七代目立川談志

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七代目立川談志(ななだいめたてかわだんし,1935年1月2日 - 2011年11月21日)は東京の落語家である。本名は「松岡 克由」。その破天荒な発言や行動から、「落語界の反逆児」と言われた。実際は七代目であるが、五代目を名乗った。

概要[編集]

真打まで[編集]

東京小石川で1936年(昭和11年)1月2日生まれる[1]東京中学校卒業、東都高等学校1年の時に落語家になるために4月に中退して、16歳で五代目柳家小さんに入門する。「柳家こよし」で前座となる。初寄席は1952年(昭和27年)4月上席の新宿末廣亭であった。1954年(昭和29年)「柳家こゑん」と改名し、二つ目となる。その後、若手落語会が結成され、メンバーとなる。日本劇場のステージにも出演し、キャバレーなどの余興などでも活躍した。「すべての芸は物まねから始める」といい、師匠小さんをそっくりまねた『くも駕籠』は飯島友治らが絶賛され、子さん門下最大のホープと期待された。しかし、いつまでも物まね芸のつもりはなかった。仲間内でも苦言をずけずけ言うため、先輩から生意気だと言われていた。そのため真打昇進が遅れた。1962年3月に、入門が遅い古今亭朝太(三代目古今亭志ん朝)が「36人抜き」で小ゑんより先に真打に昇進した[2]

真打後[編集]

1963年4月、真打ちとなり、「七代目立川談志」を27歳で襲名した。しかし、兄弟弟子の夢月亭歌麿あらため柳家つばめ(先代)と同時昇進で、各席とも10日間のうち半分の5日間しかトリを取らせてもらえなかった。 「師匠に教えられた古典落語をそのままやっているだけでは落語はいずれ滅びる」と危機感を抱いた。談志の落語哲学は「落語は人間の業の肯定」、すなわち「人間の弱さや愚かさを認めた上で人間を描き切る」というものであった。 談志を継いでからは、マスコミで活躍し、日本テレビ系の「笑点」を企画・立案し、1966年の番組開始から初代司会者を務めて人気者となる。社会批評や毒舌も人気を博した。 参議院議員を1期務めるなど政界でも活躍する。1969年、衆院選に出馬し落選したが、1971年には参議院選挙全国区で最下位当選し、自民党に入党。沖縄開発庁政務次官を務めたものの、酒に酔って臨んだ記者会見で問題発言があり次官を辞任する。1983年には真打ち昇進制度を巡る対立により、師匠の小さんが会長を務める落語協会を弟子とともに脱退し、立川流落語会を創設して家元に就任した。常設の寄席には出演できなくなったが、ホールでの落語会を続け、人気を集めた。

病気[編集]

1997年に食道がんが見つかり、2008年に声門がんの手術、2009年には糖尿病治療と続く。喉頭癌を患ったが、「プライドが許さない」と声帯の摘出手術を行わなかった。 2011年11月21日午後2時24分、喉頭癌のため死去。享年75歳。

受賞[編集]

  • 第7回 サライ大賞(2008年10月)
  • 第20回 スポニチ文化芸術大賞 特別賞(2012年8月)

弟子[編集]

  • 桂文字助(四代目)
  • 立川左談次
  • 立川ぜん馬(六代目)
  • 立川龍志
  • 立川談幸
  • 立川志の輔
  • 立川志らく
  • 立川談春
  • 立川談笑

得意ネタ[編集]

  • 『芝浜』
  • 『黄金餅』
  • 『らくだ』
  • 『源平盛衰記』
  • 『粗忽長屋』
  • 『みいら取り』
  • 『居残り左平次』

著書[編集]

  • 『現代落語論』(1965年)

参考文献[編集]

  1. 実際の出生は1935年(昭和10年)12月2日という。
  2. 斉藤忠市郎、保田武宏(1982)『落語全集 第10巻 昭和編5』立風書房