三条実美
[[画像:Sanetomi Sanjo formal.jpg|thumb|200px|大礼服の三条実美]] [[画像:Sanetomi Sanjo.jpg|thumb|200px|衣冠束帯の三条実美]] '''三条 実美'''(さんじょう さねとみ、正字体:'''三條 實美'''、[[天保]]8年[[2月7日 (旧暦)|2月7日]]([[1837年]][[3月13日]])- [[明治]]24年([[1891年]])[[2月18日]])は江戸時代後期、[[幕末]]から明治の公卿、[[政治家]]である。明治政府の[[太政官]]では最高官の[[太政大臣]]を務めた。内閣制度発足後は最初の[[内大臣府|内大臣]]を務めている。 [[藤原北家]]閑院流の嫡流で、太政大臣まで昇任できた[[清華家]]のひとつ・[[三条家]]の生まれ。父は贈右大臣・[[三条実万|実万]]、母は[[土佐藩|土佐]]藩主・[[山内豊策]]の女・紀子。妻は[[関白]]・[[鷹司輔煕]]の九女・治子([[1848年]] - [[1924年]])。「梨堂」と号す。華族制度の発足後は本人の功が考慮され[[公爵]]となった。 == 来歴 == 実美は[[安政]]元年([[1854年]])、兄の[[三条公睦|公睦]]の早世により家を継いだ。[[安政の大獄]]で処分された父・実万と同じく[[尊皇攘夷]](尊攘)派の公家として[[文久]]2年([[1862年]])に勅使の1人として[[江戸]]へ赴き14代将軍の[[徳川家茂]]に攘夷を督促し、この年[[国事御用掛]]となった。[[長州藩|長州]]と密接な関係を持ち[[姉小路公知]]と共に尊皇攘夷激派の公卿として幕府に攘夷決行を求め、[[孝明天皇]]の大和行幸を企画した。 文久3年([[1863年]])には、[[公武合体]]派の[[久邇宮朝彦親王|中川宮]]らの公家や[[薩摩藩]]・[[会津藩]]らが連動したクーデター・[[八月十八日の政変]]により[[朝廷]]を追われ[[京都]]を逃れて長州へ移る([[七卿落ち]])。長州藩に匿われるが、[[元治]]元年([[1864年]])の[[第一次長州征伐]](幕長戦争)に際しては福岡藩へ預けられる。[[太宰府天満宮|太宰府]]へと移送され、3年間の幽閉生活を送った。また、その途中に[[宗像市]]の[[唐津街道]][[赤間宿]]に1ヵ月間宿泊した。この間に薩摩藩の[[西郷隆盛]]や長州藩の[[高杉晋作]]らが集まり、時勢を語り合った。 [[慶応]]3年([[1867年]])の[[王政復古 (日本)|王政復古]]で表舞台に復帰、成立した新政府で[[議定]]となる。翌慶応4年([[1868年]])には副総裁。[[戊辰戦争]]においては関東観察使として江戸へ赴く。明治2年([[1869年]])には右大臣、同4年([[1871年]])には太政大臣となった。 明治6年([[1873年]])の[[征韓論]]をめぐる政府内での対立では西郷らの征韓派と[[岩倉具視]]や[[大久保利通]]らの征韓反対派の板ばさみになり、岩倉を代理とする。明治15年([[1882年]])、[[大勲位菊花大綬章]]を受章する。明治18年([[1885年]])には[[太政官制#太政官制|太政官制]]が廃止されて[[内閣]]制度が発足したため、[[内大臣府|内大臣]]に転じた。 明治22年([[1889年]])、折からの[[条約改正]]交渉が暗礁に乗り上げ外務大臣の[[大隈重信]]が国家主義団体・[[玄洋社]]の団員に爆烈弾を投げつけられて右脚切断の重傷を負うという事件が発生した。進退窮まった[[黒田内閣]]は1週間後の[[10月25日]]、全閣僚の辞表を提出した。ところが[[明治天皇]]は[[黒田清隆]]の辞表のみを受理して、他の閣僚には引き続きその任に当たることを命じるとともに内大臣の実美に内閣総理大臣を兼任させて内閣を存続させた。このとき憲法はすでに公布されていたが、まだ施行はされていなかった。諸制度の運用に関してはまだ柔軟性があり、天皇の気まぐれもまだ許容された時代だった。 実美は明治2年(1869年)に太政官制が導入されて以来、実権はさておき名目上は常に明治新政府の首班として諸事万端を整えることに努めてきたが[[伊藤博文]]の主導する内閣制度の導入によってこれに終止符が打たれたのはこの4年前のことだった。伊藤が内閣総理大臣に就任したことにともない実美は内大臣として宮中にまわり、以後は天皇の側近としてこれを「常侍輔弼」することになったのだがそもそも[[内大臣府]]は実美処遇のために創られた名誉職であり、実際は彼を二階へあげて梯子を外したも同然だった。