立憲民政党

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立憲民政党本部

立憲民政党(りっけんみんせいとう)は、昭和時代の政党。1927年6月1日憲政会政友本党が合併して成立した。浜口内閣第2次若槻内閣を組織して、立憲政友会との二大政党制を実現させたが1940年8月15日に解党して立憲政友会とともに大政翼賛会に合流した。

概要

1927年、政友会の田中義一内閣に対抗する形で若槻前政権与党であった憲政会と田中義一の政友会総裁就任に反対して政友会を離党した床次竹二郎らの政友本党が合同して成立、6月1日上野精養軒にて結党式が開かれ、浜口雄幸総裁とし、若槻礼次郎(前首相・憲政会総裁)・床次竹二郎(政友本党総裁)・山本達雄武富時敏を党顧問、桜内幸雄を幹事長、安達謙蔵町田忠治小泉又次郎斎藤隆夫ら10名を総務とし、「議会中心主義」・「人種・貧富の差の解消」・「国際正義に基づく協調主義」・「国民の自由の擁護」などを掲げた。支持基盤としては、地主などが支持基盤の政友会に対し、都市中間層などが主な支持基盤であった。

政党政治と民政党内閣

1928年に行われた第16回衆議院議員総選挙では、田中内閣鈴木喜三郎内相より、「民政党が掲げる議会中心主義は憲法違反である」との誹謗と選挙干渉を受けるも政友会にわずか1議席差にまで迫る議席を獲得して政府を追い込んだ。それに対して与党・政友会は床次ら旧政友本党出身者に対して復党工作を行って床次ら30名余りの離党者を出す事に成功する。

だが、翌年田中内閣が所謂「満州某重大事件」が原因となって内閣総辞職に追い込まれると、元老西園寺公望(元政友会総裁)は現状の政友会の政策を宜しきを得ていない事が政権崩壊の原因となった考えて、第2党の民政党に政権を交代させた上で国民の信を問う方針を固めて昭和天皇に浜口を次期首相として推薦した。

こうして成立した浜口内閣は金解禁を断行した上で、「綱紀粛正」と「軍縮実現」を掲げ1930年第16回衆議院議員総選挙を行った。その結果、過半数を超える議席を獲得した。ところがロンドン海軍軍縮条約における「統帥権干犯問題」をきっかけに浜口は右翼によって狙撃され、その回復が思わしくないという事で1931年に若槻礼次郎が総裁に就任して第2次若槻内閣が発足した(浜口は直後に死去)。ところが9月には満州事変が勃発、同じ頃にアメリカが発生した世界恐慌日本経済にも深刻な影響を与えるようになった。

そこで、内務大臣であった安達謙蔵は政友会に復党していた床次竹次郎らと組んで挙国一致内閣協力内閣運動)を提唱するが、これが閣内分裂を招いて若槻内閣は倒れ、安達とその支持者は脱党して新政党「国民同盟」を結成した。この影響でその直後の第18回衆議院議員総選挙では結党以来最大の惨敗を喫した上に、選挙中に発生した血盟団事件で次期総裁の最有力候補だった前大蔵大臣井上準之助暗殺されてしまう。

中間内閣と軍部の台頭

ところが、5.15事件で政友会の犬養毅首相が暗殺されると、政党政治は終焉して軍人首班の中間内閣の時代(斎藤内閣岡田内閣)に入る。この中間内閣には民政党から2人ずつの閣僚(斎藤内閣-山本達雄(内務大臣)・永井柳太郎拓務大臣)、岡田内閣-町田忠治(商工大臣)・松田源治文部大臣))が入閣した。だが、軍部の発言力の増大に比例するかのように政党の存在感は低下していくようになる。

そこで1933年、町田忠治が主宰してシンクタンクである「政務調査館」を発足させ、その一方で宇垣一成陸軍大臣を擁して政友会との連携を図った。ところが犬養の死後に政友会総裁になったのは以前の選挙の際に民政党を違憲と発言した鈴木喜三郎であった事から民政党内部に反発が生じ、加えて鈴木も中間内閣そのものを否定して野党路線を選択した事から失敗に終わった。

加えて、若槻総裁が帝国議会で軍備拡張を批判して「骸骨が大砲を牽く」と発言した事が軍部や右翼の攻撃を招き、若槻は総裁辞任に追い込まれた。余りの突然の総裁辞任に町田忠治が総務会長に就任して暫定的に党務を行い後継総裁の選出を行おうとするものの、結論に至らず結局町田がそのまま総裁に就任する事になった。

2.26事件後の広田内閣以後も林内閣を除いて閣僚を入閣(広田内閣…川崎卓吉小川郷太郎(商工大臣)・頼母木桂吉逓信大臣)、第1次近衛内閣…永井柳太郎(逓信大臣)、平沼内閣…桜内幸雄(農林大臣)、阿部内閣…永井柳太郎(逓信大臣)、米内内閣…桜内幸雄(大蔵大臣)・勝正憲(逓信大臣)・第2次近衛内閣…小川郷太郎(鉄道大臣))を入閣させ、またライバルである政友会の分裂騒動も追い風となって衆議院の議席数でも第1党を維持してきたが、軍部の台頭の前にその発言力が低下していった。

大政翼賛会と民政党解党

その頃、党内には2つの流れが存在した。一つは2.26事件直後の所謂「粛軍演説」に代表される斎藤隆夫の軍部と対決してでも党是である議会政治を擁護しようとする立場ともう一つは町田の元で幹事長を務めていた永井柳太郎に代表される軍部や革新官僚と結んで政治の主導権を確保する事を優先すべきだとする立場である。

永井は「反政党」の立場を取る林内閣に対して一方的支持を決定したが、政友会や党内部からも強い非難を浴びた。だが、日中戦争開始直後から当時入閣していた永井とそのグループを支持する政府・軍部の動きが盛んになり、国家総動員法の審議では当初は反対論を唱えながら最終的には賛成に回るなど、親軍色を強めていった。

そして、1940年2月、斎藤隆夫の所謂「反軍演説」問題の際に民政党が自分の党の重鎮である斎藤の衆議院除名に賛成した事によって、党の保身のために軍部の圧力に屈して自党議員を見捨てたとして内外の信任を失って内部から崩壊を始め、次いで第2次近衛内閣で近衛文麿首相自らの新党(所謂「近衛新体制」)が盛り上がると、永井グループ35名は新党への合流を主張して離党、町田総裁ら主流派は近衛内閣と軍部の政策を事実上全追認する党綱領を出して党解党だけは防ごうとするが、同年8月15日に解党し、大政翼賛会に合流した。

歴代総裁

  1. 浜口雄幸(1927年6月1日 - 1931年4月13日)
  2. 若槻礼次郎(1931年4月13日 - 1934年11月1日)
    (町田忠治 総裁代行(総務会長)1934年11月9日-1935年1月20日)
  3. 町田忠治(1935年1月20日 - 1940年8月15日)

獲得議席