アレッポ

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アレッポ城から見た古い町並み

アレッポ(Aleppo(Halab))は、シリア(シリア・アラブ共和国)北部にある都市である。トルコとの国境に近い。人口は1999年現在約170万人で増え続けており、ダマスカスに次ぐシリア第2の都市である。

アラブ語では「新鮮な乳」の意味の「ハラブ」と呼ぶ。アレッポはシリア地方でも最古の都市の内の一つで、古代にはハルペ(Khalpe)の名で知られた。古代ギリシア人は、ユーフラテス川流域(メソポタミア)と地中海の中間に当たる戦略上の要地であるこの町を占領してベロエア(Beroea)と呼んだこともある。もともとは、クウェイク川両岸の広くて肥沃な谷にある、幾つかの丘の集まりの上に建てられた都市だった。

ハラブ県の領域は市の周辺16,000 km²に及びアル=バーブ、サフィラ、マンビジ、アイン・アル=アラブなどの近郊農村都市を抱え、住民は370万人にのぼる。2007年の推計では4,393,000人とシリア最大の県である。

アレッポ国際空港で中東や欧州各国と結ばれている。

名所[編集]

アレッポ新市街と旧市街ははっきり分かれている。旧市街は5km弱の長さの城壁に囲まれ、7つの城門がある。旧市街の真ん中に中世に建てられたアレッポ城は、市街地から50mも高い巨大な丘(部分的に、人工的に盛り土されてできた土塁)の上に立つ。土塁は上から見ると楕円形で、周りを深い堀に囲まれており城には大きな石造りの橋を渡って入る。今見ることのできる姿は13世紀にさかのぼり、以来何度かの地震(特に1822年の地震)で破損している。

1912年のアレッポの地図。城の土塁が街の真中にある
アレッポ城

アラブ語の都市名「ハラブ」は乳の意味で、アブラハムが旅してきた旅人たちに乳を振舞ったとの伝承から来ている。古代から(伝説によればダビデ王の頃から)の大きなユダヤ人コミュニティがあり、9世紀に建てられた大きなシナゴーグがある。このシナゴーグが、930年ごろにベン・アシェル家が書き写した旧約聖書の最古級の写本「アレッポ写本」があった場所で、1947年に起こったユダヤ人に対する暴動を経て、現在写本はエルサレムにある。ユダヤ人コミュニティは政治的・経済的な理由からアレッポを去っている。

アレッポには「マドラサ・ハラウィヤ」を含む数多くのモスクがある。マドラサ・ハラウィヤはもと6世紀に建てられたビザンティン建築の「聖ヘレナ大聖堂」の建物であり、もとはローマ皇帝コンスタンティヌス1世の母で熱心なキリスト教徒であった聖ヘレナ洗礼者ヨハネの父、祭司ザカリアのものとされる墓の上に建てた教会である。十字軍の戦争の頃、西洋人たちがアレッポ周辺の農村を略奪した際、アレッポの領主は聖ヘレナ大聖堂をモスクに変えてしまった。12世紀半ばにアレッポに本拠を置いたザンギー朝の王、ザンギーの息子であるヌールッディーンは熱心なイスラム教徒で、大聖堂の建物を取り巻くようにマドラサ(宗教大学)を創建した。

「ジャミ・アル・カビール」(グレート・モスク)はもともとウマイヤ朝が建設したものだが、現在の建築物はやはりヌールッディーンが1158年に建てたもので、1260年モンゴル軍(フレグの軍)の侵入によって破壊されたが、その後再建された。

スーク(市場)の中

古代からの交易都市として、アレッポにも印象的な「スーク (市)」と「ハーン(キャラバンサライ、隊商宿)」があり、その規模と豪華さは中東でも随一のものである。

特産品の石鹸

街の主要な役割は交易であった。東西と南北の2本の重要な交易路の交差点に当たり、東南アジア中国インド、メソポタミアの物資を中継してアンタキヤラタキアなど地中海沿岸の諸港に送り、イタリア海洋都市に売るというレバント貿易で大きな収益を上げた。またアレッポは南300kmにあるダマスカスとも街道(険しい地中海沿いでなく、内陸のアンチレバノン山脈のふもとを通ることが多かった)でつながっていた。この道は、エルサレムマッカ(メッカ)などへの巡礼路となり、エジプトアフリカ方面の産物もこの道を経てアレッポへ届いていた。この交易はしばしば政治的な理由で中断されたが、ヨーロッパ人が喜望峰回りでインドへ向かう海路やエジプトから紅海を通る海路を開発するまでは繁栄し続けた。海路が主流となり陸路を使う東西交易が少なくなって以来、物資の中継は激減しアレッポは衰退を始め、主な輸出品は周囲の農村の作物を加工した農産品、小麦・綿・ピスタチオ・オリーブ、羊、オリーブオイルで作られた石鹸などに変わっていった。

