姚広孝

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姚 広孝(よう こうこう、1335年 - 1418年3月)は、中国家臣僧侶永楽帝参謀。元の名は道衍(どうえん)といい、斯道(しどう)という[1]。永楽帝の参謀としてその覇業に貢献した参謀として知られる。姉が少なくとも1人いる。

生涯

長洲(現在の江蘇省蘇州)の出身[2]。幼名は姚天禧(ようてんき)[3]。実家は医者の家柄で、姚天禧は子供の頃から深い洞察力と抜群の記憶力の持ち主だった[3]。姚天禧は家業を継ぐことを嫌い、14歳の時に仏門に入って道衍と号した[3]。ただし道衍は仏教にとどまらず道教にも関心を示し、当時の有名な導師である席応真の門を叩いて陰陽道兵法を学んだ[3]嵩山寺に遊学した際に人相を見ることで知られた袁珙から「異形の僧侶、眼は三角で形は病める虎に似て、その性は殺人を好み、まさに劉秉忠の生まれ変わり」と評された[3]。僧侶にとっては不名誉な評価のはずだが、道衍は大いに喜んだという[3]

この評価を受けた後、道衍は仏教界に対する興味を失い、政治への関心を高めていった[4]1368年朱元璋が洪武帝として即位すると、試礼部の儒書僧として任官するように求められたが固辞し、洪武帝から送られた僧服まで返還して北固山に入った[4]。そして詩を賦し、古を懐かしむことに没頭した[4]。その様子を見た先輩の友人僧が「何を考えているのか」と尋ねると「何も考えておらぬ」と答えたという[4]

1382年孝慈高皇后馬氏が死去すると洪武帝は追善の法会を開いて高僧を選んで諸王に侍して読教させたが、この際の諸王に当時の王であった朱棣がおり、高僧の中に道衍がいた[5][6]。朱棣はすぐに道衍と気が合い自分の参謀に迎えたが、この際に道衍は「貴方に一白帽を奉りて燕王様がために戴かせましょう」と述べた[7]。王の字の上に白を冠すると「皇」となり、つまり「貴方様を皇帝にしてみせる」と言ったのである[7]

姚広孝は燕王の拠点である北平(現在の北京)に入ると、北平西部の慶寿寺の住職となる。ただし寺は留守にすることが多く、寺務などはせずに燕王府に入って政治をするのがもっぱらだった。1390年北元遠征の際に朱棣に対して兄の晋王・朱棡を誘って出兵するように促した。朱棡は凡庸な兄で足手纏いだと朱棣は言ったが、道衍はだからこそ貴方様の武功が一段と輝いて評価されると述べた。この遠征で功績を立てた朱棣は洪武帝の信任を得ることになった[8][9]

なお、この燕王の時代に道衍は宦官だった馬三宝を朱棣に推挙した。この馬三宝は後の鄭和である[10][11]

1398年閏5月に光武帝が崩御すると、朱棣は首都・応天府で行なわれる葬儀に参列しようとした。しかし洪武帝は諸王に対して首都に来ずに封地で喪に服すように遺詔を発しており、また新帝・建文帝の派閥から足留めされた。道衍は遺詔に背くことなどから朱棣を説得して北平に帰還させた[11][12]

建文帝とその側近は年長の叔父である諸王の存在を恐れ、削藩政策を実施し始めた。一番の標的は北元遠征で武功を立てて大実力者となっていた朱棣であり、建文帝の側近である黄子澄らは朱棣の同母弟・朱橚を取り潰して挑発するなどしたが、道衍は常に動くことを諌めてむしろ朱橚を許すように嘆願する訴えを起こした。また洪武帝が宦官を重用することは王朝の癌になることを恐れて政治関与を一切許さず建文帝もそれを継承していたが、道衍は鄭和を使って応天府の宦官と通じ合った[12][13][14][15]

建文帝が即位して1年で5人の王がとり潰され、遂に1399年6月に黄子澄は朱棣を逮捕しようとした。道衍は策を用いて建文帝のスパイとして北平にいた謝貴ら2人を処刑した[16]。道衍は北平の留守を担当しよく守り抜き、兵力や兵糧の輸送を担当した[17]1402年、足かけ4年にわたった靖難の変は朱棣の勝利で終焉し、朱棣は永楽帝として即位した[17][18]

