南京大虐殺

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南京事件(なんきんじけん)は、日中戦争支那事変)初期の1937年日本軍中華民国の首都南京市を占領した際(南京攻略戦)、約6週間から2ヶ月にわたって中国軍便衣兵、敗残兵、捕虜、一般市民などを殺したとされる事件。「南京大虐殺」とも呼ばれる。この事件についてはさまざまな論争が存在している(南京大虐殺論争)。

事件の概要と経緯

南京攻略戦

詳細は 南京攻略戦 を参照

1937年8月9日から始まった第二次上海事変の戦闘に敗れた中国軍は撤退を始め、逃げる行きずりに堅壁清野作戦と称して、民家に押し入り、めぼしいものを略奪したうえで火を放ち、当時、中華民国の首都であった南京を中心として防衛線(複郭陣地)を構築し、抗戦する構えを見せた。日本軍は、撤退する中国軍の追撃を始めたが、兵站が整わない、多分に無理のある進撃であった。蒋介石12月7日に南京を脱出し、後を任された唐生智12月12日に逃亡した。その際、兵を逃げられないようにトーチカの床に鎖で足を縛りつけ、長江への逃げ道になる南京城の邑江門には仲間を撃つことを躊躇しない督戦隊を置いていった[1]。中国軍の複郭陣地を次々と突破した日本軍は、12月9日には南京城を包囲し、翌日正午を期限とする投降勧告を行った。中国軍がこの投降勧告に応じなかったため、日本軍は12月10日より総攻撃を開始。12月13日、南京は陥落した。

南京入城までの両軍の動向

日本側

1937年11月、第二次上海事変に投入された上海派遣軍第10軍は、軍中央の方針を無視して首都 南京に攻め上った。12月1日、軍中央は、現地軍の方針を追認する形で、新たに両軍の上位に編成した中支那方面軍に対し南京攻略命令を下達した。12月8日、中支那方面軍は南京を包囲、12月9日、同軍司令官の松井石根は、中国軍に対し無血開城を勧告した。中国軍が開城勧告に応じなかったため、12月10日、日本軍は進撃を開始し、12月13日に南京城に入城した。なお、当時の上海軍発表によると、南京本防御線攻撃より南京城完全攻略にいたる間、 我が方戦死八百、戦傷四千、 敵方遺棄死体八万四千、捕虜一万五百、鹵獲品・小銃十二万九百・・・である[2]

中国(中華民国)側
ファイル:Hanjian poster in Nanking.jpg
南京市内に掲示された親日的な市民の処刑を宣伝するポスター

1937年11月5日、中国軍は、杭州湾に上陸した日本陸軍第10軍に背後を襲われる形となり、指揮命令系統に混乱を来たしたまま総退却した。11月15日から11月18日にかけて、南京において高級幕僚会議が行われ、トラウトマン和平調停工作の影響の考慮から、南京固守作戦の方針が決まった。11月20日蒋介石は南京防衛司令官に唐生智を任命し、同時に重慶に遷都することを宣言し、暫定首都となる漢口に中央諸機関の移動を始めた。

11月下旬、南京防衛作戦のため、緊急的(場当たり的)な増兵を行なった結果、南京防衛軍の動員兵力は約10万人に達したと言われる(台湾の公刊戦史他)。12月7日、南京郊外の外囲陣地が突破され、南京は日本軍の砲撃の射程内に入り、また、空爆が激しくなってきたことから、蒋介石は南京を離れた。この後、中国軍の戦線は崩壊し続け、12月11日、蒋介石は南京固守を諦め、唐生智に撤退を命令した。一方、唐は死守作戦にこだわったが、12月12日夕方には撤退命令を出した。しかし、すでに命令伝達系統が破壊されつつあり、命令は全軍に伝わらなかった。12月13日、中国軍は総崩れとなった。

一般市民への被害

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南京市内に設けられた避難民地区で日本軍衛生班により施療を受ける市民(1937年12月20日

日本軍入城以前の南京では、日本軍の接近にともなって南京市民が恐慌状態となり、中国人が親日派の中国人、日本人留学生などを「漢奸狩り」と称して殺害する事件が相次いでいた。

日本軍は、南京への進撃中から諸種の残虐行為を行ったと言われ、南京周辺の町村において、被害の報告が挙げられている。また、1937年12月13日の南京陥落の翌日から約6週間にわたって行われた南京城の城内・城外の掃討でも、大規模な残虐行為が行われたと言われている(城内は主に第16師団(師団長:中島今朝吾)が掃討を行った)[3]

市民への暴行・殺傷行為を直接指示する命令書は確認できていないが、南京攻防戦では、民間人と便衣兵の区別がつかないこと、共産党の支持が多い地域であること、戦闘行動をとることに男女幼長の違いがなかったことなどから、少なくない兵士が立地上危険な家屋を焼却する命令、怪しい行動を取る民間人と兵士を殺害をする命令を受けたと証言している[4]。中国人側からは、理由もなく暴行を受けたり、家族や周辺の人々が殺害されたとの証言が出ている[5]

