玉音放送
玉音放送(ぎょくおんほうそう)とは天皇の肉声(玉音)を放送することをいう。特に1945年(昭和20年)8月15日正午(日本時間)にラジオ放送された、昭和天皇による終戦の詔書(大東亜戦争終結ノ詔書、戦争終結ニ関スル詔書)の音読放送を指すことが多い。この玉音放送は、太平洋戦争(大東亜戦争)における日本の降伏を国民に伝える意味を有した。
概説
1945年(昭和20年)8月14日、御前会議においてポツダム宣言の受諾が決定された。ポツダム宣言は「全日本国軍隊ノ無条件降伏」(同宣言13条)などを定めていたため、その受諾は太平洋戦争(大東亜戦争)において日本が降伏することを意味した。御前会議での決定を受けて同日夜、詔書案が閣議にかけられ若干の修正を加えて文言を確定した。詔書案はそのまま昭和天皇によって裁可され、終戦の詔書(大東亜戦争終結ノ詔書、戦争終結ニ関スル詔書)として発布された。この詔書は、天皇大権に基づいてポツダム宣言の受諾に関する勅旨を国民に宣布する文書である。ポツダム宣言受諾に関する詔書が発布されたことは、中立国のスイスを通じて連合国側に伝えられた。
昭和天皇は詔書を朗読してレコード盤に録音させ[1]、翌15日正午よりラジオ放送により国民に詔書の内容を広く告げることとした。この玉音放送は法制上の効力を特に持つものではないが天皇が敗戦の事実を直接国民に伝え、これを諭旨するという意味では強い影響力を持っていたと言える。当時より、敗戦の象徴的事象として考えられてきた。鈴木貫太郎首相以下による御前会議の後も陸軍の一部には徹底抗戦を唱え、放送用の録音レコードをクーデター的に奪取しようとする動きがあり録音を行った日本放送協会(NHK)職員が拘束されたが失敗に終わった(宮城事件)。
前日には予め「15日正午より重大発表あり」という旨の報道(ニュース)があり、また当日朝にはそれが天皇自ら行う放送であり正午には必ず国民はこれを聴くようにとの注意が行われた。当時は電力事情悪化のため間欠送電となっている地域もあったが、この時は特別に全国で送電される事にもなっていた。また当日の朝刊は放送終了後以降の午後に配達される特別措置が採られた。
正午に放送開始。日本放送協会の和田信賢放送員によるアナウンスが先ずあり、聴衆に起立を求めた。続いて下村宏情報局総裁が天皇自らの勅語朗読である事を説明し、君が代の演奏。その後4分余りの勅語朗読が放送され、再度君が代の演奏。続いて「終戦の詔書をうけての内閣告諭」等の補足的文書のアナウンスが行われた。
放送は玉音盤(ぎょくおんばん)と呼ばれるアセテート盤(アルミニウム製の心材をセルロースの化合物でコーティングしたもの)レコード録音によるものであったが劣悪なラジオの所為で音質が極めて悪い上に天皇の朗読に独特の節回し(天皇が自ら執り行う宮中祭祀の祝詞の節回しに起因するという)があり、また詔書の中に難解な漢語が相当数含まれていた為に論旨はよく解らなかったという人々の証言が多い。朗読やそれを聴く周囲の人々の雰囲気、玉音放送の後の解説等で事情を把握した人が大半だった。また殆どの国民にとって天皇の肉声を聴くのはこれが初めての機会であった為に、天皇の声の異様さ(朗読の節、声の高さ等)に驚いたというのもしばしば語られる事である。また沖縄で玉音を聞いたアメリカ兵が日本人捕虜に「これは本当にヒロヒトの声か?」と訊ねるも、答えられる者は誰一人居なかったというエピソードがある。
玉音放送において「朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ」(私は米英支ソ4国へ共同宣言を受け入れると帝国政府に通告させた)という文言が「日本政府はポツダム宣言を受諾し降伏する」ことを表明する最も重要な主題ではあるが多くの日本国民においては「堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ」という部分が戦時中の困苦と今後への不安を喚起させ、とくに印象づけられて有名である[2]。