さすがの明治天皇もこれを気の毒に思ったのである。 天皇が実美に下した命は「臨時兼任」ではなく「兼任」であり、しかもその後は何の沙汰も下さない日が続いた。天皇が次の[[山縣有朋]]に組閣の大命を下したのは実に2ヵ月も経った同年[[12月24日]]のことだった。そのためこの期間はひとつの内閣が存在したものとして、これを「[[三條暫定内閣]]」と呼ぶことになった。 しかしやがて憲法が施行され内閣総理大臣の「[[内閣総理大臣臨時代理#内閣総理大臣「臨時兼任」と「臨時代理」|臨時兼任]]」や「[[内閣総理大臣臨時代理#内閣総理大臣「臨時兼任」と「臨時代理」|臨時代理]]」が制度として定着すると、この実美による総理兼任の背後事情は次第に過去の特別な例外として扱われるようになった。今日ではこの2ヵ月間に「内大臣の実美が内閣総理大臣を兼任していた」とはしながらも、それは「黒田内閣の延長」であって「実美は歴代の内閣総理大臣には含めない」とすることが時代の趨勢となっている。 [[画像:三条実美墓1.jpg|200px|thumb|護国寺(東京都文京区)内 三条実美墓]] [[画像:三条実美墓2.jpg|200px|thumb|墓]] 明治24年(1891年)、55歳で薨去。死の直前に[[正一位]]授与(生前に正一位を叙位された最後の例である)。[[国葬]]をもって送られた。[[大正]]時代になって[[京都御所]]に隣接した三条邸跡の[[梨木神社]]に合祀された。 == 官職位階履歴 == * [[嘉永]]2年[[12月19日 (旧暦)|12月19日]]([[1850年]][[1月31日]])、[[従五位下]]に叙位。 * 嘉永7年([[1854年]]) ** [[6月10日 (旧暦)|6月10日]]([[7月4日]])、[[従五位上]]に昇叙。 ** [[8月8日 (旧暦)|8月8日]]([[9月29日]])、[[侍従]]に任官。 ** [[8月27日 (旧暦)|8月27日]]([[10月18日]])、元服し禁色を賜り、[[昇殿]]を聴される。 ** 改元して[[安政]]元年[[12月15日 (旧暦)|12月15日]]([[1855年]][[2月1日]])、[[正五位下]]に昇叙し侍従如元。 * 安政2年(1855年) ** [[4月7日 (旧暦)|4月7日]]([[5月22日]])、[[従四位上]]に昇叙し侍従如元。 ** [[9月17日 (旧暦)|9月17日]]([[10月27日]])、[[右近衛権少将]]に転任。 ** [[12月22日 (旧暦)|12月22日]]([[1856年]][[1月29日]])、[[正四位下]]に昇叙し右近衛権少将如元。 * [[文久]]2年([[1862年]]) ** [[8月21日 (旧暦)|閏8月21日]]([[10月14日]])、左近衛権中将に転任。 ** [[9月15日 (旧暦)|9月15日]]([[11月6日]])、[[従三位]]に昇叙し、左近衛権中将如元。 ** [[9月28日 (旧暦)|9月28日]]([[11月19日]])、[[権中納言]]に転任。 ** [[12月27日 (旧暦)|12月27日]]([[1863年]][[2月15日]])、朝廷内に国事御用掛を設置するに伴い兼帯。 * 文久3年[[8月24日 (旧暦)|8月24日]](1863年[[10月6日]])、国事御用掛を含めて解官。 * [[慶応]]3年([[1867年]]) ** [[12月8日 (旧暦)|12月8日]]([[1868年]][[1月2日]])、[[従三位]]に復位。 ** 12月27日(1868年[[1月21日]])、明治政府の[[議定]]に就任。 * 慶応4年(1868年) ** [[1月9日 (旧暦)|1月9日]]([[2月2日]])、明治政府(この年のみ、以下政府と付す)副総裁を兼帯。 ** [[1月17日 (旧暦)|1月17日]]([[2月10日]])、政府外国事務総督を兼帯。 ** [[1月20日 (旧暦)|1月20日]]([[2月13日]])、政府外国事務総督を辞す。 ** [[2月2日 (旧暦)|2月2日]]([[2月24日]])、[[権大納言]]に転任。 ** [[4月22日 (旧暦)|4月22日]]([[5月14日]])、左近衛大将を兼任。 ** [[4月21日 (旧暦)|閏4月21日]]([[6月11日]])、政府の制度改正により副総裁から輔相に異動。議定は、議政官たる上局議定となる。 ** 閏4月22日([[6月12日]])、[[従一位]]に昇叙し[[権大納言]][[左近衛大将]]輔相議定如元。 ** [[5月24日 (旧暦)|5月24日]]([[7月13日]])、[[右大臣]]に転任。