アイヌ

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アイヌ
総人口
約25,000人(調査に応じた人口) (including those of ancestral descent)
居住地域
日本北海道東京他)、
ロシア樺太
言語
日本語アイヌ語
宗教
仏教アニミズム
関連する民族
大和民族ウィルタニヴフ
脚注

アイヌ民族は、日本ロシアにまたがる北方先住民族で、歴史的には本州東北部から北海道千島列島樺太サハリン)を生活圏としていた。現代においては北海道を中心に関東ほか都市部で生活を営んでいる。ウタリはアイヌ語で同胞、仲間を意味し名称などで使用されるが、民族呼称ではない。

千島のアイヌは1875年樺太千島交換条約後、その殆どが当地を領有した日本政府によって色丹島へ強制移住させられた。樺太アイヌ(エンチュー)は第二次世界大戦後にその殆どが当地を占領したソビエト連邦政府によって北海道へ強制送還されたが、一部は日本(網走等)に移住し、現在も少数が樺太に住む。なお2007年現在、日本政府はアイヌを先住民族として認めていない。

アイヌの意味と位置

アイヌとはアイヌ語で「人間」を意味する言葉で、もともとは「カムイ」(自然界の全てのものに心があるという精神に基づいて自然を指す呼称)に対する概念としての「人間」という意味であったとされている。世界の民族集団でこのような視点から「人間」をとらえ、それが後に民族名称になっていることはめずらしいことではない。アイヌの社会では、アイヌという言葉は本当に行いの良い人にだけ使われた。丈夫な体を持ちながらも働かず、生活に困るような人物は、アイヌと言わずにウェンペ(悪いやつ)と言う。

これが異民族に対する「自民族の呼称」として意識的に使われだしたのは、日本人(シサム・シャモ)とアイヌとの交易量が増えてきた17世紀末から18世紀初めにかけてだとされている。理由はアイヌが、「蝦夷(えぞ/えみし)」と呼ばれるのを嫌い、「アイノ(アイヌ)」と呼ぶように求めたとされているが、呼称そのものが普遍化したのは明治以降になってからのことである。

中世以降、日本人はアイヌを蝦夷、北海道を蝦夷地と称してきた。北方の民族からはクギなどと呼ばれてきた。朝廷の「蝦夷征伐」など、古代からの歴史に登場する「蝦夷」、あるいは「遠野物語」に登場する「山人(ヤマヒト)」をアイヌと捉える向きもあり、アイヌを東北地方以北の全土(飛躍した説では琉球までを含む日本全土)に住んでいた原日本人の一つする説もある。これまで起源論や日本人との関連については考古学・比較解剖人類学・文化人類学医学言語学などからアプローチされてきたが、近年DNA解析が進み、縄文人や渡来人とのDNA上での近遠関係が明らかになってきた。

しかし明治以来、アイヌは他のモンゴロイドに比べて、彫りが深い、体毛が濃い、四肢が発達しているなどの身体的特徴を根拠として、人種論的な観点からコーカソイドに近いと言う説が広く行き渡っていた時期があった。20世紀のアイヌ語研究者の代表とも言える金田一京助も、この説の影響を少なからず受けてアイヌ論を展開した。アイヌ=縄文人近似説が主流になるまで、アイヌ=ヨーロッパ人近似説には日本の学会において強い影響力があった。[1]このような認識はまた、日本政府の様々な政策(同化政策、ロシア国境地帯からの強制移住など)にも色濃く反映された。

彼らの祖先は日本人の主体となっているいわゆる和人と同じように縄文人の一部を形成し、おおまかには続縄文文化擦文時代を経てアイヌ文化の形成に至ったことが明らかになっている。しかし、その詳細な過程、縄文人集団から和人集団とアイヌ集団への分化過程については不明な点が多く、かろうじて各地の地名に残るアイヌ語の痕跡、文化(イタコなど)、言語の遺産(またぎ言葉、東北方言にアイヌ語由来の言葉が多い)などから、祖先または文化の母胎となった集団が東北地方にも住んでいた可能性が高いことが推定されている。特に擦文文化消滅後、文献に近世アイヌと確実に同定できる集団が出現するまでの経過は、考古学的遺物、文献記録ともに乏しい。

