小松川事件
小松川事件(こまつかわじけん)とは1958年(昭和33年)に発生した殺人事件である。別名、小松川高校事件または小松川女子学生殺人事件。
事件の概要[編集]
1958年8月17日、東京都江戸川区の東京都立小松川高等学校定時制に通う女子学生(当時16歳)が行方不明になる。同月20日に、読売新聞社に同女子学生を殺害したという男から、その遺体遺棄現場を知らせる犯行声明とも取れる電話が来る。
警視庁小松川警察署の捜査員が付近を探すが見あたらず、イタズラ電話として処理される。翌21日、小松川署に、更に詳しく遺体遺棄現場を知らせる電話が来る。捜査員が調べたところ、同高校の屋上で被害者の腐乱死体を発見した。
その後犯人は、被害者宅や警察に遺品の櫛や手鏡を郵送した。更に読売新聞社へは反響を楽しむかのように30分にも及ぶ電話をかけ、警察はその逆探知に成功した。電話をかけてきた公衆電話ボックスには間に合わず、身柄は確保できなかったが、そこで電話をかけていた男の目撃証言は得られた。この時の通話は録音され、8月29日にはラジオで犯人の声が全国に放送された。「声が似ている」という多くの情報が寄せられ、その中から有力な容疑者が浮かび上がった。劇場型犯罪ともいえる展開であった。
犯人[編集]
小松川署捜査本部は9月1日に工員で同校1年生の男子学生(当時18歳)を逮捕した。
犯人は東京都亀戸出身の在日コリアン(韓国籍朝鮮人)で、その家庭は極貧で環境も劣悪で、その暮らし故か窃盗癖があった。図書館からの大量の書籍の他、現金・自転車の窃盗を行い、保護観察処分を受けていた[1]。
男子学生は、犯行当日プールで泳ごうと思い同高校に来たところ、屋上で被害者が読書をしていたため、よからぬ感情が芽生え、彼女をナイフで脅そうとした。しかし大声を出されたため殺害し、遺体を屋上の鉄管暗渠に隠した、と自供した。また彼は4月20日にも、23歳の賄い婦を殺害したのち暴行したと自供した。
男子学生は4月の事件の経緯を「悪い奴」という小説に仕立て、読売新聞社の懸賞に応募していたことが後に判明した。この小説は、事件の詳細な状況(被害者を男子同級生に変えてはいたが)だけでなく、自身に向けられていた民族差別についても記されており、私小説といえるものであった。
逮捕前、一部の新聞により実名報道がおこなわれたことから、少年法の問題が議論された。
裁判[編集]
男子学生は1940年2月生まれで犯行時18歳であったが、殺人と強姦致死に問われ、1959年2月27日に東京地裁で死刑が宣告された。二審もこれを支持、最高裁も1961年8月17日(被害者の命日)に上告を棄却し、戦後20人目の少年死刑囚に確定した。
事件の背景には貧困や朝鮮人差別の問題があり、大岡昇平[2]ら文化人や朝鮮人による助命請願運動が高まった。
犯人は拘置所でカトリックに帰依の洗礼を受けるが、被害者たちに対しては「彼女たちが自分に殺されたのだという思いは、ベールを通してしか感じることができない」と罪の意識を感じることはなかった。 [3]
翌1962年8月には東京拘置所から宮城刑務所に移送(当時東京拘置所には処刑設備がなかった)され、11月26日に刑が執行された。享年22。
秋山駿はこの事件に関して『内部の人間』(講談社BOOK倶楽部)を著し、初期の作品として評価を受けた[4]。
文献[編集]
- 井出孫六:小松川女子高生殺人事件の暗部。エコノミスト64(34) [1986.08.12] pp86~91、『その時この人がいた』毎日新聞社・筑摩書房
- 週刊朝日の昭和史第3巻(1989) pp138~151
関連項目[編集]
脚注[編集]
- ↑ 第30回国会 参議院法務委員会議事録 参議院会議録 1958年10月21日付
- ↑ chikumashobo.co.jp、gakugeishorin.co.jp
- ↑ 李珍宇全書簡集 (1979年)
- ↑ 秋山駿顕彰状 早稲田大学、「秋山駿・高井有一」展
- ↑ 鈴木道彦『越境の時 - 1960年代と在日』 ララビアータ 田島正樹の哲学的断想