左近衛大将輔相議定如元。 * [[明治]]2年([[1869年]]) ** [[5月13日 (旧暦)|5月13日]]([[6月22日]])、議定を辞す。 ** [[7月8日 (旧暦)|7月8日]]([[8月15日]])、制度改正により右大臣に。 * 明治4年([[1871年]]) ** [[6月27日 (旧暦)|6月27日]]([[8月13日]])、[[神祇伯]]を兼帯。 ** [[7月29日 (旧暦)|7月29日]]([[9月13日]])、制度改正により[[太政大臣]]に。 ** [[8月10日 (旧暦)|8月10日]]([[9月24日]])、[[神祇伯]]を辞す。 * 明治9年([[1876年]])[[12月29日]]、[[勲一等旭日大綬章]]を受章。 * 明治15年([[1882年]])[[4月11日]]、[[大勲位菊花大綬章]]を受章。 * 明治17年([[1884年]])[[7月7日]]、[[公爵]]授爵。 * 明治18年([[1885年]])[[12月22日]]、太政官制廃止と内閣制度発足をうけ[[内大臣]]に。 * 明治22年([[1889年]]) ** [[10月25日]]、内閣総理大臣黒田清隆の辞任に伴い、内閣総理大臣を兼任。 ** [[12月24日]]、[[第1次山縣内閣]]発足により内閣総理大臣兼任を解く。 * 明治23年([[1890年]])2月、帝国議会発足により[[貴族院 (日本)|貴族院公爵議員]]に。 * 明治24年([[1891年]]) ** [[2月18日]]、叙[[正一位]]。同日、薨去。 ** [[2月25日]]、[[国葬]]。 == 人物 == 幕末には尊攘派の公家として活動する一面、極めて公家風の雰囲気を持つ温和な人物であったらしい。明治にはその温和な性格から、政府内の対立を調停する役割も果たした。 新政府樹立と共にほとんどの公卿が閑職に追いやられた中、彼は希な経歴の持ち主であった。また、最後の太政大臣として太政官制を最後まで擁護しながらも内閣制度の発足に伴い内大臣職を宛てがわれるとこれが[[内閣総理大臣#.E9.80.B8.E8.A9.B1.E3.81.AA.E3.81.A9|三条処遇のために作られた名誉職]]である事を承知の上であっさりと引き受け、初代内閣総理大臣伊藤博文の門出を祝った。 七卿落ちの途中、長州藩に匿われていた折の歌碑が萩市の[[明神池]]にある。また宗像市の唐津街道赤間宿に1ヵ月間宿泊した記念に[[赤間]]には、「五卿西遷の碑」がある。 == 関連項目 == *[[内閣総理大臣]] - 太政官制から内閣制へ移行する頃の実美をめぐる逸話など。 *[[黒田内閣]] *[[尾崎三良]] *[[官報]] - 題字の[[揮毫]]者が実美である。 *[[石津太神社]] - 鳥居に掛かる扁額を書いたとされている。 *[[幕末の人物一覧]] *[[明治の人物一覧]] *[[景山龍造]] {{WikisourceN|三条実美ヲ正一位ニ叙スル勅語|三條實美ヲ正一位ニ叙スル勅語}} {{WikisourceN|藤原實美復古ノ偉勳ヲ賞スルノ詔書|藤原實美復古ノ偉勲ヲ賞スルノ詔書}} == 外部リンク == *[http://www.ndl.go.jp/jp/data/kensei_shiryo/kensei/sannjouke1.html 国立国会図書館 憲政資料室 三条家文書(所蔵)] *[http://www.ndl.go.jp/jp/data/kensei_shiryo/kensei/sannjouke2.html 国立国会図書館 憲政資料室 三条家文書(MF:神宮文庫蔵)] {{先代次代|[[三条家]]|第31代|[[三条公睦]]|[[三条公美]]}} {{先代次代|[[内大臣府|内大臣]](近代)|初代:[[1885年]]-[[1891年]]|-|[[徳大寺実則]]}} {{DEFAULTSORT:さんしよう さねとみ}} [[Category:江戸時代の公家]] [[Category:明治の元勲]] [[Category:貴族院公爵議員]] [[Category:三条家|さねとみ]] [[Category:山城国の人物|公]] [[Category:1837年生]] [[Category:1891年没]] [[ar:سانيتومي سانجو]] [[de:Sanjō Sanetomi]] [[en:Sanjō Sanetomi]] [[es:Sanjō Sanetomi]] [[ko:산조 사네토미]] [[la:Sanjō Sanetomi]] [[ru:Сандзё Санэтоми]] [[zh:三条实美]]