晒し首事件 (シンガポール)

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シンガポールの晒し首を描いた絵(大英帝国戦争博物館English版所蔵)

晒し首事件(さらしくびじけん)とは、1942年7月6日から数日間、日本軍占領下のシンガポールで、日本軍(第25軍)が、キャセイ・ビルEnglish版の前など市内数ヵ所に現地住民の生首を晒していた事件。晒し首にされたのは、日本軍の倉庫に侵入し、軍糧を盗もうとして射殺された住民で、晒し首にした目的は、1942年中頃からの食糧不足を背景として、軍糧を盗もうとする住民へのみせしめにすることだったとも、同年7月7日の盧溝橋事件の記念日を期した中国系住民の抗日行動を牽制するためだったともいわれている。多くのシンガポールの住民や日本軍の軍政関係者の回想録などに、日本軍政の非人道性や圧政を象徴する事件として言及がある。先編集者由亜辺出夫


事件[編集]

1942年7月6日から数日間、当時、第25軍宣伝班の事務所が置かれていたキャセイ・ビルEnglish版の前など市内数ヵ所で、日本軍(第25軍)が、獄門台を設けて、現地住民の生首を晒していた[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10][11]

時期[編集]

馬 (1986 106)および小田部 (1988 148)(徳川義親の日記からの引用)によると、晒し首は、1942年7月6日に晒された。中島 (1977 143)は、同日、交換船浅間丸がシンガポールに入港し、その数日後に市内で晒し首が行なわれていることを聞いた、としている。

後日書かれた回顧録では日付の記載揺れが大きく、山田 (1987 31)は「7月7日」、洪 (1986 155)は「8,9月」、シンガポール市政会 (1986 374)は「1942年6月頃」、大西 (1977 149)は「昭和17年春頃と思うが日時は明瞭でない」、大谷 (1973 195)は「たしか(昭和)17年の暮れごろ」でちょうど内地から鈴木貞一国務相(企画院総裁)が来市中のときだった、としている。またリー (2000 41-42)は、占領後のある日、市内ブラス・バサー路English版の古書店へ買い物に出かけた途中のこととし、堺 (1977 253)は時期不定の事件として叙述している。

しかし、いずれの文献でも、一過性の重大事件として叙述されており、当時の日記に基づくとみられる文献では日付が特定されていることから、いずれも7月6日の事件のことに言及しているように思われる。

なお、この事件とは別に、占領初期にも晒し首が行なわれたとしている文献もある(#占領初期の晒し首)。

場所[編集]

キャセイ・ビルの前にあった晒し首については、馬 (1986 106-107)およびリー (2000 41-42)がこれを目撃した、としている。

  • 馬 (1986 106-107)によると、オーチャード・ロードEnglish版沿いのテニスクラブの脇に獄門台が設けられ、血だらけの生首4つが晒されていたといい、リー (2000 41-42)は、キャセイ・シネマの正面入口近くに人だかりができていて、その中に中国人男性の首が柱の上の板に置いてあった、としている。当時、憲兵隊にいた大西覚も、警備隊が「オチーロード(オーチャード・ロード)」に壇を設けた、としている[6]

晒し首は、キャセイ・ビル前の他にも、市内数か所で行われていたとされているが、他所の晒し首については詳細な目撃記録はあまりない。

  • 馬 (1986 106-107)は、晒し首は全部で8つあり、キャセイ・ビル前の4つのほかに、1つがゲラン橋のたもと、1つがビクトリヤ記念堂English版の前、2つがパシル・パンジャンEnglish版に晒されていた(全部で8つ)としている。また小田部 (1988 148)(徳川義親の日記)も、軍政部の前その他に8つの曝首があった、としている。
  • シンガポール市政会 (1986 374)は、生首は市内の目抜きの道路脇3箇所に置かれていた、横田 (1953 124)は、シンガポールの目抜き通りの2ヵ所に4つずつ生首を曝した、大谷 (1973 195)は、「市街の要所5,6ヵ所」に、首級を台上に載せ、その側に具体的な罪状を書いて立札とした、としている。
  • 大西 (1973 149)には、オーチャード・ロードの晒し首以外には言及がない。

生首の数[編集]

生首の総数については、上記のとおり、8つ、としている文献が多いが、洪 (1986 155)は、全部で9つあった、とし、山田 (1987 31)は「5人」、大西 (1977 149)は「3人」としている。

人種[編集]

さらし首にされた現地住民は、小田部 (1988 148)(徳川義親の日記)によると「スマトラ人」だった。他の文献でも「マレー人」とされていることが多いが、「インド人」だった、という証言もあり、「中国人」だったとする文献もある。

