「国鉄千葉動力車労働組合」の版間の差分
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2014年9月14日 (日) 23:35時点における最新版
国鉄千葉動力車労働組合(こくてつちばどうりょくしゃろうどうくみあい、英語:National Railway Chiba Motive Power Union(CMU))は、日本の労働組合である。旧・日本国有鉄道(国鉄)千葉鉄道管理局管内、現・東日本旅客鉄道(JR東日本)千葉支社などの労働者で組織する。中核派の強い影響下にあるとされる。通称は動労千葉(どうろうちば)、マスメディアでは千葉動労と表記される。
概要[編集]
- 本部:千葉県千葉市中央区要町二丁目8番 DC会館内
- 執行部:委員長田中康宏、書記長長田敏之
- 組織:13支部。内訳はJR東日本に9、日本貨物鉄道(JR貨物)に2、木原線を第三セクター鉄道に転換したいすみ鉄道に1、中央支部1
- 機関誌:年刊『動労千葉』および『日刊動労千葉』
- JR東日本の2013年3月期有価証券報告書によれば、「国鉄動力車労働組合総連合(動労総連合)」の名称で掲載されており、組合員数218名。また、西日本旅客鉄道(JR西日本)の2012年3月期有価証券報告書によれば、「国鉄西日本動力車労働組合(動労西日本)」の名称で掲載されており、組合員数4名。JR東日本・JR西日本両社との間では労働協約が締結されていない。なお、JR貨物に在籍する当労組の組合員数は同社が有価証券報告書を提出していないため不明である。
- 潜伏路線:総武本線(総武快速線・中央・総武緩行線)、成田線(但し、成田~我孫子間は除く)、鹿島線、東金線、外房線、内房線、久留里線、東京メガループ(京葉線、武蔵野線)
- 潜伏車両基地:幕張車両センター、京葉車両センター、習志野電車区等々
沿革[編集]
革マル派が他セクトから成田空港建設を巡る成田紛争から排除されたのを期に、同派が強い影響力を持つ国鉄動力車労働組合(動労)は「三里塚闘争との絶縁」決議を決定したが、中核派の影響下にあった動労千葉地本はこれに反発し、1979年(昭和54年)3月30日に組織的に動労中央から分離結成した。勢力は、公称OBも含め約600人前後で同県船橋市・勝浦市などで地方議員を輩出している。
国鉄分割民営化に対しては、国鉄労働組合(国労)同様に反対闘争を展開した。そのため、分割民営化時に国労とともに排除の対象とされた。現在では不採用組合員16名の復帰をめざし、動労千葉争議団を結成し、政治セクトの違いを超えて国労の争議団と共闘している。ただし、かつての四党合意は間違いだったとしており、この件については国労よりもさらに強硬な姿勢で臨んでいる(最近のJR東日本に対する国労の姿勢を「弱腰」と批判している)。
1985年(昭和60年)11月29日に中核派によって引き起こされた国電同時多発ゲリラ事件(この事件で首都圏の国電路線・マルスが麻痺しただけでなく、浅草橋駅が焼き討ちにあった)は、この動労千葉のストライキの日と同日であり、動労千葉は「自分達を支援するもの」という主旨の発表を行っている。動労本部の松崎明委員長(当時)は「ゲリラを誘発したストライキだ」と非難声明を出し、日本労働組合総評議会(総評)に対して、動労千葉を除名するよう求めた。このストライキと翌1986年(昭和61年)2月15日に打たれた第2波ストライキにより、公共企業体等労働関係法によって28名の組合員が解雇された。
1986年には、『平凡パンチ』(マガジンハウス、廃刊)の「内田裕也のロックン・トーク」という連載記事で、内田裕也と当時委員長を務めていた中野洋[1]の対談が掲載されたり、『週刊プレイボーイ』(集英社)では「千葉動労なぜ闘う!?」など、メディアでの取材がよく見られた。
1986年(昭和61年)11月30日、直前に結成されたばかりの動労水戸・動労連帯高崎とともに動労総連合を組織し、のちに動労西日本を加え、現在に至る。本部は動労千葉と同じ場所にある。最近になり西日本の近畿統括本部管内で新たに動労西日本加入者が出るなどの動きもある。
現状とJRの対応[編集]