当時南京に残留して南京国際安全区委員長を務めていたジョン・ラーベは、安全区の警護のために残されていた中国軍や発電所の技術者が、日本軍によって大量殺害されたことを記録に書き残している。一方で、ドイツ大使館やイギリス大使館など、報告する大使館によって被害者数が6万人から50人以下まで報告の内容がまちまちであり、全て伝聞の情報を元にした数字であって本人は一度も虐殺とされるものを目撃していないことから、信憑性を疑う説もある[6]

投降者の殺害

ファイル:Field hospital of Nanking.jpg
南京市内の外交部庁舎に設置された野戦病院で日本軍衛生隊によって看護を受ける負傷した中国兵(1937年12月20日

中国軍は南京陥落後に撤退命令を出したが、南京城内外に残された大量の中国軍兵士を撤退させる方法が無く、指揮命令系統の崩壊により組織だった降伏も困難であった。そのため、正規兵も軍服を脱いで便衣兵となり逃走をはかったものがあった。

当時の国際法の観点では、便衣兵は正規の軍人としての交戦権を有しておらず、投降しても捕虜の待遇を受ける資格はなかった。また、捕虜の待遇についても、俘虜の待遇に関する条約ジュネーブ条約)について、中国は1929年7月27日に署名、1935年11月19日に批准していたが、日本は署名のみで批准しておらず、日中双方に捕虜の取り扱いに対する人道上における個別の合意もなかった。ただしこの場合でも批准のあるハーグ陸戦条約の定める捕虜に対する一般的な取り扱いに適法であったかが問われるが、捕虜に認定されるには、正規の軍人である必要があり、便衣兵は投降したゲリラとなり、その取り扱いは当事国の立法(直接には軍令)に従うことになる。これに対して、朝香宮鳩彦王の南京城入場を安全に完遂する目的で捕虜を殺害したという歴史的検証もある。さらに事例の中で検証可能な数万人の殺害については当時の国際法や条約に照らしても不法殺害であるとする説。

日本軍は投降捕虜の安全について明確な軍令を出してはいないが、殺害を事実上黙認していたかのように読める命令を発していたという指摘がある。

第16師団長である中島今朝吾中将は、日記において、「捕虜ハセヌ方針」、即ち捕虜を取らない方針であることを書いている。この方針に基づいて、南京城内外での掃討で、中国軍の中の多くの投降者が殺害されたのではないかと見られている。南京の北方に位置する幕府山では、山田支隊(第65連隊基幹、長・山田栴二少将)が投降者約14,000名を殺害したと言われている。山田少将は上部組織からの命令があったことを日記に書いているが、最終的な殺害と数字については疑問視されている。南京北部の下関では、投降者が収容された後に殺害され長江に捨てられたことが、日本側、中国側、そして残留外国人の記録や証言に示されている。第114師団第66連隊第1大隊の戦闘詳報と言われているものによれば、旅団命令によって投降者を殺害したことが記録されている。

外国メディアによる報道

この事件は主に軍人や外国の情報に触れる事の多かった外交官などに南京の欧米人から報告がなされている(前者の代表例としては陸軍中将 岡村寧次関係の記録が、後者の代表例としては外務省欧亜局長 石射猪太郎の日記が、それぞれ挙げられる)。軍人が戦地から内地に宛てた手紙がもとで日本国内でも流言になっていたという説もある。

アメリカでは、『シカゴ・デイリーニューズ』や『ニューヨーク・タイムズ』、中国では『大公報』などのマスコミによって“Nanking Massacre Story”,“The Rape of Nanking”,“Nanking Atrocities”として報道されていた。南京に在留していたジャーナリストは日本軍の南京占領後しばらくして脱出したため、事件の全容が報じられたわけではないが、事件初期における日本軍が行ったとされる殺人、傷害、強姦、略奪などの犯罪行為がほぼリアルタイムで伝えられていた。無線が日本軍によって管理されていたため、彼らは南京を脱出後、船舶無線を使って報道をおこなった。

一方で、これらの報道にも反論がある。東中野らは虚偽報告がおこなわれた要因として、当時の中国政府からの多額の献金により買収された可能性を主張している。

渡部昇一は、欧米人は便衣兵や攪乱兵の存在を知らず、それらの掃討を市民の殺害と誤認した可能性があると主張している。また当時『ニューヨーク・タイムズ』に掲載された「南京虐殺の証拠写真」とされる写真も虚偽写真の可能性が指摘されている。無線を通じた報道も全て中国人からの伝聞をもとにして報道していたためその正確性には問題があるという主張もある。また、内地への手紙についても正確性や信憑性に疑問が呈されている(例えば、虐殺行為を手紙で内地へで伝えたとしても検閲で落とされるため)。

『ニューヨーク・タイムズ』のティルマン・ダーディン通信員は、『文藝春秋』(1989年10月号)のインタビュー記事にて、「(上海から南京へ向かう途中に日本軍が捕虜や民間人を殺害していたことは)それはありませんでした。」とし、「私は当時、虐殺に類することは何も目撃しなかったし、聞いたこともありません」「日本軍は上海周辺など他の戦闘ではその種の虐殺などまるでしていなかった」「上海付近では日本軍の戦いを何度もみたけれども、民間人をやたらに殺すということはなかった。」としつつ、伝聞等による推定の数として南京では数千の民間人の殺害があったと述べた。また南京の『安全地区』には10万人ほどおり、そこに日本軍が入ってきたが、中国兵が多数まぎれこんで民間人を装っていたことが民間人が殺害された原因であるとしている。またニューヨーク・タイムズは「安全区に侵入した中国便衣兵が乱暴狼藉を働いて日本軍のせいにした」とも報道した。

