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2008年12月24日 (水) 01:08時点における版
の政治家 野中広務 のなか ひろむ [[画像:|0200px|野中広務]]
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生年月日 | 1925年10月20日((2024-1925)+((12-10)*100+(29-20)>=0)-1歳) |
出生地 | 京都府船井郡園部村(現:南丹市) |
没年月日 | |
死没地 | |
出身校 | 旧制京都府立園部中学校(現:京都府立園部高等学校) |
前職 | |
現職 | |
所属政党 | 自由民主党 |
所属委員会 | |
議員会館 | |
選挙区 | |
当選回数 | 7回
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元首 | |
称号・勲章 | 勲一等旭日大綬章 |
世襲の有無 | |
親族 | |
配偶者 | |
サイン | [[画像:|128px|サイン]] |
公式サイト | [ ] |
{{|textstyle=display:none}} 第38代沖縄開発庁長官 | |
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内閣 | 小渕第1次改造内閣 |
就任期間 | 1999年1月14日 - 1999年10月5日
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{{|textstyle=display:none}} 第63代内閣官房長官 | |
内閣 | 小渕第1次改造内閣 |
就任期間 | 1998年7月30日 - 1999年10月5日
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{{|textstyle=display:none}} 第48代自治大臣 | |
内閣 | 村山内閣 |
就任期間 | 1994年6月30日 |
{{|textstyle=display:none}} 第56代国家公安委員会委員長 | |
内閣 | 村山内閣 |
就任期間 | 1994年6月30日 - 1995年8月8日
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{{|textstyle=display:none}} 衆議院議員 | |
内閣 | |
就任期間 | - 2003年 不出馬による任期満了のため
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その他の職歴 | |
京都府副知事 京都府議会議員 京都府船井郡園部町長 園部町議会議員 | |
野中 広務(のなか ひろむ、1925年(大正14年)10月20日 - )は、日本の政治家。日中友好協会顧問。日本行政書士政治連盟最高顧問。平安女学院大学客員教授。
衆議院議員(7期)、内閣官房長官、自治大臣、国家公安委員長、自由民主党幹事長を歴任。
経歴
生い立ち
京都府船井郡園部町(現南丹市園部町)出身。旧制京都府立園部中学校(後の京都府立園部高等学校)を卒業し、大阪鉄道局の職員として採用され大阪・梅田の大鉄局業務部審査課に配属された。大阪鉄道局長だった佐藤榮作(後の首相)と知り合った[1]。
地方政治
青年団活動に身を投じ、同じく各地の青年団運動を行っていた竹下登(後の首相)、浜田幸一らと活動を通じて知り合う[2]。 衆院議員・田中好の秘書、園部町議会議員(3期)、園部町長(2期)、京都府議会議員(3期)を務める。京都府議の12年間は野党議員として与党共産党の蜷川虎三革新府政と対峙した[3]。