江戸時代には松前藩がおもにアイヌの人々と交易を行っていた。当時、アイヌは和人のことを「シサム」「シャモ」と呼称していた。シサムは隣人という意味のアイヌ語で、シャモはその変化形の蔑称または「和人」のアイヌ読みともいわれる。

現在、アイヌの大部分は北海道に住んでいるが、北海道を離れて生活するアイヌも、けっして少なくは無い(東京周辺だけでも北海道在住アイヌの一割を超えるとの説もある)。

歴史

アイヌ文化の成立

アイヌ文化は北海道で13世紀に成立した。資料が十分でないため、アイヌ文化成立について考古学や文献でその事情を跡付けることはできない。しかし基本的には、北海道の前時代にあった擦文文化を継承しつつ、オホーツク文化と融合し、本州の文化を摂取して生まれたと考えられている。

擦文時代の前にあたる続縄文時代の土器の文様には、アイヌの衣装に描かれる模様(アイヌ文様)と似ると指摘されるが、アイヌ文様はアムール川流域や樺太中部~北部の諸民族の文様とも類似しており、その発生・系統を実証することはできない。

オホーツク海南沿岸にあったオホーツク文化には、熊を特別視する世界観があった。これはアイヌ文化と共通するが、擦文文化にない。アイヌにとって重要な祭祀である熊送りイオマンテ)がオホーツク文化にあった可能性も示唆されている。

また、擦文文化とアイヌ文化の生活体系の違いは、日本からの移入品の量的増大にあり、アイヌ文化にとっては交易で入手する物が重要な要素になっていた。この点からは、アイヌ文化を生んだ契機に日本との交渉の増大があると考えられている。

アイヌ文化の展開

樺太アイヌは北方のツングース系民族とも交流があり、それを介して大陸の中華王朝とも関係を持った(アイヌの文化と生活を参照)

  • 1264年 樺太に住むアイヌ(骨嵬)とニヴフ(吉烈迷)の間に紛争勃発。蒙古軍が介入し、アイヌに朝貢を取り付ける。

和人の進出

文字記録をもたないアイヌには歴史の記録がない。現代まで和人の視点からの記録が歴史とされている。アイヌからの視点で歴史を記述することが、歴史学の課題でもある。

千島・樺太のアイヌ

千島樺太のアイヌは日露両国の進出、南北千島の分断統治、樺太と千島の交換、日露戦争ロシア(当時はソ連)の北方領土占領によって国際的に翻弄された。

千島列島には先史時代から居住者がいたが、記録に残っているのは18世紀からである。千島アイヌは千島列島を南北に移動して交易していたが、この頃、日本の北進とロシアの南進によって、彼らは生産・交易活動を両国に依存することが多くなっていった。1799年、エトロフ(択捉島)までを支配下に収めた江戸幕府は、1803年、エトロフ-ウルップ(得撫島)間のアイヌの移動を禁止した。これによりウルップ島以北のアイヌは日本との交易が困難になり、ロシアの影響を強く受けるようになった。1854年日露和親条約によって千島列島は日露両国が南北を分断して統治することになったが、1875年には樺太・千島交換条約に基づき千島列島が全て日本の領土になった。その際居住者は日本国籍を得て残るか、ロシア国籍を得て去るか選択させられ、大部分は日本国籍を得た。

1884年には若干の千島アイヌが日本領北端のシュムシュ(占守島)に残っており、北の国境に民間人を置いておくよりも南の地で撫育した方が良いと考えた日本政府は、97名を半ば強制的に色丹島へ移住させ、牧畜・農業に従事させた。しかし先祖代々続いた漁撈を離れ、新しい土地で暮らすことに馴染めず、健康を害するものも現れた。望郷の念を募らせる千島アイヌに対し、日本政府は1898年以降、軍艦に彼らを乗せ北千島に向かわせ、臨時に従来の漁撈に従事させる等の措置をとったものの、1923年には人口は半減していた。更に第二次世界大戦における日本の敗戦に乗じたソ連による千島・北方領土の占領に伴い、千島アイヌを含んだ日本側居住者は全て強制的に本土に移住されられ、各地に離散した。1970年代に最後の一人が死去した時点で千島アイヌは消滅したと思われる。

