フェラーリ

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フェラーリ(Ferrari S.p.A)は、イタリアモデナ県マラネッロに本社を置く自動車メーカーである。フィアットグループの傘下で、高級グランツーリスモ及び高級スポーツカーのみを製造している。


沿革[編集]

ファイル:FerrariF40.jpg
F40(1987年-1992年)

創立[編集]

1929年に、アルファ・ロメオのセミワークスレーシングチームとして、エンツォ・フェラーリとその友人により設立された「スクーデリア・フェラーリ」が前身である。フェラーリは1932年まで自身もスクーデリア・フェラーリのレーシングドライバーとしても活躍していた。

その後1940年にイタリアが第二次世界大戦に参戦し、レース活動が禁止されるとフェラーリは工作機械製造の経営者となった。その後1943年8月にイタリアが連合国に降伏するとマラネッロに自前の自動車工場を設立し、その後しばらくの間フェラーリのエンジンを設計することになったジョアッキーノ・コロンボらを擁して自前のレーシングカーを開発するようになった。

市販車製造[編集]

フェラーリ社としての処女作は、創業初年度の1947年に製造したレーシングスポーツ「125S」であった。その後、1948年に発表した「166インター」よりGTカーの少数受注生産を開始した[1]。当時は車体(シャシーとエンジン)のみを製作し、ボディはカロッツェリアに委託していた。ピニンファリーナとの関係は「212インター・カブリオレ」(1952年)より始まる。

その後、エンツォの友人でアメリカにおける輸入販売代理店を経営していたルイジ・キネッティの勧めにより、世界最大の自動車市場であるアメリカ市場向けの「340アメリカ」 (1951年)や「340メキシコ」(1952年)など、次第に車種を拡げていったが、いずれも旧モデルとなったレーシングカーをデチューンしてロードカーに仕立て上げ、貴族や富豪などを中心に販売していたものであった。

その後「250」シリーズで初めてレーシングカーを基にしない市販車の製造を開始した。初代「250」は「暑い」、「うるさい」、「乗り心地が悪い」、「故障が多い」など不評も多かったが、シリーズを重ねるごとに改良は進み、操作性や快適性は増して行き、当時「世界最速の2+2」と称された「250GTE」などいくつかのモデルは純粋なレーシングカーから離れて行った。

一方で、「250MM」や「250GTO」などは、レース参戦のためのホモロゲーション取得を目的としたもの、もしくは多少のモディファイをすることで各種レースへの参戦も可能とした「ロードゴーイング・レーサー」であった。実際に、エンツォは自社の市販車に「スポーツカー」という言葉は用いなかったばかりか、乗り心地や快適性を求める購入者を蔑んでさえいた[2]

高い評価[編集]

その後フェラーリの市販車は品質や機能性を高めて行き、生産台数を順調に増やして行ったものの、その価格は依然として高価なものであった。しかし、これらのフェラーリの市販車は、F1をはじめとするレースにおける活躍によるブランドイメージの向上や性能の高さ、デザインの美しさが高い評価を受けて、ヨーロッパや北米を中心に高性能市販車としての地位を確固たるものとして行った。

また、欧米においては王族や貴族などの上流階級や、スポーツ選手や映画俳優などの著名人といったセレブリティが愛用し[3]、その姿が世界各国のニュース映画や雑誌の紙面を飾ったこともそのブランドイメージを押し上げる結果となった。なお、フェラーリは、現在に至るまで自社製品の広告を全く行わないことでも知られている[4]

エンツォは「12気筒エンジン以外のストラダーレ(市販車)はフェラーリと呼ばない」と公言していたという逸話が残っており[5]、この逸話通りこの頃生産されていたすべての市販車はコロンボやアウレリオ・ランプレディが設計したV型12気筒エンジンを搭載していた。

なお、「250GTルッソ」(1964年)や「275GTB/4」(1966年)をはじめとして、1973年にデビューした「365GT4BB」から1995年に生産を中止した「512TR」までの期間を除き、現在の旗艦モデルの「F12ベルリネッタ」に至るまで、限定生産車を除く市販車のトップレンジを担っているのはフロントエンジン(FR)、V型12気筒のモデルである。

経営危機[編集]

このようにフェラーリは高い名声を勝ち取ったものの、過剰なモータースポーツへの投資や労使紛争、さらに1961年11月にはカルロ・キティら主要メンバーによるクーデターが勃発しカルロ・キティやジオット・ビッザリーニら役員8名がフェラーリを去るなどの事件が起きたことも影響し、1960年代初頭には経営が苦境に陥った。