7期28年間の革新府政の蜷川虎三知事引退によって、1978年に革新から府政を奪還した林田悠紀夫知事の下で京都府副知事を務める。 副知事時代の功績の一つに第三セクターによる産業廃棄物処理施設の建設がある。近年の環境省は不法投棄や不適正処理等の対策として産業廃棄物処理への公共関与の強化を進めているが、既に野中は20余年前に行っていた。
社会福祉事業
野中は、京都府内において全国で最初の重度身体障害者療養施設[4]や重度身体障害者授産施設を設立・運営している。野中は京都府副知事で政界から引退し、社会福祉事業に専念することにしていたが、思わぬことから国政に進出することになる。
国政選挙の初当選
1983年8月7日に、前尾繁三郎、谷垣専一の両衆院議員死去に伴う衆議院旧京都2区補欠選挙において、2議席を自民党の谷垣禎一候補、日本共産党の有田光雄候補(同党京都府委員会役員、後にジャーナリストになる有田芳生の父)、日本社会党の山中末治候補(元京都府八幡市長)、前尾系無所属林長禎候補(前京都市議会議長)らと争う。開票直後は、野中リードの速報が入るものの、次第に伸びが鈍りはじめ、谷垣、有田候補にリードを許し始める。まず、谷垣候補が当確し、残り1議席となる。一旦は、有田候補が勝利宣言、野中は敗北宣言の準備を始めた。しかし、野中の地元である園部町で未開票の投票箱の存在が発覚して、有田候補を逆転するという劇的な初当選を果たす。野中の敗北を覚悟せざるを得なかった選挙結果に、田中角栄元首相が自民党京都府連会長上田稔参議院議員(後の環境庁長官)に対して激怒したという。
国政
自治大臣・国家公安委員会委員長、自民党幹事長代理、内閣官房長官、自民党幹事長などを歴任。自民党郵政事業懇話会の会長を務め、「郵政族のドン」としても知られ、特定郵便局長会に強い影響力を持ったほか、地方自治の長い経験や自治相経験から、自治省(後の総務省)にも影響力を持っていた。
金丸信の不祥事スキャンダルによる議員辞職に端を発した竹下派(平成研究会)分裂の際に、反小沢一郎グループの急先鋒として名を知られるようになった。また、細川内閣発足によって自民党が下野したとき、京都府議時代の長期にわたる野党経験を生かした質問を行って、党内で実力を認められるようになった。特筆すべきは昭和45年2月10日付けで国税庁長官から全国の税務署長あてに通達による『同和控除』である。この税の優遇措置がエセ同和団体に悪用されていることを衆議院予算委員会で追究した(これは後に野中が自治大臣になったときに、部落解放同盟上杉佐一郎委員長と交渉を行い、国税庁も解消の通達を行うこととなる)。
1994年に自社さ連立による村山富市内閣で自治大臣・国家公安委員長として初入閣。 1995年、オウム真理教によるテロ事件に破壊活動防止法を適用することを強硬に主張した。また、松本サリン事件で被疑者と疑われた通報者の河野義行に対して国家公安委員長として真っ先に謝罪に訪れた(長野県警は、現在に至るまで河野に謝罪していない)。村山首相は公安調査庁に破防法適用申請を認めたものの、公安審査委員会の審議により否決された。
1996年の橋本龍太郎内閣では、小沢一郎率いる新進党と連携を図ろうとする梶山静六官房長官ら「保保大連合」派と対立する「自社さ」派の中心メンバーとして、加藤紘一幹事長を支えた。1996年の総選挙後は幹事長代理として加藤幹事長と組んで、新進党からの議員を引き抜いて自民単独過半数を回復させ、新進党解散の一因を作った。
1997年、沖縄県の米軍基地用地の確保を続けるため、橋本内閣は米軍用地特別措置法改正案を出し、野中は衆議院で改正案の特別委員長を務めた。法案の委員会通過後、4月11日に野中は委員会報告を行ったが、報告の最後に「私たちのような古い苦しい時代を生きてきた人間は、再び国会の審議が、どうぞ大政翼賛会のような形にならないように若い皆さんにお願いをして、私の報告を終わります」と付け加え、物議を醸した。法案は保保連合によって圧倒的多数で可決される見込みとなっていたため、保保連合を牽制したためとも、(立場上反対はできないが)純粋に性急な成立を危惧したためとも云われている。この発言は、新進党の要求により、国会会議録から消されている。なお、法案は同日の衆議院通過後、4月17日に参議院で可決成立した。
