本山茂久

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本山 茂久(もとやま しげひさ、1928年4月3日 - 1971年)とは、1960年5月16日東京都世田谷区で起きた尾関雅樹ちゃん誘拐殺人事件の犯人である。

事件の発端

1960年5月16日、世田谷区のカバン製造会社、銀座の天地堂カバン店社長・尾関進さんの長男で慶応義塾幼稚舎の2年生であった尾関雅樹ちゃん(当時6歳)が幼稚舎に登園しようと、いつものように自宅近くのバス停から移動したが、その直後の午前11時過ぎ、家に男が電話を入れた。

「メモを用意してください。お宅の息子さんを預かってます。女中さんに200万円を包んだ風呂敷包みだけを持たせて、(午後)3時ごろ信濃町駅に来させて、神宮外苑を一周し、千駄ヶ谷駅に出て、タクシー池袋に出て、そこから西武電車(池袋線)大泉学園駅を降り、都民農場行きのバスに乗って、終点で降りて、バス通りを川越鉄道(西武国分寺線)まで出てから、都民農場まで後戻りさせなさい。警察に届けないこと。約束さえ守れば1時間以内に子供(雅樹)を返します。200万円は新札ではダメです」という内容であった。

母は幼稚舎に行っているものだと思っていたが、この誘拐をほのめかす電話を受け取ったことで慌てる。幼稚舎に問い合わせたが、雅樹は登園していないことが分かる。そして午後0時半過ぎ、雅樹の父親と幼稚舎がそれぞれに被害届を提出して秘密裏に捜査が行われた。

2回目の脅迫電話

その2時間後、本山茂久から「お金は用意できましたか?お子さんは大丈夫ですよ。何もひどいことはしてないし、女がそばにいるから大丈夫です。子供さんは眠っています。睡眠薬を飲ませたので」と2回目の電話が掛かる。そして捜査員の張り込む緊張した雰囲気で雅樹家のお手伝いの女性は1回目の脅迫電話の指示どおり、現金に見せた新聞紙を風呂敷に包んで信濃町駅→都民農場へと向かうものの、本山茂久は現れないばかりか、それ以後の連絡もなく行方をくらますこととなる。

脅迫電報

この翌朝・17日、幼稚舎の栄養士から「目黒駅付近のバス停で、雅樹が1人の男に連れられて、学校とは反対方向に歩く姿を見た」という目撃情報を証言する。普段は目黒駅までバスで移動し、そこから営団地下鉄広尾駅に降りるが、この乗り換えのところで本山茂久に連れ去られたという証言であった。

その後、午前11時半、本山茂久から「300万円を持って1時より新宿地球座(映画館)で連絡を待て。約束を守らないと取引を打ち切る」という内容の電報が届く。これを基に新宿電報局を調べると、新宿区柏木に住む「太田芳男」なる名義で午前9時57分ごろ送信されたことが判明。お手伝いの女性はその電報の指示に従って地球座に行くが、またも本山茂久は姿をくらます。

3・4回目の電話

そのほぼ半日後、本山茂久から「約束を破った。警察官が付いていた。今度は約束を守ってください。(午後)8時半に大泉学園からバスで大泉風致地区で降り、左に折れて突き当たったら戻ってください。そこで取引をする」との第3回目の脅迫電話が掛かり、お手伝いの女性は三度この指示に従って移動。警察も張り込むが、またも犯人は現れず。

さらに、その3時間後の午後11時20分ごろ、「尾行させていた。今度金を取引する場所、時間は後で連絡する」という4回目の連絡が入るが、これ以後の連絡、そして雅樹の消息は依然として不明の状態が続く。

雅樹ちゃんの無残な発見

事件から3日目の18日朝、杉並区の女性が派出所に向い

「5月16日の(午後)3時半ごろ、近所の住宅に伺ったところ、玄関のドアがあけっぱなしになっているので無用心と思い、裏手の家主さんの奥さんに連絡して2人でその家に入ったら、玄関に児童用レインコートや白襟の付いた上着や紺色のフェルト帽子が放りっぱなしになっており、奥の四畳半に7つぐらいの男の子が寝ていたので『どうしたの?』と尋ねると『病院のおじさんと目黒から来た』と言っていました。今日の朝刊を見ると、児童が誘拐されたという記事が出ており、ひょっとすると誘拐されたのはその男の子ではないか」