樺太のアイヌも国際情勢の変化の影響を強く受けた。樺太・千島交換条約に伴って樺太がロシア領になることから、同条約発効に先立つ1875年10月、もともと樺太南部の亜庭湾周辺に居住し日本国籍を選択した108戸841名が宗谷に移住させられ、翌年6月には対雁(現江別市)に移された。生活環境の変化に加え、運の悪いことに1886年コレラ、さらには天然痘の流行が追い討ちをかけ、300名以上が死去したという。1905年の日露戦勝によって南樺太が日本領になると、1906年、漸く樺太アイヌは再び故郷の地を踏むことができるようになった。ところが第二次世界大戦後に樺太全域がまたもロシア(当時はソ連)の占領下となり、同国政府によって樺太アイヌの殆どが北海道へ強制送還された。しかしながらアイヌは現在も樺太に少数ながら住んでいる。

文化と生活

ファイル:Nibutani Ainu Cise.jpg
平取町立二風谷アイヌ文化博物館の外の復元チセ(住宅)の写真。二風谷、北海道
生活形態は、経済的には狩猟、漁猟、採取(山林・海洋)、農耕、及び交易を組み合わせて生活に必要な物資を確保するものであった。

をカムイチェプと呼び主食の中心と捉えており、秋に遡上してきた鮭を大量に採集し漁場の近くに構えた専用の加工小屋兼住居で簡単な薫製を施した干物にし、保存食とした。これは自らの自給的な食糧として重要であっただけではなく、和人との交易品としても大量に確保する必要がある、主要産品のひとつであった。

オオウバユリ(トゥレプ)の球根(鱗茎)から採取・塊状保存した澱粉と、澱粉を採集したあとの滓を発酵させ、乾燥保存したものも主食の一つであり、この澱粉利用の伝統があったので、馬鈴薯が伝わるとすぐに受容した。

穀物栽培もけっして知らなかったのではなく、ヒエ(ピヤパ)の栽培が古くから行われ、祭事に用いるトノトというをこれから醸造した。ほかにアワ(ムンチロ)、キビ(メンクル)の栽培も行われた。これらを炊飯したものをチサッスイェプ、かゆに炊いたものをサヨと呼んだ。

アイヌ民族の衣装としては、イラクサの繊維から作られるテタラヘ・ユタルベなどの草皮衣や、毛皮アザラシの皮・やイトウの皮などで作られる羽織状の上着(獣皮衣、魚皮衣)があるほか、オヒョウなどの木の皮から繊維をとって作られるアットゥシと呼ばれる丈夫な樹皮衣が17世紀以降一般的なものとなった。その他、日本からは木綿の衣装が大量に輸入され、中国からは山丹貿易の衣装も輸入され、各々着用された。絹の衣装は「蝦夷錦」として日本に売られ、またアットゥシも日本各地へ輸出され、服として加工された。

アイヌ民族は、信仰面では、日本人同様、非常に汎神論的(アニミズム的)であり、更にあらゆるものにカムイ)が宿るとしている。例えば、イオマンテ熊送り。代表例 : 熊祭、熊の霊送りの踊り)では、熊の狩猟に際して熊の命を最大限敬うという独自の文化をもっていた。また、これに伴い、明治時代に入るまで神前裁判の風習を色濃く残していた。しかしながら、こういったことが、江戸時代およびび明治維新以降の近代国家建設中の日本人からは十分な理解を得られず、日本人のアイヌ蔑視に結びついたという説がある。

現在では、大半のアイヌは同化政策の影響もあり、日常生活は表面的には和人と大きく変わらない。しかし、アイヌであることを隠す人達もいる中、アイヌとしての意識は、その血筋の人々の間では少なからず健在である。アイヌとしての生き方はアイヌプリとして尊重されている。