1998年第18回参議院議員通常選挙大敗で橋本首相が退陣すると、後継の小渕恵三内閣で官房長官を務めた。小渕内閣では一転して自自公連立を推進した。官房長官在任中は広島県内の校長が卒業式での日の丸掲揚の対立を巡り自殺したのを機に国旗及び国歌に関する法律を策定、社民党などの猛反対や党内の慎重論を押し切り成立させるなど、ハト派の野中らしからぬ一面も見せている。
1999年9月30日に茨城県那珂郡東海村で発生した東海村JCO臨界事故の際には内閣官房長官として事故対応の指揮を執った。総理官邸に事故状況の報告に来た科学技術庁(当時)の幹部がおろおろして事故現況の報告に詰まると、野中は「とにかく現場へ行きなさい。現場を見ないでどうやってこちら(官邸)に報告出来るのか! 現場を見て、その状況を報告しないことにはこちらも対策を講じられないではないか」と激怒し、その科学技術庁幹部に東海村の現場へ直ちに行くよう命じた。これは野中自身が後にこの臨界事故について聞かれたときに語っている。
2000年に小渕首相が倒れると、森喜朗自民党幹事長、青木幹雄官房長官、村上正邦参院議員会長、亀井静香政調会長と協議を行い、森幹事長を小渕の後継自民党総裁にすることとした。この協議は、首相を五人組によって密室で選出させたたものとして、野党から厳しく追及され、国民からも大きく批判された。野中は、森の後継として自民党幹事長代理から幹事長へ昇格した。国会で小渕の死を悼む発言をした鳩山由紀夫民主党代表に対し「小渕前総理のご心労の多くがあなたにあったことを考えると、あまりにも白々しい発言」と厳しく批判した。
同年秋の加藤の乱では、加藤派の古賀誠国会対策委員長らと連携、同派議員の多くを切り崩した。その直後、野中は幹事長を辞任、後任に古賀が就任した。この頃、小渕・森政権時代には官房長官・幹事長代理・幹事長として仕切ったことから「影の総理」と呼ばれたこともあった。
森首相退任に伴う2001年自民党総裁選挙では、当初、側近の古賀、鈴木宗男らや公明党から待望論が挙がるも、橋本龍太郎や村岡兼造ら派幹部からその突出振りを疎まれていたため支持が集まらず、結局橋本を担ぐことになる。橋本派は業界団体との強いパイプなどから圧勝すると見られていたが、小泉純一郎に一般党員の支持が集まり、田中派結成以来、総裁選で初の敗北を喫した。なお、野中は総裁選中に「橋本政権樹立後は三役に留任してもらう」と主流派の取り込みを図ったが、党内外で猛烈な反発にあった。
2003年自民党総裁選で、主戦論を唱え、青木幹雄参院幹事長、片山虎之助総務大臣、石破茂防衛庁長官、新藤義孝外務大臣政務官、村岡兼造元官房長官、大村秀章内閣政務官らと激しく対立し、一部の議員をポスト目当てで小泉支持に回っていると批判し、「毒まんじゅう」という言葉を残した(余談ながら「毒まんじゅう」はこの年の流行語大賞に選出され、本人が授賞式に出席した)。野中は自らの引退を賭けて藤井孝男元運輸相を擁立して総裁選に望んだが、首相・自民党総裁の小泉純一郎に大敗した。
政界引退
2003年10月政界を引退したが、小泉内閣を『非情の政治』と批判を行った。また、野中自身の軍隊体験から国防に関しては「ハト派」であり、憲法の改正にも反対の姿勢であり、多くの対立点を持つ小泉内閣に対して異を唱え続けた。
2004年に、日歯連闇献金事件が発覚したが、野中は橋本らと共に1億円の小切手を受け取る現場に居合わせたことを否定。東京地検も政治資金規正法違反で捜査していたが、関与しているが積極的でないとして起訴猶予となった。これについて検察審査会(検察審査会は事件の当事者ではなく、その案件を扱う検察官の独立性の成否を扱う機関)」で不起訴は不当であるとする議決を行った。