南京学会、真相解明し今月解散。“事件”実態は「プロパガンダ」(2012年9月)

昭和12年12月に、日本軍が当時の中国の首都・南京を占領した際の真相解明を目的に発足した「日本『南京』学会」(会長・東中野修道亜細亜大教授)が解散することになった。

同学会は平成12年10月、南京虐殺などが既成事実化することに疑問をもった東中野氏らが立ち上げ、戦前から戦後にかけての内外の膨大な資料を精査、南京占領に関係した、元日本軍兵士ら40人弱から聞き取り調査を行うなどした。その成果は42号に及ぶ学会報や6冊の「南京『事件』研究の最前線」(展転社)などに結実した。

同学会によると、日本軍の南京占領に関して、学問的にほぼ解明、不法殺害はほとんどなく、その実態は中国国民党中央宣伝部によるプロパガンダであることがはっきりしたという。また、南京事件の証拠として通用する写真は一枚も発見されなかったという。

同会長によると、年齢的に、元兵士を含む新たな証言者も得にくい、などから会としての活動は難しいと判断した。同学会は9月15日に都内で最後の大会を開き、正式に解散する。

事件の背景について

南京事件以前にも、日本軍は移動中に上海蘇州無錫嘉興杭州紹興常州のような場所でも捕虜や市民への暴行・殺傷・略奪を続けていたとされ、日本軍将兵の従軍日記や回想録から、進軍中にそれらが常態化していたのではないかと疑われている[3]。一方で、「中国軍が民間人を巻き込むため国際法で禁止されている便衣戦術(ゲリラ戦術)を採っていたため」(南京大虐殺論争#虐殺の範囲を参照)という理由や、中国軍が後退する中で後に来る日本軍に陣地構築の資材や建物など、利用できるものを何も与えない為に、中国人自身による民間人への暴行・殺傷、民家焼却を行う空室清野戦術によると見る向きもある[7]。 また兵士の日記についても通常一兵卒が所持する事が出来ないはずの万年筆で毎日の様に記録されていることから、従軍中にそのような余裕はなく捏造ないしは誇張されたものであるとする指摘もある[8]。上海から南京まで追撃される中国軍に従軍していた『ニューヨーク・タイムズ』のティルマン・ダーディン通信員は、上海から南京へ向かう途中に日本軍による捕虜や民間人の殺害や略奪を目撃したことはないし、聞いたこともないという証言をしている[9]

中支那方面軍の編成

中支那方面軍は上海派遣軍と第10軍から構成される。南京攻略時の主な部隊を示した。攻略に参加していない部隊、通信隊や鉄道隊、航空隊、工兵隊、兵站部隊などは略している。

戦後の軍事裁判における扱い

この事件は第二次世界大戦後、戦争犯罪として極東国際軍事裁判南京軍事法廷で審判された。

極東国際軍事裁判では、直接の訴因(第四十五)については時期や事象が広範すぎるとして直接の判断は回避し、他の訴因において事件当時に中支那方面軍司令官であった松井石根が、不法行為の防止や阻止、関係者の処罰を怠ったとして死刑となった。

南京軍事法廷では、当時、第6師団長だった谷寿夫が起訴され死刑となった。谷は申弁書の中で事件は中島部隊(第16師団)で起きたものであり、自分の第6師団は無関係と申し立てを行っている。その他、百人斬り競争として報道された野田毅向井敏明、非戦闘員の三百人斬りを行ったとして田中軍吉(当時、陸軍大尉)が死刑となった。上海派遣軍の司令官であった朝香宮鳩彦王は訴追されなかったが、これは朝香宮が皇族であり、天皇をはじめ皇族の戦争犯罪を問わないというアメリカの方針に基づいている。

「人道に対する罪」と訴因

ニュルンベルク裁判の基本法である国際軍事裁判所憲章で初めて規定された「人道に対する罪」が南京事件について適用されたと誤解されていることもあるが、南京事件について連合国は交戦法違反として問責したのであって、「人道に関する罪」が適用されたわけではなかった[10]

東京裁判独自の訴因に「殺人」がある。ニュルンベルク・極東憲章には記載がないが、これはマッカーサーが「殺人に等しい」真珠湾攻撃を追求するための独立訴因として検察に要望し、追加されたものである[11]。これによって「人道に対する罪」は同裁判における訴因としては単独の意味がなくなったともいわれる[11]。しかも、1946年4月26日の憲章改正においては「一般住民に対する」という文言が削除された。最終的に「人道に対する罪」が起訴方針に残された理由は、連合国側がニュルンベルク裁判と東京裁判との間に統一性を求めたためであり、また法的根拠のない訴因「殺人」の補強根拠として使うためだったといわれる[11]

このような起訴方針についてオランダ、フィリピン、中国側からアングロサクソン色が強すぎるとして批判し、中国側検事の向哲濬(浚)は、南京事件の殺人訴因だけでなく、広東・漢口での残虐行為を追加させた。

