青木悠君リンチ殺人事件

提供: Yourpedia
2015年1月20日 (火) 23:04時点における116.0.202.178 (トーク)による版

(差分) ←前の版 | 最新版 (差分) | 次の版→ (差分)
移動: 案内検索

青木悠君リンチ殺人事件とは、2001年3月31日滋賀県大津市平野小学校の給食室の裏庭で、青木悠君(16歳)がH(当時15歳)とS(17歳)にリンチを受け死亡した事件である。

青木君は中学生の時に交通事故に合い、左半身不自由になった二級障害者手張を持つ身体障害者だった。改正少年法施行の前日に起こった事件である。

事件概要[編集]

悠君は以前交通事故で身体に障害があり、びっこを引いてあるいている少年だった。父親がいない分、お母さんが懸命に働いて大学へ進ませようとし、悠君も勉強とリハビリの努力をしていた。

その下半身不随の悠君(16歳)の勉学を妬むH(15歳)とS(17歳)、見張り役のK(15歳)、O(15歳)、A(15歳)が『入学をカラオケで祝ってやる』と嘘をつき、午後3時ごろから1時間半にわたって暴行を加えなぶり殺しにした。

人殺しのH少年とS少年は『障害者のくせに生意気だ』と叫び、悠君に散々殴る蹴るの暴力をした後、身体を持ち上げて逆さにして1mの高さから頭をコンクリートに叩きつけた。

最初の一撃で口から泡を吹いて失禁している悠君を、何度も何度もコンクリートに叩きつけて、脳がぐちゅぐちゅになる脳死状態までにして殺した残忍な犯行である。 悠君は意識がなくなっても尚、涙を流していたという。

『障害者だから助ける価値がない』といい、頭から水をかけ、見張りの少年が『このままでは死んでしまう』と言って救急車を呼ぼうとしたらHとSは、『そんなことしたらパクられるだやろうが』といって、悠君を物陰に隠し、パチンコへ遊びにいった。

Hが『俺とSが青木をボコしたんや、小便たれて、泡吹いて気絶しる』と自慢して触れ回っているのを悠君の友人Mが聞いて現場にかけつけ、悠君の母親へ『悠君が気絶している』と電話したのは夜7時半になっていた。(暴力からすでに3時間経過していた)

『すぐに救急車を呼んで』というと、『警察に知れたら困る』と答えたが、『警察にはいわないからすぐ呼んで』と答えた。母親はすぐに119番通報し、現場へ駆けつけた。救急車にはMとHもいた。病院で母親のといかけにHは病院のソファーに寝そべって『ムカついたか』という悪態ぶりで、Sは翌朝病院に集まった子供達へ『おまえらも青木みたいやったる』という非情な人間。悠君は6日後亡くなった。

経緯[編集]

殺された青木悠君[編集]

1999年8月、交通事故に遭い、右脳を強打し脳挫傷で重態となった。このままでは脳死状態か、助かっても植物人間か脳障害が起こる、と診断された青木君は生死の境をさまよいながらも低体温療法で一命をとりとめる。もともと陸上やバトミントンなどスポーツ万能だった青木君は持ち前のがんばりで左半身不随を克服するリハビリに没頭し、足をひきずりながらもなんとか歩けるようになるまでに回復した。

中学を卒業した青木君は昼間の時間をリハビリにあてるために定時制高校に入学する。そこで担任教師に勧められて受験勉強を始める。青木君は「どうしても全日制の高校へ行って、将来は大学に行く、親孝行をするんだ」と話していたという。青木君は祖父の佃煮業を跡を継ぐために、大学で経営学を学ぶため、京都工芸繊維大学に行きたいと考えていた。

その後、有言実行、青木君は勉強に励み、全日制高校に合格した。そして悲劇が起こる。

醜い嫉妬[編集]

青木君の全日制高校合格をよく思わない少年がいた。H(当時15歳)とS(当時17歳)である。HとSは「合格祝いにカラオケおごってやるよ」と青木君を呼び出した。大津市平野小学校、そこが待ち合わせに決められた場所だった。

「友達が携帯に電話してきたんだ。初めてのアルバイトの給料で、僕の合格祝いをしてくれるんだって」

青木君はなんの疑いも持たず、喜びを母親に伝えていた。青木君を駅まで送る途中で、母親がどんな友達かと聞くと、「僕がそのまま定時制に行ってたら一緒の学校になったかもしれない人」と答えた。

2001年3月31日、青木君が待ち合わせの場所に行くと、HとS、そして彼らの取り巻きの3人の少年がいた。全員、青木君とは別の中学出身の共通の友達がいる程度の関係であった。少年達は「青木、お前、何で全日制行くん?定時制におりいや」と言って青木君を校庭裏にる給食搬入口のコンクリート台のところに連れていった。   その場で青木君に対する凄惨なリンチが始まる。「障害者のくせに生意気だ」と最初から青木君をリンチする目的で誘い出していたのだ。顔、頭、足、腹・・・をところかまわず無抵抗の青木君を70回以上殴った。青木君の顎ははずれ、顔はたちまち原型をとどめないほど腫れあがる。意識を失いかけた青木君をHとSの2人は高さ60cmほどもあるコンクリート台から、プロレス技のバックドロップで頭から地面に叩きつけた。さらに別の場所に移動し、2回バックドロップを繰り返した。失禁して泡をふいた青木君をさらに1mほどの高さからコンクリートに頭を打ちつけた。

「障害者やから助ける価値がない」

「こいつは障害者だからすぐたぬき寝入りをするんだ。小便まで漏らしやがって」

「プールに放りこんで目を覚まさせよう」

そう言って、彼らは実際に青木君に水をぶっかけている。暴行は1時間半も続いた。これはやられている方にとっては恐ろしく長い時間である。

途中で取り巻きの少年の1人が「このままでは死んでしまう」と救急車を呼ぼうとするが、HとSは「そんなことしたらパクられるやろうが」と怒鳴りつけ、青木君を物陰に放り投げて、そのままパチンコに行った。

