名古屋市電

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名古屋市電(なごやしでん)は、かつて名古屋市交通局が運営していた路面電車である。

歴史[編集]

愛知馬車鉄道[編集]

1889年10月1日、名古屋市が市制施行した。当時の市内交通機関は、人力車や馬車程度しかなかった。1890年春の内国勧業博覧会の電車を見学した岡本清三は、県会議長とともに電気軌道の敷設を思索し、実際に敷設を出願したものの当時は電気軌道の規定がなかったため、仕方なく馬車鉄道に変更して出願した。そして、1894年6月25日に「愛知馬車鉄道」が設立した。これは現在の名古屋鉄道の前身である。

名古屋電気鉄道[編集]

しかし、設立はしたものの、沿線住民や人力車組合からの反対の声が相次ぎ、会社の存続すら危ぶまれる状態になった。そこで、馬車鉄道から電気鉄道に変更することを条件に大澤善助(京都電気鉄道・のちの京都市電にかかわる人物)の協力を得て、「名古屋電気鉄道」に社名変更。1898年に笹島(名古屋停車場前)~県庁前(南久屋町)間の栄町線の工事が完成。[1]そして、5月6日午前9時に正式に開通した。日本で2番目の路面電車である。

そして、次々に押切線と熱田線の開通と栄町線の延長を行った。日露戦争で一時業績が振るわなかったこともあったが、すぐに持ち直し、鶴舞公園で開かれた「第10回関西府県連合共進会」に備え、公園線と築港線を開通。また、電車を大量増備した。さらに、覚王山電気鉄道から路線免許を得て、覚王山線を開通。さらに、熱田電気鉄道や覚王山電気軌道を合併するなど路線拡大の時期を迎えた。

路線拡大の一方、区間制運賃により運賃の高さが問題になる。当時は不景気であったためなおさらである。市民からは市営化の声が上がった。1914年5月6日には鶴舞公園において「電車値下げ問題市民大会」が開催され、終了後、車庫を襲撃し、電車に放火。走行中の電車に投石放火、軍隊が出動するまでの騒ぎになった。(電車焼き討ち事件)。このため運賃の値下げが行われた。

しかし、当時の各地の路面電車が市営化する波には逆らえず、市は名古屋電気鉄道側に買収を申し入れることになった。そして、市議会で大きくもめたものの結局市営化することになった。収入の多くを占めるドル箱の市電を手放すのに抵抗はあったものの、郡部線に活路を見出すことにし、名古屋電気鉄道は「(新)名古屋鉄道」を設立、郡部の路線を譲渡した。市議会で大きくもめたものの市営化することになった。

名古屋市電気局[編集]

1922年8月1日、市電が誕生した。そして五ヶ年計画により東郊線などを開通することに。しかし、1年後の関東大震災により思わぬライバルが誕生した。バスである。昭和初期には多くの民間バス会社が乱立し、市電との乗客の争奪戦が開かれ、市電の乗客は大きく減った。このため、市電側は平均時速を上げるなどのスピードアップを図った。交通局側も市バス設置に動くが政治対立のためなかなか認可されず、導入は遅れた。この争いは1935年から1940年にかけて市が買収し終結した。

1937年には、国鉄名古屋駅駅舎の完成、東山動植物園の開園に伴う市電の延伸、汎太平洋平和博の乗客輸送などイベントが目白押しだった。特に博覧会は利便性を高める運転系統の編成、また博覧会にふさわしい世界一の電車をコンセプトに名車中の名車1400形を製造した。[2]また、新三河鉄道や中村電気軌道なども買収。これにより市電の乗客は大きく増えた。また、納涼電車の運行や女性車掌の登場などお役所仕事とは思えないサービスの向上も図られた。また、1938年には系統記号をいろは方式から数字方式に変え合理化を図った。

1938年の国家総動員法の成立は市電の歴史を大きく変えた。戦時体制の始まりとして、運転系統を整理、電力節電のための急行運転が開始した。1939年に太平洋戦争が開始すると、市電は軍需工場の輸送に変化し、全国初の路面電車の連接車である2600型の導入、工場地帯への路線延伸、女性や「学徒勤労報国隊」と称する学生の乗務員による運転が行われた。1943年にはトロリーバスの運転が始まった。1944年から1945年にかけて名古屋市は空襲の被害を受け、市電も被災した。1944年12月7日には東南海地震を受けるなど大打撃を被った。