という重要な目撃情報が証言された。

捜査員はこれを受けてこの住宅を訪ねると、その家の前に本山茂久が乗っていたとされるルノーが発見された。

そして、家を離れていた本山茂久らしい男が戻ったかに思えたが、そのルノーは猛スピードで急発進し、捜査員が乗用車で追跡するも、またも見失った。

その翌日、杉並区上高井戸にある路上でそのルノーが放置されているのを主婦が見つけ、後部座席に米俵のようなものが置かれ、死体らしいものが包まれていたように見えた。主婦は早速その遺体を届け出て、高井戸警察署に遺体が保管された。お手伝いの女性がその遺体の身元を確認したところ、その遺体は雅樹のものであることが分かり、事件は無残な「誘拐殺人」という展開へと向かうこととなる。

その後の逃亡劇

本山茂久は全国に指名手配されたが、7月13日、布施市(現東大阪市)の工員の男性から「同居する男が指名手配犯に似ている」として交番に連絡をする。

この男はハンドバッグの口金製造業に勤める「山田正五」なる人物と顔がそっくりであるという。本山茂久は盲腸の手術痕があるので、警察は「山田」と名乗る人物にもそれがあるのかを確認してほしいと依頼する。明くる14日、工員の男性は「山田」と公衆浴場に誘うが、この手術痕らしいものは確認できず。

更にその3日後の17日、工員は「山田」の所持品を探ってみる。その「山田」のジャンパーのポケットにある手帳を見ると「誘拐事件に荷担(かたん)した」というメモが書かれてあり、「山田」と名乗った元歯科医の男(当時32歳)がその日の夕方警察に誘拐殺人の罪で逮捕された。

事件を起こそうとしたきっかけ

本山茂久は、1960年4月フランスで起きた自動車王のプジョーの孫・エリック誘拐事件(エリックは無傷であった)の記事を見て、金に困っていたことから身代金を目当てにした誘拐事件をしようと企てる。

「狙うなら金を払いそうな金持ちの家の子供がいい」と思い付き、慶応幼稚舎の園児を狙うこと、さらに多くの児童が乗り換える国鉄(現JR東日本目黒駅周辺で連れ去るということも計画に挙げていた。

そして事件当日、本山茂久は雅樹に対し目黒駅で「お母さんに頼まれたので病院に行こう」と声を掛けて誘拐を図る。

雅樹は睡眠薬で眠らせたと言い、雅樹宅にお手伝いの女性に対し場所を指定してあるので、そこに行くように指示を出した。都民農園付近は事件を起こす前日までに入念な下見を行い、逃げやすそうな場所に車を停め、お手伝いの女性がバスでやってくると、逆の方向からバスから女性と犯人を追尾する警官を見つけたため、この日の受け取りを取りやめる。

事件2日目、指定した場所で女性を待ち合わせていると、本山茂久は足を滑らせて肥溜めに落ちてしまい、ズボンとサンダルにはが付いてしまったため家路に着く。

そして3日目、本山茂久を特定しようと事件の詳細に至るまで加熱した報道を繰り返したメディアによって精神的に追い詰められた本山茂久は麻酔薬で衰弱状態となっていた雅樹を殺害しようと決断。雅樹の口にゴムホースを使ってガスを入れ、その上で首を絞めて雅樹を殺害、自宅を監視されていることを知って、あわてた本山茂久は死体となった雅樹を乗せて逃走するが、パトカーとすれ違い、杉並区内で車を乗り捨てると、横浜市から大阪市へと逃亡。最後は布施市で住み込み工員として仕事をしていたという。

この事件は誘拐事件において加熱した報道を繰り返したメディアに深い反省を与え、報道協定が制度化するきっかけにもなった。

人物

本山茂久は、1928年4月3日新潟県大島村で生まれた。実家は広大な土地を所有する地主であり、祖父は村長までつとめたことがある。彼はそんな家の長男として生まれ、下へも置かぬ扱いをされて育った。

小さい頃から無口でおとなしく、成績も優秀だった。小・中学校は地元新潟の学校に通ったが、陸軍兵器学校に合格して神奈川県へ移住。敗戦を機に帰郷し、ふたたび地元の学校に入るが、敗戦後の農地改革は彼の実家に大きな打撃を与えた。

その後、東京歯科大学予科入学。

上京し、大学生活をはじめる。とくに親しい友人はなく、どこか秘密主義のところがあったという。人付き合いが悪いわけではなく、仲間に誘われれば飲みにもついて行くし、スキーもやる。だがそんな生活のかたわら、彼は学友の誰にも内緒でダンス教室の助教師と深い仲になっていた。彼女はじきに妊娠し、本山は責任をとらざるを得なくなった。   実家の父と祖父は、大学卒業を目前に跡取り息子がダンサーと結婚すると聞き、激怒した。そうこうしているうちに子供が生まれてしまい、結局結婚を認めるよりほかなくなったのだが、正式に婚姻届が出されたのは卒業から4年以上も経った1958年12月26日だった。