2005年の第44回衆議院議員総選挙では、かつて選挙区(京都府第4区)で後継者指名をした田中英夫(前亀岡市長)が、郵政民営化法案に造反し反対票を投じたため自民党から公認を得られず無所属で出馬。刺客として自民公認で出馬した中川泰宏元船井郡八木町長に敗れた。中川は野中の議員時代の腹心で後継者と目されたこともあったが、北桑田郡・船井郡の市町村合併から意見の齟齬が見られるようになった。さらに、中川が、2002年の京都府知事選に笹野貞子元民主党副代表の応援を受けて立候補・落選して以来、野中との対立が決定的なものとなった。
亀井静香、藤井孝男、野田聖子、古賀誠、小林興起らかつての反小泉の勢力も落選・非公認・離党などで権力抗争から外れていったため、彼らを支援していた野中の影響力も次第に低下していた。小泉の後継者である安倍晋三が総理大臣を辞職すると、古賀誠の要請で麻生包囲網に参加したとも、福田康夫内閣成立の立役者(新五人組)の一人とも言われている。古賀が自民党選対委員長に就任したこともあり、低下していた野中の影響力に変化が生じている。
教育界
2006年10月より平安女学院大学客員教授として政治学を中心とした教育、研究を実施している。
人物
「弱者」に対する配慮
松本サリン事件の被害者でありながら被疑者扱いされた河野義行に対して「人間として政治家として心から申し訳なくお詫びしたい」と謝罪したことや、重度身体障害者療養施設や重度身体障害者授産施設を自ら設立・運営していることなどによる。松本サリン事件で重度の後遺症を持つことになった河野の妻を自ら運営する施設に受け入れる意思があることも話した。しかし、河野は仕事の関係で長野県から移動できないため、野中の施設の管理者が長野県内の施設を紹介した。
佐高信は、魚住昭『野中広務 差別と権力』の解説で、『ハンセン病訴訟の元患者や弁護団が最も頼りにしたのが実は野中であり、官房長官時代に原告や弁護団に会い、国の責任を事実上認めた野中に、彼らは「痛みのなかに身体をおけるひと」と賛辞を惜しまないという』と書いた。事実、野中が政界から引退を表明した直後、ハンセン病訴訟全国原告団協議の会長、会長代理、副会長及び事務局長、全国ハンセン病療養所入所者協議会長の連名で「議員引退の撤回を求める緊急要請書」が野中に届けられた。
野中の父は保護司を務め、戦災孤児の収容施設「園部寮」の運営に深く関わっていた。野中の自著『私は闘う』の解説で、後藤謙次は、社会的弱者に注がれる野中の視線は暖かく、そして「弱者に対する眼差し」は決して同情からではなく、生まれ育った環境の中で辛さ苦しみを共有する中で芽生え体に染み付いたものと書いている。
野中は京都府議会議員、京都府副知事時代に被差別部落出身であることを話したことがあった。しかし、地方政治家時代から部落解放同盟などとは一線を画しており、京都府議時代には蜷川府政の同和対策事業と部落解放同盟を「一般の人が理解をするものでなければ、新しい差別を呼び起こす」と厳しく批判している。また、京都府副知事時代には部落解放同盟幹部のいる席で「部落問題をダシにして利権あさりをしたり、あるいはそれによって政党の組織拡大の手段に使う人を憎みます。そういう運動を続ける限り、部落解放は閉ざされ、差別の再生産が繰り返されていくのであります」と発言したこともある。
麻生太郎への批判
批判内容
魚住昭『野中広務 差別と権力』[5][6]によると、野中は麻生太郎が過去に野中に対する差別発言をしたとして、2003年9月11日の麻生も同席する自由民主党総務会において、麻生を激しく批判した。
「総務大臣に予定されておる麻生政調会長。あなたは大勇会[7]の会合で『野中のような部落出身者を日本の総理にはできないわなあ』とおっしゃった。そのことを、私は大勇会の三人のメンバーに確認しました。君のような人間がわが政党の政策をやり、これから大臣ポストについていく。こんなことで人権啓発なんかできようはずがないんだ。私は絶対に許さん!」