1963年にアメリカのフォードとの間で買収交渉を進めたが、調印寸前で交渉は決裂[6]。フォードは後に独自のスポーツカー「フォード・GT40」を開発し、その資本力にものを言わせてル・マン24時間レースでフェラーリを打ち破ることになる。

フィアットとの提携[編集]

その後、F2用エンジンのホモロゲーション取得のため、イタリア最大の自動車メーカーであるフィアットとの提携が始まる。エンツォの遺児アルフレード(ディーノ)の名を冠したV型6気筒エンジンは、市販車の「206/246」と2+2モデルである「208GT4/308GT4」に搭載された。これらの6気筒エンジン搭載車は、前述の「12気筒エンジン以外のストラダーレ(市販車)はフェラーリと呼ばない」というエンツォの言葉通り、フェラーリの名が冠されることはなかった(後に「246」のアメリカ市場向けモデルの後期型に、販売戦略上フェラーリのロゴが付けられることとなった他、「208GT4/308GT4」の後期型に正式にフェラーリの名が冠された)。

この6気筒エンジンはフィアット・グループ内の様々なブランドでも取り扱われ、「フィアット・ディーノ・クーペ/スパイダー」と「ランチア・ストラトス」が生まれた。マーケティング的配慮からなのか、キャブレター、カム、ピストンに至るまでフェラーリ、フィアットともにまったく同じ仕様で、排気レイアウトの関係上フィアットの方が有利なのにもかかわらず、馬力が少ない表示となっていた。

フィアット傘下へ[編集]

その後フィアットとの提携が進み、1969年にフェラーリはフィアット・グループ傘下に入ることで経営の安定を図ることになる。その後エンツォは、元来興味の薄い市販車部門からは一切の手を引いて、レース部門(スクーデリア・フェラーリ)の指揮に専念した。

フィアット・グループのジャンニ・アニェッリ会長の指揮のもと、フィアットからの人員を様々な部門で受け入れる中で、1970年代中盤にスクーデリアのマネージャーに就任したのが、フィアット・グループ創業者のアニェッリ一族につながる家柄の出身で、のちにフェラーリ会長(とフィアット・グループ会長)を務めるルカ・ディ・モンテゼーモロであった。1972年にはマラネッロの本社工場の西側にある果樹園を取得し、テストコースのフィオラノ・サーキットが造られた。

V型8気筒エンジンの登場[編集]

市販車部門を親会社のフィアットの意向が支配するようになった結果、6気筒エンジンを搭載した「206/246」に代わる最廉価モデルかつミッドシップの量産2シーターとして、1975年に「208/308」が生まれた。これらは新たに開発されたV型8気筒エンジンを、ピニンファリーナレオナルド・フィオラヴァンティがデザインしたFRPボディに搭載した。

V型8気筒エンジンを搭載する「スモールフェラーリ」シリーズは、「208/308」の後継モデルの「228/328」や、「208GT4/308GT4」の後継モデルの「モンディアル」と併せて2万台以上が生産されるフェラーリ史上最大のヒット作となった。さらに「208/308」と「モンディアル」のV型8気筒エンジンは、ランチアのレーシングマシンや「テーマ8.32」に使用された[7]。V型8気筒路線は「348」、「F355」、「360」、F430そして現在の「458イタリア」へと発展し、自動車メーカーとしてのフェラーリの屋台骨を支える系譜となった。

「208/308」のデビューとほぼ同時期の1973年には、名車と称された「365GTB/4」を引き継いでフェラーリのトップレインジを担う12気筒モデルとして「365GT4BB」が登場した[8]。同車はフェラーリの市販車として初めて最高時速300キロを超えるモデルとなった(公称時速302キロ)。「365GT4BB」は1976年に改良版である「512BB」に引き継がれ、さらに1984年には新設計の「テスタロッサ」とその後継の「512TR」へ引き継がれた。

1984年にはグループB公認用の288GTOを開発。その後も創業40周年記念モデルの「F40」(1987年)。50周年記念のF501997年)、55周年記念のエンツォ・フェラーリ2002年)、「 ラ フェラーリ2013年) といった限定生産モデル(スペチアーレ)を発表している。

エンツォの死[編集]

1988年8月にエンツォが腎不全により没した。イタリアが誇る自動車会社の創始者かつ、F1におけるイタリアの「ナショナルチーム」の創設者の死去に際してイタリア全体が喪に服した。