東京裁判において訴因は55項目であった(ニュルンベルクでは4項目)が、大きくは第一類「平和に対する罪」(訴因1-36)、第二類「殺人」(訴因37-52)、第三類「通例の戦争犯罪及び人道に対する罪」(53-55)の三種類にわかれ、南京事件はこのうち第二類「殺人」(訴因45-50)で扱われた[12][13]

詳細は 人道に対する罪 を参照

論争

詳細は 南京大虐殺論争 を参照

この問題は事実存否や規模、殺害人数などを巡って現在でも議論が続けられている。近代史における日中関係を考える上でデリケートな問題であり、2010年日中歴史共同研究公表[14]に際し、中国側主席委員・歩平が「単に被害者数の問題だけでなく、最も重要なのは大規模な残虐行為(が行われた)という認識を持つことである」との発言からも伺えるように、論点とすべき歴史的資料が十分に得られない研究実体を前提として特に中国側から見て単なる事実(史実)調査にとどまらない政治的要素が含まれる[15]

また検証において、事実存否や規模、行為者、戦闘行動と戦争犯罪(不法殺害)の区別、作戦指導の妥当性、死傷者数、方法に諸説あり、これらを巡って今なお議論が続けられている。

被害者数と事実在否について

2010年1月に公表された日中歴史共同研究によれば、中国側は南京軍事法廷の30万人説や東京裁判の20万人説と、いずれも戦後行われた裁判の判決に依拠した犠牲者数を主張している。

日本国内においては20万人説を上限として、数万人説、数千人説、否定説などが存在する。

南京大虐殺は真実ではないと思う理由(鈴木史朗)

昭和12年1937年12月17日撮影・「支那事変画報」大阪毎日・東京日日特派員撮影、第15集より/わが軍から菓子や煙草の配給を受け喜んで日本軍の万歳を叫ぶ南京の避難民/撮影者、佐藤振壽(毎日新聞カメラマン)
昭和12年(1937年)12月20日 南京住宅街にて撮影・「支那事変写真全集(中)」と朝日新聞昭和12年12月25日より/支那事変写真全集(中)上海戦線 南京陥落後旬日にして、早くも平和の曙光に恵まれた市中では、皇軍将士と共に玩具をもてあそんでたわむれる支那の子供達/撮影者、朝日新聞林カメラマン

鈴木史朗(フリーアナウンサー)

1938年、京都生まれ。1962年、早稲田大学法学部卒業後、TBSに入社し、アナウンス部へ配属、その後報道局なども経験。主な出演作品に、TBS『さんまのスーパーからくりTV』、『水戸黄門』(ナレーション)、日本テレビ『オジサンズ11』など。著書に『鈴木史朗の健康道場 ご長寿TVで長寿のコツ』(小学館文庫)。

「もう一度南京へ」

TBSのバラエティ番組『からくりテレビ』の名物コーナーで、私が司会を務めていた「ご長寿早押しクイズ」。

毎週数名のご長寿の方にご登場いただき、クイズに答えていただく人気コーナーでしたが、今から十一、二年前、南京戦に参加されていたという会津若松の方にお会いしたことがありました。

撮影の合間に南京の話になり、私が「あそこは大変なことがあったから、もう南京には行けませんね」と声をかけると、その方が「いや、私は死ぬまでにもう一度南京へ行きたいんであります」とおっしゃった。私は驚いて、「どうしてですか」と聞いたところ、こんな話をして下さいました。

「衛生兵として南京で日本兵を助けたが、怪我をした中国の敗残兵も助けた。軍のトラックで送ってやったら中国人の家族が非常に感謝して、家宝の掛け軸をくれたんです。

さらに『戦争が終わったら、ぜひもう一度南京へ来てほしい。歓待したい。一日千秋の思いで待っている』とまで言われたんです。だから、私は死ぬまでにもう一度南京に行きたい」

このことでハッと思い出したのは、私自身が幼いころ、南京戦直後に中国にわたり、天津で過ごした日々のことでした。それは、「大虐殺」があったなどとは到底考えられないほど、大変のどかな日々だったのです。

この方にはその後、もう一度お会いする機会があったので、「南京大虐殺」の証拠写真とされている、松葉杖をついた片足の中国兵と、笑顔の日本兵が並んで移っている写真を持って行ったんです。キャプションには、「残虐な日本兵によって、逃げられないように片足を斬り落とされた中国兵」と書かれていました。

ところが、この写真を見せたところ、南京戦に参加されたその方がとても喜んだんです。

「この兵隊のことは良く覚えていますよ。アルマイトがなかったので、ヤカンをつぶして義足を作ってやったんです。いやー、よかった。この写真、いただいてもいいですか」

他にも、実際に参戦された方々からさまざまなエピソードやをお話しいただきました。

「たしかに、南京戦で相手の兵士を殺した。だが、それはあくまでも中国の兵士であって、日本兵も戦死しています」

「トーチカから撃ってくる兵士を仕留めて近づくと、機関銃手はまだあどけない顔の若者で、鎖でつながれていた。武士の情で彼らの墓を作ってやりました」

「南京戦後、中国人から『兵隊さんありがとう。あなたの靴を磨かせてください』と言われて、泥だらけだからと断ったのだが、どうしてもといわれたので磨いてもらった。気持ちが嬉しくて、飴玉をあげました」