野中の激しい言葉に総務会の空気は凍りついた。麻生は何も答えず、顔を真っ赤にしてうつむいたままだった。
NPO法人・多民族共生人権教育センターの第6回2005年度総会で記念講演『いま、日本を憂う』を行った野中は、麻生による差別発言を事実と語っている[8]。また、2006年12月13日、シンポジウム『今こそ部落問題を語る—特別措置法の功罪について考える—[9]』にて、講師として招聘された野中が、麻生の差別的発言について語った。それによると、麻生が大勇会の会合で「野中のような部落出身者を日本の総理にしていいのか」と発言し、野中は大勇会会員3名からその発言内容を確認したという。
麻生太郎サイドの見解
- 2005年2月22日、衆議院総務委員会で、衆議院議員中村哲治が麻生に対し発言の真偽を質したが、麻生は「大勇会の席でその種の発言をしたことはありません」と答弁し、部落差別発言を行ったことはないと主張している。また、「総務大臣に予定されていると言われましたけれども、前の日に自分が何大臣になるかということを知っていた大臣はゼロです」「下を向いて赤くなりもしませんでしたから」と答え、『野中広務 差別と権力』における野中の発言についての記述内容が事実と異なることを指摘している。なお、大勇会での麻生の一連の発言があったという、総務会における野中の発言については「その発言があったことも記憶をいたしておりますし、その種の発言があったことも、現場におりましたのでよく知っております」と麻生は答弁している[10]。
- また、麻生事務所は「地元・福岡の炭坑に絡む被差別部落問題についての発言が誤解されて伝わったものだ」と説明しており[5]、週刊現代の取材に対し「衆議院総務委員会で説明しており、それ以上のコメントはない」と回答している。この回答を受けた週刊現代の取材に対し、野中は「事実無根だなんて。その会議(=差別的発言があったとされる大勇会の会合)におった人間が言ってますよ。河野さん(=河野洋平)も言っているし。何人も聞いていることだから、私は言うてる」と発言した[11]。
- 藤本順一は、この問題には森喜朗内閣の退陣後における橋本派内の内部抗争が絡んでおり、麻生を総理に担ごうとした動きに反対する勢力が石炭六法の廃止に伴う麻生の発言[12]を曲解して流布したことが原因で発生したとしている[13]。しかし、上杉隆によると、藤本は麻生の著書『とてつもない日本』の編集にかかわり、麻生と同じ福岡・筑豊の出身、麻生選対のあった「ホテルオークラ東京」のペントハウスで連日取材をしていた政治ジャーナリストだという[14]。
第三者による見解
2004年9月16日全国地域人権運動総連合は根拠を示した上での弁明ではなく、差別発言が事実である可能性がきわめて高いとして、真相究明と責任を問う申し入れを麻生太郎に対して行った。また、この申し入れでは、発言が事実でないのであれば、野中や魚住、講談社などを訴えるべきであるとしているが、麻生側から納得のいく回答は得られておらず、「2004年の段階で(麻生を)国会議員としての資格なしと判断している[15][16]。 (ほかに、奈良県部落解放同盟支部連合会も民主党奈良県連に『(小泉内閣)閣僚差別発言への事実究明を要望書』を提出している[17]。)
朝鮮半島
野中の地元でもある京都府中部にはマンガンを始めとする多くの鉱山[18]があった。そこでは、朝鮮半島出身の労働者[19]が働いていた。野中の実家は、鉱山から逃げてきた朝鮮人労働者をかくまっていたという。また、少年時代の野中の子守をしたのは、朝鮮人女性だった。野中は「朝鮮半島から連れて来られた人たちが虐待を受けた姿を何度も見てきた。僕には大へんひどい目にあわせたという罪悪感がある。そういうものを我々が生きとる間に払拭して、朝鮮半島との信頼関係をつくっておきたいんや」と語っている[20][21]。