名古屋市交通局[編集]

1945年10月2日に電気局は交通局に名称変更。しかし車両の酷使による故障や停電、インフレによる運賃値上げなどの問題が発生した。それでも1950年には第5回国体が瑞穂運動場で開かれ、輸送に大きく貢献した。1952年からはポールからビューゲル化し、1954年には下之一色線でのワンマン運転の開始し、合理化を進める。そして、1956年には初の黒字を達成するなど黄金期を迎える。

しかし、地下鉄の開通や伊勢湾台風[3]、モータリゼーションもろもろの原因により交通局の財政悪化、市電の縮小が始まる。廃止の声が上がったものの、結局1974年3月30日に全線廃止。翌日に無料運転を最後に歴史に幕を閉じた。

車両[編集]

140~150[編集]

  • 140-150
  • 1931年にSSA型の改造という名目で誕生。

改造単車[編集]

  • 151-204
  • 不況まっただ中の1933年に単車の改良工事が打ち切られたため、代替として車体を半鋼製にした車両。151-152号車は当時流行の流線型の車体を持っていたが、153号車以降は、角ばった車体に。予算不足から車体のみの改造に終わりモーターがそのままだったせいで車内がかなりアンバランスになってしまった。

SLA型[編集]

  • 253-282
  • 1930年にLSB型の改造という名目で誕生。もっとも制御器くらいしか使い回していないが。唯一の低床単車であったものの他車にモーターを提供し高床化された車両もあった。「だるま」の愛称で親しまれた。

LSC型[編集]

  • 338-389
  • 車両不足と新線開業に伴い製造。一部は2600型に改造された。

LB型[編集]

  • 1016-1043
  • 名古屋市電初のボギー車。細身の車体が特徴。これのせいで、「うなぎの寝床」と罵倒批判された。

MB型[編集]

  • 1101-1116
  • LB型のマイナーチェンジ版。LB型と比べ、丸みが少なくなり、全長が短くなった。

1200型(BLA型)[編集]

  • 1201-1210
  • 名古屋市電初のボギー車。リベットが特徴の半鋼製車体。一部の車両が豊橋鉄道に譲渡され、2005年までレトロ電車として活躍していた。

1300型(BLC型)[編集]

  • 1301-1316
  • 名古屋市電ボギー車最大の車両。大きすぎて、設計者の責任問題にまで発展したという伝説の車両。主に戦時中の行員輸送や戦後のラッシュ輸送に貢献した。廃車後、一部は渥美半島沖で漁礁となった。

1400型[編集]

  • 1401-1475
  • 前述のとおり汎太平洋平和博覧会に備え、名古屋市電の今後の標準となるのを目標に作られた車両であった。美しいデザインに省エネルギー性、乗務員の使い勝手の良さから名古屋市電を代表する車両であり、市電最後の日まで活躍した。現在でも豊橋鉄道では動態保存車として健在であり、名古屋市科学館にも展示されている。

2600型[編集]

  • 2601-2615
  • 戦時中の軍需工場への短時間での大量輸送のために旧型車の改造名義で導入。単車からは制御器のみがねん出された。初めは電気機器も転用する予定だったが、パワーが足りず断念。別の車両からねん出した。形式名の由来は皇紀2600年(1940年)に製造されたことから。戦後は主に団体輸送に使われた。

1050型[編集]

  • 1051-1070
  • 大正時代に製造されたSB型とMB型が老朽化したため、台車を流用し1400形に準じた車体を組み合わせた車両。[4]騒音が大きく、「カミナリ電車」とも呼ばれた。

1150型[編集]

  • 1151-1177
  • 1050型同様、古くなった車両の台車を使いまわした車両。戦時中の製造であったため、天井はない、座席は板張り、室内灯は裸天球と酷い有様であったが、戦後に改修された。当初は高床車であったが、後にほとんどの車両が低床車となった。

900型[編集]

  • 901-907
  • 呉市電の注文流れの車両。1943年から44年にかけて撒水車の改造の名目で購入。名の由来は「呉」をもじったことから。しかし、折り戸を使用していたことから乗務員に嫌われ後に引き戸に改造された。豊橋鉄道に譲渡され、1982年まで活躍した。

3000型[編集]

  • 3001-3010
  • 戦時中の輸送のために特別に資材の割り当てが行われ製造された連接車。久しぶりの新車ということもあり、内装も戦時中にしてはマシなものになったが、旧型車からに使いまわしのモーターではパワーが足りず、坂がある区間では入線できないこともあったため、戦後に新しいモーターに改造された。輸送力に定評があったが、晩年はその力を持て余すことが多かった。

