「小泉純一郎」の版間の差分
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− | ''' | + | |小泉 純一郎<br />(こいずみ じゅんいちろう)<br />[[Image:Junichiro Koizumi (cropped) during arrival ceremony on South Lawn of White House.jpg|200px]] |
− | + | |[[1942年]]([[昭和]]17年)[[1月8日]] | |
+ | |[[神奈川県]][[横須賀市]] | ||
+ | |[[慶應義塾大学]]<br />[[ロンドン大学]](留学) | ||
+ | |経済学士 | ||
+ | |[[厚生大臣]]<br />[[自由民主党総裁]] | ||
+ | |3世<br />祖父・[[小泉又次郎]](衆議院議員)<br />父・[[小泉純也]](衆議院議員) | ||
+ | |[[2001年]][[4月26日]]|[[2006年]][[9月26日]] | ||
+ | |衆院[[神奈川県第11区|神奈川11区]] | ||
+ | |衆12回 | ||
+ | |[[自由民主党 (日本)|自由民主党]] | ||
+ | }} | ||
+ | '''小泉 純一郎'''(こいずみ じゅんいちろう、[[1942年]][[1月8日]] - )は、[[日本]]の[[政治家]]。元[[衆議院議員]]。[[内閣総理大臣]]([[第1次小泉内閣|第87代]]・[[第二次小泉内閣|第88代]]・[[第3次小泉内閣|第89代]])。 | ||
− | [[ | + | 内閣総理大臣の在任期間は1,980日と、[[第二次世界大戦]]後の内閣総理大臣としては[[佐藤栄作]]、[[吉田茂]]に次ぐ第3位。他に国務大臣として[[厚生大臣]]、[[郵政大臣]]等を歴任。 |
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+ | 祖父、父に続く3世の[[世襲政治家]]でもある。 | ||
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+ | == 経歴 == | ||
+ | === 出生から初当選まで === | ||
+ | [[Image:Koizumi family.jpg|200px|thumb|小泉と家族。]] | ||
+ | [[Image:Junichiro Koizumi and Junya Koizumi.jpg|thumb|200px|父[[小泉純也]]と息子純一郎]] | ||
+ | [[Image:小泉15歳頃.jpg|thumb||200px|右。15歳頃の小泉純一郎]] | ||
+ | [[Image:小泉1988年.jpg|thumb||200px|[[竹下改造内閣]]で厚相として初入閣、認証式を前に緊張した面持ちでモーニングに着替える小泉純一郎(1988年12月27日)]] | ||
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+ | [[1942年]]、[[神奈川県]][[横須賀市]]に政治家[[小泉純也]]と芳江の長男として出生。母方の祖父[[小泉又次郎]]は[[第2次若槻内閣]]で[[逓信省#歴代の逓信大臣等|逓信大臣]]を務め、若い頃に全身に「昇り龍」の[[入れ墨]]を彫っていたことから、“いれずみ大臣”“いれずみの又さん”などの異名で知られる[[大衆]]政治家だった<ref>[[入れ墨]]を入れている者は軍人になることができなかった。又次郎が背中から二の腕、足首まで彫った入れ墨は、九門竜だったとも「[[水滸伝]]」の魯智深(ろちしん)、すなわち花和尚だったともいわれる([[佐野眞一]] 著『小泉純一郎――血脈の王朝』140頁)。藤原肇 著『小泉純一郎と日本の病理』39-40頁に「巷間(こうかん)いわれている“軍人になるのを諦めるために刺青を彫った”という話は作り話であり、やはり[[テキ屋]]の親分になるために彫ったという方が真相に近いと私は解釈している」とある。彫り師[[凡天太郎]]は「とくに[[港町]]ともなれば素性もわからないような流れ者がゴロゴロ集まった。そんな彼らの上に立つには、[[刺青]]を彫るような人物ではないと現場を仕切れなかったろう」と述べている(岩崎大輔 著『ダークサイド・オブ・小泉純一郎』58頁)</ref>。父純也は[[戦後]]に一時[[公職追放]]となるが、政界復帰して[[防衛庁長官]]を務めた。 | ||
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+ | [[神奈川県立横須賀高等学校]]、[[慶應義塾大学]]経済学部を卒業して、[[ロンドン大学]]に遊学(公式プロフィールでは留学とされているが、実際は聴講生で単位取得はなし)。[[1969年]]8月に父が急死したため帰国。 | ||
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+ | 同年12月、亡き父の跡を継ぎ、[[弔い選挙]]となった[[第32回衆議院議員総選挙]]に[[自由民主党_(日本)|自由民主党]]公認で立候補し、10万3000票余りを獲得するが、4000票差で[[落選]]した。 | ||
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+ | [[1970年]]より、[[福田赳夫]]の[[書生]]を務め、後に総理となる福田から政治家としての薫陶を受けた。 | ||
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+ | [[1972年]]12月、[[第33回衆議院議員総選挙]]で自民党公認として立候補し、12万2000票余りを獲得し初当選。[[清和会]](福田派)に属し、後に首相秘書官となる[[飯島勲]]が[[秘書]]となった。また、同期の[[山崎拓]]・[[加藤紘一]]と懇意になり、[[YKK (政治同盟)|YKK]]と呼ばれることとなる。 | ||
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+ | === 衆議院議員 === | ||
+ | [[1979年]]、[[第2次大平内閣]]で[[大蔵省|大蔵]][[政務次官]]に就任し、この在任中に政治家としてのライフワークとなる[[郵政三事業]]([[郵便]]・[[簡易生命保険]]・[[郵便貯金]])の[[民営化]]を持論としたといわれる{{要出典}}。 | ||
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+ | 大蔵・厚生族議員として地歩を築き、政策通で知られたが、子分を作らない一匹狼的な行動をとり、言いたいことを直言し、与野党政治家の既得権益を害する郵政民営化論を主張することもあって[[永田町]]では「変人」と評されるようになる。 | ||
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+ | [[1978年]]に福田赳夫夫妻を媒酌人に[[エスエス製薬]]の元会長[[泰道照山]]の孫宮本佳代子と結婚し<ref>この結婚に佳代子の父親的な存在だった[[泰道照山]]は反対だったとされる。宮本家の血縁者は「結局、泰道家とは絶縁寸前までいった。“出て行くならその身体一つでいけ”という具合。それでも小泉さんから“何の心配もいらない。僕たちの結婚には関係ない。白紙のままで来てほしい。”と言われ、その言葉を信じて嫁に行った」と述べている(岩崎大輔『ダークサイド・オブ・小泉純一郎』 176-177頁)。</ref>、その間に3人の子供をもうけたが、[[1982年]]に離婚<ref>この離婚について純一郎の[[弟]]正也は[[週刊朝日]](2001年6月1日号)の中で「あちらのことは何も知らされてなくてね。[[結婚]]してから、あちらの[[親族]]が亡くなったというので[[葬式]]へ行って初めて[[創価学会]]員だということがわかった。(中略)結婚前にそういう重要なことを何も知らされてなかったというのが問題だということです。」と述べている。しかし岩崎大輔の著書『ダークサイド・オブ・小泉純一郎』 179頁には「宮本家の遠い筋の親戚に[[創価学会|学会]]員はいるが、佳代子にはまったく身に覚えがない言い掛かりだ。」とある</ref>。「離婚するのは、結婚の10倍のエネルギーが必要だ」として、以後は独身を通している([[#家族 親族|家族構成]]を参照)。 | ||
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+ | [[1988年]]、[[竹下内閣改造内閣]]で[[厚生大臣]]として初入閣し、就任早々に[[厚生年金]]支給年齢を60歳から65歳に引き上げた。 | ||
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+ | [[1989年]]に[[リクルート事件]]で[[竹下登|竹下]]政権が倒れ、続く[[宇野宗佑|宇野]]政権も[[第15回参議院議員通常選挙|参院選]]で惨敗し、わずか2か月で退陣した。政治不信が高まり、政治改革の柱として、衆議院議員の選挙制度をそれまでの[[中選挙区]]制から[[小選挙区]]を軸とした制度への選挙制度改革が叫ばれ、このとき小選挙区制の導入に強硬に反対したことから、推進派の[[羽田孜]]と対立した。 | ||
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+ | [[1991年]]、自民党総裁選で再選を目指し、最大派閥の[[経世会]](竹下派)の支持を受けた[[海部俊樹]](首相)に対抗し、盟友の山崎拓([[政策科学研究所 (派閥)|渡辺派]])・加藤紘一([[宏池会|宮沢派]])と組んで、海部続投阻止・経世会支配打倒を打ち上げた。所属する三塚派のほか、渡辺派・宮沢派の反主流派が結束したため、もともと弱体だった海部の指導力は機能不全に陥った。懸案の政治改革三法案が廃案になったことで海部は[[解散]]に打って出ようとするが、それもできず遂に総裁選不出馬に追い込まれた。 | ||
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+ | 代って[[宮澤喜一]]が総理に就任し、[[1992年]]の[[宮澤内閣改造内閣]]で[[郵政大臣]]に就任する。就任の会見で、かねてからの持論の郵政民営化論に基づき、国は民間では採算の採れないことだけをすべきとして、老人[[マル優]]限度額引き上げなど従来の郵貯事業拡張政策の見直しを唱えたが、この老人マル優限度額引き上げ見直しは反対派議員(郵政族)等の反発で失敗に終わった。 | ||
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+ | [[国連カンボジア暫定機構]](UNTAC、United Nations Transitional Authority in Cambodia)に派遣されていた日本の[[文民]][[警察官]]が武装グループに襲撃され、1人が死亡、4人が重軽傷を負う事件が起こった際には、宮沢改造内閣の郵政相として閣議の席で、「血を流してまで貢献しろ、ということでは無い。金やものでの貢献ではいけないということから、汗を流そうということだ」<ref>[[1993年]]5月7日、閣議での発言</ref>、「カンボジアは実質内戦に近い状態にあり、事実上危険な状態であれば、PKOの引き揚げも今後の選択肢に入れるべきだ」<ref>『朝日新聞』1993年5月7日</ref>等と語り、[[自衛隊カンボジア派遣]]に異議を唱えた。 | ||
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+ | また、この死傷事件をきっかけにタケオ州に駐在する自衛隊施設大隊が選挙監視要員を支援することにした政府決定についても異議を唱えている<ref>「自衛隊員に警護をさせるというのは、いままでの国会の議論と違う。させるべきではない。自衛隊であろうが、文民警察官であろうが、戦闘状態のところに行くという想定はしていない。戦闘状態に合わせて対策を取ったり、自衛隊になにかをさせようというのは間違っている。今後、そのような意見が表に出てくるようであれば、私も国会での議論を踏まえて発言していく」1993年5月14日の閣議後の記者会見</ref>。さらに、5月18日の閣議でも「日本独自の判断で文民警察官をより安全な場所に移動させよ」「政府は国会でいってきたこと、国民に約束したことを尊重すべきだ」とした<ref>『朝日新聞』1993年5月14日夕刊</ref>。 | ||
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+ | [[1993年]]、羽田孜・[[小沢一郎]]ら羽田派([[改革フォーラム21]])らの賛成もあって、宮澤内閣へ不信任決議が可決され、[[第40回衆議院議員総選挙]]で自民党は過半数を割った。小泉は、宮澤の責任や退陣を閣僚懇談会でも要求し、郵政大臣を辞職した。なお、総選挙後に[[日本新党]]の[[細川護熙]]を首班とする[[連立政権]]が成立、自民党は[[野党]]に転落した。なお、宮澤の後任となる[[自民党総裁]]には[[河野洋平]]が就任した。 | ||
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+ | === 総裁選への挑戦 === | ||
+ | 1994年、社会党委員長の[[村山富市]]を首班とする[[自社さ連立政権]]で自民党は政権に復帰し、[[野中広務]]らの[[平成研究会]](旧竹下派)が主導的な力を持つようになった。 | ||
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+ | [[1995年]]の[[参議院議員選挙]]で自民党は新進党に敗北、河野は続投を望んだが、平成研究会は政策通で人気のある[[橋本龍太郎]]を擁立した。小泉らの清和会は河野を支持したが、情勢不利を悟った河野が出馬断念を表明したことで、橋本の総裁就任は確実になった。無投票で総裁が決まることを阻止したい小泉らは[[森喜朗]](清和会)擁立を図るが森が辞退したため、結局、小泉が自ら出馬することを決めた。 | ||