アジア外交
北朝鮮
野中は中選挙区時代、北朝鮮からの入港隻数が国内最多であり、主要貿易相手国とする舞鶴港のある舞鶴市を含む旧京都2区を選挙区としていた。したがって、舞鶴市の経済発展を鑑みると北朝鮮との関係改善が必要であった。事実、特定船舶入港禁止法に基づく北朝鮮籍の船舶入港禁止において、舞鶴市を中心とする周辺地区に経済的影響があるのではないかと心配する声もあったため、京都府や舞鶴市、舞鶴市商工会議所等によって緊急対策会議が開催された[22]。
1990年、金丸訪朝団(自民党団長金丸信、日本社会党団長田辺誠のほか、石井一、武村正義などの議員が参加。野中自身によると「四回生議員の平社員」として参加)の一員として北朝鮮を初めて訪問。逓信委員会に所属していたため、日本と北朝鮮間の通信網の整備、IAEAの核査察を北朝鮮が受け入れることの要求を担当した。この金丸訪朝団における交渉では、北朝鮮による日本人拉致問題を全く取り上げられておらず、この時点における北朝鮮に対する見方を「まだ非常に甘かった」と認め、また、1988年当時の梶山静六自治大臣・国家公安委員長が日本共産党の橋本敦参議院議員の質問に対して「北朝鮮の拉致の声が濃厚」と政府内の指摘があったにも関わらず、早期に触れることができなかったことを残念であるとしている。
1997年11月、森訪朝団(森喜朗団長のほか中山正暉、関根則之、小野清子以上自民党。伊藤茂、大脇雅子、田英夫以上社民党。新党さきがけ・堂本暁子)の一員として訪朝。北朝鮮側は「拉致などありえない」、「拉致があるとすれば南(韓国)じゃないか。金大中大統領は、まさしく日本から拉致されたんじゃないか。だからあなた方は同じ朝鮮半島で、南のトップが拉致されているのに、何をもって証拠にわれわれに言うんだ」と主張した。その夜、野中は盗聴をされているのをおりこみ済みで、百花園迎賓館で「おい、こんな国、もう二度と来ないぞ。俺は今日まで、金丸さんの気持ちを継いで、何とか近くて近い関係にしたいと思って努力をして、日本ではいろんなことを言われながら、まあ、自分で傷つき、家族に迷惑かけてきたけれども、もうこんな誠意のない国、二度と来ん」と話した。翌朝午前6時、朝鮮労働党アジア太平洋委員会の宋浩京が野中を訪れ、「拉致問題は、拉致では受け入れられない。行方不明者という呼び方で拉致7件10名の名簿を預かって、朝鮮赤十字会での調査」を提案してきたため、森及び外務省の槙田邦彦審議官と相談を行い、槙田審議官が「行方不明でも結構です。拉致事件についてとにかく調査しようと足がかりできたら大きな収穫です」と野中に話した。
北朝鮮に関連する発言
- 「拉致疑惑があるから食糧は送るなとの意見は強いが、(北朝鮮とは)従軍慰安婦や植民地、強制連行があった。近くて近い国にしたい。日本はコメが余っているのに隣人を助けることができないのは恥ずかしい。壁を破ってでも食糧援助をすべきだと思って環境整備をしている」[23]。
- 「隣国が困っているのに援助せず、心を通わせないで、拉致疑惑をはじめとする問題が解決するか」[24]。
- 2000年3月、島根県での講演において、北朝鮮へのコメ支援に反対して拉致被害者家族が自民党前に座り込みをした事に対して「日本人の拉致問題を解決しないでコメ支援はけしからんと言うが、日本国内で一生懸命吠えていても横田めぐみさんは返ってこない」
中国に関連する発言
- 野中は2008年4月17日、中国共産党中央対外連絡部部長王家瑞との会談の席でチベット問題に触れて「胡錦濤総書記をはじめ、中国政府の指導者は日本との関係発展を非常に重視している。チベット問題は中国の内政であり、われわれはこの問題を利用した オリンピック大会のボイコットと破壊に反対する」と発言している[25]。