そして、少しずつ勉強する時間が取れるようになり、勉強しはじめてみると、東中野修道氏や北村稔氏、また『WiLL』に連載されている西尾幹二氏ら「現代史研究会」の研究成果が自分の体験と重なって、歴史を学べば学ぶほど、また中国での日々を思い出せば思い出すほど、「大虐殺なんてあり得ない」という確信を得るにいたったのです。

天津での日々

私は、1938年昭和13年2月10日に京都で生まれました。直後に、父が「大陸で一旗挙げたい」といって、それまで勤めていた有名な生命保険会社を辞めて単身、大陸へわたったのです。

残された母は、私が一歳になるのを待って、1939年4月頃までには大陸へわたりました。南京戦が行われたのが1937年12月のことですから、その一年半後には、もう私の母は女一人、子供を抱いて中国にわたっていたことになります。

そして、天津の日本人租界での暮らしが始まりました。元々フランス人租界だったところを日本人租界にしたそのあたりは非常にのどかで、その様子が伺える当時の写真も数枚残っています。

引き揚げの時に持ち出しを禁止されたので、写真はかぎられたものしか残っていませんが、一枚目(上)は天津市淡路街という日本人租界の民団住宅前で撮影したものです。私と二人の妹と、近所の中国人の子が一緒に写っています。中国人の子の母親が非常に良くしてくれて、妹たちにおそろいの中国服を作ってくれました。

もう一枚(下)は天津市須磨街の自宅付近で撮ったもの。近所の中国人の楊車(輪タク)夫が楊車に私たちを乗せて遊ばせてくれている光景です。背景も写っていますが、近所の中国人もよく日本人租界へやってきて、「日本人街の水道はきちんと整備されているから」などといって、水道の水などをもらって帰っていました。

天明公社」という貿易と軍需関係の合弁会社を設立した父の事業もうまくいっていて、わが家は結構裕福な暮らしをしていました。

父が行き倒れになった中国人夫婦を助けて、自宅のガレージの一角に部屋を作って住まわせていたこともありました。その夫婦は恩義に感じてくれたのか、三人の子供にそれぞれ「小一」「小二」「小三」と日本風の名前を付けていて、私と同じ歳だった「小二」とはよく遊んだ思い出があります。

当時の天津は本当に安全で、私は子供の足で歩いて20分ほどの幼稚園まで、毎日一人で通っていたほどでした。道すがらの中国人が私に対して何かを言ってきたり、身の危険を感じるうようなこともありませんでした。

虐殺などが本当に起こっていたとすれば、日本人に対して何らかの罵声が浴びせられたり、少なくとも親から「一人で出歩いては危ない」などと言われたはずですが、そのようなことはありませんでした。

それどころか、中国人に助けてもらったこともあります。家の近くを運河が流れていたのですが、土手でかけっこをして遊んでいて、川に落ちてしまった。溺れていたところを中国人の船頭さんが助けてくれて、自宅まで連れて帰ってくれたのです。川の水を飲んで赤痢にはなってしまいましたが。

たまに町で日本兵を見かけることもありましたが、中国人の友達も「カッコイイね。僕も将来はあんな兵隊さんになりたい」ということを言っていたくらいで、規律正しい日本兵の姿には、中国人も日本人も、ある種の敬意と畏(おそ)れを持っていたようです。

天津には7年間住んでおり、子供ながらにシンガポール陥落など戦況についてよく話していましたが、「南京大虐殺」については一度も聞いたことがありませんでした。

中国人女性にモテた父

父の会社の本社や事務所があった北京にも時々行きました。王府井(ワンフーチン)界隈の大通りに面したところに事務所がありましたが、当時の北京は賑やかで華やかで、やはり穏やかでした。太ももまでスリットの入ったチャイナ服の中国人の女性が自転車で走り去るのを見て、子供心に「すごいお姉さんだなあ」と思っていた記憶があります。

父は、とにかく北京では中国人女性にモテてモテて、母はとても苦労していたようです。父は俳優の上原謙のような男前でしたし、明治の男ですから仕方がないとはいえ、恋愛結婚で一緒になって、大陸まで父を追いかけた母にとってはたまらなかったでしょう。

ただ、もし本当に南京で日本人が民間人の大虐殺を行い、女性を強姦していたとしたら、中国人女性が日本人男性である父にそれほどまでにほれ込んだりはしなかったでしょうし、中国人同士の間でも「日本人なんかに熱を上げて」と非難されたはずです。しかし、そのようなことは全くなかったばかりか、父は中国人のためにも一所懸命働きましたので、老若男女問わず、中国人からは非常に尊敬されていたのです。

南京ののどかな光景

胡同(フートン)にある本社の隣には、北京の警察署がありました。父と署長は仲が良く、どこかへ一緒に列車で出かけたこともありました。署長さんはお金持ちだったからか、一号さんと二号さんを隣りに乗せていて、どちらもとても素敵な女性でしたが、口紅ばかり塗っていて子供の私には目もくれず、冷たくあしらっていました。「可愛がってくれないんだなあ」と思ったのを覚えています。