生前に行われた取り決め通り、エンツォが所有していた株はフィアット・グループによって買われ、フェラーリはレース部門も含めてフィアット・グループの管理下に収まった。なおその後もリナ・ラルディとの間に生まれた次男のピエロ・ラルディ・フェラーリがフェラーリの株を10パーセント所有し、フェラーリの副会長を務めている。

モンテゼーモロによる改革[編集]

エンツォ亡き後、『エンツォのいないフェラーリはフェラーリ足り得るか』とも言われ、その行き先が危惧されたが、エンツォの死後3年が経過した1991年には、かつてスクーデリア・フェラーリのマネージャーとして辣腕を振るい、サッカーワールドカップ・イタリア大会の事務局長を務めたモンテゼーモロがフェラーリ社長に就任した。

モンテゼーモロは就任後ただちに市販車部門の品質と生産効率の向上に着手し、「348」の改良版である「F355」や新たに開発した2+2モデルの「456GT」、「550マラネロ」や「360モデナ」などの新型車を開発、市場に投入した。これらの新型車は、劇的な品質の改善による故障の低減や質感の向上、そして安全性の向上のみならず、セミAT「F1」やパワーステアリング、アンチロックブレーキやフルオートエアコンなどの投入による新たなオーナー層の拡大に成功し、世界各国の市場においてこれまでにない好調な業績を上げた。

さらに、新体制を敷いたスクーデリア・フェラーリも2000年代にコンストラクターズ部門で複数年連続でタイトルを奪取するなど絶頂期を迎えることとなった。新体制を率いて改革を成し遂げたモンテゼーモロはその手腕を買われ、2004年6月に親会社フィアット・グループの会長に就任。就任後ただちにフェラーリの傘下にマセラティを加えて、マセラティにフェラーリのエンジンを搭載し、さらに製造工程においても一部を統合させるなど、ブランドイメージの向上と合理化を同時に行うことで長年経営状況が安定しなかった同社を復活させ、さらには苦境に陥ったフィアット・グループをも建てなおした。

2007年には設立60周年を迎え、2008年には初のクーペカブリオレである「カリフォルニア」を発売したほか、同年にはアジアでは初の現地法人として日本法人を立ち上げるなど積極的な事業展開を進めた結果、世界経済が低迷する中でもヨーロッパ諸国や日本、アメリカなどの主要市場で好調な販売実績を維持した[9]

現在[編集]

近年は「FXX」や「599XX」等の台数限定のサーキット走行専用モデルなど、モータースポーツの技術とノウハウ、そして高い名声を生かしたモデルの開発と販売を行いつつ、環境対策に力を入れており、2009年にはフェラーリ初のV型8気筒直噴エンジンを搭載した「458イタリア」の販売を開始したほか、2010年にはフェラーリ初のハイブリッド機能「HY-KERS」を搭載した「599 HY-KERS」を公開した[10]

また同年には、フェラーリ初のアイドリングストップ機能や燃料ポンプ、電動エアコンの圧縮制御などのパフォーマンスを維持しつつ環境負荷を減らすシステム「HELE」を搭載した「カリフォルニアHELE」を発表した[11]。「HELE」システムは「458イタリア」や、2011年に発表された、フェラーリ初の4輪駆動システムを持つV型12気筒直噴エンジン搭載の4座シューティングブレークFF」(フェラーリ・フォー)や、トップモデルの「F12ベルリネッタ」にも搭載されている。

さらに2013年には、「HY-KERS」を搭載したフェラーリ初の市販ハイブリッドカーである「 ラ フェラーリ」を発売した。なおモンテゼーモロ会長は「完全な電気自動車を発売する事は考えていない」とコメントしている。

車種一覧[編集]

現行車種[編集]

現在販売されている全車種が日本に正規輸入されている。なお現在、日本国内の正規販売代理店で販売されている458シリーズ、カリフォルニアT、FFとF12には、7年間のフェラーリ純正メンテナンスが無償で付帯している。フェラーリは古くから左側通行のイギリスを主要市場のひとつとしていることから、右ハンドル仕様車が一部を除く車種に用意されてきた。イギリスと並ぶ重要市場(世界6大市場- 日本、イタリア、イギリス、アメリカ、中華人民共和国及び香港ドイツ)の日本でも、現行全車種に右ハンドル仕様車が用意されている。また日本市場は、これらの主要市場の中でも特に環境対策に関心が高い市場である事から、世界で唯一「HELE」システムが、限定モデルを除く全てのモデルに標準装備されている。