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+ | すでに大勢が決していた上に、郵政民営化を主張する小泉は党内で反発を買っており、出馬に必要な推薦人30人を集めることができたことがニュースになる有り様だった。それでも若手議員のグループが小泉を推し、その中に後に総理になる[[安倍晋三]]がいた。結果は橋本の圧勝に終わったが、総裁選出馬により郵政民営化論を世間にアピールして存在感を示すことはできた。 | ||
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+ | [[1996年]]に村山が首相を辞任し、橋本内閣が成立した。小泉は[[第2次橋本内閣]]で再び厚生大臣に就任する。小泉は相変わらず自説を曲げず「郵政民営化できなければ大臣を辞める」と発言、国会答弁で「新進党が郵政三事業民営化法案を出したら賛成する」と郵政民営化を主張したときは、与党から野次を受け、逆に野党から拍手を受けることもあった。また、同年、在職25年を迎えたが永年在職表彰を辞退した。 | ||
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+ | [[1998年]]の[[第18回参議院議員通常選挙|参議院議員選挙]]、自民党は大敗を喫し、橋本は総理大臣を辞任した。後継として、[[小渕恵三]]、[[梶山静六]]と共に小泉も立候補したが、盟友の山崎・加藤の支持も取り付けられず、自身の清和会すらも固めることはできず最下位に終わった(総裁には小渕が選出)。 | ||
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+ | === 加藤の乱 === | ||
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+ | [[2000年]]、小渕が急死し、党内実力者の[[青木幹雄]]、野中広務らの支持により[[自民党幹事長|幹事長]]だった[[森喜朗]]が総理・総裁に就任。小泉は[[清和政策研究会]](森派)の会長に就任した。 | ||
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+ | この総理就任の経緯は密室談合と非難され、森の旧来政治家的なイメージも相まって人気がなく、その上に[[失言]]が次々と[[マスコミュニケーション|マスコミ]]に大きく取り上げられ、支持率は急落した。[[2000年]]11月には遂に18.4%を記録する。これに危機感を抱いた反主流派の[[加藤紘一]]・[[山崎拓]]は、公然と森総理退陣を要求し始めた。加藤と山崎は、自派を率いて、野党の提出する[[内閣不信任案]]に同調する動きを見せた。一方、森派の会長だった小泉は、森総理支持の立場を明確にした。小泉は、いわゆる加藤の乱と呼ばれる動きを察知するや、党の内外に加藤・山崎の造反を真っ先に触れ回った。 | ||
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+ | 加藤は、マスコミに積極的に登場して自説を主張し、普及し始めた[[インターネット]]を通じて世論の支持を受けた。だが、小泉ら主流派は猛烈な切り崩し工作を行い、加藤派([[宏池会]])が分裂して可決の見通しは全くなくなり、加藤・山崎は内閣不信任案への賛成を断念した。これにより、総理候補と目された加藤は、大きな打撃を受け小派閥に転落、一方、森派の顔として活躍した小泉は党内での評価を上げた。 | ||
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+ | 政争を乗り切った森政権だが、相変わらず支持率は低迷。[[2001年]]2月に森は首相を退陣した。 | ||
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+ | === 小泉旋風 === | ||
+ | ''詳細は[[小泉旋風]]を参照'' | ||
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+ | 森の退陣を受けた2001年4月の[[自民党総裁選]]で、[[橋本龍太郎]]、[[麻生太郎]]、[[亀井静香]]と共に。清新なイメージで人気があった小泉への待望論もあり、今回は森派・加藤派・山崎派の支持を固めて出馬した。小泉は主婦層を中心に大衆に人気のあった[[田中眞紀子]]([[田中角栄]]の長女)の協力を受けた。 | ||
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+ | 最大派閥の橋本の勝利が有力視されたが、小泉が一般党員を対象とした予備選で眞紀子とともに派手な選挙戦を展開した。小泉は「自民党をぶっ壊す!」「私の政策を批判する者はすべて抵抗勢力」と熱弁を振るい、街頭演説では数万の観衆が押し寄せ、閉塞した状況に変化を渇望していた大衆の圧倒的な支持を得て、[[小泉旋風]]と呼ばれる現象を引き起こす。小泉は予備選で地滑り的大勝をし、[[4月24日]]の議員による本選挙でも圧勝して、自民党総裁に選出された。[[4月26日]]の首班指名で'''第[[第1次小泉内閣|87]]代内閣総理大臣'''に就任した。 | ||
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+ | === 内閣総理大臣 === | ||
+ | [[Image:Rumsfeld and Koizumi.jpg|thumb|250px|[[2004年]][[11月14日]]、小泉純一郎と[[アメリカ合衆国国防長官]][[ドナルド・ラムズフェルド]]]] | ||
+ | [[Image:Junichiro_Koizumi_and_George_W._Bush_on_South_Lawn_of_White_House.jpg|thumb|250px|2006年6月29日、小泉純一郎と[[アメリカ合衆国大統領]]ブッシュ]] | ||
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+ | 内閣総理大臣に就任した小泉は、[[組閣]]にあたっては、慣例となっていた[[派閥]]の推薦を一切受け付けず、閣僚・党人事を全て自分で決め、「[[官邸主導]]」「総理支配」と呼ばれる流れを作った。山崎拓を[[幹事長]]に起用する一方で、最大派閥の[[平成研究会]]からは誰も党三役に起用しなかった。人気のある[[石原伸晃]]を[[行政改革担当大臣]]に、民間から[[経済学者]]の[[竹中平蔵]]を[[経済財政政策担当大臣]]に起用した。また、総裁選の功労者の田中眞紀子は[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]に任命された。5人の女性が閣僚に任命された([[小泉内閣|第1次小泉内閣]])。 | ||
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+ | 「構造改革なくして景気回復なし」をスローガンに、道路関係四公団・[[石油公団]]・[[住宅金融公庫]]など[[特殊法人]]の民営化など[[小さな政府]]を目指す改革(「官から民へ」)と、国と地方の[[三位一体の改革]](「中央から地方へ」)を含む「[[聖域なき構造改革]]」を打ち出し、とりわけ持論である郵政三事業の民営化を「[[改革の本丸]]」に位置付けた。特殊法人の民営化には族議員を中心とした反発を受けた。 | ||
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+ | 発足時の小泉内閣の支持率は、87.1%([[読売新聞社]]調べ)と空前の高い率を記録した。「小泉内閣メールマガジン」を発行し、登録者が200万人に及んだことも話題となった。この小泉人気に乗るかたちで同年7月の[[参議院議員選挙]]で自民党は大勝した。 | ||
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+ | [[終戦の日]]の[[8月15日]]に[[靖国神社参拝問題|靖国神社参拝]]をすることを、小泉は総裁選時に公約としていた。総理の靖国神社参拝は[[中華人民共和国|中国]]・[[大韓民国|韓国]]の反発に配慮して長年行われていなかった。小泉は、批判に一定の配慮を示し、公約の8月15日ではなく13日に靖国神社参拝を行った。以後も毎年、日や形式を変えつつも参拝を行った。中国・韓国はこれに強く反発し、首脳の相互訪問が途絶えるなど、中韓との関係は冷え切った。 | ||
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+ | [[9月11日]]、[[アメリカ同時多発テロ事件|米同時多発テロ]]の発生を受けて、[[ジョージ・ウォーカー・ブッシュ|ブッシュ]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]の「[[テロとの戦い]]」を支持した。[[米軍]]らの[[アフガニスタン侵攻]]を支援する[[テロ対策特別措置法]]を成立させ、[[海上自衛隊]]を米軍らの[[後方支援]]に出動させた。宮沢改造内閣の閣議での発言を翻すものであった。 | ||
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+ | 国際情勢が緊迫する中、[[外務省機密費流用事件]]などで世論の批判を受けていた[[外務省]]は、田中外相が外務官僚や外交族の[[鈴木宗男]]と衝突し、[[スキャンダル]]の暴露が応酬されるなど機能不全に陥っていた。当初は、混乱を他人事のように語っていた小泉も、[[2002年]]2月には遂に田中真紀子を外相から更迭した。人気のあった田中の更迭により小泉内閣の支持率は急落した。なお、田中は8月に[[秘書給与疑惑]]が浮上して[[議員辞職]]した。 | ||
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+ | 「政治とカネ」のスキャンダルの連発で支持率を落とした小泉だが、[[2002年]]9月に電撃的に[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]を訪問して、[[金正日]][[総書記]]と初の[[日朝首脳会談]]を実現し、[[日朝平壌宣言]]に調印した。この訪問で金正日は[[日本人拉致問題|北朝鮮による日本人拉致]]を公式に認め、5人の[[拉致被害者]]を帰国させた。ところが、8人死亡・1人行方不明とする北朝鮮の回答が不十分なものであり、拉致被害者の家族の帰国が拒まれるなどで、関係者を中心に不満が噴出し、世論も北朝鮮に対して強く反発を見せた。国交正常化交渉は頓挫し、北朝鮮との外交問題は小泉政権を通しての懸案となったが、拉致被害者が帰国したことで一定の成果は上げたとして小泉の支持率はまた上昇に転じた。 | ||
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+ | [[2002年]][[9月30日]]、[[第1次小泉内閣第1次改造内閣|小泉改造内閣]]が発足。[[柳沢伯夫]]を[[金融大臣]]から更迭して、[[竹中平蔵]]に兼務させた。これにより、以後は[[不良債権処理]]の強硬策を主張する竹中が小泉政権の経済政策を主導した。 | ||
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+ | [[2003年]]3月、アメリカは[[イラク戦争|イラクへ侵攻]]して[[サッダーム・フセイン|フセイン]]政権を打倒した。小泉は開戦前からアメリカ支持を表明したことで、アメリカ追従外交として野党やマスコミの一部から批判を受けた。[[日米安全保障条約|日米同盟]]こそが外交の基軸とのスタンスを崩さず、[[ジョージ・ウォーカー・ブッシュ|ブッシュ]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]との蜜月関係を守った。イラク戦後復興支援のための[[陸上自衛隊]]派遣が喫緊の課題となり、7月に[[イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法|イラク特措法]]を成立させた。これに先立つ6月には、長年の安全保障上の懸案だった有事関連三法案([[有事法制]])を成立させている。 | ||
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+ | 9月に行われた[[自民党総裁選]]で[[平成研究会]]は[[藤井孝男]]元[[運輸大臣]]を擁立して小泉降ろしを図ったが、自民党[[参議院]]幹事長であった青木幹雄がこれに与せず、藤井は大敗。藤井擁立の中心となった[[野中広務]]は10月に政界を引退した。平成研究会(旧経世会)の凋落を示す事件で、[[清和政策研究会]](森派)が党の主導権を掌握することになる。 | ||
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+ | [[2003年]]9月、自民党総裁選で再選された小泉は[[第1次小泉内閣第2次改造内閣|小泉再改造内閣]]発足させ、党人事では当選わずか3回の[[安倍晋三]]を[[幹事長]]に起用する異例の人事を行い、11月の総選挙では[[絶対安定多数]]の確保に成功。閣僚を留任させた[[第2次小泉内閣]]が発足した。 | ||
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+ | [[2004年]]1月、[[陸上自衛隊]]を[[イラク]]南部の[[サマーワ]]へ派遣した。しかし、4月に武装集団がイラクにいた日本人を拉致して「イラクからの自衛隊の撤退」を要求する事件が起きた([[イラク日本人人質事件]])。小泉は「テロには屈しない」とこれを明確に拒否。人質3人は後に解放された(但し小泉の強硬姿勢が功を奏したわけではなく、地元部族長の仲介によるもの)。さらに2人が拉致され後に解放される。 | ||
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+ | [[2004年]]5月、小泉は再び北朝鮮を訪問、平壌で[[金正日]][[総書記]]と会談した。北朝鮮に対する25万トンの食糧や1000万ドル相当の医療品の支援を表明し、日朝国交正常化を前進させると発表した。これに伴い、5人の拉致被害者の子供の帰国を実現した。その後の北朝鮮の対応はおよそ日本の世論を納得させるものではなく、火に油を注ぐ格好になり、日朝国交正常化交渉は再び暗礁に乗り上げ、その後、北朝鮮は日本を無視。小泉はアメリカとの連係を強化して「対話と圧力」の姿勢を維持した。 | ||
