石破二朗
石破 二朗(いしば じろう、明治41年(1908年)7月29日 - 昭和56年(1981年)9月16日)は、日本の内務(建設)官僚、政治家。正三位勲一等。元参議院議員。
鳥取県知事(第40代から4期連続)。鈴木善幸内閣において、自治大臣(第28代)兼国家公安委員会委員長(第38代)。
政治家石破茂の実父。
略年譜
- 3月 - 殿尋常高等小学校尋常科卒業
- 3月 - 鳥取県立第一中学校四年修了
- 3月 - 高知高等学校文科甲類卒業
- 12月 - 兼任社会局属保険部勤務
- 9月 - 福岡県属学務部社会課長
- 6月 - 地方警視高等官七等、山形県警察部勤務、警察部保安課長
- 7月 - 従七位
- 5月 - 地方事務官宮城県勤務
- 7月 - 高等官六等
- 8月 - 学務部教育課長兼社会教育課長、正七位
- 12月 - 厚生事務官失業対策部勤務
- 1月 - 職業部勤務
- 4月 - 勲六等瑞宝章
- 7月 - 高等官五等
- 8月 - 従六位
- 11月 - 紀元二千六百年祝典記念章
- 1月 - 職業局技能課勤務
- 3月 - 北海道庁拓殖部長、第二五軍軍政部
- 9月 - 高等官四等
- 12月 - 正六位
- 2月 - 勲五等瑞宝章
- 3月 - 陸軍司政官 昭南軍政監部
- 10月 - 高等官三等
- 11月 - 従五位
- 5月 - 内地上陸内務事務官二級、大臣官房勤務
- 7月 - 総理庁事務官、戦災復興院総裁官房勤務
- 8月 - 戦災復興院特別建設局業務部総務課長 業務部長心得
- 9月 - 業務部物資課長兼務
- 12月 - 特別調達庁勤務
- 1月 - 調整局次長
- 7月 - 契約局次長
- 6月 - 事業部長
- 4月 - 労務管財部長
- 7月 - 建設事務官建設省監察官
- 4月 - 建設省都市局長
- 8月 - 建設大臣官房長
- 7月 - 住宅局長に併任
- 11月 - 建設事務次官
- 11月 - 鳥取県知事に再任
- 4月 - 日米知事相互訪問計画にもとづく昭和三十九年度日本側知事代表として訪米 南米における移民状況視察
- 12月 - 日本赤十字社鳥取県支部長
- 8月 - ソ連邦対外友好文化連絡協会連盟及び「ソ日」協会の招きによりソビエト国民生活視察のためソビエト連邦訪問
- 11月 - 鳥取県知事に再任
- 12月 - 特殊地域農業振興対策審議会委員
- 11月 - 鳥取県知事に再任
- 2月 - 鳥取県知事辞任
- 7月 - 参議院議員当選
- 12月 - 国土開発幹線自動車道建設審議会委員
- 11月 - 外務委員長
人物像
以下は『回想録 石破二朗 追想篇』より抜粋
清貧と努力の人である[1]。
農本思想の持ち主である[2]。
故郷を忘れず義と理に厚い[4]。
元衆議院議員の山本幸雄は「石破さんといえば、われわれ旧内務省の後輩では“こわい人”で通っていた。…めったなことに笑わない、いつもあごを引いてきびしい表情で真実を探求せずばやまないといった感じを受けた…」と記している[6]。
秘書をつとめていた高岩迪資によると、長男茂が誕生した際、二朗は「年寄り子で恥ずかしい」といって病院に行きたがらなかった。そこで高岩が代理として用足しに出掛ける。このため病院側では、高岩が茂の父親かと間違えることが何度かあったという。[8]
政治家田中角栄に心酔していた。安田貞栄境港市長(第3代)が石破に「貴方は元気である限り本県県政を担当願うことが県民のためになると思う。それ程貴方を高くかっておるが東京では田中派に属しておることが釈然としませんね」と言った時「君は田中という人を知らんからだ。実は自分が初めて鳥取県知事に立候補して現職知事との一騎打ちのきびしい選挙を戦い当落の決まる夜娘2人が東京の家でラジオの報道をはらはらした心持ちで聞いておるときに田中さんは心配だろうと娘たちと一緒に炬燵にあたって一喜一憂してくれたのだ。当選がきまったら「これでお二人とも安心だね」と言って帰ったそうだ。これに心を打たれるではないか。付け焼刃でできることではない」と述べた[9]。
昭和30年(1955年)、友人である田中角栄から東京都知事選挙に出馬するように請われたが、「東京都知事にはならない、鳥取県知事に請われればなる意志がある。」と答えた。角栄は「何故日本で一番小さい鳥取県の知事を望むのだ。」と尋ねると「私は鳥取県人である、鳥取に生まれ育ち、そして死ぬのである。小さくとも我が県は鳥取県である。」と明快に答えた。角栄は「君が郷土を思う至情に打たれた。」と書いている[10]。
栄典
家族 親族
系譜
臼井宗 ┃ ┏娘 石破常七━━石破市造━━┫ ┗石破二朗 ┃ ┣━━━━石破茂 ┃ ┏金森太郎━━和子 ┃ ┣金森次郎 ┃ 金森通倫━╋金森五郎 ┃ ┣金森九郎 ┃ ┗娘 ┃ 東ヶ崎潔
参考文献
- 『回想録 石破二朗 追想篇』 石破二朗回想録刊行会 1982年
- 森納 『続因伯の医師たち』 90頁
関連項目
関連人物
脚注
- ↑ 同 14頁
- ↑ 同 14-15頁
- ↑ 同 15頁 - 東京生活中毎週末帰省、病弱中の夫人を見舞い、故郷の神社参詣、父祖の墓参りを欠かしたことはなかった。参院選の時、「私は鳥取県の人間である。鳥取に住み、鳥取に墓をつくる」と述べた
- ↑ 同 15-16頁
- ↑ 同 16頁
- ↑ 同 613-614頁
- ↑ 同 670頁
- ↑ 同 171頁
- ↑ 同 545-546頁
- ↑ 同 697頁
- ↑ 臼井家はもと高田姓を名のっていた。八東郡下私都村峰寺に代々医を業として住み、御殿医として藩に仕えたこともあった。臼井家8代目当主・宗は教職につき丹比小学校長等をつとめた。宗の妻は石破二朗の長姉である。9代目当主・宗雄は鳥取市で眼科医院を開業している(『続因伯の医師たち』 88-90頁)
- ↑ 鶴田憲治は著書『因伯青春の譜』の中で市造について、「…数期にわたり大御門村の村長をつとめた篤実厳格な人、とくに子供の教育には熱心だった」と書いている(『回想録 石破二朗 追想篇』682頁)。二朗は父市造について「若い時から物好きだったと見えまして、他にさきがけて山を拓いて二十世紀梨を作ったり、御所柿を植えたり、蚕種の製造をやったりなどしておりましたが、どれも成功とまではいかず随分母を困らせていたようでありました。それでもどこか良いところがあったと見えまして、後年中田政美さんが“君のおとうさんは君より偉かった”と仰言って下さったことがありました。中田さんは御承知の通り、建設事務次官をおやりになり、衆議院議員をなさった方ですが、若い時八頭郡役所にお勤めになった当時、父との御交際があった由であります。事実子供の私の方が出来が悪かったかと思いますが、兎に角有難い父であったと思います。」と書いている(『回想録 石破二朗 追想篇』683頁)
外部リンク
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