ヒンターカイフェック事件

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ヒンターカイフェック事件(ヒンターカイフェックじけん)とは、ドイツ史上最も謎の多い犯罪として知られる殺人事件である。1922年3月31日の夕方、ヒンターカイフェックの住人6名がつるはしによって殺害された。事件は現在も解決されていない。ヒンターカイフェックは、現在のヴァイトホーフェンバイエルン州の都市インゴルシュタットアウクスブルクの間、ミュンヘンの約70キロメートル北)の近郊にあった小さな農場である。

6名の犠牲者は、農場の主人の男性(63歳) とその妻(72歳)、夫妻の娘(35歳、未亡人)とその子供2名 (7歳の女の子と2歳の男の子)、そして農場の使用人の女性である。2歳の男の子の父親は、農場の主人であると噂されており、彼らの近親相姦行為は多くの人々に知られていた。

犯行

事件発生の金曜日の夕方、何が起こったのかを正確に知ることはできない。年長の夫妻と彼らの娘、およびその7歳の娘は、何らかの方法で農場の納屋におびき出され、そこで殺害されたものと考えられている。その後、犯人(達)は母屋に侵入し、母の寝室で寝ていた2歳の男の子を、使用人部屋で使用人の女性をそれぞれ殺害したものと思われる。

犯行の2、3日前、農場の主人は怪しい足跡を発見したことを近所の住民に話している。足跡は雪上で見つかり、近くの森から何者かが農場までやって来た跡があったが、農場から戻って行った形跡はなかったという。さらに彼は屋根裏で足音を聞いたり、見慣れない新聞紙が農場に落ちているのを見付けたとも語っていた。また、農場の鍵がいくつか、事件に先立って紛失していたが、警察への届け出はなかった。

事件の6ヶ月前、農場の使用人の女性が仕事を辞めて去っていた。理由は、彼女によれば「農場が何かにとり憑かれている」からであった。このため、事件の犠牲者となった女性が新たに使用人として農場にやって来たのだが、彼女が農場に着いたのは事件当日で、まさに殺害される数時間前のことであった。

翌週の火曜日の4月4日、一家の姿を数日見かけないことを不審に思った近隣の住人数名が農場を訪れた。郵便局員は、前の週の土曜日に自分が配達した郵便物が、そのまま放置されていることに気づいていた。7歳の女の子は、土曜日から月曜日にかけて学校を欠席していた。一家は、日曜日の礼拝を習慣としていたが、その週は教会に姿を現さなかった。火曜日、機械修理に技師が農場を訪れ、そこで5時間も機械修理をしていたが、農場内は無人で誰にも会わなかったという。近隣の住人達は農場に到着した時、農場内の全ての戸が施錠されているのに気づいた。彼らは納屋の戸を押し破って中に入り、そこで4名の遺体を発見したのである。残る2名の遺体は母屋内で発見された。

このように発見が遅れたのは、一家が人里離れた場所に住んでいたことと、「変わり者でケチ」であるとされ、村人の評判が良くなかったためであった。

捜査

遺体発見翌日の4月5日、ミュンヘン警察の捜査員が到着し、納屋で検視が行われた。その結果、屋根裏に足音を消すための藁が敷かれていたことと、犯人(達)が寝ていたと思われる跡を発見した。また、敷地の様子を一望できるように、屋根瓦が何枚か外されていた事が分かった。検視を行った監察医は、凶器として最も可能性があるのはつるはしであることを突き止めた。また、当時捜査に霊媒術を採用していたミュンヘン警察は、霊能者に調査をさせるため、現地で遺体の頭部を切断してニュルンベルクに送った。しかし、何ら具体的な成果は上がらなかった。

この検視により、7歳の女の子は襲撃後、数時間は生存していたことが明らかになった。彼女は納屋のわらの上で、自分の祖母や母の遺体の傍らに横たわっていたが、自分の髪の毛を自ら乱暴に引き抜いた痕跡があった。

4月8日には、早くも犯人に繋がる有力な情報に対して10万マルクという懸賞金が掛けられた。

警察は当初、犯人の動機を物取りと考え、近隣の村の住民のほか、周辺を渡り歩いていた技術工や浮浪者、前科者、行商人などを取り調べた。しかし、物取りの犯行という見方は、農場の母屋から多額の現金が発見されたことで疑わしくなった。犯人(達)は、犯行後の何日間か、農場に居残っていたと考えられている。何者かによって農場の牛や鶏に餌が与えられていたほか、台所でパンや肉を食べた跡が見つかり、更に近隣の住民の中には週末の間、農場の煙突から煙が出ているのを目撃した者もいた。もし、犯行の動機が物取りならば、犯人(達)はその間に現金を見つけられたはずである。しかしながら、怨恨の線でも有力な成果は上がらなかった。

さらに容疑の目は、1914年にフランスで戦死したと伝えられていた夫妻の娘の夫にも向けられた。娘の夫は遺体が発見されていなかったため、彼の死亡そのものが疑われたのである。

当地はカトリックの勢力がかなり強い地方であったため、この地域の教区を管轄していた神父が、犯人または事情を知る人物の懺悔を通じて真実を知っていたのではないかという説もあるが、この神父の証言は警察の調書には記録されていない。また、「非常にケチ」と称されていた一家の娘が、事件の少し前に、多額の寄付金を教会の懺悔室に置いていくという奇妙な行動を取っているが、事件と関連があったのかは定かではない。

ミュンヘン警察の捜査員たちは、事件の解決に最大限の努力を傾けた。しかし、ミュンヘンから来た捜査員達は、排他的な村人達の反感を買い、捜査は難航することとなった。何年にもわたり、村人を含む数百名以上が容疑者として尋問されたが成果はなかった。

その後

6名の遺骸はヴァイトホーフェンの墓地に埋葬され、墓地には事件の記念碑が建立された。ニュルンベルクに送られた頭蓋骨は、第二次世界大戦の混乱で紛失され戻ってこなかった。現在、農場跡地の近くには祠が立っている。

農場は事件の翌年の1923年に取り壊された。取り壊しの際、殺害に使用されたつるはしが屋根裏部屋の床板の下から見つかった。

捜査は1955年になって一旦打ち切られ、1986年には改めて事情聴取が行われたが、これも成果は上がらなかった。これをもって、捜査は最終的に終了している。

今日でも、多くの人々が個人的にこの事件の解明を試みている。

小説

  • アンドレア・M・シェンケル『凍える森』平野卿子訳、集英社(集英社文庫)、2007年、 ISBN 978-4-08-760542-6

外部リンク