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+ | [[2004年]]7月、[[第20回参議院議員通常選挙]]で[[自由民主党 (日本)|自民党]]が改選議席数割れになり、安倍が幹事長を辞任、[[武部勤]]が後任の[[幹事長]]となった。 | ||
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+ | 破綻しかけている[[年金制度]]の改革が国民の重大な関心事となっており、6月に[[年金改革法]]を成立させるが、抜本的な改革には程遠いものだった。小泉の最大の関心は長年の持論の[[郵政民営化]]にあった。参院選を終えたことで小泉は郵政民営化に本格的に乗り出し、2004年9月に[[第2次小泉改造内閣]]を発足させ、竹中を[[郵政民営化担当大臣]]に任命した。「基本方針」を策定して、郵政民営化を最優先事項とした。 | ||
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+ | [[2005年]]6月、[[国民保護法]]が成立し、[[国]]と[[地方自治体]]の武力攻撃に対する対処法が定められた。 | ||
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+ | === 小泉劇場 === | ||
+ | [[Image:小渕・小泉・梶山.jpg|thumb||300px|98年の自民党総裁選。小淵恵三(左)、梶山静六(右)両氏と会見(1998年07月17日)]] | ||
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+ | ''詳細は[[小泉劇場]]を参照'' | ||
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+ | [[2005年]]、小泉が「改革の本丸」に位置付ける[[郵政民営化関連法案]]は、党内から反対が続出して紛糾した。小泉は一歩も引かぬ姿勢を示し、党内調整は難航する。反対派は[[亀井静香]]、[[平沼赳夫]]が中心となり長老の[[綿貫民輔]]を旗頭に100人近い議員を集めて気勢を上げた。法案を審理する党総務会は亀井ら反対派の反発で紛糾し、遂に小泉支持派は総務会での全会一致の慣例を破って多数決で強行突破した。これに反対派は猛反発する。ここにおいて、事態は郵政民営化関連法案を巡る小泉と亀井・平沼ら反対派との政争と化した。 | ||
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+ | [[衆議院]][[本会議]]における採決で、反対派は反対票を投じる構えを見せ、両派による猛烈な切り崩し合戦が行われた。[[7月5日]]の採決では賛成233票、反対228票で辛うじて可決されたが、亀井、平沼をはじめ37人が反対票を投じた。参議院では与野党の議席差が少なく、亀井は否決への自信を示した。小泉は法案が否決されれば直ちに解散すると表明するが、亀井ら民営化反対派は、衆院解散発言は単なる牽制であり、そんな無茶はできまいと高をくくっていた。 | ||
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+ | [[2005年]][[8月8日]]、[[参議院]][[本会議]]の採決で自民党議員22人が反対票を投じ、賛成108票、反対125票で郵政民営化関連法案は[[否決]]された。小泉は即座に[[衆議院解散]]に踏み切り、署名を最後まで拒否した[[島村宣伸]][[農林水産大臣]]を[[罷免]]、自ら兼務して解散を[[閣議決定]]し、同日小泉は、[[日本国憲法|憲法]]第7条に基づき衆議院解散を強行した。 | ||
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+ | 小泉は、法案に反対した議員全員に自民党の[[公認]]を与えず、その選挙区には自民党公認の「[[刺客]]」候補を落下傘的に送り込む戦術を展開。小泉は自らこの解散を'''「[[郵政解散]]」'''と命名し、[[郵政民営化]]の賛否を問う選挙とすることを明確にし、反対派を「抵抗勢力」とするイメージ戦略に成功。また、[[マスコミュニケーション|マスコミ]]報道を利用した'''劇場型政治'''は、都市部の大衆に受け、政治に関心がない層を投票場へ動員することに成功した。それにより[[9月11日]]の投票の結果は高い[[投票率]]を記録し、自民党だけで296議席、公明党と併せた与党で327の議席を獲得した。この選挙はマスコミにより「[[小泉劇場]]」と呼ばれることになる。 | ||
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+ | [[2005年]][[9月21日]]、小泉は圧倒的多数で首班指名を受け、'''第[[第3次小泉内閣|89]]代内閣総理大臣'''に就任する。[[10月14日]] の[[特別国会]]に再提出された郵政民営化関連法案は、衆参両院の可決を経て成立した。この採決で、かつて反対票を投じた議員の大多数が賛成に回った。これにより小泉の長年の悲願はようやく実現された。 | ||
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+ | === ポスト小泉 === | ||
+ | ''詳細は[[麻垣康三]]を参照'' | ||
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+ | [[2005年]]10月、[[第3次小泉改造内閣]]が発足。ポスト小泉と目される[[麻生太郎]]が[[外務大臣]]に、[[谷垣禎一]]が[[財務大臣]]に、安倍晋三が[[内閣官房長官]]に起用された。 | ||
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+ | [[8月15日]]の[[終戦記念日]]に小泉は最初の総裁選の公約を果たして[[靖国神社]]へ参拝した。 | ||
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+ | [[2006年]][[9月20日]]の[[自民党総裁選]]では、選挙前から確実視された[[安倍晋三]]が後継に選ばれる。翌[[9月21日]] に小泉の自民党総裁任期は満了し、[[9月26日]]に小泉内閣は[[総辞職]]して内閣総理大臣を退任した。新総理には安倍晋三が指名された。任期満了による退任は[[1987年]]の中曽根政権以来であり、また、小泉政権は戦後3位の長期政権となった。 | ||
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+ | === 総理退任後 === | ||
+ | 総理退任後は、テレビ出演やインタビューなど、国民の前でほとんど発言していない。マスコミ記者からインタビューを受けても何も言わないで去っていくことが多い。ただし、講演会などをまれに行っており、立ち見が出るほどの大反響になる。 | ||
+ | |||
+ | 小泉は[[院政]]の意思はなく、もともと一匹狼であるため子分もおらず、かつて所属していた森派にも戻っていない。[[岸信介]]や[[田中角栄]]、[[中曽根康弘]]、[[竹下登]]など大派閥を擁し退任後も政界に影響力を残した元総理たちのような政治的基盤はない(清和会はもともと森喜朗の派閥で、[[町村信孝]]が継承)。 | ||
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+ | 国民人気は根強いが、公的露出を控えることでこの人気を利用する動きは見せていない。これは小泉が露出することによって、安倍首相(当時)より目立ってしまうことを避けるためとされた。国民人気が根強いため、時々発せられるさりげない一言が逆に世間に大きく注目されることがある。 | ||
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+ | 「小泉再登板待望論」も一部で囁かれるが、小泉は再登板を完全に否定してきた。[[2007年]][[9月12日]]に、[[安倍晋三]][[内閣総理大臣|首相]]([[自由民主党総裁|自民党総裁]])が辞任を表明した際、ポスト安倍としていわゆる[[小泉チルドレン]]たちから小泉に[[自由民主党総裁選挙|総裁選]]立候補の強い要請があったが、本人は「100%出馬しない」と出馬の可能性を否定。小泉自身は、「福田さんも小泉政権を支えてくれた人じゃないか」と[[福田康夫]]支持を表明したが、これが[[飯島勲|飯島秘書官]]に辞任を決意させたとも言われる(飯島は小泉在任中に福田としばしば対立し、2007年の総裁選でも小泉擁立に動いたとされる)<ref>[飯島勲氏、小泉純一郎前首相の秘書を辞職…福田支持に反発?(2007年9月14日 サンスポ)]</ref>。 | ||
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+ | 2006年以降は[[8月15日]]([[終戦記念日]])に[[靖国神社]]参拝を実施している。 | ||
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+ | [[2007年]]9月、安倍晋三総理総裁が退陣を発表後、「福田さんも小泉政権を支えてくれた人」と[[福田康夫]]支持の意向を示した。また、[[2008年]][[5月22日]]には、[[東京都]][[目黒区]](衆議院[[東京5区]])にてかつて[[岐阜1区]]で造反した[[野田聖子]]議員への[[刺客]]だった[[佐藤ゆかり]]の応援演説を行った<ref>『週刊FLASH』2008年6月10日号</ref>。 | ||
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+ | === 議員引退 === | ||
+ | [[麻生内閣]]が成立した翌日の[[2008年]][[9月25日]]、地元支持者の会合において、次回の衆議院選挙に立候補しない意向を明らかにした。総理経験者が総理退任後の衆院選に立候補せずに引退するのは池田勇人や小渕恵三の病気退任を除けば戦後初めて。 | ||
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+ | ただ、国会の外での政治活動は継続すると表明している。自分の選挙区の[[神奈川11区]]には自らの私設秘書である次男の[[小泉進次郎]]を後継として立候補させ、進次郎は当選した。 | ||
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+ | == 政治手法 == | ||
+ | 小泉政権の手法については、マスコミ報道を利用した「劇場型政治」や「ワンフレーズポリティクス」などと評され、従来の自民党支持層とは異なる都市部無党派層・政治に関心がない層からも幅広い支持を集めた。小泉旋風は具体的な政策論議よりも小泉自身のキャラクターや話題性に依存する面が大きく、敵対勢力からは[[ポピュリズム]]政治であるとの評価がしばしばなされる。 | ||
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+ | == 政権公約となった政策 == | ||
+ | === 靖國神社への8月15日(終戦の日)参拝 === | ||
+ | [[2001年]]の[[自由民主党 (日本)|自民党]]総裁選で「私が首相になったら毎年[[8月15日]]に[[靖国神社]]をいかなる批判があろうと必ず参拝します」と[[公約]]。しかしながら、2001年から[[2005年]]までは国内外からの批判に配慮して8月15日以外の日に参拝していた。自民党総裁の任期が満了する[[2006年]]には8月15日に参拝した。 | ||
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+ | === 郵政民営化 === | ||
+ | [[2005年]]に[[政府]]が[[国会]]に提出した[[郵政民営化|郵政民営化法案]]が衆議院において可決された後、[[参議院]]において否決されたため衆議院を解散した([[郵政解散]])。この解散は参議院の意義を否定するものとして一部では問題視されたが、解散により実施された衆議院選挙で自民党は、結果的に法案が参議院で否決された場合でも衆議院で[[衆議院の再議決|再可決]]することにより成立させられる3分の2超の議席を与党自民党で確保した。選挙後の特別国会において衆参ともに郵政民営化法が可決された。 | ||
+ | |||
+ | === タウンミーティング === | ||
+ | [[タウンミーティング 小泉内閣の国民対話|タウンミーティング]]の構想は2001年に行われた小泉純一郎首相の所信表明演説で初めて打ち出され、政権公約となった。タウンミーティングは全国で開かれ、まず特定テーマは設けずに都道府県を一巡し、その後「地域再生」「市町村合併」「教育改革」などをテーマに開かれるようになった。このタウンミーティングでは、謝礼金を使ったやらせ質問の横行、[[電通]]社員へ日当10万円の払い、[[エレベーター]]係へ一日数万の払い、などといった不透明な実態が明るみに出た。コストは平均2000万円、全国一巡したことで20億円弱もかかっていた。 | ||
+ | |||
+ | === 国債30兆円枠 === | ||
+ | [[小泉内閣]]は各年度予編成において[[日本国債|国債]]発行額を30兆円以下に抑制することを公約として掲げたが、達成できたのは2001年度と2006年度予算の2回のみだった。その際、「(守れないことは)大したことじゃない」との発言を行った。 | ||
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+ | === ペイオフの解禁 === | ||
+ | [[2001年]]の[[自由民主党 (日本)|自民党]]総裁選で他の総裁候補と同様に[[ペイオフ]]の解禁を公約に掲げた。しかし、[[不良債権]]処理が2004年までかかったため2005年4月まで解禁は先送りされた。 | ||
+ | |||
+ | == その他の主な政策 == | ||
+ | === 年金改革 === | ||