しかし、そう感じたということは、逆に言えばそれ以外の中国人の大人たちは、日本人である子供の私を非常に可愛がってくれていたということでしょう。

三、四歳の頃には南京へも行っているんです。まだ記憶はおぼつかない頃ですが、親父に後から聞いた話は覚えています。

「お前を南京に連れて行った時、泣かずに頑張った。南京のある中国人が、そんなお前の態度を見てとても気に入ってほめてくれたんだ。しかも、『耳の形がいい。こういう人物と付き合うと、自分の運気も上がるから、是非抱かせてくれ』といって抱き上げてくれたんだよ」

また、父は南京で聞いた話をもとに、よくこんなことを言っていました。

「聞いたところによると、日本の兵隊さんが食糧を分けてくれたので、南京の人々は助かったんだそうだ。お前もいい兵隊さんになるためには、強いだけではダメで、思いやりをもたなければいけないよ」

この話は非常に印象的だったのですが、後のこの話に通じる事実があったことを知りました。

あのジョン・ラーベも日本軍宛に「私どもは貴下の砲兵隊が安全地区を攻撃されなかったという美挙に対して、また同地区における中国民間人の援護に対する将来の計画につき、貴下と連絡をとり得るようになりましたことに対して感謝の意を表するものであります」との書簡を送っており、報告書でも、日本軍からの米と小麦の配給があったことに触れています。

もし本当に大虐殺が起こっていたとしたら、いくら書簡の挨拶文とはいっても「感謝」など示すはずがありません。

命からがら引き揚げ

歴史的根拠に関して言えば、2007年12月に出版された『WiLL』増刊号「『南京大虐殺』に終止符!」で、映画『南京』が紹介されています。私もこの映画を見ましたが、あの映画ののどかな光景は、まさに私が天津で暮らしていた頃の記憶と重なるのです。とてもじゃないが、「虐殺があった」とは思えない光景が記録されています。

増刊号でチャンネル桜の水島総氏も指摘されているとおり、この映画にはワイドショットが多用されているのですが、報道記者としての経験から言っても、ワイドショットでは不都合なものがあった場合、それが映りこんでしまうので、ドキュメンタリーを撮る場合には普通、あのような撮影はしません。「不都合なものなどない」から、安心してワイドショットで撮影していたのだと分かります。

優しく、子供好きの日本兵、そして日本人と中国人が楽しそうに交流している様子。もし本当に虐殺があったなら、中国の人々も日本兵も、あのような自然な笑顔で交流することなどできなかったはずです。

終戦を迎えると、さすがに中国人は現実的ですから、コロリと態度が変わりました。わが家に住んでいた中国人家族も、「引き揚げるなら財産を全て置いて行け」などと言いだしたほどです。

こちらはせめてと思い、財産と引きかえに「持って帰ってはいけないといわれているので、写真を後から日本へ送ってほしい」と撮りためた写真を託したのですが結局、届きませんでした。送ってくれなかったのか、それとも没収されてしまったのかは分かりません。

それどころか、父は貿易と軍需の会社をやっていた関係でスパイ容疑をかけられて逮捕、拘束されてしまいました。一番下の妹は3カ月くらいで出発前に死んでしまいましたし、父が死刑になるかどうかも分からない状況のなか、私と母はとにかく引き揚げなければということで、私は両手に妹を連れて、母は父の荷物まで一緒に背負って塘沽(タンクー)の町まで2週間かけて歩きました。銃撃を受けながら、ろくなものも食べられない状況での過酷な「行軍」だったのです。

幸いなことに、父は共同経営者だった中国人が「鈴木(リンムー)先生は日中のためによくやってくれた。鈴木先生をこのまま殺したら、子々孫々から恨まれる」と一所懸命動いてくれたので刑を免れ、港で合流することができ、何とか一家で日本へ引き揚げてきたのです。

テレビ局の「自主規制」

命からがら日本へ帰った私は、その後大学へ進学し、TBSに入社しました。仕事が忙しく、その後中国を訪れることもなく、日々の生活に追われて天津での日々を振り返る暇もなかったほどでした。

社会部で仕事をしているなかで、ふと気がついて周りを見渡したときには、「虐殺はなかったんじゃないか」ということすら言えない雰囲気が出来上がっていました。それがテレビ局の「自主規制」なのか、自虐史観を刷り込まれているからなのか、はたまた中国の謀略にかかってしまったからなのかは分かりません。

局にいる間はこのことで揉めたこともありましたが、TBSを卒業してからは「もう何を言ってもいいだろう」ということで、講演などでも自分の経験からのお話をさせていただいてきました。それでも、雑誌やテレビが「私が経験から南京大虐殺などなかったと思う理由」について取り上げてくれたことは一度もありませんでした。

以前、日本テレビ系列の『オジサンズ11』(2007年10月〜2008年9月まで放映)という番組に出演していた時に、制作プロダクションから「何か番組で取り上げるテーマはありませんか」と聞かれたので、映画『南京』を取り上げてはどうか、と提案したことがありました。

この映画は他の局で放映されたことはないし、これまでの「南京」のイメージが覆る。南京の真実が伝わるだろうと思ったのです。

プロダクションのスタッフが話に乗ってくれて、私は本当に嬉しかったんです。「これで真実が全国に広がるきっかけになる」と思っていたのですが、会議で上の人間から何か言われたのでしょう、有無を言わさず却下されてしまいました。その後はスタッフが私を見る目が変わり、目が合っても顔を背けるようになってしまった。非常に悲しかったですね。

