シンタン県

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シンタン県インドネシア語Kabupaten Sintang)は、日本海軍の占領行政の時代に西カリマンタン(旧蘭領ボルネオ西部)地方に設置された[1]

1943年-1944年頃、県が行った人口の一斉調査によると、管内の人口は20万人弱[2]

民族別ではダイヤ人70%、インドネシア人25%、残余が華人アラブ人などで、ダイヤ人の人口が多かった[2]

シンタン地方は、(特にオランウータン)などの野生動物で有名で、カプアス河の河原に黒味がかった大きな鰐がいた[3]

シンタンには、ノミハエなどが少なく、マラリヤはあったがその他の感染症もあまりなかったという。ただし、ダイヤ人には重度の皮膚病を患っている人が散見された。[4]

1945年4月末頃、シンタン県監理官事務所の小林某職員は、シンタン県の兵補制度への応募者11-12人を引率して船でポンティアナクに向かう途中で連合軍機による空襲を受け、カプアス河に入って退避したまま行方不明になった。その後、遺体が確認されないまま死亡扱いとなり、同年5月5日に某地で告別式が行われた。[5]

付録

脚注

参考文献

  • 赤道会 (1976) ポンチアナク赤道会『続赤道標』JPNO 73015036
  • 赤道会 (1975) ポンチアナク赤道会『赤道標』JPNO 73012073