JR東日本千葉支社管轄の各線では、ストライキによる間引き運転や運休(久留里線など)、列車の遅れが発生するが、これは動労千葉の争議行為によるものである。本線運転士の春闘のストライキは2001年から2010年まで9年連続で行われ、地元ではもはや「春の風物詩」となっている。一部では「花見スト」などと揶揄されるとともに、これらのストライキには房総各線の利用者からの反発も多い。なお現在はこのような事態は起こらなくなった。
乗務員のアルコール検査実施に関しては、検知器がうがい薬や栄養剤等アルコールを含まない飲食物にも反応する恐れがあり、乗務員に精神的プレッシャーを与えるとして断固反対の姿勢をとっている[2]。
動労千葉ではJR東日本の進める検修部門の外注化に断固拒否の姿勢を堅持している他、広く運輸全般の知識を身につけるという「ライフサイクル」の施策に激しく反発し、人事異動にも反対するだけでなく、異動先でも仕事にまじめに取り組まず、「ライフサイクルは失敗」という論理のみを訴えている。[3]。習志野電車区が閉鎖され配置車両は三鷹電車区(現・三鷹車両センター)へ転出、幕張車両センター配置のE217系が全車両とも鎌倉車両センターへ転出したのは、保守部門の効率化という一面もさることながら、動労千葉の「外注化拒否」に対するJR東日本の対抗姿勢の現れとも言われている[4]。しかし、鎌倉車両センター移管後車両トラブルが頻発している[5]。なお、動労千葉は外注化に対してJR東労組が会社側と妥協したとして、批判している[3]。
動労千葉は、E231系・E233系のような新系列車両が軽量車体であることやボルスタレス台車を採用していること(動労千葉はボルスタレス台車がレールの極端な磨耗や車両脱線事故の原因になり結果としてJR福知山線脱線事故を招いたとして採用に反対している)、「成田エクスプレス」や総武快速線の高速運転に対し危険性を主張している。また、2013年3月16日に開始された久留里線のワンマン運転の中止を求めている[6]。
1985年と1986年に行われたストライキによる解雇者については、1996年3月27日に千葉地方裁判所で日本国有鉄道清算事業団との間で和解が成立した。被解雇者は全員和解金(退職金)を受けて、処分日に依願退職したと同等の扱いとなり、職場復帰はなかったものの、一定の勝利解決を見ている。
2006年9月には、館山運転区廃止に関する廃止反対集会を開催し、来賓に市長や観光協会長を招いてともに運転区廃止反対の声を上げ、2007年3月には廃止反対のストライキも実施されたが、結局館山運転区は廃止され木更津運輸区に統合された。しかし、運転区廃止後の組合員の異動先についてはほぼ希望通りとなったため、彼らはこの「闘争」に「勝利」したとしている。木更津運輸区設置のそもそもの目的が「館山運転区を解体し動労千葉組合員を強制配転し、組合を弱体化させる」ことを狙ったものとみなしているからである。これにより館山支部は解散となった。
2010年以降は検修部門外注化に反対する立場で検修社員のストライキに戦術の重点を置いているため列車の運行に影響は出ていなかったが、2013年3月は久留里線のワンマン化に反対する列車のストライキを行った。「スト破り」へのけん制も盛んに行い木更津駅周辺での集会なども行ったが、会社側は代務でのやりくりで対応し、列車はダイヤ通りに運行されて影響は全くなく全面敗北に終わった他、逆に組織の衰退・崩壊を大きく印象付ける結果となった。
画像[編集]
参考文献[編集]
脚注[編集]
- ↑ のち常任顧問。2010年3月4日胆管ガンのため70歳で死去。
- ↑ [1]フォロー訓練問題、アルコール検知器問題の交渉報告
- ↑ 3.0 3.1 日刊勤労千葉 2010年7月4日
- ↑ 車両の安全を確保できないJR東日本検修・構内業務の外注化を止めろ!日刊動労千葉2009年7月10日 No.6830
- ↑ 信じられない車両故障が続出!日刊動労千葉2009年6月22日 No.6822
- ↑ [2]JR東日本千葉支社は 久留里線のワンマン運転を中止しろ!
関連項目[編集]
- 東日本旅客鉄道千葉支社
- 鈴木達夫 - 顧問弁護士を務める。
- 中核派