部次官補「韓米同盟変えたい時はいつでも言ってくれ」』、朝鮮日報/朝鮮日報JNS、2005年6月10日。
- ↑ [1]
- ↑ [2]
- ↑ [3]
- ↑ [4]
- ↑ 作戦統制権とは作戦計画や作戦命令に明示されている任務を遂行する為に、司令部と部隊を組織し、その部隊を使用する権限。アメリカが、朝鮮半島有事の際の統制権を握っている。作戦統制権は主権に関わる指揮権とは異なり兵站・行政・規律・内部組織・部隊訓練に関する権限は含まない。詳しくは等 雄一郎他 『国連安保理決議に基づく多国籍軍の「指揮権」規定とその実態』、『調査と情報』第453号、4頁、国立国会図書館、2004年8月2日、を参照のこと。
- 韓国は朝鮮戦争中に、韓国初代大統領の李承晩が当時の元帥ダグラス・マッカーサーに「韓国陸海空軍に対する指揮権移譲に関する書簡」を送り(1950年7月15日)、作戦指揮権(全ての指揮権)を在韓米軍(国連軍)に移譲した。そしてそれは米韓相互防衛条約(1954年)で作戦統制権に改められた。平時作戦統制権は1994年12月に韓国政府に移譲されたが、戦時においては現在もなお米韓連合軍司令官(在韓米軍司令官)が行使することとなっている。
- 本来であれば国防を果たすためにどのような手段を採るか、(作戦統制権の)単独行使と共同行使のどちらが戦力を効率的に運用できるかという議論なのだが、韓国では上記のような歴史的経緯から「失われた国権の回復」という政治課題となっている。事実、金泳三政権下での平時作戦統制権の移譲においても「返還」という言葉が使われた。『戦時作戦統制権返還の主な争点に関するQ&A』、駐日大韓民国大使館、2006年8月12日。
- ↑ 『盧武鉉大統領、聯合ニュースとの特別会見(1)戦時作戦統制権』、駐日大韓民国大使館、2006年8月9日。
- ↑ David E. Sanger, "U.S. to Roll Out Tepid Welcome For President Of South Korea", The New York Times, Sep 14th, 2006. 日本とアメリカは太平洋を隔てて同一の立場であるという暗喩が込められている。
- ↑ Sung-Yoon Lee, "Korea-US: Swan song for an alliance", Asia Times, Sep 16th, 2006.
- ↑ 『盧大統領の米国批判性演説 各界で影響を懸念』、朝鮮日報/朝鮮日報JNS、2004年11月14日。「ロサンゼルス発言」と言われることもある。
- ↑ (韓国語)『安保独裁時代の亡霊から脱しよう』、青瓦台広報主席室、2006年7月9日。
- ↑ 『盧大統領「北朝鮮の過誤…長い目で許そう」』、東亜日報、2006年8月16日。
- ↑ 『ネットから「高句麗」を消した狭小な中国』、朝鮮日報/朝鮮日報JNS、2004年7月9日。
- ↑ 『高句麗史問題、韓中が「思慮深い措置」で合意』、聯合ニュース、2006年10月13日。
- ↑ 盧大統領、退任後の私邸に国庫補助金で冷暖房設備設置 朝鮮日報、2007年10月13日。
- ↑ 盧武鉉前大統領の実兄に不正疑惑、週末にも事情聴取へ読売新聞
- ↑ 48.0 48.1 48.2 48.3 社説 田舎者といわれた盧前大統領の兄の真の姿 朝鮮日報 2009/03/26 閲覧
- ↑ 盧武鉉氏側近に懲役6年 特殊活動費を着服 産経ニュース 2009.8.25
- ↑ 『朝日新聞』2009年5月1日、東京版朝刊、11頁。
- ↑ 『盧前大統領は私邸裏山の岩から投身、警察会見』 聯合ニュース、2009年5月23日
- ↑ 『<盧前大統領逝去>遺書全文』聯合ニュース、2009年5月23日
- ↑ 『盧前大統領の遺書、一部公表』 朝鮮日報、2009年5月23日
- ↑ More than half of Koreans believe President Lee must apologize for Roh’s death Hankyoreh Jun.1,2009
- ↑ 盧前大統領死去:ソウル大教授124人、政府に謝罪要求 朝鮮日報 2009/06/04付 閲覧
- ↑ 【盧前大統領逝去】ソウル大教授、李明博政府に謝罪を要求 中央日報 2009.06.04
- ↑ [5] 中央日報 2009.06.04
- ↑ 水沼啓子 「【盧前大統領死亡】自宅がある村への弔問客100万人を突破」 産経新聞2009年5月29日付. 2009年6月15日閲覧.
- ↑ 水沼啓子 「【盧前大統領死亡】韓国政府、国民葬を決定」 産経新聞2009年5月24日付. 2009年6月14日閲覧.