報道に携わる以上、「真実」に近づき、「真実」を伝えることが使命だと分かっているはずです。にもかかわらず、「検証」すらせず、中国のプロパガンダ、「嘘」に加担し続けるというのは、報道人としての風上にも置けません。

すでに中国の手が回っているのかもしれませんが、「真実」を伝えることが報道に携わるものとしての、いや人間としての務めではないでしょうか。

日中の未来のために

「南京大虐殺」のような「嘘」があるかぎり、日中が手に手を取ってやってくことはできません。日本と中国は永遠に隣同士ですから、その関係を悪化させる中国の反日プロパガンダ、反日教育はたださなければなりませんし、このような状況は日本にとっても中国にとっても、「最大の悲劇」としかいいようがありません。

私にとって、中国は「第二の故郷」なのです。その中国の方々が、このような「嘘」を永久に教え込まれ続けるとすれば、本当に悲しいことです。

映画『南京』の冒頭には、このような字幕が流れます。

「我々の同胞が一つになって闘った数々の光輝ある歴史の中でも南京入場は燦然たる一頁として世界の歴史に残るだらう。その日の記録としてこの映画を我々の子孫に贈る」

我々は、どんなに時間をかけても「南京大虐殺は真実ではない」と伝えていかなければならない。それが「我々の子孫」……つまり日本人の未来のためであり、中国人のためでもあるのです。

名称の種類と変遷

論争史参照

南京事件については、「南京大虐殺事件」「南京虐殺事件」「南京残虐事件」「南京暴虐事件」「南京大虐殺」「南京暴行事件」「南京アトロシティー(家永三郎洞富雄[16]」「南京大残虐事件(洞富雄[17])」など、多様な表記と呼称がある。呼称の種類および変遷について、以下概説する。

歴史学の研究書では「南京事件」と表記されるもの(秦郁彦、笠原十九司ら)、「南京大虐殺」と表記するもの、「南京虐殺事件」など使用状況は同様に多様である。なお笠原十九司は「南京事件は南京大虐殺事件の略称」としたことがあるが、笠原は著書名としては「南京事件」を多用している。

東京裁判
1946年(昭和21年)4月29日に起訴され、5月3日に開廷した東京裁判での呼称は「訴因第四十五」であり、ここでは鏖殺(おうさつ)・殺戮と記述されている。英文ではslaughter the inhabitantsないしunlawflly killed and murdered とされている。開廷後の一週間後の同年5月10日の朝日新聞記事では「南京大虐殺事件」という呼称がみられ、同年10月9日の貴族院第90回帝国議会において星島二郎が「南京事件」という呼称を使用している。
1948年(昭和23年)2月19日の検察側最終論告では「南京残虐事件」、2月25日の検察側最終論告では「南京における残虐行為」「南京事件」「南京強姦」、4月9日の弁護側最終弁論では「南京略奪暴行事件」、不提出書類のタイトルでは「南京ニ於ケル虐殺」「南京大虐殺死難者埋葬処ノ撮影」、1948年(昭和23年)11月4日の判決では和文「南京暴虐事件」などと表記されている。
戦後の教科書における表記
敗戦直後、教科書はいわゆる「墨塗り教科書」であったが、1946年に文部省著作による小学校用教科書「くにのあゆみ下」と中学校用教科書「日本の歴史」が刊行され、事件について記述がなされた(事件名は表記なし)。1947年に学校教育法で教科書検定制度が導入されてからは1949年から検定教科書が使用される。
1952年に刊行された実業之日本社による高校用教科書「現代日本のなりたち 下」では「南京暴行事件」と表記された。
55年体制から1960年代まで
1955年(昭和30年)、日本民主党が「うれうべき教科書の問題」というパンフレットを刊行し、「(社会科)教科書は偏向している」と主張する第一次教科書攻撃が起こる。同年の保守合同による自由民主党成立後、55年体制下で教科書への検定強化が進んだ。1955年の大阪書籍、1964年の東京書籍などの教科書には南京攻略について記述されるにとどまり、残虐行為については記述されなかった。なお1962年に家永三郎が編集した『新日本史』(三省堂)では「南京大虐殺(アトローシティー)」と表記されており、1965年から家永教科書裁判が開始されている。
1956年に刊行された『世界歴史事典』および、1961年の『アジア歴史事典』などでは、「南京事件」で立項している。
1966年には毎日新聞記者五島広作下野一霍の共著『南京作戦の真相』(東京情報社)が、1967年には洞富雄が『近代戦史の謎』(人物往来社)が、1968年には家永三郎が『太平洋戦争』(岩波書店)では、軍人・記者の回想録や洞の著書を引用しながら「南京大虐殺」について記述した。
1970年代
国会では1971年(昭和46年)7月23日の第66回参議院外務委員会で西村関一により「南京虐殺事件」および「南京大虐殺事件」という表記が使用されている[18]
1971年8月末から朝日新聞で連載を開始した本多勝一「中国の旅」(1972年刊行)が反響を呼び、南京事件について多数の記事が執筆される[19]。なお当時記事タイトルにおいて「南京大虐殺」を使用したものには「」1971年8月号「隠されつづけた南京大虐殺」がある[20]
1972年4月に鈴木明が「諸君!」に「『南京大虐殺』のまぼろし」を発表し、広範囲にわたる南京大虐殺論争が開始されるともに、「南京大虐殺」についてマスコミで報道されるようになる。例えば、同年11月には三留理男「中国レポート(最終回) 冷酷な皆殺し作戦 南京大虐殺」『サンデー毎日』(72年11月19日号)などがある[21]。鈴木は1973年に文芸春秋社から同題で単行本を刊行する。
歴史学者の洞富雄は1972年に『南京事件』を刊行した後、鈴木明への反駁として1975年に『南京大虐殺--「まぼろし」化工作批判』を刊行し、以降、著書名でも「南京大虐殺」を使用する。また洞が編集した『日中戦争史資料 8 南京事件』は、1973年の版では「南京事件」という呼称を著書名において使用していたが、1985年に同書が青木書店より再刊された際には『日中戦争 南京大残虐事件資料集』と改題された。一方で藤原彰本多勝一との共著では1987年の著書名に「南京事件」を使用している。
1978年の東京書籍の教科書では「南京虐殺」として記載されるなど、事件についての記述がなされるようになる。
第一次教科書問題と1980〜1990年代
1980年には自民党が機関紙『自由新報』で「いま教科書は」 を連載、国語・社会科教科書を批判するという第二次教科書攻撃が起きる。1982年には「侵略」を「進出」に書き換えたことが報道され、中国との間で外交問題に発展した第一次教科書問題が起きた。その結果、近隣諸国条項が検定規準として定められた。その後1984年の東京書籍教科書では「ナンキン大虐殺」と表記される。1987年の大阪書籍と教育出版の教科書では「南京虐殺事件」と表記され、1995年の実教出版の高校教科書「日本史B」では「南京大虐殺」というコラムが記載された。
歴史学者の秦郁彦が1986年には「南京事件」(中公新書)を発表。同書では「虐殺」の表記に関しては括弧を使用する。
アイリス・チャンが1997年に著したThe Rape of Nanking: The Forgotten Holocaust of World War II が話題をあつめ、「ザ・レイプ・オブ・南京」という日本語呼称が注目された。
近年の動向
近年の教科書表記では、山川出版社(『詳説日本史』)と東京書籍が「南京事件」と各教科書が多様な表記を行っている。なお、大阪書籍の2005年の教科書では「被害者数については、さまざまな調査や研究が行われていて確定されていません」と脚注に表記されている。
2010年に報告書が公開された外務省日中歴史共同研究日本語論文において「南京虐殺事件」の表現が使用された。
その他、井上久士小野賢二笠原十九司藤原彰吉田裕本多勝一渡辺春巳などが集まった研究会は「南京事件調査研究会」としている。