歴史[編集]

古代都市アレッポ参照

古代[編集]

現代のアレッポが古代アレッポの場所に立っているため、考古学者が発掘に当たる機会は少ない。一帯は紀元前1800年ごろから居住が始まり、ヒッタイトの記録にも記されている。ヤムハド王国の首都として栄え、その繁栄はヤムハドの支配者であったアモリ人(Amorite)の王朝が紀元前1600年ごろ倒れるまで続いた。アレッポは紀元前800年ごろまでヒッタイトの支配下におかれ、アッシリア帝国ペルシア帝国に支配された後、紀元前333年セレウコス朝によって古代ギリシア人の支配するところとなった。セレウコス1世はこの都市をベロエアと改称した。セレウコス朝の支配は、紀元前64年にシリア地方がローマ帝国に征服されるまで続いた。

中世[編集]

アレッポのウマイヤード・モスク

ベロエアはビザンティン帝国(東ローマ帝国)の一部であったが、アラブ人によって637年に征服された。10世紀944年モースルハムダーン朝に征服されその後モースルから独立するが、ビザンティン帝国を再興させたヨハネス1世ツィミスケスが遠征し、974年から987年の短期間、支配権を取り戻した。以後ふたたびハムダーン朝の支配下となったが、1004年王家断絶によりエジプトファーティマ朝に併合された。

1094年テュルク系のセルジューク朝がアレッポを征服した。そこから分かれたシリア・セルジューク朝がアレッポを支配していた頃に2度、1098年1124年十字軍に包囲されたが、陥落はしなかった。テュルク系の諸アタベク政権であるアルトゥク朝ザンギー朝の支配を経て1183年、街はエジプトにアイユーブ朝を開いたクルド人将軍サラディンの手により開城され、アイユーブ朝の支配が始まる。

モンゴル帝国フレグ1260年にアレッポを征服し破壊したが、フレグの創設したイルハン朝の後継争いの中、1317年に地元の領主が独立し、エジプトのマムルーク朝の影響下に入った。1517年、テュルク系のオスマン帝国セリム1世によりアレッポを含むシリア地方は征服されマムルーク朝も滅亡し、以後オスマン帝国の長い統治が始まった。1517年時点での人口は約5万人だった。

アレッポ周囲では地震が頻発しているが、1138年8月9日の大地震はとりわけアレッポとその周囲に壊滅的な被害を与えた。当時の記録による被害者数には全幅の信頼は置けないが、23万人以上の犠牲者が出たとみられ、世界地震史上でも4番目に犠牲者数の多い地震となっている。

近代[編集]

アレッポはオスマン帝国の滅亡する第一次世界大戦直後までその支配下にあったが、それまでの間、都市内部の反乱が何度か起こったほか、伝染病の流行や1823年コレラ流行などで支配は不安定になった。1901年には都市人口は約12万5千人になった。オスマン帝国滅亡後、オスマン領のシリア・パレスチナ地方はイギリスフランスで分割され、アレッポはフランス委任統治領シリアの一部となった。アレッポは植民地支配によって近代化したが、1938年から1939年に掛けてアンティオキア(現在のアンタキヤ)でトルコ共和国編入を求める運動が活発化しフランスも許可すると、内陸のアレッポは経済的に打撃を受けた。

アレッポは第二次世界大戦後近代的都市計画により計画都市へと変貌した。1952年フランス人建築家都市計画家ボザールおよびパリ大学都市計画研究所の教授だったアンドレ・ギュトン(Andre Gutton)は、近代的な自動車交通に対応するよう、町並みを貫くように何本かの広い車道を計画した。1970年代には、古い町の大部分が近代的なアパート街区建設のため破壊された。一方で再開発に反対する住民運動により、1977年には旧市街を分断する道路計画に変更が加えられた。残った市街地の保全が公私の資金で進み、1986年にはアレッポ市街は世界遺産に登録された。

シリア騒乱[編集]

2011年から続く内戦に端を発した政府軍と反政府軍(自由シリア軍)との対立は、2012年7月下旬にアレッポ市内にも拡大。一部では市街戦の様相を呈したため、市民の多くが市街地から避難を余儀なくされた。2012年9月28日に政府軍と反体制派の戦闘によりスークにて火災が発生し、歴史的な店舗の大半は消失した。

関連項目[編集]

出典・参考文献[編集]

外部リンク[編集]