2700型[編集]

  • 2701-2711
  • 老朽化した単車を一掃するために導入。本来は69両導入する計画だったが、戦時中ということもあり11両にとどまった。しかし、連接車であったため輸送力増強に大きく貢献した。高床車の部品をねん出するために高床車になったが、後に低床化。終戦の時期(1946-48年)に導入されたため、内装の完成具合にばらつきが出ているのが特徴。

1070型[編集]

  • 1071-1075
  • 仙台市電の注文流れの車両。1948年に戦災車の改造名義で購入。名の由来は「仙台流れ」をもじったことから。当初はマルーン色であり「赤電」と呼ばれた。

1500型[編集]

  • 1501-1545
  • 戦後初の新造車。1400型をベースに当時の路面電車標準規格に合わせた車両。この車両から新塗装を導入しイメージアップを図った。

1600型[編集]

  • 1601-1676
  • 旧型車一掃を目的に1500型をベースに乗務員節約のため中央扉をなくした車体。日本初のワンマンカーでもある。しかし、名古屋市電は他市と方式が異なるため、前から後扉を見ることは難しく、乗務員から嫌われ、ワンマン改造は少数で終わった。

1700型[編集]

  • 1701-1705
  • 終戦と同時に製造が打ち切られた2700型連接車の製作途中の車体を組み合わせ、ボギー車1両に仕立て上げた車両。この名残でドア配置は独特で後扉がなかった。しかし、それがワンマン運転に適していたため下之一色線で活躍していた。

1800型[編集]

  • 1801-1814(A車)
  • 1400型に準じた車体に様々な近代化を加えた、名古屋市電初のPCCカー(無音電車)。初めは故障が多かったが、徐々に回復した。栄町線を中心に走り、ワンマン化改造はされず、栄町線と運命を共にした。
  • 1821-1830(B車)
  • A車を改良したもの。

1900型[編集]

  • 1901(1815)
  • 1800型1815号車を技術資料を得るために改造。しかし、新技術の調子が悪く、動いていることは少なかった。
  • 1902-1922
  • 1901を改良し、1820型の車体を組み合わせたもの。

1550型[編集]

  • 1551-1562
  • 1800型の廉価版の車両。部品も旧型車からの転用が多く、「インチキ無音」とも呼ばれた。一部方向幕が大型化した車両が存在する。しかし、1800型と比べ使い勝手がよく最後まで使われた。一部の車両は岡山電気軌道に譲渡された。

800型[編集]

  • 801-812
  • 日本車両の試作車として登場。11トンという軽量構造、コルゲートに正面2枚窓などが特徴。軽快な動きと室内に蛍光灯を設置するなど利点もあったが、脱輪や制動の悪さなど欠点も多かった。また、ほかの車両と比べ安く仕上がったものの、前述のとおり欠陥が多かったため早めに廃車となり結果的には高くつくことになった。最終的には港車庫廃止と共に廃車となり、漁礁として渥美半島沖に沈められ、市営交通資料センターに映像が残っているので一見の価値あり。

2000型[編集]

  • 2001-2029
  • 今までの技術を発展させた市電最末期&黄金期を象徴する車両。方向幕や窓の大型化など技術発展が目に見える。また、一部自動車用の部品を採用。コストダウンをした。最新の車両であったものの市電最後まで生き残ることはできなかった。[5]

路線[編集]