なおラジオ放送のマイクが天皇の肉声を意図せず拾ってしまい、これが放送されるというアクシデントが1928年(昭和3年)12月2日の大礼観兵式に一度おこっているが天皇の声が電波に乗って正式に放送されたのはこれが最初である。その後宮中筋は天皇の肉声を放送する事は憚り(はばかり)ありとして極端にこれを警戒し、結局戦争の終結まで公式に玉音放送が行われたのはこの1945年(昭和20年)8月15日一度きりであった。
終戦詔書
終戦詔書は大東亜戦争終結ノ詔書とも呼ばれ、8月14日付けで詔として発布された。大まかな内容は内閣書記官長・迫水久常が作成し8月9日以降に漢学者・川田瑞穂(内閣嘱託)が起草、更に14日に安岡正篤(大東亜省顧問)が加筆して完成し同日の内に天皇の裁可があった。大臣副署は当時の首相・鈴木貫太郎以下16名。
喫緊の間かつ極めて秘密裡に作業が行われた為に起草、正本の作成に充分な時間がなく、現在残る詔書正本にも補入や誤脱に紙を貼って訂正を行った跡が見られるという異例な詔勅である。
録音と放送
終戦詔書を天皇の肉声によって朗読し、これを放送する事で国民に諭旨するという着想は情報局次長・久富達夫が下村宏総裁に提案したものというのが通説である。
録音作業は詔書裁可後、23時20分頃から始められた。作業に当ってはあらかじめ昼すぎに宮内省の出頭命令を受けて日本放送協会から録音班8名が呼ばれており、機器を2台用意して2回のテイクにより玉音盤は合計2種4枚(1テイクが2枚となる理由は後述)製作された。一説には、2度目のテイクを録ることとなったのは試聴した天皇自身の発案(声が低かった、あるいは小さかったため)ともいう。作業は翌日1時頃までかかって終了し、レコードは徳川義寛侍従により皇后宮職事務官室の軽金庫へ保管された。
日本電気音響(後のデノン)製のDP-17-K可搬型円盤録音機によって、同じく電音製のセルロース製SP盤に録音された。この録音盤は1枚で3分間しか録音できず、約5分間分の玉音放送は2枚に渡って録音された。
当日正午の時報の後、重大放送の説明を行ったのは日本放送協会の和田信賢アナウンサー。
オリジナル原盤(「玉音盤」)が戦後しばらく所在不明とされていたため、玉音放送の資料音声は公式には現存していないことになっていた(この件に関しては、真偽のほどは不明ながら、放送を恥辱と考えた宮中筋による隠匿説もある)。しかし玉音放送から1年後、レコードを押収したアメリカ軍が玉音放送録音に参加した日本放送協会の技師に返却されたレコードを私的にレコードにコピーしていたことが判明しこれにより玉音放送は散逸を免れることとなった。現在ドキュメンタリー番組などで耳にすることのできる玉音放送の音声は、この音源が出典である[3]。
のちに発見された玉音盤はNHK放送博物館に収蔵され、現在は窒素ガスを充填したケースで厳密な温度・湿度管理のもと保管、展示されている。但し録音したレコードは1年で劣化するレコードであり保存状態は悪く、実際の再生は困難であるとされている。
国際放送では平川唯一が厳格な文語体による英語訳文書を朗読し、国外向けに放送した。
その他
- 宮脇俊三の『時刻表2万キロ』・『時刻表昭和史』では父・宮脇長吉と今泉駅で玉音放送を聴くが、その際も鉄道が動いていた事が描写されている。
- 佐伯達夫(後の高校野球連盟会長)は玉音放送を聴いた瞬間、「これで中等学校野球(現・高校野球)が復活するぞ!!」と閃き連盟設立に奔走するきっかけとなったのは有名である。
- 佐藤卓己の著書『八月十五日の神話』(ちくま新書・2005年(平成17年))では、「当時の人々は、玉音放送の内容を理解できなかった(後に流されたアナウンサーの解説で理解した)」「報道機関には前もって日本の敗戦が知らされ、記者は“敗戦を知ってうなだれるポーズ”を撮影した写真を、放送前にあらかじめ準備した」といったエピソードも紹介されている。
- 台湾では日本人が将来に不安を抱いていた中、台湾人は祖国復帰が叶ったとあって歓喜に沸いた。
脚注
関連項目
外部リンク
- 開戦と終戦 - 開戦の臨時ニュースと終戦の詔書を、文字と音声で確認できる。
- デノン Premium Audio Brand - 歴史のページで玉音盤の録音に使用された機材の写真等が掲載されている。
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