布告文[編集]

馬 (1986 106-107)によると、獄門台には漢字で書かれた告示が貼ってあり、インド人らしい名前の8人が軍用倉庫に盗みに入って捕えられ、軍事法廷によって斬首、晒し首の刑に処せられたと書かれていた。

  • 大西 (1977 149)は、晒し首は(大西が統率していた憲兵隊ではなく)警備隊が、壇を設け、射殺理由書をかかげておいたもの、としている。
  • 横田 (1953 124)は、英語マレー語、中国語、ヒンディー語等で書かれた斬奸状の立札に「日本軍歩哨を殺した」と書いてあった、としている。
  • リー (2000 41-42)は、さらし首の横に中国語で何かが書いてあり、リーは中国語が読めなかったが、他の人が、この男は略奪行為に走ったため、打ち首にされた、軍令に従わない者はこの中国人男性と同じ方法で処分される、見せしめだと言っているのを聞いた、としている。
    • シンガポール生まれの華人だったリーは、告示が漢字で書かれていたため読むことができず、この事件が中国語を勉強する契機になったという[1]

目的[編集]

日本軍が曝し首をした目的については、日本軍の倉庫に盗みに入った強盗団が日本軍の歩哨を殺害したため処刑された、としている文献が多いが、上述のように、獄門台に付された布告文にそのような説明が記されていた由である。しかし、当時憲兵隊にいた大西覚の回想録によれば、侵入した窃盗犯はその場で射殺されており、裁判が行われた経緯はなく、歩哨を殺害したわけでもなかったようである。この見方は当時報道班員だった堺誠一郎にも共通している。

  • 中島 (1977 133-138)、洪 (1986 155)、シンガポール市政会 (1986 374)、小田部 (1988 148)(徳川義親の日記)、横田 (1953 124)、大谷 (1973 195)は、日本軍の倉庫に盗みに入った(マレー人の)強盗団が日本軍の歩哨を殺害したため処刑された、としている。
  • 大西 (1977 149)は、マレー、シンガポールはもともと(食糧の)生産地ではなく商業地だったため、日本軍の占領後、原住民は食糧難に陥り、日本軍の貨物廠が襲われる窃盗事件が多発したため、警備隊が無断侵入者を射殺すると公示しており、その後侵入してきたインド人3人を警戒兵が命令どおり射殺した、とし、堺 (1977 253)は、「単なる泥棒かなんかしたマレー人」を「軍の物資を盗んだというんで」、「みせしめのために」さらしていた、とし、日本軍に従わない者を殺して、さらし首にすることで、軍事的に威圧して治めようということが第一にあったと思う、としている。
  • 山田 (1987 31)は、占領当初の粛清事件とあわせて、「さらに治安を確保するため」に7月7日に晒し首をし、「血のまだしたたる首を見た市民が恐れおののき、それから後治安が確保されたという」と聞き書きしている。

また、馬 (1986 106-107)は、7月7日は盧溝橋事件の記念日にあたり、同年2月に華僑粛清があったため、中国系住民の抗日行動を警戒した日本軍が先制的に見せしめに出たと推測している。これと相反して、当時宣伝班員だった中島 (1977 133-138,143)は、日本軍が7月7日を意識して計画していた華僑通電を中止していたことから、中国系住民の感情を逆撫でする意図はなく、あくまで「乱暴者の作戦参謀が独断でやらせた嫌がらせ」だった、と推測している。

  • 中島が「嫌がらせ」としているのは、事件の翌日、中島は、シンガポールに寄港した交換船浅間丸に乗船していた中立国(チリ)人を、市内を通り抜けてブキテマの戦跡へ案内することになっていたためで、中島は当日晒し首を目撃されないように苦心したという[12]

命令者・実行者[編集]

大西 (1977 149-150)は、射殺の布告を掲げて侵入者を射殺したのは(大西が指揮していた憲兵隊ではなく)警備隊で、憲兵隊は警備隊の警戒活動に協力はしたが、事件には関与していないとし、晒し首をするにあたっては参謀の諒解があったとされているが、軍の中で誰が指示・実行したかは不明であり、憲兵隊は晒し首を知った時点で即時撤去すべきで、晒し首を数日間放置した責任は免れない、としている。

当時第25軍司令部宣伝班の班員だった中島健蔵は、軍宣伝班内での情報として「乱暴者の作戦参謀が独断でやらせた嫌がらせ」と聞いた、としている[13]

影響・評価[編集]

軍政関係者[編集]