海外での表記

中国または中華民国ではほぼ一定して「南京大屠殺」と呼称される。欧米では「Nanking Atrocities」あるいは「The rape of Nanking」「Nanking(Nanjing) Massacre」などと呼ばれるが論者により一定しない。

南京事件を扱った作品

小説
映画
漫画

脚注

  1. 高山正之 『白い人が仕掛けた黒い罠』要ページ番号
  2. 社団法人・同盟通信社『時事年鑑・昭和14年版』1938年(昭和13年),156頁
  3. 3.0 3.1 南京事件調査研究会・編『南京大虐殺否定論13のウソ』柏書房要ページ番号
  4. 例えば松岡環編著『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』社会評論社、2002年、56-57頁、69頁、77頁、95頁、116頁、135頁、159-160頁、173頁、188頁、208頁、251頁、271頁、302頁、312-314頁、325頁、343-344頁。『南京事件資料集』「虐殺」命令
  5. 新路口事件夏淑琴氏の名誉毀損の裁判
  6. 東中野・小林・福永 2005 要ページ番号
  7. 東中野・小林・福永 2005 要ページ番号
  8. 大井満「仕組まれた“南京大虐殺”」要ページ番号
  9. 文藝春秋』 1989年10月号要ページ番号
  10. 日暮 2008 26頁・118頁
  11. 11.0 11.1 11.2 日暮 2008 113頁
  12. 日暮 2008 116頁
  13. 日暮 2002 要ページ番号
  14. (2010-01) 日中歴史共同研究(概要) 外務省 [ arch. ] 2010-07-28
  15. (2010-02-01) 日中歴史研究「中間~右」の学者と認識一致は大成果―中国メディア サーチナ [ arch. ] 2010-07-28
  16. 家永三郎『新日本史』(三省堂,1962年)や洞富雄『近代戦史の謎』(人物往来社、1967年)
  17. 『日中戦争 南京残虐事件資料集』青木書店,1985年。
  18. 第066回国会 外務委員会 第1号 昭和四十六年七月二十三日(金曜日)午後三時十五分開会 「南京虐殺事件」(2回)、「南京大虐殺事件」(1回)
  19. 本多は南京事件、南京大虐殺、南京大暴虐事件と様々な呼称を使用している。「南京への道」他
  20. 笠原同書p109
  21. 笠原同書p109

文献情報

南京事件に関する参考文献 も参照

関連項目

外部リンク