全車種ともにフェラーリ純正パーツやアクセサリーを選択できるのみならず、「カロッツェリア・ スカリエッティ・プログラム」によって内装色や外装色、内装の素材などを好きな色や仕様に注文することができる(追加料金が必要)。なお、「カロッツェリア・ スカリエッティ・プログラム」に対応した専用施設として、マラネッロの本社や東京都のロッソ・スクーデリアなどいくつかの正規販売代理店のショールーム内に「フェラーリ・アトリエ」が設置されている。

さらに内外装を、用意された仕様以外の好みのものに自由に選ぶことができる「テイラーメイド・プログラム」が2012年より導入された。なおこのプログラムは、ジャンニ・アニェッリの孫で元フィアットの国際マーケティング部長のラポ・エルカンが主導し導入された。

V12
外観 車名 排気量 エンジン 駆動方式 座席数 解説
120px F12ベルリネッタ 6262cc V型12気筒DOHC FR 2座 フラッグシップモデル。2012年2月29日に発表された。
120px FF 6262cc V型12気筒DOHC 4WD 4座 2011年2月に正式発表されたフェラーリ初の4輪駆動車種[12]。「FF」は「Ferrari Four」の略。
スぺチアーレ
120px ラ フェラーリ 6262cc V型12気筒 MR 2座 2013年3月5日にジュネーブモーターショーで発表された499台のみの特別限定車。フェラーリ・エンツォの後継車にあたり、ハイブリッドシステム「HY-KERS」を搭載。
2014年現在生産されているものの、注文はすでに停止されている。
V8
外観 車名 排気量 エンジン 駆動方式 座席数 解説
120px カリフォルニアT 3855cc V型8気筒直噴DOHCターボ FR(フロントミドシップ) 2+2 フェラーリ初のクーペカブリオレであるカリフォルニアの進化版。F40以来の8気筒ターボエンジンを搭載する。
120px 458イタリア 4499cc V型8気筒直噴DOHC MR 2座 MRとしてはフェラーリ初の直噴エンジン搭載。高性能版のスぺチアーレも用意される。
120px 458スパイダー 4499cc V型8気筒直噴DOHC MR 2座 2011年に発表された458のクーペカブリオレ版。
488GTB 3902cc V型8気筒DOHCターボ MR 2座 458イタリアの大幅改良モデル。排気量は3902ccとなりターボを装備。

過去の主な車種[編集]

年数は発表・発売・デビュー年


ワンオフモデル[編集]

創業以来1958年ころまでフェラーリは、市販モデルを元に製作した世界に1台の特注車両「ワンオフモデル」を製作、販売していたが、その後ワンオフモデルの受注を受け付けなくなった。

しかしその後、日本の世界的に著名なフェラーリのコレクターで、フェラーリ・クラブ・オブ・ジャパンの元会長でもある平松潤一郎の依頼を受けて、2008年にレオナルド・フィオラヴァンティがデザインしたワンオフモデル「SP1」を製作した[13]。これをきっかけにフェラーリは、自社の手によるワンオフモデルの受注を再開した。

2008年に平松がSP1の製作を依頼して以降、2014年3月までに6台のワンオフモデルの存在がフェラーリより正式に発表されている。なおそのうちの2台が日本人オーナーによる依頼である。

なおそれ以前にもザガート(575GTZなど)やミケロッティ(メーラSなど)などのカロッツェリアの手で市販フェラーリを改造した世界に1台しか存在しないモデルが製作されたことがあるが、これらはフェラーリが自らの手で製作したワンオフモデルではなく、また正式にワンオフモデルとして承認したものではない。

  • SP1(2008年/オーナー:平松潤一郎)基礎となったモデル:F430
  • P540 スーパーファスト・アペルタ(2009年/オーナー:エドワード・ウォルソン)基礎となったモデル:612スカリエッティ
  • スーパーアメリカ 45(2011年/オーナー:ピーター・カリコウ)基礎となったモデル:SAアペルタ
  • SP Arya(2012年/オーナー:チェラグ・アルヤ。なお基礎となったモデルが変更されたこともあり2014年3月現在完成しておらず、実車の画像は公開されていない)基礎となったモデル:599GTO>F12
  • SP12 EC(2012年/オーナー:エリック・クラプトン)基礎となったモデル:458イタリア
  • SP FFX(2013年/オーナー:日本人)基礎となったモデル:FF

コンセプトモデル[編集]