+ | [[年金]]制度を変革。老齢者控除廃止や公的[[年金]]等控除の縮小をした。 | ||
+ | |||
+ | === [[医療制度改革]] === | ||
+ | 医療制度改革関連法案を国会で可決させ、[[サラリーマン]]の[[医療費]]負担を2割から3割へ引上げた。70歳以上の高所得者(夫婦世帯で年収約621万円以上)について医療費の窓口負担が2割から現役世代と同じ3割へ上げた。2008年度からは70 - 74歳で今は1割負担の人も2割負担になる。 | ||
+ | |||
+ | また、2006年度の診療報酬改定では、再診料を引き下げ(病院で10円、診療所で20円)、医療費を削減したほか、病院と診療所で異なっていた初診料の統一、小児・救急医療など医師不足が指摘される分野で重点的に報酬を加算することなどが決まっている。 | ||
+ | |||
+ | === 女系天皇容認 === | ||
+ | 長い間、[[皇室]]に皇位継承権を有する男の子が生まれていなかったことなどから、[[皇室典範に関する有識者会議]]を設置し[[女性天皇]]・[[女系天皇]]を認めさせようとしたが、改正審議の際、[[秋篠宮]]家における懐妊ニュースを聞いて断念した。 | ||
+ | |||
+ | === 一内閣一閣僚 === | ||
+ | 小泉は閣僚が交代するのに批判的で、「一内閣一閣僚」を標榜していた。しかし、田中真紀子外相の更迭で原則を崩し、2002年9月30日に内閣改造を行い、以後1年間をめどに定期的に<!--「組閣」は第2次内閣組閣や第3次内閣組閣では全閣僚再任であるため、不記載とする-->内閣改造で定期的に閣僚を交代させていった。2001年の小泉内閣誕生から2006年の退任まで、一貫して国務大臣だった竹中平蔵のみが一内閣一閣僚に該当するという意見もある。 | ||
+ | |||
+ | == 他の政策 == | ||
+ | === 内政 === | ||
+ | * 自由競争と[[市場原理]]を重んじる[[竹中平蔵]]を閣僚に起用した。 | ||
+ | * 財政再建のための中期財政計画を作成し、多額の歳出削減を行った。歳出削減は初期には公共事業の削減に重点が置かれていたが、後期には福祉の抑制にまで及んだ。 | ||
+ | * [[竹中平蔵]]、[[菅義偉]]に地方公共団体の財政健全化基準を作成させた。 | ||
+ | * 銀行に対して厳格な審査を行い、自己資本が不足した銀行に対して[[公的資金]]を貸し付けることで、150兆円にも及ぶ銀行の[[不良債権]]処理を行い、金融システムを正常化させた。 | ||
+ | * 時限立法である株式会社[[産業再生機構]]法を成立させて財務体質が問題である企業を個別に支援した。 | ||
+ | * [[日本共産党|共産党]]以外のすべての党から賛成を得て[[労働基準法]]と[[労働者派遣法]]を改正し、[[労働者派遣事業|派遣社員]]の派遣期間を3年から無制限に延長した。 | ||
+ | * 同様に[[労働基準法]]の改正で、企業による解雇権濫用を無効とした。 | ||
+ | * [[2003年]]の通常国会において、[[有事法制|有事関連法案]]を与党自民党と[[民主党]]の賛成を得て可決させた。 | ||
+ | * [[介護保険]]では[[特別養護老人ホーム]]など施設入所者の居住費、食費を保険から外した。 | ||
+ | * 国民負担率の維持を試みたが、[[日本医師会]]の反対により医療費の伸び率管理を断念した。 | ||
+ | * [[財政再建]]のため、[[診療報酬]]の引き下げ(2002年に1.3%、2006年に1.36%)、サラリーマンの窓口負担の増加(2割→3割)、保険料の引き上げ(月収をベースとした算定→年収をベースとした「総報酬制」)の[[三方一両損]]<ref>「三方一両損」という言葉で自らの改革を自画自賛したが、国会で故山本孝史議員から「三方一両損」の意味を知っているのかと質され返答できなかった。三方一両損は大岡裁きで知られる[[大岡忠相]](大岡越前)のいわゆる大岡政談に出てくる話で、三両を落とした大工とそれを拾った左官が互いに譲り合って受け取ろうとしなかったので、大岡が自分の一両を足して二両ずつ分け合わせたという話。小泉の改革では保険機構はまったく損をしていないばかりか、被保険者は日頃の保険料も、窓口負担もともに増えているので三方一両損の比喩は全く当たらない。</ref>を行った。 | ||
+ | * [[パソコン]]等の製造業者に[[リサイクル]]を義務付ける[[資源有効利用促進法]]を成立させた。 | ||
+ | * [[道路関係四公団]]の[[民営化]]法案成立。 | ||
+ | * [[聖域なき構造改革|構造改革]]特区により[[規制緩和]]を促進。 | ||
+ | * [[特殊法人]](住宅金融公庫など)の[[独立行政法人]]化。 | ||
+ | * 「健康保険法等の一部を改正する法律」(2006年6月21日公布)を与党多数で採決し、[[後期高齢者医療制度]]を導入。 | ||
+ | * [[2006年]]には[[谷垣禎一]]財務相、[[中川昭一]]農水相の反対を押し切って、6.5兆円の[[不良債権]](2007年3月期)を抱える[[政策金融機関]]の統合民営化(株式会社[[日本政策金融公庫]])を推し進めた。 | ||
+ | * [[三位一体の改革]]として[[地方交付税]]の削減、地方への税源移譲。 | ||
+ | * [[生活保護]]費や[[児童扶養手当]]の削減。 | ||
+ | * 最低資本金制度の特例措置(後に[[会社法]]の制定)により1円から企業を立ち上げることを可能にした。 | ||
+ | * 国家戦略本部]を設置。 | ||
+ | * [[ハンセン病]]訴訟において、国側の責任を認め患者・遺族側と和解。 | ||
+ | * 特別会計合理化法案(仮称)を閣議決定し、[[特別会計]]透明化の方向性をつけた。 | ||
+ | * [[障害者自立支援法]]を成立。受益者は介護・訓練費用の1割を負担することとなった。 | ||
+ | |||
+ | === 外交 === | ||
+ | [[Image:Blair G8 July7th05.jpg|400px|right|thumb|2005年[[パースシャーサミット]]に[[内閣総理大臣の一覧|JPNの首相]]として参加(後部列右から2番目の人物)]] | ||
+ | * 従来の事務協議の積み重ねの延長である外交から、首相が自らの意見を積極的に主張し首脳間の信頼関係の下で国家間の合意を取り付ける首脳外交に転換した。 | ||
+ | * 在任中合計51回、実数では49ヶ国延べ数81ヶ国を訪問した。また訪問先の決定も外務省を始め、関係省庁が作ったシナリオに従うのではなく、官邸が積極的に関与した。さらに多数の電話での首脳会談も行い積極的な官邸外交を繰り広げた。 | ||
+ | * 国別では、米国8回、韓国7回、ロシア4回、インドネシア4回、中国3回、タイ、マレーシア、ベトナムにそれぞれ2回訪問した。またブルネイ、シンガポール、フィリピン、ラオス、カンボジア、モンゴルなどのアジアの国々や今まで首相がほとんど訪問していなかったウズベキスタンやカザフスタン、イスラエル、ヨルダン、パレスチナ、サウジアラビア、エジプト、トルコなどの中近東諸国にも訪問している。 | ||
+ | * [[アジア太平洋経済協力会議]]首脳会議(APEC)に5回、[[アジア諸国連合]](ASEAN)+日中韓首脳会議に5回、[[アジア欧州会議]](ASEM)首脳会議に3回などのようにアジア地域の中心の多国間協議に総理として積極的に参加していた。 | ||
+ | * また、多くの国を訪問し多くの国際会議の常連メンバーであったため、当時のアジア各国首脳、フィリピンのアロヨ大統領や、マレーシアのマハティール首相、シンガポールのゴー・チョク・トン首相などとも非常に親しかった。 | ||
+ | * サミットにも5回出席の常連メンバーであり、そのつど各国首脳と多国間・二国間の会談を重ねている。そのため、アメリカのブッシュ前大統領だけではなく、フランスのシラク前大統領、ドイツのシュレイダー前首相、ロシアのプーチン前大統領、イギリスのブレア前首相とも「率直に話のできる顔見知りの仲」であり、重要な案件でも首脳同士が直接電話で話をして決めることもあった<ref>飯島勲『小泉官邸秘録』</ref>。 | ||
+ | * またウズベキスタンやカザフスタンなどに対し、資源の優先的供給を受けるための資源外交・経済外交の展開を始めた。 | ||
+ | * [[郵政民営化]]など[[アメリカ合衆国|米国]]からの要望をまとめた[[年次改革要望書]]の内容を実行に移した(ただし、郵政民営化については1970年代から主張していた)。 | ||
+ | * [[靖国神社]]参拝により、[[中国]]・[[韓国]]の態度を硬化させ、在任期間中は首脳会談はもとより、首相特使派遣すらできないほどまでに関係が悪化した。 | ||
+ | * [[アメリカ同時多発テロ]]後に[[テロ対策特別措置法]]を制定し、[[アメリカのアフガニスタン侵攻]]では[[海上自衛隊]]をインド洋に派遣し、イラク戦争後は米国主導の「[[イラク]]復興事業」に支援活動として陸上・航空自衛隊の派遣を決定したが、派遣した国の首脳の中で唯一、現地慰問を行わなかった。 | ||
+ | * 戦略的外交諮問機関 を設立。 | ||
+ | * 日本に観光客を呼び込む[[ビジット・ジャパン・キャンペーン|YOKOSO!JAPANキャンペーン]]を実行。その一環として、[[中国人]]や[[韓国人]]、[[台湾人]]等の観光客に対する[[査証|ビザ]]免除等を行った(日本国籍保持者は相互主義により相手国でビザ免除となる)。その甲斐もあり、2003年の時点で524万人であった訪日外国人旅行者数は2007年には834万人となり過去最高を記録した。 | ||
+ | * [[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]に訪朝し[[金正日]]総書記と正式会談。北朝鮮政府は日本人拉致への直接関与を認めた。また、5人が生存して日本へ帰国(交渉継続中)。 | ||
+ | |||
+ | ==== 外国からの評価 ==== | ||
+ | * 明確な主張や気さくで明るい人柄などから諸外国からは高い評価を受けた。 | ||
+ | * 2002年のサミットにおいて、カナダの主要紙であるグローブ・アンド・メール紙の「サミットのベストドレッサー」に選ばれた。 | ||
+ | * 2002年の国連総会において、演説終了後、演台裏手のロビーで小泉総理に挨拶を求める各国代表の列において国連職員が「こんなに長い列ができるのは珍しい」というほどの長蛇の列ができた。 | ||
+ | * 2003年の国連総会においては、演説終了後300人近くの各国代表者などが演台の後ろのロビーに並んで小泉総理の演説に対する賞賛の意を表した。讃辞の列は次の代表の演説も終えた頃まで続き、多くの国連関係者を驚かせた。 | ||
+ | * 2002年にシンガポール訪問時に、シンガポールのナザン大統領を表敬訪問した際、ナザル大統領から「自分の孫娘が小泉総理のファンなので一緒に写真を撮ってもらえないか」と頼まれ、快く応じた。 | ||
+ | * 2006年のアメリカ訪問時に「アメリカは一人で悪に立ち向かっているわけではありません。常に多くの同盟国、友好国とともにあります。そして日本はアメリカとともにあるのです」と演説をし、鳴り止まないほどのスタンディング・オベーションを浴びた。 | ||
+ | |||
+ | ==== 対外関係 ==== | ||
+ | [[Image:Junichiro Koizumi p062906pm-0396-398h.jpg|250px|right|thumb|[[2006年]][[6月29日]]ホワイトハウスにて、盟友[[ジョージ・ウォーカー・ブッシュ|ブッシュ]]大統領と握手しながら記者会見を行なう小泉首相]] | ||
+ | * 明確な主張と気さくな人柄と交渉能力に裏打ちされた積極的な外交活動、そして5年という長い期間政権を担っていたことなどから多くの国々および各国首脳と強い信頼関係を結んだ。 | ||
+ | * 小泉外交は出身派閥である[[清和政策研究会]]の伝統的な[[親米]]路線に則っている。ただし、小泉首相自身がアジアのアジアやアフリカなどの国々にも積極的に訪問し、サミットをはじめ、ASEAN、APEC、ASEM、日・EU定期協議、アジア・アフリカ首脳会議など、多国間協議へ25回も参加していることからも、日米の二国間関係だけに依存した外交ではなく、アジアを重視した多国間外交を重視しているといえる。 | ||
+ | * [[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[ジョージ・ウォーカー・ブッシュ|ブッシュ]]大統領とは仲の良さをアピールし、日本の首相としては初めて[[エアフォースワン]]に搭乗し[[キャンプデービッド]]の別荘に招かれた。この親密ぶりを[[渡辺宜嗣]]は、「『[[ロナルド・レーガン|ロン]]・[[中曽根康弘|ヤス]]関係』を超えた」と評した。 | ||
+ | * [[2002年]][[カナダ]]で開催された[[カナナスキス]][[サミット]]の際、冗談めかして「君にはこうしなくちゃいけないだろうな」と言い両手両足をついて[[ジョージ・ウォーカー・ブッシュ|ブッシュ]]米大統領の足元にひれ伏すという日米関係を象徴するかのようなパフォーマンスを演じた。 | ||
+ | * 2002年のカナナスキスサミットの際、2003年のエビアン・サミットの日程とロシアのサンクトペテルブルク建都300周年記念行事の日程が重なっていたため、各国首脳がその記念行事に参加できないという悩みをプーチン大統領が抱えていると知った小泉総理は、サミットの日程を2日ずらすことを進言し、シラク大統領も了解したことから、各国首脳はサンクトペテルブルクを訪問した後にエビアンに行くという日程になった。このことに対してプーチン大統領は「感謝に堪えない。公表できないがシベリアに金正日がくるので協力できることはないか」ということとなり、その後プーチン大統領は金正日に小泉総理のメッセージを伝えることを約束した。 | ||
+ | * その後も、プーチン大統領との友好関係は続き、2003年にロシアを訪問した際には晩餐会終了後に、プーチン大統領のクレムリンの個人住居に招かれ、通訳を交えただけの2人きりで約1時間半にわたって懇談した(なおロシアでは大統領が非公式に外国の首脳と懇談するのは異例のことである)。このプーチンとの個人的な友好関係も手伝い、小泉は政界引退後の現在も露日経済協議会理事長の職にあり、また北方領土問題解決に強い関心を持っているといわれる。 | ||