- 2008年12月13日、東京都内で市民団体が開催した「南京事件71周年集会」で、野中は1971年に後援会の人々と南京を訪れた際、日本軍兵士だったという1人が「女子供を百数十人も殺した」と告白したエピソードを紹介。野中は「非人間的な事態があったことを知ることができた」とし「国の将来を思う時、歴史に忠実でなければならない」と主張した[26]。
「叩き上げ」から「影の総理」へ
野中は国会議員としては遅咲きであったため当選回数でいうと村岡らの橋本派の他の幹部と比較して少ない。将来を期待している古賀誠も同数であるが、初当選が補選であったために、野中のほうが国会議員歴が実質短い。それだけに原則的に年功序列であったかつての自民党において野中がいかに際だった「叩き上げ」だったかがわかる。また、古賀を含めて亀井静香、鈴木宗男など協力関係にあった人物にも「叩き上げ」が多い。
京都府内の各界に対する影響力が大きい。ただし、選挙区内であった亀岡市、南丹市などでは交通や下水道などの生活基盤整備は進んでおらず、むしろ遅れていることから決して地元利益誘導型の政治家でないとする考え方もある。
自民党幹事長代理として仕えた加藤紘一幹事長に心酔し、小渕政権で加藤が反主流化するまで「加藤を総理にする」との姿勢を示していたことから、野中の突出を快く思わない党幹部から「野中はキングメーカーまで狙っている」と批判された。
「士志の会」を主宰する古賀誠とは同期当選ながら師弟関係にある。また、2度総裁選に出馬している亀井静香、鈴木宗男、茂木敏充、野田聖子、さらに麻生太郎を親しく期待していた。
その他
- 阪神タイガースのファンである。2003年6月16日、大阪で行われた講演で星野仙一監督が率いるタイガースの独走について、出席者から「優勝は間違いないですな。」と言われた。野中は『そう言われると不安になる。これから悪い潮目が来たらかなわん』と、優勝を期待しながらも不安にさいなまれるファン心理を吐露して会場を沸かせた[27]。
- 地元へ帰った折にはコーヒーを飲むための行きつけの喫茶店があった。なお、この喫茶店は廃業している[28]。
栄典
- 2002年11月3日 勲一等旭日大綬章
家族親族
文献
単著
- 『私は闘う』 文藝春秋 1996年5月 ISBN 4163515909
- 『老兵は死なず 野中広務全回顧録』 文藝春秋 2003年12月15日 ISBN 4163656405
共著
- (野村克也)『憎まれ役』 文藝春秋 2007年10月 ISBN 4163695508
参考文献
- 京都弁護士会公害対策・環境保全委員会 『京の自然保護とまちづくり』 京都新聞出版センター 1996年03月 ISBN 476380393X
- 魚住昭 『野中広務 差別と権力』 講談社 2004年06月29日 ISBN 4062753901
- 角岡伸彦 『はじめての部落問題』 文藝春秋 2005年11月20日 ISBN 4166604783
その他の関連人物
脚注
- ↑ 『野中広務 差別と権力』 49-51頁
- ↑ 『野中広務 差別と権力』 65-67頁
- ↑ 『野中広務 差別と権力』 143-144頁:京都新聞の元政経部長笹井慈朗によると、野中が「反蜷川の闘士」として売り出した後も、彼と蜷川との信頼関係は続いていたという
- ↑ 世界人権問題研究センター(編集)。上田正昭(監修)『京都人権歴史紀行』人文書院,1998年,66から68頁
- ↑ 5.0 5.1 『野中広務 差別と権力』 384から386頁、391から393頁