オーナー向けサービス/イベント[編集]

ファイル:Maranello02.jpg
マラネッロの本社工場
ファイル:Musée Ferrari Maranello 0007.JPG
マラネッロにあるフェラーリ博物館(ムゼオ・フェラーリ)
ファイル:Ferrari Challenge - Canada 2011.jpg
フェラーリ・チャレンジ
フェラーリ・コンシェルジュ(Ferrari Concierge)
日本を含む主要市場に設置しているサービス窓口。オーナーに提供する下記の各種サービスの利用や問い合わせ、イベントへの参加や問い合わせを受け付ける。他にも、オーナー限定のマラネッロの本社工場見学ツアー「ファクトリー・ツアー」や、本社に隣接した博物館「ムゼオ・フェラーリ」見学の手配も行っている。また、オーナー以外による各種問い合わせの窓口ともなっている。
フェラーリ・ロードサイド・アシスタンス(Ferrari Roadside Assistance)
24時間対応のフェラーリ専用のロードサイド・アシスタンス・サービス。路上や自宅などにおけるバッテリー上がりや故障などの対応を行う。正規販売代理店で販売された車両のみがこのサービスを受けることが出来る。
フェラーリ純正パーツ/アクセサリー(Ferrari Genuine)
正規販売代理店と正規サービスセンターのみを通じて供給する、フェラーリの社内品質基準と各国の車検基準に適合した純正パーツ及び純正アクセサリー[14][15]。「フェラーリ・クラシケ」の鑑定をパスするためには純正パーツ/アクセサリーのみが使用されていることが必要である。
フェラーリ・アプルーブド(Ferrari Approved)
正規販売代理店で発売される中古のフェラーリに適用される認定中古車制度。対象車には、納車前の190項目におよぶ点検や、車歴に応じてエンジンやトランスミッション、サスペンションなどへの12カ月間および走行距離無制限の補償と証明書が与えられる他、24時間/365日対応のロードサイドアシスタンスなどの「フェラーリ・パワー補償」が付帯される[16]
フェラーリ・クラシケ(Ferrari Classiche)
マラネッロの本社内におかれた本部において、生産開始から20年以上経ったクラシック・フェラーリとF1マシンや限定車種のオーナーに対するレストアやメンテナンスサービス、技術的なアシストを行う。また、これらのフェラーリに対する鑑定を行い、パスした車体に対して真贋鑑定書も発行する[17]
コルセ・クリエンティ(Corse Clienti)
フェラーリの車両で各種モータースポーツ活動に参加するオーナーをサポートする。ワンメイクレースであるフェラーリ・チャレンジへのサポートのみならず、F1マシンを所有するオーナーへのサポート(F1クリエンティ)や、サーキット専用車の599XXとFXXなどのプログラムのマネージメント及びオーナーへのサポートも行う。なお、正規販売代理店で販売されたロードカーのオーナーに限り、数年落ちのF1マシンを購入することが可能である。
フェラーリ・チャレンジ(Ferrari Challenge)
フェラーリ・458チャレンジによるワンメイクレース。コルセ・クリエンティの元で行われ、ヨーロッパ、アジア・パシフィック、北アメリカの選手権が開催されている。
フェラーリ・レーシング・デイズ(Ferrari Racing Days)
フェラーリの主催により世界各国のサーキットで開催されるオーナー向けの祭典。フェラーリ・チャレンジやF1クリエンティ、XXプログラムの走行、スクーデリア・フェラーリのドライバーや元ドライバーによるF1マシンの走行などが行われる。日本でも毎年1回国内のサーキットで開催される。参加はフェラーリ各車種とそのオーナーに限られるが、オーナー以外による観覧も可能である[18]
ピロタ・フェラーリ(Pilota Ferrari)
フェラーリのオーナー向けに、プロのレーシングドライバーを講師として招いて開催されるドライビングスクール。初級者向けからフェラーリ・チャレンジ経験者向けまで4つのクラスが用意されており、年数回イタリアや日本、アメリカや中華人民共和国のサーキットで開催される。
フェラーリF1クラブ(Ferrari Formula 1 Club)
日本グランプリモナコグランプリをはじめとするF1各戦における「Formula One Paddock Club」のフェラーリ・シャレーや各スポンサーのシャレーでの観戦パスをオーナー限定で提供している。
フェラーリ・マガジン(Ferrari Magazine)
フェラーリが発行しているオーナー向け雑誌。日本においては新車を正規販売代理店で購入した最初のオーナーに3年間無償で送付される。また、それ以降も有償で定期購読が可能な他、オーナー以外でも有償で定期購読が可能である。コンデナスト・パブリケーションズにより編集されており、英語版のみが用意されている。
フェラーリ・クラブ・オブ・ジャパン(Ferrari Club of Japan)
日本最大かつ日本国内においてフェラーリ社が公認している唯一のオーナーズクラブ[19]。フェラーリ及びフェラーリ・ジャパンが運営しているわけではないが、公認クラブであることからイベントや様々な企画にフェラーリが全面的に協力している。なお入会には現会員2名の推薦が必要である。