栄町線
  • 笹島町~栄~武平町~(千種町西裏)
  • 名古屋市電で初めて開通した路線。名古屋のメインストリート広小路通を通るため、広小路線とも呼ばれた。もっとも混雑していた路線であったため、ラッシュ時には1分間隔の運転が行われており、この路線を走る車両は3扉車が多かった
押切線
  • 柳橋~(志摩町~)那古野町~押切町
  • 那古野に本社や発電所などが置かれていたことから2番目に開通した路線。押切町からは郊外線の電車が乗り入れを行っていた時期もあった。志摩町~那古野町間は道幅が狭かったことから、市電初の廃止区間となった。
熱田線
  • 栄~金山橋~熱田伝馬町~内田橋
  • 名古屋を南北に結ぶ幹線路線。繁華街栄と金山を大津通を通って結ぶ。沿線には熱田神宮があり、初詣などの時には賑わいを見せた。また、沢上町には沢上車庫があった。
公園線
  • 新栄町~鶴舞公園~上前津
  • 1910年に関西府県連合共進会に伴い開通。ほかの路線とともに環状線を形成していた。また、途中でメイン道路が変更になり、市電は裏道を走ることとなったため、沿線には古い街並みが残っていた。
築港線
  • 熱田駅前~船方~築地口~名古屋港
  • 名古屋港へ向かう2つの路線のうちの1つ。沿線には現在でも工場が多い。
御黒門線
  • 上前津~大須
  • 公園線と開通経緯が似ているため、ウィキペディアなどではセットで扱われている。
岩井町線
  • 大須~岩井町~水主町
下江川線
  • 柳橋~尾頭橋~船方
  • 江川や堀川沿いを結ぶ系統。○○橋といった電停名が多いのもその関係。修理工場があった関係で最後まで市電が残った路線のうちの1つ。
覚王山線
  • (千種町西裏)~今池~覚王山
  • 栄町線と同様、広小路通を結ぶ。栄町~今池間は高密度区間で、連接車が多く見られた。
八事線
  • 大久手~安田車庫前~八事
  • 興正寺に向かう行楽客のためにつくられた「八事電車」とも呼ばれた路線。八事西頴娃墓地があった関係で霊柩電車が運転されたことも。沿線に学校が多かったため、学生が多かった。また、整備状態が良くなく脱線が多かった。
循環東線
  • 矢田町十丁目~今池~大久手~桜山町~新瑞橋
  • 矢田町四丁目~桜山町間は1943年まで名古屋市営トロリーバスが運行されていた。これは戦時輸送で市電延伸が必要になった一方、レールが不足気味であったことが理由だ。[6]最後まで残った区間のうちの一つ。そのためか現在は沿線の多くを地下鉄桜通線が通っている。また、矢田町十五丁目には専売公社の工場への引き込み線との平面交差、瑞穂運動場前からは運動場の観客向けの支線(瑞穂運動場引込線・団体客向けの輸送)があった。
中村線
  • 笹島町~中村公園~稲葉地町
  • 名古屋駅の西側を走る路線。
行幸線
  • 明道町~名古屋城前
上江川線
  • (志摩町)~明道町~江川町~浄心町
下之一色線
  • 尾頭橋~下之一色~稲永町
  • 日本初のワンマン運転路線であり、全線単線のローカル線、名古屋市内とは思えないのどかな風景や除草剤の散布や魚の行商の人が乗り込むなど、見どころが多かった路線。単線続行運転を行うため、この路線を走る車両には後続車確認標識灯(信号機のような形)がつけられていた。昼間の乗客が少なかったせいか新しい技術のテストにも使われるがあり、名古屋初の地下鉄車両の試作車もも初めはこの路線で試運転が行われた。
東片端線
  • 名古屋城前~東片端~平田町
  • 名古屋城外堀区間を通る路線。
高岳線
  • 東新町~清水口~赤塚~大曽根
  • 清水口~山口町間は現在市バス基幹2系統が運行中。
葵町線
  • 平田町~新栄町
築地線
  • 築地口~稲永町
  • 下之一色線とルーツは一緒だが、こちらは複線。
山口町線
  • 平田町~赤塚
明道町線
  • 菊井町~明道町
東郊線
  • 鶴舞公園~高辻~堀田駅前・高辻~滝子
  • 空港線を通る路線。高辻には市電の車庫があった。現在、鶴舞公園~高辻で市バス基幹1系統を運行中。
高岳延長線
  • 東新町~鶴舞公園
大津町線
  • 大津橋~栄
押切浄心連絡線
  • 押切町~浄心町
藤成線
  • 滝子~市立大学病院
水主町延長線
  • 水主町~六反小学校前
東山公園線
  • 覚王山~東山公園~星ヶ丘
  • 東山公園に向かう行楽客が多い路線。地下鉄建設のため、一足早く廃止になった東山公園~星ヶ丘間は市電戦後初の廃止区間であり、星ヶ丘に市電が来たのはたったの2年間である。また、池下には車庫があった。その後、地下鉄の車庫や愛知厚生年金会館となり、現在はマンションになっている。
野立築地口線
  • 日比野~築地口
  • 汎太平洋博覧会に向けて開通した路線。現在は名古屋港へ行くためのメインルートとなっており、地下を地下鉄名港線が通っている。
広井町線
  • 名古屋駅前~那古野町
笹島線
  • 六反小学校前~笹島町
大江線
  • 内田橋~大江町~開橋~昭和町
  • 南区の工場の輸送路線。開橋~昭和町間は市電最後の開通路線である。
築地線支線
  • 稲永町~西稲永
大曽根線
  • 大曽根~東大曽根
笠寺線
  • 新瑞橋~笠寺西門前
八熊東線
  • 八熊通~沢上町~高辻
  • 八熊通を走る路線。八熊西線は計画のみの存在。[7]
御成通線
  • 大曽根~上飯田
  • 御成通の名の由来は1937年に昭和天皇がこの地を行幸なさったことが由来。
笠寺延長線
  • 笠寺西門前~笠寺駅前
清水口延長線
  • 清水口~黒川~城北学校前
  • 幹線道路を走るため渋滞が多く、廃止はほかの路線と比べ早かった。
東臨港線
  • 笠寺駅前~大江町
  • 軍需工場への輸送のために休止路線の線路を使い、つくられた路線。
循環北線
  • 矢田町十丁目~矢田町四丁目
  • 循環東線とほぼ一体化している路線。
浄心延長線
  • 秩父通~浄心町
  • 括弧内の電停・区間は当時存在せず。