+ | * 2002年のカナナスキスサミット終了後、ドイツのシュレーダー首相が政府専用機のスケジュールの調整ができずに日韓ワールドカップのドイツ対ブラジル決勝戦を見に行けないと悩んでいることを知り「だったら日本の政府専用機に乗っていったらいいじゃないか」という話になった。そしてシュレーダー首相は日本の政府専用機に乗り日本に向かいワールドカップ最終戦を観戦した。その際機内では首脳会談が持たれ、懇談の際にはサッカー談義にも花が咲いた。外国首脳が日本の政府専用機に搭乗したことはこれが初めてのことである。 | ||
+ | * [[2004年]][[マレーシア]]で開催された[[東アジア]][[サミット]]の際は、共同宣言に署名する際に、自分のペンを使わず、当時関係が冷却化し日本との首脳会談を拒んでいた中国の[[温家宝]]首相からわざわざペンを借りて署名した。両国の関係改善を示唆するパフォーマンスに各国首脳から拍手が送られた。 | ||
+ | * [[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]に対しては対話と圧力を掲げて、硬軟取り合わせた対応を行った。2006年のミサイル発射問題では関係国中最も強硬な国連外交を展開した。 | ||
+ | * 靖国神社への参拝をめぐり反発する中国・韓国との関係は悪化。[[反日デモ]]で自身の肖像が燃やされる事も度々あった。 | ||
+ | |||
+ | == 人物像 == | ||
+ | === 学生時代 === | ||
+ | *慶應横須賀学生会の元メンバーは「当時の小泉は[[ナンパ]]系学生の代表格だった。横須賀の現役慶應大生で作る『慶應横須賀学生会』の会長をしていた彼は[[OL]]や女子学生を集めては[[ダンス]][[パーティ]]を開いていた」と述べている<ref>岩崎大輔『ダークサイド・オブ・小泉純一郎』 126頁</ref>。 | ||
+ | |||
+ | === 信念・容姿 === | ||
+ | * 身長169cm。前任の[[森喜朗]](175cm)よりも低いが、肥満型の森と比較して痩せ型のためか森よりも高身長に思われていた様である(長男の[[小泉孝太郎]]は177cm)。21世紀に総理大臣を務めた人物では最も小柄である([[安部晋三]]は175cm、[[福田康夫]]は171cm)。 | ||
+ | * 人と会話するとき身振り手振りを交えながら一言一言を短く簡潔に言いたいことをわかりやすく表現する喋り方が特徴。 | ||
+ | * [[郵政民営化]]や[[日本道路公団|道路公団]]民営化などに反対する議員・団体・勢力を「'''[[抵抗勢力]]'''」と呼んだ。 | ||
+ | * 国会演説や記者会見などで、国民に対して自助と自律の精神を呼びかけた。 | ||
+ | * 愛読書は『[[ああ同期の桜]]』([[海軍予備学生|海軍飛行予備学生]]第14期会編)。 | ||
+ | * 尊敬している人物は[[吉田松陰]]。 | ||
+ | * 国会では「[[極東国際軍事裁判]]を受諾し、[[A級戦犯]]は[[戦争犯罪人]]と認識している」と答弁している。 | ||
+ | * [[2006年]][[9月]]の自民党総裁任期満了をもって[[内閣総理大臣|総理]]及び[[自由民主党総裁|総裁]]の両役職を辞める旨を会見などで早くから発言し、任期満了までに時間がある時点から[[ポスト小泉]]人事が話題となっていた。小泉総理自身は総理・総裁辞任後は[[院政]]を敷くつもりはないと発言し、総裁選直前には安倍晋三支持を明確にした。 | ||
+ | * 髪型がライオンのたてがみに似ているとして、ライオンのイメージキャラクターが作られた。なお、[[2005年]]冬に米国俳優の[[トム・ハンクス]]と米国で対面した際、トム・ハンクス本人から「今、小泉総理のヘアースタイルが、米国ですごく流行っている」と言われ、小泉は照れ笑いに終始した。 | ||
+ | * 人からの贈り物は、ほとんど受け取らない。バレンタインのチョコレートも送り返している。 | ||
+ | * 政治家として結婚式の仲人もした事があるが、式の席上で仲人の新郎新婦紹介の際、「結婚はそんな甘いものじゃあない!」と発言し、列席者全員を驚かせたことがある。 | ||
+ | * 米国俳優の[[リチャード・ギア]]と面会した際、「ジャパニーズ・リチャード・ギア」と紹介された。 | ||
+ | |||
+ | === 対人関係 === | ||
+ | * [[福田赳夫]]に師事した。 | ||
+ | * [[第43回衆議院議員総選挙]]で落選した盟友・[[山崎拓]]を首相特別補佐官として登用している。その後、靖国参拝問題や人事などで山崎との関係は疎遠化したとも言われている。 | ||
+ | * 長年選挙対策本部長を務めた竹内清(前[[小泉正人]]議会議長)は、暴力団[[稲川会]]の元組員であり、[[石井隆匡|石井会長]]と非常に親しい関係にあった<ref>『ダークサイド・オブ・小泉純一郎』 24 - 53頁 -[政治経済の真実]</ref>。 | ||
+ | |||
+ | === 音楽・芸術関係 === | ||
+ | * 解散したロックバンド、[[X JAPAN]]の大ファンであると公言している。([[X JAPAN]]は2008年3月に再結成)その流れから自民党のCMに[[X JAPAN]]のヒット曲『[[Forever Love (X JAPANの曲)|Forever Love]]』を採用した。 | ||
+ | ** 小泉内閣で経済産業副大臣を務めた[[高市早苗]]によれば、小泉と[[カラオケ]]をした際に[[X JAPAN]]のシングル曲である『[[Rusty Nail]]』を歌ったが、小泉はこの曲を知らなかったという。本人はバラード曲である『[[Tears (X JAPANの曲)|Tears]]』を最も好んでおり、2004年の参議院選挙に向けたCMのBGMへの使用を考えていたが、選挙戦に涙はまずいとして、以前にも自民党が採用した『Forever Love』が再度採用された経緯がある。 | ||
+ | ** [[1998年]][[5月2日]]に[[死去]]した元[[X JAPAN]]のメンバー(ギタリスト)で、同郷でもある[[hide]]の記念館(地元の[[神奈川県]][[横須賀市]])の設立に協力した。 | ||
+ | * [[オペラ]](歌劇)、[[狂言]]、[[歌舞伎]]、[[映画]]鑑賞が趣味。 | ||
+ | ** 中でもオペラへの関心は高く、[[2003年]]の[[ドイツ]]公式訪問では本人の強い希望で[[バイロイト音楽祭]]を訪問し、[[リヒャルト・ワーグナー]]作の[[タンホイザー]]全3幕を鑑賞した。2001年に日本で[[メトロポリタン・オペラ]]が公演を行ったときも、『[[サムソンとデリラ]]』を鑑賞している。 | ||
+ | ** 多くの映画音楽を手掛けている音楽家[[エンニオ・モリコーネ]]のファンでもあり、2005年(平成17年)10月5日に発売されたチャリティアルバム「私の大好きなモリコーネ・ミュージック」の選曲を務めた。 | ||
+ | ** 「好きな映画ベスト3」は「[[ショーシャンクの空に]]」「[[ニュー・シネマ・パラダイス]]」「[[フィールド・オブ・ドリームス]]」であると[[毎日新聞]]に掲載された。([[2000年]]) | ||
+ | * [[Image:Koizumi in Graceland 2006.jpg|250px|right|thumb|[[2006年]][[6月29日]]、[[エルヴィス・プレスリー]]の故郷、[[グレイスランド]]に向かう小泉。]][[オールディーズ]]時代のロックンローラー、[[エルヴィス・プレスリー]]の大ファンである。首相就任後の2001年には、自ら選曲し解説を著したエルヴィスのCDアルバムを発表した。 | ||
+ | ** 2006年6月30日に日米首脳会談後、[[エアフォースワン]]にブッシュ夫妻と同乗し、エルヴィスの旧居である「[[グレイスランド]]」を公務として訪問した。そこで「グローリー、グローリー、ハレルーヤ、っと」と熱唱しながら[[エアギター]]を披露し、失笑を誘った。 | ||
+ | ** エルヴィスとは誕生日が同じ1月8日である。 | ||
+ | * 小泉内閣最後の官邸[[メールマガジン]]に、ありがとう / ささえてくれて / ありがとう / 激励協力 / 只々感謝 という自作短歌を掲載した。 | ||
+ | |||
+ | === スポーツ・芸能関係 === | ||
+ | * [[大相撲]]に興味があり、しばしば本場所を訪れる。 | ||
+ | ** 首相就任直後の[[2001年]][[5月]]の夏場所では、たいていは[[内閣官房副長官]](政務)が担当する[[総理大臣杯]]の授与を自ら行い、前日の負傷を押して出場し22回目の幕内優勝を勝ち取った横綱[[貴乃花光司]]に対して「痛みに耐えてよく頑張った! 感動したっ! おめでとう!」との賛辞を送った。「感動したっ!」は流行語ともなった。ただし、この負傷が原因となって、貴乃花はこの優勝を最後に現役を引退した。 | ||
+ | ** 2005年11月の九州場所では、総理大臣杯の授与を、再び自ら行った。年6場所全制覇など3つの大記録を達成した横綱[[朝青龍明徳]]に対して、「新記録! 大記録! みごとだ! おめでとう!」と賛辞を送った。貴乃花の時は東京[[両国国技館]]であったが、この時は[[福岡国際センター]]である。わざわざ福岡まで行った理由について、年6場所を全て制覇したら行くという約束を、その年の初めに朝青龍とかわしていたと記者団に語った。 | ||
+ | * プロ野球では神奈川県を本拠地とする[[横浜ベイスターズ]]を応援している。同球団の2軍が独立採算制の[[湘南シーレックス]]となった際には、本拠地が地元・横須賀市である事もあり、後援会の結成に協力している。また[[堤義明]]とも親交が深く、総理大臣就任以前は堤がオーナーだった[[西武ライオンズ]]のホームゲームを観戦に[[西武ドーム]]へ何度も足を運んだ。[[横浜高校]]出身の[[松坂大輔]]が高卒新人時代に先発した試合を堤とVIPシートで観戦した事もあった。 | ||
+ | * サッカーの[[2002 FIFAワールドカップ]]では、ホスト国・日本の首相として大会運営に協力した。大会直前の親善試合では日本代表の激励のために[[国立霞ヶ丘陸上競技場|国立競技場]]を訪問し、約5万人のサポーターから「コイズミニッポン」コールを受けた。また、6月30日の決勝戦が[[ドイツ]]対[[ブラジル]]になったのを受け、[[カナダ]]の[[カナナスキス]][[主要国首脳会議|サミット]]([[第28回主要国首脳会議]])で同席したドイツの[[ゲアハルト・シュレーダー|シュレーダー]]首相を[[日本国政府専用機]]に乗せ、[[横浜国際総合競技場]]に招待した。外国の要人が日本国政府専用機に乗った最初の例である(一般に政府公用機は民間航空機とは異なり駐機中でも機体所有国の法令が適用される([[治外法権]])など特別な事情があり、外国の[[元首]]や要人が同乗するのは異例)。 | ||
+ | * スポーツで日本人選手や日本代表が活躍をすると、記者会見で称賛などのコメントを行っている。 | ||
+ | * 1998年、世界の[[ワイン]]名士・著名人に贈られるメドック・グラーヴ・ボンタン騎士団騎士の称号を送られた。 | ||
+ | * 1999年に放送されたドラマ[[TEAM (テレビドラマ)|TEAM]]([[フジテレビジョン|フジテレビ]]系)に[[文部大臣]]として出演したことがある。また同じ年に、同じくフジテレビ製作の[[SMAP×SMAP]]のビストロスマップのコーナーにも出演している。番組中に[[中居正広]]は「総理大臣になるのではないか?」と冗談で言ったが、現実のものとなった。[[日本テレビ放送網|JPNテレビ]]製作の[[モー。たいへんでした]] にも出演した。 | ||
+ | * 小泉の選挙区内の横須賀出身で横浜高校から[[帝拳ジム|東京帝拳]]入門したバンタム級プロボクサー[[大和心]]を応援していた。 | ||
+ | * 2002年5月26日に[[東京競馬場]]で行われた[[東京優駿]](日本ダービー)に来場し、表彰式で優勝馬([[タニノギムレット]])の馬主(谷水雄三)に「内閣総理大臣賞」を授与した。現職首相のダービー観戦は、1958年の[[岸信介]]首相以来の44年ぶり2回目。 | ||
+ | * [[みのもんた]]によれば、小泉は「65歳位で引退しようかな、もうその頃が引き際だ」と発言していたという<ref>『[[おもいッきりイイ!!テレビ]]』(2008年9月26日放送)より。</ref>。 | ||
+ | * 2009年の映画『[[大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE]]』にて[[ウルトラマンキング]]の声を担当している。 | ||
+ | |||
+ | == 人物評 == | ||
+ | * 首相就任以来、毎日通常2回、官邸で総理[[番記者]]の質問([[番記者|ぶら下がり]])に立ち止まって答えた。(小泉以前の首相は答えない場合もあったり、質問に答える場合でも歩きながらという慣習であった) | ||
+ | * [[YKK (政治同盟)|YKK]]では、人徳の山崎、政策の加藤に対比して、政局の小泉と評された。 | ||
+ | * 1998年の自民党総裁選に出馬した際[[田中真紀子]]は[[小渕恵三]]を[[凡人]]、士官学校卒の[[梶山静六]]を[[軍人]]、そして小泉を[[変人]]と評した(総裁選で選ばれた際の真紀子の演説では「変人の母でございます」)。以後このニックネームが定着したが、このとき本人は「『変人』とは『変革の鉄人』のことである」と述べている。2005年の郵政解散の折には、参議院での法案否決による衆議院解散を思いとどまるよう説得に訪れた森喜朗に「変人以上」と評されている。 | ||
+ | * 「自民党をぶっ壊す」「私の政策を批判する者はすべて抵抗勢力」と宣言して総裁選に勝利、発足時の内閣支持率は戦後最高を記録した。一部では「[[ナチズム]]」「[[ブーランジスム]]」と揶揄される程の驚異的支持率であった。 | ||
+ | * 2001年9月の臨時国会における所信表明演説では[[チャールズ・ダーウィン]]の進化論を経済社会にも取り込むよう発言した。ただ、[[ヒトラー]]が進化論を演説に取り込んだこともあり、欧米では演説に細心の注意が払われる傾向にある。 | ||