モータースポーツ[編集]

F1世界選手権における活動参照

創業以来フォーミュラカーレースF1F2)、スポーツカーレースプロトタイプGT)などに幅広く参戦している。F1では1950年の選手権初年度から唯一参戦を続けており、最多となる16度のコンストラクターズチャンピオンを獲得。スポーツカー世界選手権では1950年代から1960年代にかけて一時代を築き、ジャガーフォードポルシェと覇権を争った。

フィアットによる会社買収後、1974年以降はワークス(スクーデリア・フェラーリ)の活動をF1に一本化し、スポーツカーレースはコルセ・クリエンティ部門が、AFコルセなどのセミワークスやプライベーターの参戦をサポートしている。また、前述のフェラーリ・チャレンジのようなワンメイクレースを各地で開催している。

主な選手権・イベントにおける製造者部門(マニュファクチャラー/メーカー)の成績を以下に記す。なお、世界三大レースに数えられるインディ500へは、1952年に1度挑戦したのみで優勝はない。

その他[編集]

カヴァッリーノ・ランパンテ[編集]

ファイル:Ferrari Werke.JPG
フェラーリ本社正門に飾られた「カヴァッリーノ・ランパンテ」の紋章
ファイル:FBaracca 1.jpg
スパッドXIIIの前に立つバラッカ(1916年)
ファイル:Coat of arms of Stuttgart.svg
シュトゥットガルト市の紋章

フェラーリの社章は、後足で立ち上がった馬の図柄を使用するため「跳ね馬」の愛称を持つ。この紋章はイタリア語で「カヴァッリーノ・ランパンテ」(Cavallino Rampante )といい、「Rampante」は紋章用語で「気負い立ち」を意味するため、直訳では「気負い立ち馬」であるが、英訳では「(後肢で前へと)跳ねる馬」(Prancing Horse )となっている。

本来この紋章は、第一次世界大戦時にイタリア空軍のエースだったフランチェスコ・バラッカが、自身の搭乗する戦闘機に付けていた。その由来には複数の説がある。

  • 元々はバラッカが空軍に移る前に所属していた、イタリア陸軍第11山岳騎兵連隊の紋章であった。その後バラッカは空軍に移り、第91a飛行隊に所属。それに伴い、この紋章も部隊のエンブレムとなっていた。
  • バラッカがドイツ空軍機を撃墜した際、その機体にはパイロットの出身地シュトゥットガルト市の紋章である跳ね馬が描かれており、バラッカと彼が所属する第91a飛行隊はそのアイデアを頂戴した[20]

1923年、アルファ・ロメオワークスドライバーだったエンツォ・フェラーリは、ラヴェンナで行われたチルキット・デル・サヴィオで優勝した。このレースを観戦していたパオリーナ夫人(バラッカの母親)はエンツォに亡き息子のシンボルであった跳ね馬の紋章を使うよう勧めた[21]。第91a飛行隊にエンツォの兄アルフレードが所属していた縁もあり、エンツォもこの申し出を受け入れた。ただし、研究家によっては「英雄の母親とはいえ息子の部隊章の使用許可を与える権限はなく、この話はエンツォの創作ではないか」と考察している[22]。1932年、スパ24時間レースに出場したスクーデリア・フェラーリのマシン(アルファ・ロメオ製)に初めて跳ね馬の紋章が付けられた[23]

バッジの形状はは長方形(ノーズ)と盾形(サイドボディ)の2種類があり、長方形の上部にはイタリアの国旗と同じ三色(緑白赤)のラインが入っている。なお車体のフロントには長方形が使われ、盾形は車体サイドのマークに使われる。リアは跳ね馬の図柄(銀色)のみである。

2004年にデビューしたF430のエンジンは、傘下のマセラティのクーペクアトロポルテと共有であり[24]、フィアット、ランチア、マセラティとその心臓部分を共有した歴史があるが、アルファ・ロメオとは共有したことがなかった。しかしアルファロメオ・8Cコンペティツィオーネの市販決定により、ついに母(アルファ)と息子(エンツォ)のコラボレーションが成立したことになる。