運転系統[編集]

1系統
  • 名古屋駅前~栄町~今池覚王山~星ヶ丘
  • 現在の地下鉄東山線沿線を結ぶ路線。
2系統
  • 稲葉地町~笹島町~栄町~今池~覚王山~東山公園
  • 1系統を中村区西部まで伸ばした。現在も名古屋駅~稲葉地町までの市バスは多い。
3系統
  • 名古屋駅前~笹島町~上前津~鶴舞公園~東新町~東片端~明道町~名古屋駅
  • 都心を結ぶ名古屋市電唯一の循環系統。乗客案内のために方向幕を区間によって変えていったようだ。
10系統
  • 秩父通~明道町~水主町~尾頭橋~船方~熱田駅前
  • 江川線沿いを走り、上江川・下江川両線を通る。浄心町~尾頭橋間はかつて存在した市バス金山24系統のルートである。
11系統
  • 浄心町~菊井町~名古屋駅前~笹島町~栄町~今池~覚王山
12系統
  • 名古屋駅前~菊井町~明道町~東片端~平田町~大曽根~東大曽根
  • 現在でも市バス幹名駅2系統として同じルートで運行中。大曽根線を走る唯一の系統だった。
13系統
  • 浄心町~菊井町~明道町~東片端~平田町~大曽根
  • 12系統の兄弟路線のようだが、都心を通らない。
18系統
  • 名古屋駅前~菊井町~明道町~東片端~清水口~黒川
20系統
  • 大津橋~栄町~上前津~金山橋~熱田駅前~船方~築地口~名古屋港
  • 現在は金山~名古屋港間を市バス金山25系統が運行中。
21系統
  • 大津橋~栄町~上前津~金山橋~熱田駅前~大江町~昭和町
  • 20系統の兄弟系統。現在は金山~昭和町間を市バス金山19系統が運行中。
22系統
  • 上飯田~大曽根~清水口~東片端~大津橋~栄町~上前津~金山橋~熱田駅前
30系統
  • 名古屋駅前~笹島町~水主町~上前津~鶴舞公園~高辻~堀田駅前
  • 現在は名古屋駅前~堀田通五丁目間を市バス名駅18系統が運行中。
31系統
  • 栄町~上前津~金山橋~高辻~桜山町~新瑞橋
33系統
  • 東新町~鶴舞公園~高辻~桜山町~新瑞橋~笠寺駅前~港東通
  • 港東通という中途半端なところが終点なのが特徴。
34系統
  • 城北学校前~黒川~東片端~鶴舞公園~高辻~堀田駅前
  • 市電のうち最後までツーマン運転が行われた系統。現在は城北学校前~高辻間を市バス黒川12系統が運行中。
35系統
  • 名古屋駅前~菊井町~明道町~柳橋~水主町~鶴舞公園~高辻~桜山町~新瑞橋
50系統
  • 名古屋駅前~菊井町~明道町~柳橋~水主町~八熊通~港車庫前~築地口~名古屋港
51系統
  • 桜山町~高辻~八熊通~港車庫前~築地口~稲永町~西稲永
52系統
  • 大津橋~栄町~上前津~金山橋~八熊通~港車庫前~築地口~稲永町~西稲永
60系統
  • 名古屋駅前~笹島町~栄町~今池~大久手~安田車庫前~八事
  • 現在は千種駅前~八事間を市バス八事12系統[8]が運行中。
61系統
  • 今池~大久手~桜山町~新瑞橋~笠寺駅前~大江町~昭和町
  • 工場地帯を走るため、利用者が多かった時代もあったようだ。
62系統
  • 名古屋駅前~笹島町~栄町~今池~大久手~桜山町~瑞穂通三
63系統
  • 矢田町四~今池~大久手~桜山町~新瑞橋
  • 現在は矢田町四~御器所間を吹上11系統が運行中。
70系統
  • 尾頭橋~長良本町~下之一色~稲永町~築地口
  • 下之一色線を走る唯一の系統。
80系統
  • 上飯田~大曽根~平田町~鶴舞公園~上前津~水主町~八熊通
  • 元14系統。浄心車庫から受け持ちが変更された。
81系統
  • 上飯田~大曽根~平田町~東片端~明道町~菊井町~名古屋駅前
82系統
  • 上飯田~大曽根~清水口~東片端~鶴舞公園~高辻~堀田駅前