  • 大西 (1977 150)は、占領直後で将兵も殺気立っていたが、遺憾な行為だった、としている。
  • 中島 (1977 133-138)は、「処刑されたのは、凶悪犯人かもしれない。しかし、斬首とか、さらし首とかいう行為は、違法であり、蛮行であった。一人の参謀のいたずら半分の思いつきだったかもしれない。しかしその1人の蛮行の結果が、日本人全体に対する悪感情となることは明らかだった。それを制止しなかった、という現実を、どう弁解してもむだである。」としている。
  • 大谷 (1973 195)は、当時の軍政段階では不適当であり、原住民に与える感情を無視するものだと、自分は憤慨した、としている。
  • 堺 (1977 253)は、宣伝班の中では、「あんなことされたんじゃ宣伝もクソもない」という話が出ていた、としている。

新聞記者[編集]

  • 横田 (1953 124)は、軍当局は現地人に対して徹底的な武断政治を行い、「皇軍の威武」は現地人には残虐と野蛮にしか映らなかったが、その象徴が曝し首事件だった、としている。
  • 洪 (1986 155)は、晒し首にされたのはマレー人で、占領当初日本軍はマレー人に対して寛容だったが、事件を契機にマレー人に対する態度を硬化させた、としている。

現地住民[編集]

  • 馬 (1986 106-107)は、多くの人は晒し首を怖がって道路の反対側の歩廊から眺めていたとし、翌日の7月7日は重苦しい1日になったとしている。
  • リー (2000 41-42)は、キャセイ・シネマの入口付近には人だかりができていたとし、日本人に恐怖を感じながらも、近代的なビルとその前で行われた「中世の刑罰」との対比を写真に撮っておきたいと思ったとしている。
  • 大西 (1977 149-150)は、晒し首を目撃した中立国人や現地住民は日本軍の非人道、野蛮な行為を顰蹙、非難した、とし、晒し首は日本軍の「非人道的野蛮行為」を現地住民に見せ付けることになり、軍政に対する不信感を増し、日本軍の汚点を残した、としている。
  • 大谷 (1973 195)は、部下の1将校にさらし首に対する「民衆の声」を聞くことを命じた、とし、マレー人は、それまで日本人が自分達を盛り立ててくれると確信していたが、事件で深刻な衝撃を受け、確信にヒビが入ったといい、華僑はこれまで軍の弾圧にあえいでいたため「今度はお前たちの番だ」と喜んでいるとし、またユーラシアンやインド人は軍の残虐な態度に顰蹙している、として、現地住民の反応は、軍の処置を嫌悪するものと無関心なものと半々だった、としている。
  • 横田 (1953 124)は、若い女性の中にはさらし首をみて気絶した人もいたとし、海岸通りEnglish版の喫茶店「青い鳥」のユーラシアン女給たちから「日本には裁判というものはないの?日本の法律ではこう簡単に死刑にされるの?東京の街なかでも曝し首ということは行なわれるんですか?」と憤りをこめた眼付きで口々に訊かれた、としている。

後日談[編集]

シンガポール市政会 (1986 374)によると、事件当時昭南特別市長の職にあり、戦後、文部大臣となった大達茂雄が、国会の委員会で野党の議員から戦犯裁判についてどう思うか尋ねられた際に、「土人の首祭りのようなものだ」と答弁をし、これに対して野党の議員が「君は昭南市長のとき、首祭りをやったではないか」と反論したことがあったという。

占領初期の晒し首[編集]

1942年7月6日の晒し首のほかに、リー (2000 32)と篠崎 (1976 37-38)は、占領初期の1942年3月にも晒し首が行われたとしているが、記述がよく似ており、共通する別文献(おそらくChin Kee Onn, "Malaya upside down," Singapore, Jitts & Co., 1946)から転載した記事のようである。

  • リー (2000 32)は、キャセイ・ロードで目撃した曝し首(リー 2000 41-42)とは別に、1942年2月16日の日本軍によるシンガポール占領直後の数日間に、倉庫や百貨店、英国人所有の商店から略奪をする者がいて、日本軍が略奪者の集団を射殺し、首をはねて主要な橋や交差点にみせしめにし、略奪行為が終息した、としている。
  • 篠崎 (1976 37-38)は、時期不定で、占領初期の話として、市内では憲兵が警戒していたので略奪は起らなかったが、郊外の英国人が住んでいた地区は「略奪の坩堝と化し」ており、略奪者が軍用倉庫を襲ったので軍が非常手段をとって8人の略奪者を捕えて斬首し、生首を2つずつ市内4ヵ所に曝したので「市民は震えあがったが、とにかくこれで、狂暴な略奪はピタリと止んだ」と記している。