フェラーリと共に高級スポーツカーの代名詞とされるポルシェの社章にも跳ね馬があしらわれているが、これはポルシェの本社があるシュトゥットガルト市とそれを含むバーデン=ヴュルテンベルク州の紋章を組み合わせたものであり、偶然ではあるが両社はエンブレムの由来でつながりを持つ。

コーポレートカラー[編集]

ファイル:Ferrari-F430-DC-1.jpg
「ジャッロ・モーデナ」塗装が施されたF430

フェラーリの「イメージカラー」としては赤(ロッソ)が非常に有名であり、赤がコーポレートカラーであるというイメージが浸透しているが、この色はそれ以前にモータースポーツにおけるイタリアのナショナルカラーであり、アルファロメオやチシタリアスクーデリア・イタリアなど他のイタリアの自動車会社やレーシングチームでも使用されている。

本来のフェラーリのコーポレートカラーは会社があるモデナ県のカラー「黄色(ジャッロ)」であり、フェラーリの黄色い外板色の名前は「ジャッロ・モデーナ」とされている。また跳ね馬の背後にもコーポレートカラーがあしらわれているが、これはシュトゥットガルト市の紋章の背景が黄色だったため(ただしポルシェのエンブレムは金色)。

現在では「ロッソ・スクーデリア」や「ロッソ・コルサ」、「ロッソ・フィオラノ」など数パターンの赤系の色が用意されている。また暗黙のうちにコーポレートカラーに含まれているので、量産車の新車発表時には、車種によっては赤色と黄色の車両も用意するように配慮されている。

ブランド[編集]

ファイル:Fale Milano 81.jpg
「フェラーリ・ストア」ミラノ店

イギリスのブランド価値調査機関ブランド・ファイナンスがまとめた報告では、Googleコカ・コーラを抑えて2013年の「世界で最もパワーのあるブランド」に選ばれた[25]。スポーツカー専業メーカーとしてのブランドイメージを重視しており、市場人気のあるSUVやエンジン不要の電気自動車 (EV) には参入しない方針を示している[26][27]。2012年には同社にとって過去最高の営業利益を記録したが[28]、「憧れの対象」という高級感を維持するため、2013年にはあえて生産台数を7000台以下に抑えると発表した[29]

世界的なブランドイメージを活かして各種企業とライセンス契約を結び、自動車関連から装飾品、アパレル、コンピュータ、玩具、インテリア商品まで様々なフェラーリ公式グッズの販売が行われている。これらの契約金は、本業以外の大きな収入源となっている。ローマミラノ、アブダビやドバイにある「フェラーリ・ストア(Ferrari Store)」の店舗や公式ウェブサイト内で、フェラーリの公式グッズやミニチュアカー、衣類や純正パーツなどを利用した装飾品の販売を行っている。

知的財産権に関する取り組みとして、1999年にマテルがフェラーリと商品化権を独占的に使用する締結を結び、これ以降他社はフェラーリのミニカーを基本的に生産、販売できなくなり、世界中の自動車メーカーが商品化許諾の表記を掲載するようになった。

2010年には、アラブ首長国連邦アブダビにフェラーリのテーマパーク「フェラーリ・ワールド」が開園した[30]。同パーク内には、世界最高速を誇るジェットコースターやドライビングシミュレーター、フェラーリ本社前にある著名なレストラン「カヴァリーノ」の初の支店などがある。

日本における販売[編集]

1965年-2008年[編集]

創立から1965年までは日本法人および正規輸入・販売代理店は存在しておらず、日本への輸入台数もごく少量に留まっていた[31]。1965年から1968年までは新東洋企業、1968年から1972年までは西欧自動車、1971年から1974年までは西武自動車販売、1975年から1978年まではロイヤル・モータース、1979年から2008年6月まではコーンズ・アンド・カンパニー・リミテッドが輸入、販売を担当していた。これらの会社はいずれもフェラーリ本社とは資本関係のない独立系のインポーター(輸入販売代理店)であった[32]

2008年以降[編集]

フェラーリにとって、イタリアやアメリカドイツイギリスと並ぶ主要市場である日本市場における販売およびサポート体制をより強化することを目的に[33]、2008年2月には日本法人の設立を発表[34][35]し、同年7月1日から東京都に本拠を置く日本法人であるフェラーリ・ジャパンが輸入業務を開始した[36]。現在は同社が日本国内における輸入及びマーケティング業務を行っている。

