村上武吉

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村上(能島) 武吉(武慶)(むらかみ(のしま) たけよし、天文2年(1533年)頃 - 慶長9年8月22日1604年9月15日))は戦国時代に活躍した瀬戸内海の海賊大将である。能島村上水軍の当主。村上義忠の子。子に元吉景親

村上氏の遠祖は清和源氏または村上源氏ともいい、平安時代の末頃から伊予河野氏と結んで瀬戸内に勢力を張ったと伝わる。南北朝のころ、南朝のてこ入れのため北畠顕家の息子が村上家に入り村上師清と名乗ったのが後の三島村上氏の先祖となると言われるが、この人物を北畠氏側の史料では確認できないようである。いずれにせよ村上氏の出自は定かではない。

村上師清の子供は能島来島因島の3島に分かれて、勢力を張った。代々伊予の河野氏との関わりも深かったようであるが、周防の大内氏の勢力が伸びてくるとその傘下にも入った。3島は一応、能島を宗家としていたが因島は安芸の児玉氏や小早川氏と親しく、来島は伊予の河野氏に近いなどそれぞれの利害関係はかなり異なり、独自に行動することが多かった。

生涯[編集]

家督相続まで[編集]

永正5年(1508年)、大内義興が京に上ったとき中国地方の多くの大名、豪族が従ったが、曽祖父・能島雅房もこの時京に上り、数人の子供を作った。これが能島で作った子供達との間で家督争いを行い、能島の内乱となる。幼くして祖父・隆勝を暗殺され、自らの命も危うくなったために難を避けて島を離れた。やがて能島に戻ると吉益とそれを支援する来島勢を叔父の隆重の支援も受けて破り、能島当主となった。吉益が病死すると来島通康と和を結びその娘を娶り、村上三島の頭領格となった。

厳島の合戦以降[編集]

天文24年(1555年)の毛利元就陶晴賢厳島の戦いの際には「1日だけの味方」の言葉に引かれて毛利方に加担して、以降毛利との関係を深めると言われるが、実際に能島水軍が毛利方に加勢したかどうかについては見解が分かれ、確証が得られていない。しかし、以後毛利氏の周防長門の平定に協力し瀬戸内海一の水軍勢力となり、同時に海賊行為をやめた。塩飽諸島など瀬戸内の他の水軍衆とも手を結んだ他、一族重臣である村上隆重を備中笠岡城、嶋吉利を備前児島本太城、村上武満を周防上関と瀬戸内の要衝を抑える位置に置き、通行する船から帆別銭(通行料)を取り立て、大いに栄えた。

永禄12年(1569年)、毛利の九州攻めが失敗すると大友三好等と関係を深め、元亀2年(1571年)、毛利元就が亡くなると公然と反毛利の姿勢を取った。しかし、小早川隆景が素早く能島攻めの軍を起こすと来島、因島もこれに従ったため、孤立した能島は隆景に降り、毛利への忠誠を誓わされた。

毛利が織田信長と戦うと、村上水軍は小早川、児島、乃美水軍などと共に毛利方水軍として活躍し、特に天正4年7月13日1576年8月7日)の第一次木津川口の戦いでは主力として大勝を収めるが(自身は参加せず、子の元吉が参戦している)、信長の鉄船6隻と戦った天正6年(1578年)11月の第二次木津川口の戦いでは惨敗した。

海賊禁止令[編集]

その後、中国攻略にあたった信長の家臣・羽柴秀吉から調略を受けるがこれを断り、織田方についた来島を占領する。しかし天正10年(1582年)に起こった本能寺の変の後、秀吉と毛利が和睦し、来島の返還を要求してくるとこれを拒否し四国攻めにも加わらなかったため、再び小早川隆景に攻められ能島を明け渡し、隆景の所領竹原に移住させられた。さらに天正16年(1588年)、秀吉の海賊禁止令に背いたとして豊臣政権から詰問を受け、子の元吉が上洛して弁明にあたったようである。以降、隆景に従って筑前に移り、隆景の跡を秀秋が継ぐと毛利家の家臣となって所領のある長門に移動、秀吉の死後は再度瀬戸内に面する備後竹原広島県竹原市)へと戻ったようである。

家督を継いだ元吉、その弟景親らは、毛利、小早川勢に従って朝鮮で戦い、続く関ヶ原の戦いでは西軍として、伊勢湾沿岸、紀州沿岸、阿波国を攻め、加藤嘉明伊予松前城を攻めたが、佃十成三津浜夜襲により、元吉は討ち死にしている。戦後、毛利氏が防長2カ国へと減封されたのに従い再度竹原を離れ(これを竹原崩れと称する)、徳川幕府の制海権掌握にともない、ここに村上水軍は壊滅。これ以降は毛利の家臣として元吉、景親の2系統が三田尻で船手衆を務め、朝鮮通信使の警護などを行うことになる。

武吉は慶長9年(1604年)に亡くなり、現在の山口県大島郡周防大島町(旧・東和町城山)に館跡と共に墓所がある。中国人を妻に娶っていたという。

作品[編集]

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