+ | * [[田中真紀子]](当時外相)の更迭時には支持率が急落するものの、終始40%以上の支持率を保ち続けた。 | ||
+ | * 「[[聖域なき構造改革]]」として、国民に対して痛みを伴う改革を主張した(野党には「痛みしか伴わない」と言われた)。 | ||
+ | * 衆議院選挙における[[小選挙区比例代表並立制]]に一貫して反対し、選挙の際は[[重複立候補]]していない(2005年の郵政選挙では一時期小泉本人の重複立候補が決まりかけていたが、最終的に取りやめとなった)。1996年の衆院選で当選が決まったあと、選挙事務所からTV中継されたインタビューにおいても「選挙区で落選した議員が比例区で当選するというのはおかしい。だから私は重複立候補はしない」と述べている。しかし2005年の選挙では自身が否定的なその比例代表並立制の特徴を存分に活用して新人議員を多数当選させる。 | ||
+ | * [[靖国神社]]に参拝する理由を問われると一貫して「心の問題」と強弁して押し通した。他方で[[政教分離原則]]に反すると議論を呼んだ。ただ、総裁就任以前には参拝の習慣は無かったようで、靖国参拝は[[日本遺族会]]からの支持を期待しての公約だったとの見方もある。 | ||
+ | *2001年の総裁選においては田中真紀子から出馬を強く勧められたことを明かし、「立ちなさいと女性から言われて、男として立たないわけにはいかない」と挨拶した。 | ||
+ | |||
+ | == 主な発言一覧 == | ||
+ | * 「[[橋本龍太郎|橋本]]首相だったらたいして変わらない。私になったら劇的に変わる。そこがこの総裁選の最大のポイントです」(1995年9月) | ||
+ | *: 自身初となる自民党総裁選に立候補したときの発言。 | ||
+ | * 「変人の生みの親から『変革の人』と言っていただき、これほど力強いことはない」(2001年1月27日、自民党本部出陣式) | ||
+ | *: 次期自民党総裁選に“小泉”を推す事を表明した[[田中真紀子]]の応援に応えての発言。 | ||
+ | * 「私が、小泉が、[[自由民主党 (日本)|自民党]]をぶっ潰します!」(2001年4月) | ||
+ | * 「首相に就任したら8月15日の戦没慰霊祭の日に[[靖国神社]]を、いかなる批判があろうと必ず参拝します」(2001年4月18日、自民党総裁選討論会) | ||
+ | * 「構造改革なくして成長なし」(2001年5月7日) | ||
+ | * 「痛みに耐えてよくがんばった! 感動した! おめでとう!」 | ||
+ | *: 2001年5月の[[大相撲]]夏場所で横綱[[貴乃花光司|貴乃花]]が幕内で優勝し、その表彰式で内閣総理大臣杯を直接手渡した際の発言。 | ||
+ | * 「私の[[内閣]]の方針に反対する勢力、これはすべて[[抵抗勢力]]だ」(2001年 - 2002年) | ||
+ | * 「この程度の約束を守らないのは大したことではない」(2003年1月23日、衆院予算委員会) | ||
+ | *: [[赤字国債]]の発行枠が[[公約]]である30兆円を上回ることをうけての発言。後にこの発言を撤回。 | ||
+ | * 「今イラクのどこが非戦闘地域で、どこが戦闘地域か、そんなの私に聞かれたって分かるわけがないじゃないですか!」(2003年7月23日、党首討論) | ||
+ | *: 民主党[[菅直人]]代表の「非戦闘地域というのはフィクションではないか。1ヵ所でもいってみてください」という質問に対しての発言。 | ||
+ | * 「[[集団的自衛権]]を認めるなら、[[日本国憲法|憲法]]を改正した方がいい」(2003年7月25日、参院外交防衛委員会) | ||
+ | * 「おだやかで快活な[[冗談]]を飛ばす頭の回転の速い人だ」、「独裁者の国では交渉が(その後の協議)で変わる。独裁者の考えは私自身が確かめるしかない」(参院・イラク武力攻撃事態特別委員会) | ||
+ | *: [[金正日]]総書記の印象をこう語った | ||
+ | * 「野球界にも権力闘争があるんだね」 | ||
+ | *: [[原辰徳]]の辞任を聞いた小泉純一郎は、記者団にこのようにコメントした。 | ||
+ | * 「人生いろいろ、[[会社]]もいろいろ、社員もいろいろ。岡田さんの会社だって、みんながみんな同じように働いてるわけじゃないでしょう?」(2004年6月3日、党首討論) | ||
+ | *: 民主党[[岡田克也]]代表が[[厚生年金]]加入時の会社の勤務実態を追及するとこう答えた。 | ||
+ | * 「[[自衛隊]]の活動しているところは非戦闘地域である」(2004年11月10日、党首討論) | ||
+ | *: 岡田民主党代表に「戦闘地域と非戦闘地域とについて具体的にどういう状態をさすのか」と聞かれての発言 | ||
+ | * 「おれの信念だ。殺されてもいい」(2005年8月6日、官邸で[[森喜朗]]前首相に) | ||
+ | *: 参議院で参院郵政民営化法案の否決が濃厚になり衆議院解散を思いとどまらせようと会談した森前首相にこう答えたという。 | ||
+ | * 「今回の選挙は、いわば、郵政選挙であります。郵政民営化に賛成してくれるのか、反対するのか、それを国民に問いたい」(2005年8月8日、衆議院解散後の記者会見) | ||
+ | * 「その時[[ガリレオ・ガリレイ|ガリレオ]]は、『それでも地球は動いている』と言ったそうであります」(2005年8月8日、衆議院解散後の記者会見) | ||
+ | * 「新記録! 大記録! みごとだ! おめでとう!」 | ||
+ | *: 2005年11月の[[大相撲]]九州場所で年6場所全制覇など3つの大記録を達成した横綱[[朝青龍明徳]]に、内閣総理大臣杯を直接手渡した際の発言。 | ||
+ | * 「[[格差社会|格差]]が出ることが悪いとは思わない。今まで悪平等だという批判が多かったし、能力のある人が努力すれば報われる社会にしなければならない」 (2006年2月1日、参院予算委員会) | ||
+ | * 「総理大臣である、人間小泉純一郎が参拝しているんです」(2006年8月15日、[[靖国神社]]参拝後の記者質問に対して) | ||
+ | * 「政治家は使い捨てにされることを嫌がってはいけない。総理大臣だって使い捨て。甘えちゃだめです。『使い捨てされるなんて嫌だ』なんて言った人は、国会議員にならないほうがいい」(2006年11月7日、日本夢づくり道場での講演) | ||
+ | * 「おれにはそんな金はないよ」(2007年6月13日、自民党の[[中川秀直]]幹事長から、[[年金支給漏れ問題]]で歴代厚生大臣の責任により給与返納に言及されたときの返事) | ||
+ | * 「人生には上り坂もあれば下り坂もあります。もう一つ坂があるんです。『まさか!』という坂であります。まさかあのような形でね、安倍さんが退陣するとは思わなかった」(2007年10月4日) | ||
+ | * 「政界では、権力闘争は当たり前だ。敵をどう味方に変えるかが大事だ。造反組は政治の信念を曲げ、土下座するようなことを引き受けたのだから、認めてやってもいいのではないか」 | ||
+ | *: 総理辞任後、小泉チルドレンに向けて言い放った。 | ||
+ | * 「5人の候補者の全員が小泉内閣の閣僚だった。だから私も今の時点で誰を(支持する)と言うのはちょっと躊躇してるんですよ。(競泳五輪金メダリストの)[[北島康介|北島]]選手じゃないけど、今の時点では『何も言えねえ!』と」(2008年9月、ポスト福田について) | ||
+ | * 「わたしは最近の麻生太郎首相の発言について、怒るというよりも笑っちゃうくらい、ただただあきれているところだ」「わたしについても、(首相が)常識の通じない男だとかね、奇人変人とか言っているようだが、わたしは自分では常識をわきまえている普通の人だと思っている」(2009年2月12日) | ||
+ | |||
+ | |||
+ | == 家族 親族 == | ||
+ | ; 実家 | ||
+ | * 祖父・[[小泉又次郎|又次郎]]([[鳶職|とび職人]]、小学校代用教員、新聞記者、政治家) | ||
+ | * 父・[[小泉純也|純也]](政治家) | ||
+ | * 母・芳江([[小泉又次郎]]の娘) | ||
+ | * 姉・信子([[政策担当秘書|政策秘書]])、ほかに2人 | ||
+ | * 弟・正也(私設秘書、妻は[[石原慎太郎]]の妻典子の[[従兄弟]]の娘) | ||
+ | |||
+ | ; 自家 | ||
+ | * 前妻・[[宮本佳代子|佳代子]]([[エスエス製薬]]元会長[[泰道照山]]の孫娘) | ||
+ | * 長男・[[小泉孝太郎|孝太郎]](俳優、タレント) | ||
+ | * 二男・[[小泉進次郎|進次郎]](政治家) | ||
+ | * 三男・一般人(母佳代子と同じ宮本姓を名乗っている)<!--離婚時に前妻が妊娠中だった「三男・[[宮本佳長]]」は前妻が親権を持った。但し純一郎は[[認知]]をしていないため、三男とは法律上親子関係がなく、赤の他人の扱いになる。--> | ||
+ | |||
+ | ; 他家 | ||
+ | * いとこ・井料克己(いりょう かつみ、政治家・元横須賀市議会議長) | ||
+ | :井料の母親の弟が[[小泉純也|純也]]である<ref>梅田功 著『変革者 小泉家の3人の男たち』17頁</ref> | ||
+ | |||
+ | == 系譜 == | ||
+ | ; 小泉家 | ||
+ | : 祖父[[小泉又次郎]]は[[武蔵国]]久良岐郡六浦荘村大道(現在の[[神奈川県]][[横浜市]]金沢区大道)に[[鳶職|とび職人]]の二男として生まれた<ref>[[小泉正人]]梅田功 著『変革者 小泉家の3人の男たち』28頁に「又次郎が生まれた当時、[[鎌倉街道]]に面したこの地は、戸数わずか三十二戸の小さな村であったという。父・小泉由兵衛は村の代々の[[鳶職]]だったが、のちに軍港[[横須賀市|横須賀]]に進出して、海軍に労働者を送り込む軍港随一の[[手配師|請負師]]になった」とある</ref>。又次郎が[[小学校]]へ入学する頃、一家は[[横須賀市|横須賀]]に移り、[[海軍工廠]]に[[大工]]、[[左官]]、人夫、等を送り込む[[手配師|人入れ業]]を始める<ref>当時の横須賀では[[沖仲仕]]の[[手配師]]として目兼の大親分と[[小泉組 (請負業)|小泉組]]が縄張りを競い合い、[[博徒]]たちの賑やかな出入りが繰り返されていたという(藤原肇・著『小泉純一郎と日本の病理』29頁)。[[宮崎学]]の著書『[[ヤクザ]]と日本―近代の無頼』54 - 55頁には「1884年(明治17年)に海軍鎮守府が置かれた横須賀は、[[日清戦争]](1894~1895年)から[[日露戦争]](1904~1905年)にかけて軍港として急速に発展したが、ここでも、軍艦に砲弾や燃料の石炭、食糧などを積み込む仲仕の組織が発達し、これを仕切る仲仕請負から[[やくざ]]組織が生まれていったのである。当時、横須賀でこの仲仕の仕切りでしのぎを削ったのが、[[博徒]]の目兼組と鳶の[[小泉組 (請負業)|小泉組]]であった。この縄張り争いは、近世以来の古い型の博徒である目兼組を抑えて、新興の[[小泉組 (請負業)|小泉組]]が制していく。そして、この[[小泉組 (請負業)|小泉組]]を率いていた鳶の親方・小泉由兵衛が跡目を継がせた息子の又次郎がこの帰趨を決定的にし、[[小泉組 (請負業)|小泉組]]は軍港の[[やくざ]]として一大組織を築くことになった。この又次郎こそが、のちの首相・小泉純一郎の祖父であった。この[[小泉組 (請負業)|小泉組]]も、[[吉田磯吉]]と同じ時期、同じ環境から生まれてきた近代[[ヤクザ]]のひとつにほかならない。」とある</ref>。又次郎は明治40年(1907年)横須賀市議会議員、明治41年(1908年)衆議院議員となり浜口雄幸内閣、第2次若槻禮次郎内閣で[[逓信大臣]]を務めた。父[[小泉純也]]は[[鹿児島県]]川辺郡東加世田村(現・[[南さつま市]])の[[漁業]]鮫島家に生まれ、32歳の若さで代議士となり、第3次池田勇人内閣、第1次佐藤榮作内閣で[[防衛庁長官]]を務めた。[[神一行]]の著書『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』236 - 237頁に「さてその小泉の[[閨閥]]であるが[[名門]]といわれるほどのものではない。むしろ小泉の性格は三代続く政治家[[家系]]の血筋とみてよい。」とある。 | ||
+ | |||
+ | <pre> | ||
+ | 藤田丈吉━━━━泰道正年 | ||
+ | ┣━━━━━┳━泰道一正 | ||
+ | 泰道照山━━┳━芙蓉子 ┗━泰道真也 | ||
+ | ┣━泰道三八 | ||
+ | ┗━志計子 | ||
+ | ┣━━━━━━━佳代子 | ||
+ | 宮本氏 ┣━━━━━┳━小泉孝太郎 | ||
+ | ┏━小泉純一郎 ┣━小泉進次郎 | ||
+ | 鮫島氏━━━━━小泉純也 ┃ ┗━男 | ||
+ | ┣━━━━━┫ | ||
+ | 小泉又次郎━━━芳江 ┗━小泉正也 | ||
+ | ┃ | ||
+ | ┏━石田重蔵━━━━石田吉之輔━━━美枝子 | ||
+ | ┗━石田光治━━━━典子 | ||
+ | ┣━━━━━┳━石原伸晃 | ||
+ | ┏━石原慎太郎 ┣━石原良純 | ||
+ | ┗━石原裕次郎 ┣━石原宏高 | ||
+ | ┗━石原延啓 | ||
+ | </pre> | ||
+ | |||
+ | == 年譜 == | ||
+ | * [[1942年]][[1月8日]] - [[神奈川県]][[横須賀市]]に父・[[小泉純也|純也]]、母・芳江の長男として出生。 | ||
+ | * [[1960年]][[3月]] - [[神奈川県立横須賀高等学校]]卒業。 | ||
+ | * [[1967年]] - [[慶應義塾大学]]経済学部卒業。[[ロンドン大学]][[留学]]([[1964年]]の説もある)<ref>慶應で同級だった学者の[[栗本慎一郎]]は「パンツをはいた純一郎」の中で「みんなから浮いているのではなくて、沈んでいるんです。友人から無視されるような存在でした。おそらく、高校時代も同じでしょう。その社会性の欠如とそこから来る孤独感が彼の奇矯な政治行動の原点だと思います。…彼とは2年間、同じクラスでした。というのも、彼は単位が足りなくて3年に上がれず、そのままロンドンに留学したからです。もっとも、私らは誰も気づきませんでした。クラス委員の私にも届けがなかったし、彼は2年の後半は大学に来ていなかったので、誰もいなくなったことに気づかなかったくらいです。一人寂しくロンドンに旅立ったわけです。」と述べている。栗本の証言が正しければ、1963年に留学したことになる。同級生たちはみな1963年渡欧と思っているという</ref>。実父の急死で[[1969年]]8月帰国。 | ||