アイヌの歴史や教訓、生活知恵などが描かれている叙事詩として語る「ユーカラ」が、口承されており、その記録活動もはじまっているが、継承者が亡くなっていくなど難航している。ユーカラの研究者としては、知里真志保(ちり ましほ)、金田一京助などが知られている。


差別問題とアイデンティティ

ファイル:Flag of the Ainu people.svg
砂澤ビッキが1973年にデザインしたアイヌ民族旗。北海道の空の青を背景に、白い雪の大地と赤い矢の絵柄を象徴的に表現したもの

アイヌ差別の端緒は古代までさかのぼることもでき、また中世の蝕穢思想に基づく「辺境」観念との関わりも指摘されているが、ここでは江戸時代以降の話に限定する。また、アイヌ差別を正確に把握するには、当時の日本の状況も把握しておく必要がある。

江戸時代の日本社会においては「独自の文字がない=読み書きができない」ということは能力の欠如を意味していた。当時の知識人に流布していた日本版小中華思想もあり、アイヌは古来からの蝦夷と連続する『蛮族』であり、『中華』『神国』たる日本に服属する存在として捉えられた。また、アイヌの中には「実力行使の前に徹底的に話し合う」という風習を持つところも少なくなかった。この、極力無用な戦いを避けようとする高貴な姿勢は、戦争や士農工商等の身分制度を当然視していた戦国時代江戸時代の武士には十分に尊重されず、また、されるはずもなく、逆にアイヌ民族への不当な抑圧を自らみすみす招いてしまっただけとも考えられている。そして、他の地域における農民一揆と同様に、この封建社会的抑圧に対する怒りとして数度にわたるアイヌの大規模な軍事行動が発生したとされている。

さらに、明治維新以降、西ヨーロッパ文明の技術とともにその思想をも大々的に受け入れていた明治時代の日本人にとっては、古くからの因習と風俗を守り続けているアイヌは、他のアジア人同様、「未開」な「弱者」に相当する存在と捉えられた。もともと北海道進出の歴史が対ロシアとの緊張(ゴローニン事件など)で加速されていたこともあり、「北海道をロシアにとられないため」という防御的な理由と「未開地は(欧米と同じように)支配して文明開化すべきだ」という文明的な理由とが存在していた。

こうした背景もあり、明治政府は、1457年コシャマインの戦い以来日本の統治下にあるアイヌを正式に平民として日本人(大日本帝国臣民)に組み入れることにより、北海道という土地を明確に自国領として取り扱った。また、明治人(特に知識人)の間では、アイヌを「教化しなければならない未開人」または「助けなければならない弱者」と考える向きが強まり、同化政策と保護運動が同時併行して行われた。

さらに、明治維新およびその後の政治が、日本の社会体制を「地域社会型」から「都市集中型」に切り替えたことも、アイヌ民族のアイデンティティーに対して重要な影響を及ぼすこととなる。当初、明治政府は戊辰戦争で賊軍になった諸藩に開拓団を出させていたが、これが軌道にのると、北海道そのものが内地(本州)で起きていた人口流動の最も重要なはけ口となったからである(後に満州開発が始まると、人口流動の最も重要なはけ口は満州へと移っていった)。

この時期のアイヌを、アイヌの側から見てみると、非文明的という受け入れ難い理由により伝統的な狩猟や医療(シャーマニックな祈祷)が禁止されたばかりか、和人入植者である「新土人」の対語として作られた「旧土人」という分類に勝手に区分され、居住地区を勝手に用意されて強制移住させられたりするなど、土地に関して極めて人権侵害的な扱いを受けていたと言える。この「土地の所有に関する問題」は、北海道地券発行条例から始まり、北海道旧土人保護法に至る流れで確定的となった。段階的に土地に関する法令が生まれていった背景にも、アイヌに対する日本人側の御都合主義的な考え方が反映されていると考えられている。