臨時路線[編集]

  • 多くの路線があったようだが確認が取れたもののみ。
5系統
  • 稲葉地町~笹島町~栄町~今池~覚王山
  • 2系統の区間運転路線と思われる。詳細不明。
15系統
  • 名古屋駅前~菊井町~押切町~浄心町
  • 名古屋駅と浄心車庫を結ぶ送り込み路線であったが、本数は多かった。


  • 車庫別に系統番号が分けられていた。(0番台は池下、10番台は浄心、20番台は沢上、30番台は高辻、40番台は老松→池下、50番台は港、60番台は安田、70番台は下之一色、80番台は上飯田)


車庫[編集]

運輸事務所では日々の検査や修理といったことから乗務員の拠点にもなっていた。

池下電車運輸事務所
  • 現在は市営住宅とバスターミナルになっている。
稲葉地電車運輸事務所
  • 現在は市営住宅になっている。
稲葉地電車運輸事務所星ヶ丘操車場
  • 現在は市営住宅になっている。
浄心電車運輸事務所
  • 現在は駅ビルになっている。
沢上電車運輸事務所
  • 現在はマンションになっている。
高辻電車運輸事務所
  • 現在は市営住宅とマンションになっている。
上飯田電車運輸事務所
  • 現在は市営住宅とバスターミナルになっている。
港電車運輸事務所
  • 最初にワンマン化された車庫であったが、標準タイプのワンマンカーとは違った形をしており、港型ワンマンとも呼ばれた。(のちに標準と変わらなくなる)市バス車庫になった[9]のち、現在は市バス転回場になっている。
港電車運輸事務所下之一色分所。
  • 下之一色線を管轄。現在は公園になっている。
大久手電車運輸事務所
  • 手狭であったため、車庫機能は安田車庫にあった。現在は交通局の事務所になっている。
大久手電車運輸事務所安田車庫
  • 現在は老人ホームになっている。
西町工場
  • 全般・重要部検査を行っていた。市電廃止後もバスの工場として生き残ったが、緑区森の里に移転(現在は廃止済)。現在は市営住宅と中学校になっている。


参考文献[編集]

  • 名古屋の市電と町並み - 日本路面電車同好会名古屋支部 - トンボ出版
  • 名古屋市電が走った街今昔 - 徳田耕一 - JTB出版
  • 名古屋市電物語 - 中日新聞本社

脚注[編集]

  1. 施設のほとんどを輸入品で作られた。
  2. 東洋一の駅舎とも呼ばれる名古屋駅の旧駅舎ができたのもこの頃。
  3. 伊勢湾台風の被害は凄まじかったようで半年以上不通になる区間もあり、4億円の被害額を出した。
  4. 当時は電気機器が入手困難であったため。
  5. 最新すぎて整備に手間がかかったのだろう。対照的に最後まで生き残ったのは1400形など旧型車ばかりだった。
  6. トロリーバスの車庫の跡地に現在は名古屋市営バス御器所分所が存在する。
  7. 八熊通から西に進み篠原橋まで行く計画であったらしい。
  8. 市バスもかつてはそのまま60系統だった。
  9. 市バス車庫になった後も、ピット内にはレールが残されていた。