+ | |||
+ | === 政歴 === | ||
+ | * [[1969年]][[12月27日]] - [[第32回衆議院議員総選挙]]に[[自由民主党_(日本)|自由民主党]]公認で立候補するも落選 | ||
+ | * [[1970年]] - 衆議院議員[[福田赳夫]](後に首相)の[[書生]]となる。同い年の同僚に[[佐藤静雄_(衆議院議員)|佐藤静雄]] | ||
+ | * [[1972年]][[12月10日]] - [[第33回衆議院議員総選挙]]において自民党公認で'''衆議院議員'''に初当選、以後連続当選。[[飯島勲]]が[[秘書]]となり、二人三脚で進む。 | ||
+ | * [[1979年]]11月 - 大蔵[[政務次官]]に就任([[第2次大平内閣]]) | ||
+ | * [[1988年]]12月 - 厚生大臣に就任([[竹下内閣改造内閣]]) | ||
+ | * [[1992年]]12月 - 郵政大臣に就任([[宮澤内閣改造内閣]]) | ||
+ | * [[1995年]]9月 - [[自民党総裁選]]に出馬。[[橋本龍太郎]]に敗れる。 | ||
+ | * [[1996年]]11月 - 厚生大臣に就任([[第2次橋本内閣]]) | ||
+ | * [[1998年]]7月 - 自民党総裁選に出馬。[[小渕恵三]]に敗れる。 | ||
+ | * [[2000年]]4月 - [[森喜朗]]の首相就任により、[[清和会]](森派)会長に就任 | ||
+ | * [[2001年]][[4月24日]] - 3度目の挑戦で、自民党総裁に選出 | ||
+ | * 2001年[[4月26日]] - '''第87代[[内閣総理大臣]]に就任'''([[小泉内閣|第1次小泉内閣]]) | ||
+ | * 2001年[[8月13日]] - [[首相]]就任後初の[[靖国神社]]参拝 | ||
+ | * 2001年11月 - テロ対策特別措置法を公布 | ||
+ | * [[2002年]][[1月29日]]、[[田中眞紀子]]外務大臣を更迭。[[1月31日]]まで外務大臣を兼務。[[2月1日]]から[[川口順子]]環境大臣に交代 | ||
+ | * 2002年[[9月17日]] - [[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]の[[平壌]]で[[金正日]]総書記と初の[[日朝首脳会談]]、[[日朝平壌宣言]]に調印 | ||
+ | * 2002年[[9月30日]] - [[小泉改造内閣]]発足 | ||
+ | * 2002年[[10月15日]] - 北朝鮮の日本人拉致被害者5人帰国 | ||
+ | * [[2003年]][[1月]] - [[ロシア連邦]]を訪問 | ||
+ | * 2003年[[6月]] - [[有事法制|有事関連3法]]を公布 | ||
+ | * 2003年[[8月]] - [[イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法|イラク特措法]]を公布 | ||
+ | * 2003年[[9月20日]] - [[小泉再改造内閣]]発足 | ||
+ | * 2003年[[11月19日]] - '''第88代[[内閣総理大臣]]に就任'''([[第2次小泉内閣]]) | ||
+ | * [[2004年]][[1月]] - [[自衛隊]]の[[イラク]]、[[サマワ]]への出兵を命令 | ||
+ | * 2004年4月 - [[イラク日本人人質事件]]。武装集団が「イラクからの自衛隊の撤退」を要求するも拒否。人質3人は後に解放。さらに2人が拉致され後に解放される。 | ||
+ | * 2004年[[5月22日]] - 再訪朝し平壌で金正日総書記と会談。北朝鮮に対する25万トンの食糧及び1000万ドル相当の医療品の支援を表明し、日朝国交正常化を前進させると発表。5人の拉致被害者の家族の帰国を実現。このとき反対派から[[小泉訪朝における空白の10分間事件|デマ]]報道で攻撃されている。 | ||
+ | * 2004年[[5月28日]] - [[朝鮮総聯]]第20回全体大会に対して歴代首相、自民党総裁として初めて祝辞を贈った。 | ||
+ | * 2004年7月、[[第20回参議院議員通常選挙]]で[[自由民主党 (日本)|自民党]]が[[民主党 (1996-)|民主党]]に僅差で敗れる。 | ||
+ | * 2004年[[9月27日]] - [[第2次小泉改造内閣]]発足 | ||
+ | * 2004年10月 - [[イラク日本人青年殺害事件]]。イラク聖戦[[アルカーイダ]]が「イラクからの自衛隊の撤退」を要求するも拒否。人質は殺害された。 | ||
+ | * [[2005年]][[3月27日]] - [[フランス]]の[[ジャック・シラク]]大統領と首脳会談 | ||
+ | * 2005年[[4月23日]] - [[中国]]の[[胡錦涛]]国家主席と首脳会談 | ||
+ | * 2005年[[4月26日]] - 旧[[首相官邸]]を改築した新公邸に転居 | ||
+ | * 2005年[[7月5日]] - 郵政民営化関連法案が[[衆議院]]本会議で可決 | ||
+ | * 2005年[[8月8日]] - 郵政民営化関連法案が[[参議院]]本会議で否決。[[衆議院解散]]を閣議決定し、署名を拒否した[[島村宣伸]][[農林水産大臣]]を罷免し自ら兼務。同日、憲法7条に基づき衆議院を解散。この解散を「[[郵政解散]]」と命名 | ||
+ | * 2005年[[8月11日]] - 兼務していた農林水産大臣の後任に[[岩永峯一]]起用 | ||
+ | * 2005年[[8月15日]] - 1995年に発表された[[戦後50周年の終戦記念日にあたっての村山首相談話]]を踏襲した首相談話を発表し、[[第二次世界大戦]]中に行われた日本のアジア諸国に対する侵略と植民地支配を謝罪 | ||
+ | * 2005年[[9月11日]] - [[第44回衆議院議員総選挙]]において[[自由民主党]]だけで296議席、与党で327議席の大勝 | ||
+ | * 2005年[[9月21日]] - '''第89代[[内閣総理大臣]]に就任'''([[第3次小泉内閣]]) | ||
+ | * 2005年[[10月14日]] - 特別国会に再提出された[[郵政民営化]]法案が衆参両院の可決を経て成立 | ||
+ | * 2005年[[10月31日]] - [[第3次小泉改造内閣]]発足 | ||
+ | * 2006年6月-政権最後となる訪米を実施。ブッシュ大統領よりテネシー州のエルヴィス私邸を公務として訪問。実質これが首相としての「卒業旅行」 | ||
+ | * 2006年[[7月15日]] - ロシア[[サンクトペテルブルグ]]サミットに[[G8]]各国首脳と共に参加。 | ||
+ | * 2006年[[7月25日]] - [[野口英世アフリカ賞]]の創設を正式に発表。 | ||
+ | * 2006年[[8月15日]] - [[終戦記念日]]に[[靖国神社]]へ参拝 | ||
+ | * 2006年[[9月21日]] - 自民党総裁任期満了 | ||
+ | * 2006年[[9月26日]] - 小泉内閣が[[総辞職]]。[[内閣総理大臣]]を退任 | ||
+ | * 2006年[[12月15日]] - 自民党の国会議員らで作る「改革加速議員連盟」の顧問に就任。 | ||
+ | * [[2007年]][[9月13日]] - [[飯島勲]]が辞表提出。 | ||
+ | * [[2008年]][[9月25日]] - [[第45回衆議院議員総選挙|次期総選挙]]に出馬せず、政界引退を表明。 | ||
+ | * [[2009年]][[7月21日]] - [[衆議院解散]]により議員の地位を失い政界引退。 | ||
+ | |||
+ | == テレビ番組 == | ||
+ | * [[アンテナ22]]特別編 [内閣総理大臣小泉純一郎 歴史に残る2000日 5つの謎を解く]([[岩城滉一]]が、小泉を演じた。) | ||
+ | * 独占取材! 今明かす 小泉純一郎の「正体」([[フジテレビジョン|フジテレビ]]の特別番組) | ||
+ | * ザ・決断!世紀の決戦 | ||
+ | |||
+ | == 著書 == | ||
+ | * 『[[公職選挙法|選挙法]]改正について各党の意見をきく(上)』(討論集会シリーズ No.21)(小泉純一郎、[[山田芳治]]、[[内藤功]] 共著、[[尾崎行雄]]記念[[財団]]、[[1975年]]) | ||
+ | * 『[[郵政省]]解体論―「[[マルチメディア]][[利権]]」の読み方』(小泉純一郎、[[梶原一明]] 共著、[[光文社]]、[[1994年]])ISBN 4-334-01291-4 | ||
+ | * 『[[官僚]][[王国]]解体論―[[日本]]の危機を救う法』([[光文社]]、[[1996年]])ISBN 4-334-05234-7 | ||
+ | * 『小泉純一郎の[[暴論]]・青論―[[政界]]の[[イチロー]]が語る、[[痛快]][[本音]][[エッセイ]]』([[集英社]]、[[1997年]])ISBN 4-08-780251-5 | ||
+ | * 『[[日本政治]]の過去・現在・未来―[[慶應義塾大学]][[法学部]][[政治]]学科開設百年記念[[講座]]』([[小林良彰]]編集、[[慶應義塾大学出版会]]、[[1999年]])ISBN 4-7664-0743-1 | ||
+ | * 『[[郵政民営化]]論―[[日本]]再生の大[[改革]]!』(小泉純一郎、[[松沢成文|松沢しげふみ]] 共著、[[PHP研究所]]、[[1999年]])ISBN 4-569-60916-3 | ||
+ | * 『コイズム』(小泉純一郎・著、[[業田良家]]・画、[[メディアレブ]]、[[2001年]])ISBN 4-944182-11-2 | ||
+ | * 『第30回[[シンポジウム]]「[[構造改革]]の加速」記録』([[21世紀政策研究所]]、[[2003年]]) | ||
+ | * 『決断!あの時私はこうした―[[自由民主党 (日本)|自民党]][[内閣総理大臣|総理]]・[[総裁]]・[[官房長官]]が語る』(自由民主党編集、[中央公論事業出版]、[[2006年]])ISBN 4-89514-275-2 | ||
+ | * 『小泉純一郎です。―「[[らいおんはーと]]」で読む、[[小泉政権]]の5年間』(小泉純一郎[他]共著、[[時事画報社]]、[[2006年]])ISBN 4-915208-12-5 | ||
+ | * 『[[自由民主党 (日本)|自民党]]の底力』(小泉純一郎[他]共著、[[成甲書房]]、[[2007年]])ISBN 978-4-88086-214-9 | ||
+ | |||
+ | == 参考文献 == | ||
+ | * [[鴨志田孝一]] 『Koizumi 小泉純一郎写真集』 [[双葉社]]、ISBN 4-575-29294-X | ||
+ | * 小泉純一郎&[[デイヴィッド・セイン]]、『断行 Lion heart アメリカ人の目が見た小泉純一郎語録 全英訳付』[[三修社]]、ISBN 4-384-02651-X | ||
+ | * [[涛川栄太]] 『小泉純一郎を読み解く15章』 [[文芸社]]、ISBN 4-8355-2514-0 | ||
+ | * [[大下英治]] 『小説小泉純一郎 信を貫いて恐れず』 [[幻冬舎]]、ISBN 4-344-00097-8 | ||
+ | * [[飯島勲]] 『代議士秘書 永田町、笑っちゃうけどホントの話』 [[講談社]]、ISBN 4-06-273095-2 | ||
+ | * 小泉純一郎&[[業田良家]]、 『コイズム』 [[メディアレブ]]、ISBN 4-944182-11-2 | ||
+ | * [[上之郷利昭]] 『小泉純一郎の痛快語録』 [[ぱる出版]]、ISBN 4-89386-878-0 | ||
+ | * 小泉純一郎 『小泉純一郎の暴論・青論』 [[集英社]]、ISBN 4-08-780251-5 | ||
+ | * [[緒方邦彦]] 『小泉純一郎革命 変人宰相は日本をどう変えるのか』 [[イースト・プレス]]、ISBN 4-87257-259-9 | ||
+ | * [[花岡信昭]] 『小泉純一郎は日本を救えるか』 [[PHP研究所]]、ISBN 4-569-61800-6 | ||
+ | * [[浅川博忠]] 『人間小泉純一郎 三代にわたる「変革」の血』 [[講談社]]、ISBN 4-06-273218-1 | ||
+ | * 小泉純一郎、 [[TBSブリタニカ編集部]]、[[阪急コミュニケーションズ]] 『万機公論に決すべし 小泉純一郎首相の「所信表明演説」』 ISBN 4-484-01214-6 | ||
+ | * [[鈴木棟一]]、 『小泉は日本を変えられるか 永田町の暗闘』 [[ダイヤモンド社]]、ISBN 4-478-18030-X | ||
+ | * [[読売新聞]]政治部 『小泉革命 自民党は生き残るか』 [[中央公論新社]]、ISBN 4-12-150010-5 | ||
+ | * [[新川典弘]]&スタッフ 『小泉さんに学ぶスーパー世渡り術』 [[徳間書店]]、ISBN 4-19-892114-8 | ||
+ | * [[榊原英資]]&[[櫻井よし子]]&[[福田和也]]&[[舛添要一]]&[[松野頼三]]、『変人内閣 全閣僚を採点する』『[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]』[[2003年]][[9月]]号) | ||
+ | * [[柳田邦男]]、「『精密検証「小泉以前」と「小泉以後」』『文藝春秋』2003年[[11月]]号 | ||
+ | * [[屋山太郎]] 『日本再生への道筋をつけた男 小泉純一郎宰相論』 [[海竜社]] | ||
+ | * [[清水真人]] 『官邸主導―小泉純一郎の革命』 [[日本経済新聞社]] | ||
+ | * [[瀧澤中]] 『狂気のリーダー学 小泉純一郎強さの秘密』 [[ぶんか社]] | ||
+ | * サミュエル・ライダー著 『[[トラ・トラ・ライオン]]』 | ||
+ | * [[平野貞夫]] 『亡国 {{Small|民衆狂乱「小泉ええじゃないか」}}』 展望社 2005年 | ||