このリンチを近隣に住む老人(当時67歳)が2階の窓から見ていたという。しかし、この人物は警察に通報することはしなかった。そのまま買い物に出かけている。

青木君の死[編集]

Hが「俺とSが青木をボコしたんや。小便たれて。泡吹いて気絶してる」と自慢して回ってるのを聞いた青木君の友人・M君が、小学校に駆けつけた。午後7時過ぎ、M君は青木君の母親に電話をかけて知らせた。この時、暴行からすでに3時間が経過していた。

大津市民病院のに搬送され、ICU(集中治療室)で治療を受ける青木君だが、医師によると助かる見込みは1%もない状態だったという。待合室にはHがアイスクリームを食べながらソファに寝そべっていた。青木君の母親が暴行の理由を問うと「むかついたから」と答えていた。

4月6日、個室に移され、母親の必死な呼びかけが聞こえたのか、死ぬ直前に涙を流して青木君は亡くなった。死因は急性硬膜下血腫。大津市民病院は青木君の産まれた所であり、交通事故にあい運び込まれて障害を克服した病院でもあった。

少年たち[編集]

H・・・・空手3段。中学の卒業文集で「あなたの10年後はどうなっているでしょう」というテーマで「殺人犯で指名手配されている」と書いている。4月から定時制高校に入学することになっていた。

S・・・・内装作業員。非行歴1回。補導歴17回。

青木君が亡くなったのは4月6日であるが、リンチのあったのは少年法の改正前の3月31日だったので、新法は適用されなかった。(ただし、被害者の意見陳述と調書の閲覧だけは認められた)リンチを受ける青木君を取り囲んで見ていた3人の少年達は不処分。手を出したHとSも刑事裁判にかけられることもなく少年院送りとなる。

この軽い処分は前述したように、改正少年法施行の前日に起こった事件ということが考慮されている。この処分理由について次のような文が記されている。

「本件は検察官に送致することも考えられるが、少年には内省力があり、感受性も豊かで可塑性や教育可能性が見とめられることを考慮して、中等少年院に送致するのが妥当である。」

青木君の命を奪った少年の一人は鑑別所の中から友人にこんな手紙を書いている。

★★ 『ヒマ、ヒマ、ヒマ、ヒマ、ヒマ、ヒマ・・・・青木なぐったん、広まってるか。ここ出たら遊ぼう』

『元気してる?どお、オレがいない1ヶ月間!さみしい?おもんない?オレも早く出て○○ちゃんと遊びたいわー!毎日、毎日、早く家に帰りたいなー!(中略)すげー家に帰りたいわ』

『オレな、前に○○ちゃんからの手紙になー、年少2、3年入ってなあかんなーって書いたやんかー!めっちゃブルーで、あー死のうかな?とか思っててんかー。でも、今日の朝のオリエンテーションのテープで、少年院に入ってる期間は、二年以内とわかってバリバリさあがんばるぞー!!って思ってん!(中略)オレきわどいねん!初等と中等の間やねんなー、むずいやろ?でも、初等も中等も二年以内で出られるらしい』

『普通なら、大津から飛ぶけど。オレは逃げもかくれもしないし。・・・・・オレな、出たら単車か車でちょっと琵琶湖一周でもするわ。・・・題して「自分を見つめるたび」ですわ。出てからも、ちょっと反省する旅です』 ★

裁判[編集]

2001年8月、母親がHとSと保護者計5人を相手どって9500万円(訴訟中に1億円に修正)の損害賠償を求めて提訴。

2003年6月26日、少年院を出たHとSが和解協議の席に出席して初めて遺族に直接謝罪。青木君の母親が暴行の日に息子が着ていた泥だらけのシャツを持ちこむと、Hは泣きじゃくり、Sは「申し訳ありません」「一生かけて償います」と頭を下げた。

同年7月3日、計6000万円支払うことで和解成立。

2004年1月、遺族が見張り役だった3人とその両親に計約3000万円の損害賠償を求め提訴。

2006年5月15日、大津地裁・稲葉重子裁判長は訴えを棄却した。母・和代さんは暴行当時悠君が着ていた赤いジャンパーを着て、息子に似せた髪型にしてこの判決を聞いた。   3人は見張り役だったことを否定し、「死亡予見性はなく通報の義務もない」と主張、本人らが出廷した尋問でも「死ぬとは思わなかった」「自分が止めたら何かされると思った」と証言していた。稲葉裁判長は、3人は直接暴行を加えておらず、また助長したこともない、制止する法的義務はないとしたのである。

同年12月13日、大阪高裁・若林諒裁判長は一審の地裁判決を支持し、「死の可能性は予想できたが、法的責任は問えない」などとして控訴を棄却した。

2008年2月28日、最高裁(横尾和子裁判長)は遺族側の上告を棄却した。判決では「少年らに救護義務があったとは言えない」としたが、5裁判官のうち2裁判官は「消防に通報すべきだった」と反対意見を付けた。

この事件は少年法改正の前日におきた。母親は『極刑か一生刑務所から出てこれないようにしてほしい』と1万余に及ぶ署名の嘆願書をつくり裁判所へ提出した。母親についた弁護士の努力の甲斐もなく、『少年には内省性もあり、感受性豊か』として刑事裁判にせず、少年院送致(矯正教育)とした。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

参考文献[編集]

  • WAVE出版「あなたは子どもの心と命を守れますか いじめ白書」 武田さち子 
  • 新潮社「裁判官が日本を滅ぼす」 門田隆将