なお、家族主義的な家制度と江戸時代の身分差別の残滓(ざんし)が大いに残っていた当時の日本では、「未開人」あるいは「弱者」であるアイヌとの婚姻をことさらに忌避(きひ)する者がいた。アイヌの場合はこれが戦後もしばらく残っていたという点で、より深刻と言える。こうした傾向から、「アイヌ」という呼称そのものが差別的に用いられる事例もあらわれ、ますます差別的な流れが確定していった。このことから、アイヌ語で「親戚・同胞」を意味する「ウタリ」を民族呼称として用いるケースが増えていき、後に北海道アイヌ協会が北海道ウタリ協会へと改名することにもつながった。今現在も「アイヌ」と「ウタリ」を意識して使い分ける者がいるのは、こうした理由による。

戦後の日本の政治の中で、アイヌを巡る状況はさらに救い難いものになってゆく。

もともと北海道では、国鉄・鉱山の労働組合が大きな影響力を持っていたこともあり、戦後まもなく、社会主義運動の波が押し寄せてきた。また、戦後まもない頃の北海道は、外地からの帰国者の就労場所であり、さまざまな利権が渦巻いていた。これにより北海道は、55年体制に入った日本における、自民党社会党の利権争奪の場となった。この政治的対立にアイヌ民族もご多分に漏れず巻き込まれてしまった。この時、アイヌの圧倒的多数が社会党側についたことが、北海道旧土人保護法の撤廃を遅れさせた遠因ではないかとの指摘もある(55年体制下では一貫して野党であった社会党がなかなか法案を提出せず、仮に提出したとしても社会党とは対立関係にあった与党の自民党が法案を通す見込みは非常に薄かったと言える)。

それでも1980年代に入ると、北海道における差別は徐々に弱まり、理解も広がっていった。こうして1988年北海道旧土人保護法の撤廃とアイヌ文化保護のためのアイヌ新法に関する議論を北海道の総意として国に提出するまでに至る。国政の場では、土井たか子に代表されるマドンナブームで社会党が大躍進しており、大いに期待が膨らんだが、成果を出すまでには至らなかった。

情勢が大きく動いたのは6年後の1994年萱野茂が「アイヌ」のアイデンティティを掲げる者としては初の国会議員に当選してからのことである。これによりメディアでも「アイヌ」という言葉が広範に使われるようになり、北海道旧土人保護法という時代錯誤の法律が残ったままになっているという事実がようやく全国的にも認知されるようになった。こうして自社さ政権である村山内閣のもとで1995年、内閣官房長官の懇談会としての「ウタリ対策のあり方に関する有識者懇談会」が設立される。その2年後にあたる1997年、ようやくアイヌ新法が制定され、北海道旧土人保護法が撤廃される運びとなった。

以上の経緯を考えれば、日本人(和人)側の「教える」「導く」「守る」という一方的な善意と、それと表裏一体となった利己的な振る舞いとが、アイヌという集団を長年翻弄し続けてきたと言える。

1990年代を過ぎると、サブカルチャーとしてのゲームにアイヌを題材にしたものが登場してきたこと、彫りの深い顔立ちを「アイヌ的」という表現で若者が良い方向に評価するようになったことなどから、アイヌに対する民族差別的な偏見は完全に消え失せていったと言える。

だがこれは、初期においては政策的な、戦後は社会的な同化政策が続いたことにより、アイヌ語を始めとする独自文化の継承がうまく行われず、ほとんど放棄されてしまい、文化集団としてのアイヌ民族がそのまま日本人化してしまったが故に、かつてあった問題が単に消失してしまっただけと見ることもできる。それ故、積極的な解決が成されたわけでは決してないとする指摘もある。

起源論

  1. 生物学・自然人類学的アイヌ
  2. 歴史学・考古学分野での探求
  3. 言語学の成果

参考

  1. 日独伊三国軍事同盟が締結された時もこの説はナチスによって利用された。すなわち「アイヌ人はアーリア人であり、日本人はアイヌ人の子孫である。だから日本人はアーリア人である」というのである(ナチス人種学者のハンス・ギュンターの説(アーリアン学説))。もちろん「アイヌ=ヨーロッパ人近似」説の全盛期においても、この説は「アイヌ=縄文人近似」説とは矛盾するものであり、片方が正しければ片方が間違っているという性質のものであり、その両説を併せた「日本人=アーリア人」説は、荒唐無稽以外の何ものでもない。

関連項目

関連書籍

外部リンク

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