藤原長良
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藤原 長良(ふじわら の ながら/ながよし、延暦21年(802年) - 斉衡3年7月3日(856年8月6日))は、平安時代初期の公卿。左大臣藤原冬嗣の長男。陽成天皇の外祖父。従二位・権中納言。贈正一位・太政大臣。枇杷中納言と号した。
経歴[編集]
嵯峨朝の実力者左大臣藤原冬嗣の長男として生まれる。仁明天皇が東宮(皇太子)であったころに近侍。蔵人頭・左兵衛督を経て、承和11年(844年)、次弟良房に遅れること10年にして参議となる。その後累進して従二位権中納言に至る。
死後、娘の高子が清和天皇の女御となり、高子所生の貞明親王が陽成天皇として即位したことに伴い、元慶元年(877年)に正一位左大臣、ついで元慶3年(879年)に太政大臣を追贈された。
昇進は弟の良房や良相に遅れをとったが、両弟に比べ子女に恵まれ子孫は大いに繁栄した。特に三男の基経は良房の養子となり、その子孫からは五摂家を初めとして多数の堂上諸家を輩出した。また、長良は寛容・謹直な性格[1]で人々に慕われたという
官位・官職[編集]
- 弘仁13年(822年) 内舎人
- 弘仁14年(823年) 蔵人
- 天長元年(824年) 従五位下
- 天長2年(825年) 侍従
- 天長4年(827年) 従五位上
- 天長10年(833年) 左兵衛権佐、左衛門佐
- 天長11年(834年) 正五位下
- 承和元年(834年) 兼加賀権守
- 承和3年(836年) 従四位下、右馬頭
- 承和6年(839年) 左馬頭
- 承和7年(840年) 蔵人頭
- 承和9年(842年) 左兵衛督
- 承和10年(843年) 兼相模守
- 承和11年(844年) 従四位上、参議
- 承和13年(846年) 讃岐守
- 承和15年(848年) 左衛門督
- 嘉祥3年(850年) 伊予守、正三位
- 仁寿4年(854年) 権中納言
- 斉衡2年(855年) 従二位
- 元慶元年(877年) 贈正一位・左大臣
- 元慶3年(879年) 贈太政大臣
系譜[編集]
参考文献[編集]
- ↑ 保坂弘司『大鏡 全現代語訳』講談社学術文庫 1981年