- ↑ 角岡伸彦は著書『はじめての部落問題』で『野中広務 差別と権力』からこの事件の記述を引用し、「野中が小泉首相も出席した総務会で差別発言を指弾したにもかかわらず、不幸にも、麻生(福岡8区選出)はその直後、部落差別の担当官庁である総務省の大臣に就任した。泥棒が警察官になるようなもので、これほど不適切な大臣登用はない。麻生は後に、衆議院総務委員会でこの問題を追及されたとき、「そのような発言をしたことは全くありません」と事実を否定している。ではなぜ、野中に指弾された総務会の席上で「何も答えず、顔を真っ赤にしてうつむいたままだった」のか、不可解である。その後、この問題発言は、うやむやになってしまった。しかし、部落出身という理由による総理大臣就任阻止の動きがあったとすれば、未遂ではあるが、有権者の代表である国会議員による“就職差別”である。」と解説している。
- ↑ 週刊ポストは第40巻第44号で「本誌は01年の総裁選当時、大勇会のA議員から“麻生発言”をめぐる混乱の顛末について証言を得ていた。A議員によれば、麻生発言がなされたとされる大勇会の会合の翌日、麻生氏側のB議員が自民党幹事長室に呼ばれたという。「そこには険しい表情をした野中氏が待っていて、前日の会合の議事録のようなメモを突きつけ『麻生が何をいったか全部わかっている。オレは絶対に許さない』と通告したB議員は真っ青になって派閥に戻り、経緯を報告した」という内容だった。」と報じている。
- ↑ 先日、多民族共生人権教育センターの総会が開かれ、その記念講演で野中広務さんに来て頂きました。野中さんは「まさか、私が大阪人権センターに呼んで頂けるとは」と言っておられました。その懇親会の席で、私は『野中広務 差別と権力』(魚住昭著)に書かれている麻生太郎の差別発言について「あれは本当なんですか」と直接聞きました。実は部落解放同盟の中央大会でも、このことについて意見が出され、「解放同盟としては現在、事実確認ができていない」と答えていたからです。野中さんは「差別発言は本当です。次の選挙では、私は麻生の地元に入る。解放同盟も行動を起こすべきだ」と言われました。彼は、自身と部落解放同盟には考え方の違いはあるとした上で、部落差別が未だ根深いという認識は一致できるとして「差別をなくしていくためにも部落解放運動の中で、もっとエセ同和の問題に取り組んで欲しい。できたら自分の問題(麻生発言)も取り組んで欲しい」と言われました。部落解放同盟大阪府連合会書記長、北口末広近畿大学教授『大阪市人権協会mews』NO.22, 2005年6月15日
- ↑ 都市共生社会研究分野主催シンポジウム『今こそ部落問題を語る—特別措置法の功罪について考える—
- ↑ 第162回国会 総務委員会 第3号平成十七年二月二十二日(火曜日)
- ↑ 『週刊現代』49巻1号、講談社、2007年1月13日
- ↑ 「石炭六法は終わるが、旧産炭地が置かれた状況は変わらない。同和対策や在日朝鮮人の問題など政治的な責任はなくならない」
- ↑ 鈴木宗男・上杉隆と藤本の対談「総裁選『迷走』の根源」(『週刊朝日』2008年9月26日号 p.24)
- ↑ ダイヤモンド・オンライン『週刊 上杉隆』【第46回】2008年09月25日
- ↑ 麻生総務大臣の「部落差別」発言について
- ↑ 麻生総務大臣への申し入れ全文
- ↑ 閣僚差別発言への要望書
- ↑ 丹波マンガン記念館
- ↑ 野中は『老兵は死なず 野中広務全回顧録』等の著書では強制連行された朝鮮半島の「人びと」や「人たち」としている。
- ↑ ふらっと—特集 戦後60年と人権 野中広務さん
- ↑ 民団新聞2006年12月6日,<在日から見える社会>
- ↑ 対北朝鮮輸入禁止等に伴う緊急対策会議
- ↑ 産経新聞 1998年4月7日
- ↑ NHK『日曜討論』 1999年12月5日
- ↑ 中国共産党対外連絡部長 自民党の野中元幹事長らと会談
- ↑ 後援会員が「殺した」と告白 南京占領71周年で野中氏山陽新聞
- ↑ 時事通信2003年6月16日
- ↑ 田中ひでおのメールマガジンー園部・三洋苑
- ↑ 『野中広務 差別と権力』 83頁
外部リンク
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