永楽帝が即位すると、道衍は僧録左善世を授けられ、僧侶における最高の地位を頂いた[18]1403年6月、故郷で大規模な水害があり、永楽帝は救済のために帰郷を許した[19]。道衍は錦を飾って20年ぶりに帰郷し、実家にいる80歳近い姉に会おうとした[19]。ところが姉は「これはまた大層お偉いお方が、こんなみすぼらしい家に何でおいでになったのでしょう。何かのお間違いではありませんか」と言ったきり戸を閉めて会おうともしなかった[19]。それからも道衍は何度か訪ねてようやく対面できたが、姉はその際「昔の和尚はこんなお人ではなかった。慈愛の心のない人に、私は挨拶する言葉など知りませんよ」と言ったきり、さっと奥に入って再び現れなかった[19]。幼馴染の友人も会おうとせず、薪割りで忙しいと断られ、ようやく会ってくれても近づいてこず何か独り言を呟いていた[19]。その独り言とは「和尚、誤てり」だった[20]。建文帝からの事実上の簒奪はそれだけ評判が悪く、道衍は故郷で悪人に見られていたのであった。

1404年4月、還俗して名を姚広孝と改める[21]。そして永楽帝より太子少師に任命された[21]。ただし還俗しながらも髪を生やすことはなかった[21]。また姚広孝は金銭や物欲には無縁で、永楽帝から受領した金箔などは悉く故郷の顔見知りに分与したが、故郷の人々は遂に姚広孝を温かく迎えることはなかった[21]。ただし永楽帝のみは姚広孝を厚く信任し続けた[21]

姚広孝は文人としての才能にも恵まれ、『太祖実録』や『永楽大典』の編纂も担当した[21]。『道余録』(明初期の代表的僧侶として宋の儒学を批判して仏教を弁護した著書)や『浄土簡要録』(浄土信仰についての著書)などを著した[21]

1418年1月から重病に倒れて朝廷に参内することはかなわなかった[21]。養生は慶寿寺で行ない、永楽帝からの再三にわたる見舞いも受けたが、高齢のこともあり3月に84歳の長寿で没した[21][22]

永楽帝はその死を悼み、僧礼をもって房山県の東北に手厚く葬った[22]。推誠輔国協謀宣力文臣が追贈され、栄禄大夫、上桂国、栄国公に特進した[22]。謚は恭靖[22]

脚注

  1. 伴野朗『中国・鬼謀列伝』、P86
  2. 伴野朗『中国・鬼謀列伝』、P89
  3. 3.0 3.1 3.2 3.3 3.4 3.5 伴野朗『中国・鬼謀列伝』、P90
  4. 4.0 4.1 4.2 4.3 伴野朗『中国・鬼謀列伝』、P92
  5. 伴野朗『中国・鬼謀列伝』、P84
  6. 伴野朗『中国・鬼謀列伝』、P85
  7. 7.0 7.1 伴野朗『中国・鬼謀列伝』、P86
  8. 伴野朗『中国・鬼謀列伝』、P93
  9. 伴野朗『中国・鬼謀列伝』、P94
  10. 伴野朗『中国・鬼謀列伝』、P95
  11. 11.0 11.1 伴野朗『中国・鬼謀列伝』、P96
  12. 12.0 12.1 伴野朗『中国・鬼謀列伝』、P97
  13. 伴野朗『中国・鬼謀列伝』、P98
  14. 伴野朗『中国・鬼謀列伝』、P99
  15. 伴野朗『中国・鬼謀列伝』、P100
  16. 伴野朗『中国・鬼謀列伝』、P103
  17. 17.0 17.1 伴野朗『中国・鬼謀列伝』、P105
  18. 18.0 18.1 伴野朗『中国・鬼謀列伝』、P106
  19. 19.0 19.1 19.2 19.3 19.4 伴野朗『中国・鬼謀列伝』、P107
  20. 伴野朗『中国・鬼謀列伝』、P108
  21. 21.0 21.1 21.2 21.3 21.4 21.5 21.6 21.7 21.8 伴野朗『中国・鬼謀列伝』、P109
  22. 22.0 22.1 22.2 22.3 伴野朗『中国・鬼謀列伝』、P110

参考文献