販売および整備[編集]

2011年2月現在は、フェラーリ・ジャパンと正規販売代理店契約を結んだコーンズ・モーター(東京都大阪府愛知県)とロッソ・スクーデリア(東京都)、エムオート広島県)、ヨーロピアン・バージョン福岡県)の4社が正規販売代理店となっており、全国6拠点で新車の販売や認定中古車の販売、整備や正規パーツの販売などを行なっている。なおロッソ・スクーデリアには、イタリア国外で初のフェラーリ・アトリエが設置されている。また、Modena Sports Cars(北海道)とイデアル宮城県)、グランテスタ(長野県石川県)の3社が正規サービスセンターの指定を受けている。

脚注[編集]

  1. 『ワールド・カー・ガイド DX08 フェラーリ』 ネコ・パブリッシング、2006年、p.59。
  2. 『幻のスーパーカー』福野礼一郎著、双葉社、1998年、P20
  3. 映画監督のロベルト・ロッセリーニが妻の女優イングリッド・バーグマンに贈った特注の375MM(「バーグマン・クーペ」)が有名である。
  4. 各輸入代理店やディーラーによる広告は許可されている
  5. 『こだわりのネーミングこそ名車の条件』Goo-net
  6. 交渉決裂の理由は明らかにされていないが、金額の不一致という説、レース部門への干渉をエンツォが嫌ったという説がある。
  7. ランチア・テーマ8・32の「32」は3.2Lではなく、32バルブの意である。
  8. "BB"はベルリネッタ・ボクサーの略であり、フェラーリは180度V12エンジンをボクサーエンジンと呼称した
  9. 『フェラーリ北米販売、過去最高…2010年実績』レスポンス 2011年1月17日
  10. Openers 2010年3月5日
  11. 『フェラーリ カリフォルニア、アイドルストップ採用』2010年10月1日 Response
  12. Ferrari Four
  13. オートガレリア・ルーチェ
  14. Ferrari Genuine
  15. コーンズ・モーター
  16. カーセンサーNET
  17. フェラーリ・クラシケ
  18. フェラーリ・レーシング・デイズ鈴鹿2013
  19. Ferrari Club of Japan
  20. 『スクーデリア・フェラーリ 1947-1997 50年全記録』 ソニー・マガジンズ、1997年、pp.63-64。
  21. "フェラーリの歴史". Ferrari.com. 2013年2月7日閲覧。
  22. ブロック・イエイツ著、桜井淑敏訳 『エンツォ・フェラーリ F1の帝王と呼ばれた男。-跳ね馬の肖像』 集英社、1991年、ISBN 9784087731385
  23. 『スクーデリア・フェラーリ 1947-1997 50年全記録』 ソニー・マガジンズ、1997年、p.8。
  24. マセラティの方が先行採用
  25. "フェラーリ、世界でもっともパワーのあるブランドに選出される". Ferrari.com(日本語).(2013年2月18日)2013年2月18日閲覧。
  26. "「フェラーリはSUVを作らない」…フィアットCEO発言". レスポンス.(2011年10月27日)2013年5月31日閲覧。
  27. "「フェラーリはEVを作らない」…会長明言". レスポンス.(2011年8月23日)2013年5月31日閲覧。
  28. "フェラーリ、2012年は史上最高の業績を記録". オートスポーツweb.(2013年2月21日)2013年5月31日閲覧。
  29. "フェラーリ、生産台数抑制へ。希少性高めブランド価値維持". Topnews.(2013年5月10日)2013年5月31日閲覧。
  30. 『フェラーリのテーマパーク、アブダビに10月オープン』AFPBB 2010年07月23日
  31. 『クルマの女王・フェラーリが見たニッポン』清水草一著、講談社刊 2006年
  32. ブランド別インポーター(日本自動車輸入組合)
  33. 『フェラーリ、業績ハイライトを発表』カービュー 2008年10月14日
  34. フェラーリ、日本法人を設立…コーンズは正規代理店に - レスポンス(2008年2月22日)
  35. フェラーリ事業の新体制について - コーンズニュース(2008年2月22日)
  36. フェラーリ・ジャパン、輸入業務を開始 - レスポンス(2008年7月1日)

関連項目[編集]

関連企業
公式グッズ製造
モータースポーツ
関連人物

外部リンク[編集]

公式
正規販売代理店
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