1954年4月から、本山はインターンとして台東区の歯科医院に勤務をはじめる。同年5月、歯科医師試験に合格。

だが同年7月には、彼は前の勤務先には無断で、台東区の歯科医院に勤め先を移る。そしてさらに8ヶ月後には、杉並区の歯科医院へ雇われ院長の待遇で移動するのである。

本山はなかなか腕も良く、ビジネスライクに患者の回転を優先させたので見る間に繁盛した。本山は妻子を引き連れ、医院に近いところへ一軒家を借りた。翌年には次男が生まれ、順風満帆といった態であった。

1956年11月、本山は妻の実家から資金を借り、開業を決意する。場所はいまの勤務先である医院の、目と鼻の先を選んだ。いままでの患者がそっくり自分の医院についてくるであろうことを計算してである。このやり口は雇い主を激怒させたが、本山は平気な顔で開業を果たしてしまった。

しかし本山歯科医院はそんな背景に関係なく繁盛した。1日の患者数は60人を下らなかったというから、なかなかのものだった。

しかし家庭の幸福は長くつづかない。

本山は料亭の女中と関係し、アパートを借りてやって入りびたった。それを知った妻は実家へ帰り、本山は妻の両親に難詰され、ガス自殺まではかる有様だった。開業の際借りた金の返済もほとんどせず、愛人に貢ぐばかりの本山に激昂し、妻は離婚を求める。しかし本山はそれを拒否。2人が家裁でごたごたしているうちに、愛人は本山の子を産んでしまった。

愛人との生活で借金がかさみ、妻からは離婚と慰謝料を請求される。いままで金に困ったことのない本山にとってそれは初めての経験だった。実家は素封家とはいえ、農地改革でもはや頼れるほどの財産はない。

1960年5月16日、本山は目黒駅に立っていた。慶応幼稚舎のバスが目の前に止まり、慶応舎のマークをランドセルに箔押しした児童たちが、わらわらと降りてくる。本山はそのうちの1人の子に近づき、「きみを迎えに行ってくれと、おかあさんに頼まれたんだよ」と言って車に乗せた。

子供の名は雅樹ちゃんといい、銀座天地堂の社長令息であった。歳はまだ7つ。本山は雅樹ちゃんを自宅に連れ帰り、家の情報を引き出せるだけ引き出すと、睡眠薬を与えて眠らせた。

そして雅樹ちゃん宅へ電話をかけ、「200万円を指定の場所に持って来い、警察に知らせたら子供の命はない」と言った。

しかし警察への連絡は早々になされ、現場には札束の大きさに切り揃えられた新聞紙が持ち込まれただけだった。翌日、今度は電報で

「ゴゴ1ジ 300モッテ シンジュクデレンラクヲマテ」

と打つ。しかしこのときも、本山は身代金の受け取りに失敗。さらに指定場所を変えて連絡するが、結果は同じであった。

むしゃくしゃして自宅に帰った本山は、まだ眠っていた雅樹ちゃんを殺すことを決心。部屋を密閉し、ガス栓をひねると、一酸化炭素中毒で殺した。

死体は米俵に詰め込み、石を重しにして沈めるつもりで車を出したものの、すでに警察の手が迫っていることを知り、死体を後部座席に放置したまま車を捨てて逃げ出した。

じつは本山が身代金の受け渡しに頭を絞っている間、鍵のあいた本山宅にあがりこんだ近所の主婦が、「見たことのない子供」が布団に寝かされているのを目撃していたのである。

それから2ヶ月間にわたって本山は逃走の旅をつづけるが、大阪で偽名を名乗り、加工業職に就いているところを発見され、逮捕された。

裁判には妻と愛人の双方が出廷したが、妻は「こんな男は厳罰に処すべきです」と証言し、愛人は「私の愛で彼を見守りたい」と証言した。

判決

逮捕された本山茂久は1961年3月31日東京地方裁判所死刑判決を受ける。

本山茂久は死刑を逃れようと精神異常者のふりをし、精神鑑定でも「犯行時は心神耗弱」という結果が出たため、一度公判が中断されるが、5年後の1966年8月26日東京高等裁判所控訴を棄却。

1967年5月25日最高裁判所も第一審(原審)を支持して本山茂久の死刑判決が確定。1971年、死刑が執行された。享年43歳。

出典