バターワースの晒し首[編集]

1941年12月19日に日本軍がペナンを占領した後、ペナンから対岸のバターワースに逃れていたリー・クーンチョイは、バターワースの広場で、憲兵隊長の「鈴木」という日本人が、中国人の男を「日本人のふりをして大勢の人を騙した」という理由で斬首し、イスラム食堂の店先に首を晒しているのを目撃した、としている。首は3日目に腐臭を放ちはじめ、片付けられたが、バターワースの人々は恐怖感を植え付けられ、リーにとっても忘れられない体験だった、という。[14]

タイピンの晒し首[編集]

第25軍司令部宣伝班の班員として従軍していた井伏鱒二は、シンガポール占領より前の1942年1月2日頃、タイピンの宿舎近くの大通りに獄門台が置かれ、生首が3つ並べられて罪状を記した「布告」が日本語・英語・中国語・印度語・マレー語の5ヶ国語で記されているのを目撃した、としている。宣伝班の中では、3人のうち1人はイポーの万里望という所の出身で、タイピン近くの山中で、敗残兵を追って村落に入った日本兵を猟銃で狙撃したところ、英軍に呼応した現地人義勇兵とみなされ制裁を加えられたもので、第25軍で決裁をしたのは辻政信作戦主任参謀だと噂されていたという。[15]

同じく第25軍の宣伝班員として従軍していた堺誠一郎は、イポーで曝し首をしているのをみた、としている[8]

外部リンク[編集]

大英帝国博物館所蔵の、シンガポールの晒し首を描いた絵。獄門台に首が置かれている絵と、棹に首が刺してある絵があり、どちらも1942年のスケッチとされている。

付録[編集]

脚注[編集]

参考文献[編集]

  • リー (2000) リー・クアンユー 小牧利寿 [ リー・クアンユー回顧録 ] 上 日本経済新聞社 2000 ISBN 4532163625
  • 井伏 (1998) 井伏鱒二 [ 続徴用中の見聞 ] 井伏鱒二全集 26 筑摩書房 1998-10 253-321 ISBN 448070356X
  • 小田部 (1988) 小田部雄次 [ 徳川義親の十五年戦争 ] 青木書店 1988 ISBN 4250880192
  • 山田 (1987) 山田勇「第I部 経済学と私」故山田勇先生追想文集編集世話人会(編)『理論と計量に徹して‐山田勇先生追想文集』論創社、1987年4月、NCID BN05592015、pp.9-139
  • リー (1987) リー・クーンチョイ 花野敏彦 [ 南洋華人‐国を求めて ] サイマル出版会 1987 ISBN 4377307339
  • シンガポール市政会 (1986) シンガポール市政会 [ 昭南特別市史-戦時中のシンガポール ] 日本シンガポール協会 1986-8 JPNO 87031898
  • 馬 (1986) 馬駿 許雲樵・蔡史君(原編)田中宏・福永平和(編訳) [ 2 壬午新年の日本軍進駐 ] 日本軍占領下のシンガポール 青木書店 1986-5 103-107 ISBN 4250860280 (初出は『新明日報』1984年4月22日)
  • 洪 (1986) 洪錦棠 許雲樵・蔡史君(原編)田中宏・福永平和(編訳) [ 7 日本軍と各民族 ] 日本軍占領下のシンガポール 青木書店 1986-5 148-157 ISBN 4250860280
  • 大西 (1977) 大西覚 [ 秘録昭南華僑粛清事件 ] 金剛出版 1977-4 JPNO 77032906
  • 堺 御田 (1977) 堺誠一郎 御田重宝 巻末対談 [ マレー戦・後編‐人間の記録 ] 徳間書店 1977-10 JPNO 77032926 248-257
  • 中島 (1977) 中島健蔵 [ 雨過天晴の巻 回想の文学5 昭和17年-23年 ] 平凡社 1977-11 JPNO 78000357
  • 篠崎 (1976) 篠崎護 [ シンガポール占領秘録―戦争とその人間像 ] 原書房 1976 JPNO 73016313
  • 大谷 (1973) 大谷敬二郎 [ 憲兵‐自伝的回想 ] 新人物往来社 1973-03 JPNO 73010150
  • 横田 (1953) 横田康夫 シンガポールの夕陽 田村吉雄 [ 秘録大東亜戦史 6. マレー・太平洋島嶼篇 ] 富士書苑 1953 NDLJP 2991801 (閉) 121-137