+ | * [[藤原肇]] 『小泉純一郎と日本の病理』 光文社 2005年 | ||
+ | * 岩崎大輔 『ダークサイド・オブ・小泉純一郎』 洋泉社 2006年 | ||
+ | * 梅田功 『変革者 小泉家の3人の男たち』 角川書店 2001年 | ||
+ | * 『財界家系譜大観 第一版』 常盤書院 1972年 | ||
+ | * [[宮崎学]] 『[[ヤクザ]]と日本―近代の無頼』筑摩書房、2008年 | ||
+ | |||
+ | == 脚注 == | ||
+ | {{Reflist}} | ||
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+ | == 関連項目 == | ||
+ | <div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;"> | ||
+ | * [[小泉純一郎政権|各内閣]] | ||
+ | ** [[第1次小泉内閣|小泉内閣]] | ||
+ | ** [[小泉改造内閣]] | ||
+ | ** [[小泉再改造内閣]] | ||
+ | ** [[第2次小泉内閣]] | ||
+ | ** [[第2次小泉改造内閣]] | ||
+ | ** [[第3次小泉内閣]] | ||
+ | ** [[第3次小泉改造内閣]] | ||
+ | * [[小泉内閣メールマガジン]] | ||
+ | * [[小泉総理 ラジオで語る]] | ||
+ | * [[吉田茂]] | ||
+ | * [[YKK (政治同盟)]] | ||
+ | </div><div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;"> | ||
+ | * [[日米同盟]] | ||
+ | * [[親米]] | ||
+ | * [[中曽根康弘]] | ||
+ | * [[キャンプ・デービッド]] | ||
+ | * [[新自由主義]] | ||
+ | * [[市場原理主義]] | ||
+ | * [[米百俵]] | ||
+ | * [[格差社会]] | ||
+ | * [[少子化#日本の少子化|少子化]] | ||
+ | * [[待ち組]] | ||
+ | * [[ネットカフェ難民]] | ||
+ | </div><div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;"> | ||
+ | * [[靖国神社問題#小泉首相参拝訴訟|靖国問題]] | ||
+ | * [[聖域なき構造改革]] | ||
+ | * [[郵政解散]] | ||
+ | * [[小泉劇場]] | ||
+ | ** [[B層]] | ||
+ | * [[小泉旋風]] | ||
+ | * [[稲川会]] | ||
+ | * [[佐川急便]] | ||
+ | * [[小泉組 (請負業)]] | ||
+ | * [[石原プロモーション|石原軍団]] | ||
+ | * [[チーム世耕]] | ||
+ | * [[小泉チルドレン]] | ||
+ | </div><div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;"> | ||
+ | * [[北条時宗 (NHK大河ドラマ)]] | ||
+ | * [[アメリカ同時多発テロ事件]] | ||
+ | * [[石原慎太郎]] | ||
+ | * [[北朝鮮による日本人拉致問題|北朝鮮拉致問題]] | ||
+ | * [[ミサイル防衛#日本版ミサイル防衛|ミサイル防衛]] | ||
+ | * [[飯島勲]] | ||
+ | * [[テリー伊藤]] | ||
+ | * [[橋下徹|橋下劇場]] | ||
+ | * [[泰道グループ]] | ||
+ | * [[e-Japan#e-Japan戦略|e-Japan戦略]] | ||
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+ | [[Category:☁]] |
2020年3月28日 (土) 21:44時点における最新版
小泉 純一郎 (こいずみ じゅんいちろう)
| |
在任期間 | 2001年4月26日 - 2006年9月26日 |
生没年月日 | 1942年(昭和17年)1月8日
- |
出生地 | 神奈川県横須賀市 |
出身校 | 慶應義塾大学 ロンドン大学(留学) |
学位・資格 | 経済学士 |
前職 | 厚生大臣 自由民主党総裁 |
世襲の有無 | 3世 祖父・小泉又次郎(衆議院議員) 父・小泉純也(衆議院議員) |
選挙区 | 衆院神奈川11区 |
当選回数 | 衆12回 |
党派 | 自由民主党 |
花押 | |
小泉 純一郎(こいずみ じゅんいちろう、1942年1月8日 - )は、日本の政治家。元衆議院議員。内閣総理大臣(第87代・第88代・第89代)。
内閣総理大臣の在任期間は1,980日と、第二次世界大戦後の内閣総理大臣としては佐藤栄作、吉田茂に次ぐ第3位。他に国務大臣として厚生大臣、郵政大臣等を歴任。
祖父、父に続く3世の世襲政治家でもある。
目次
経歴[編集]
出生から初当選まで[編集]
1942年、神奈川県横須賀市に政治家小泉純也と芳江の長男として出生。母方の祖父小泉又次郎は第2次若槻内閣で逓信大臣を務め、若い頃に全身に「昇り龍」の入れ墨を彫っていたことから、“いれずみ大臣”“いれずみの又さん”などの異名で知られる大衆政治家だった[1]。父純也は戦後に一時公職追放となるが、政界復帰して防衛庁長官を務めた。
神奈川県立横須賀高等学校、慶應義塾大学経済学部を卒業して、ロンドン大学に遊学(公式プロフィールでは留学とされているが、実際は聴講生で単位取得はなし)。1969年8月に父が急死したため帰国。
同年12月、亡き父の跡を継ぎ、弔い選挙となった第32回衆議院議員総選挙に自由民主党公認で立候補し、10万3000票余りを獲得するが、4000票差で落選した。
1970年より、福田赳夫の書生を務め、後に総理となる福田から政治家としての薫陶を受けた。
1972年12月、第33回衆議院議員総選挙で自民党公認として立候補し、12万2000票余りを獲得し初当選。清和会(福田派)に属し、後に首相秘書官となる飯島勲が秘書となった。また、同期の山崎拓・加藤紘一と懇意になり、YKKと呼ばれることとなる。
衆議院議員[編集]
1979年、第2次大平内閣で大蔵政務次官に就任し、この在任中に政治家としてのライフワークとなる郵政三事業(郵便・簡易生命保険・郵便貯金)の民営化を持論としたといわれる要出典。
大蔵・厚生族議員として地歩を築き、政策通で知られたが、子分を作らない一匹狼的な行動をとり、言いたいことを直言し、与野党政治家の既得権益を害する郵政民営化論を主張することもあって永田町では「変人」と評されるようになる。
1978年に福田赳夫夫妻を媒酌人にエスエス製薬の元会長泰道照山の孫宮本佳代子と結婚し[2]、その間に3人の子供をもうけたが、1982年に離婚[3]。「離婚するのは、結婚の10倍のエネルギーが必要だ」として、以後は独身を通している(家族構成を参照)。
1988年、竹下内閣改造内閣で厚生大臣として初入閣し、就任早々に厚生年金支給年齢を60歳から65歳に引き上げた。
1989年にリクルート事件で竹下政権が倒れ、続く宇野政権も参院選で惨敗し、わずか2か月で退陣した。政治不信が高まり、政治改革の柱として、衆議院議員の選挙制度をそれまでの中選挙区制から小選挙区を軸とした制度への選挙制度改革が叫ばれ、このとき小選挙区制の導入に強硬に反対したことから、推進派の羽田孜と対立した。
1991年、自民党総裁選で再選を目指し、最大派閥の経世会(竹下派)の支持を受けた海部俊樹(首相)に対抗し、盟友の山崎拓(渡辺派)・加藤紘一(宮沢派)と組んで、海部続投阻止・経世会支配打倒を打ち上げた。所属する三塚派のほか、渡辺派・宮沢派の反主流派が結束したため、もともと弱体だった海部の指導力は機能不全に陥った。懸案の政治改革三法案が廃案になったことで海部は解散に打って出ようとするが、それもできず遂に総裁選不出馬に追い込まれた。
代って宮澤喜一が総理に就任し、1992年の宮澤内閣改造内閣で郵政大臣に就任する。就任の会見で、かねてからの持論の郵政民営化論に基づき、国は民間では採算の採れないことだけをすべきとして、老人マル優限度額引き上げなど従来の郵貯事業拡張政策の見直しを唱えたが、この老人マル優限度額引き上げ見直しは反対派議員(郵政族)等の反発で失敗に終わった。
国連カンボジア暫定機構(UNTAC、United Nations Transitional Authority in Cambodia)に派遣されていた日本の文民警察官が武装グループに襲撃され、1人が死亡、4人が重軽傷を負う事件が起こった際には、宮沢改造内閣の郵政相として閣議の席で、「血を流してまで貢献しろ、ということでは無い。金やものでの貢献ではいけないということから、汗を流そうということだ」[4]、「カンボジアは実質内戦に近い状態にあり、事実上危険な状態であれば、PKOの引き揚げも今後の選択肢に入れるべきだ」[5]等と語り、自衛隊カンボジア派遣に異議を唱えた。
また、この死傷事件をきっかけにタケオ州に駐在する自衛隊施設大隊が選挙監視要員を支援することにした政府決定についても異議を唱えている[6]。さらに、5月18日の閣議でも「日本独自の判断で文民警察官をより安全な場所に移動させよ」「政府は国会でいってきたこと、国民に約束したことを尊重すべきだ」とした[7]。
1993年、羽田孜・小沢一郎ら羽田派(改革フォーラム21)らの賛成もあって、宮澤内閣へ不信任決議が可決され、第40回衆議院議員総選挙で自民党は過半数を割った。小泉は、宮澤の責任や退陣を閣僚懇談会でも要求し、郵政大臣を辞職した。なお、総選挙後に日本新党の細川護熙を首班とする連立政権が成立、自民党は野党に転落した。なお、宮澤の後任となる自民党総裁には河野洋平が就任した。
総裁選への挑戦[編集]
1994年、社会党委員長の村山富市を首班とする自社さ連立政権で自民党は政権に復帰し、野中広務らの平成研究会(旧竹下派)が主導的な力を持つようになった。
1995年の参議院議員選挙で自民党は新進党に敗北、河野は続投を望んだが、平成研究会は政策通で人気のある橋本龍太郎を擁立した。小泉らの清和会は河野を支持したが、情勢不利を悟った河野が出馬断念を表明したことで、橋本の総裁就任は確実になった。無投票で総裁が決まることを阻止したい小泉らは森喜朗(清和会)擁立を図るが森が辞退したため、結局、小泉が自ら出馬することを決めた。
すでに大勢が決していた上に、郵政民営化を主張する小泉は党内で反発を買っており、出馬に必要な推薦人30人を集めることができたことがニュースになる有り様だった。それでも若手議員のグループが小泉を推し、その中に後に総理になる安倍晋三がいた。結果は橋本の圧勝に終わったが、総裁選出馬により郵政民営化論を世間にアピールして存在感を示すことはできた。
1996年に村山が首相を辞任し、橋本内閣が成立した。小泉は第2次橋本内閣で再び厚生大臣に就任する。小泉は相変わらず自説を曲げず「郵政民営化できなければ大臣を辞める」と発言、国会答弁で「新進党が郵政三事業民営化法案を出したら賛成する」と郵政民営化を主張したときは、与党から野次を受け、逆に野党から拍手を受けることもあった。また、同年、在職25年を迎えたが永年在職表彰を辞退した。
1998年の参議院議員選挙、自民党は大敗を喫し、橋本は総理大臣を辞任した。後継として、小渕恵三、梶山静六と共に小泉も立候補したが、盟友の山崎・加藤の支持も取り付けられず、自身の清和会すらも固めることはできず最下位に終わった(総裁には小渕が選出)。
加藤の乱[編集]
2000年、小渕が急死し、党内実力者の青木幹雄、野中広務らの支持により幹事長だった森喜朗が総理・総裁に就任。小泉は清和政策研究会(森派)の会長に就任した。
この総理就任の経緯は密室談合と非難され、森の旧来政治家的なイメージも相まって人気がなく、その上に失言が次々とマスコミに大きく取り上げられ、支持率は急落した。2000年11月には遂に18.4%を記録する。これに危機感を抱いた反主流派の加藤紘一・山崎拓は、公然と森総理退陣を要求し始めた。加藤と山崎は、自派を率いて、野党の提出する内閣不信任案に同調する動きを見せた。一方、森派の会長だった小泉は、森総理支持の立場を明確にした。小泉は、いわゆる加藤の乱と呼ばれる動きを察知するや、党の内外に加藤・山崎の造反を真っ先に触れ回った。
加藤は、マスコミに積極的に登場して自説を主張し、普及し始めたインターネットを通じて世論の支持を受けた。だが、小泉ら主流派は猛烈な切り崩し工作を行い、加藤派(宏池会)が分裂して可決の見通しは全くなくなり、加藤・山崎は内閣不信任案への賛成を断念した。これにより、総理候補と目された加藤は、大きな打撃を受け小派閥に転落、一方、森派の顔として活躍した小泉は党内での評価を上げた。
政争を乗り切った森政権だが、相変わらず支持率は低迷。2001年2月に森は首相を退陣した。
小泉旋風[編集]
詳細は小泉旋風を参照
森の退陣を受けた2001年4月の自民党総裁選で、橋本龍太郎、麻生太郎、亀井静香と共に。清新なイメージで人気があった小泉への待望論もあり、今回は森派・加藤派・山崎派の支持を固めて出馬した。小泉は主婦層を中心に大衆に人気のあった田中眞紀子(田中角栄の長女)の協力を受けた。
最大派閥の橋本の勝利が有力視されたが、小泉が一般党員を対象とした予備選で眞紀子とともに派手な選挙戦を展開した。小泉は「自民党をぶっ壊す!」「私の政策を批判する者はすべて抵抗勢力」と熱弁を振るい、街頭演説では数万の観衆が押し寄せ、閉塞した状況に変化を渇望していた大衆の圧倒的な支持を得て、小泉旋風と呼ばれる現象を引き起こす。小泉は予備選で地滑り的大勝をし、4月24日の議員による本選挙でも圧勝して、自民党総裁に選出された。4月26日の首班指名で第87代内閣総理大臣に就任した。
内閣総理大臣[編集]
内閣総理大臣に就任した小泉は、組閣にあたっては、慣例となっていた派閥の推薦を一切受け付けず、閣僚・党人事を全て自分で決め、「官邸主導」「総理支配」と呼ばれる流れを作った。山崎拓を幹事長に起用する一方で、最大派閥の平成研究会からは誰も党三役に起用しなかった。人気のある石原伸晃を行政改革担当大臣に、民間から経済学者の竹中平蔵を経済財政政策担当大臣に起用した。また、総裁選の功労者の田中眞紀子は外務大臣に任命された。5人の女性が閣僚に任命された(第1次小泉内閣)。
「構造改革なくして景気回復なし」をスローガンに、道路関係四公団・石油公団・住宅金融公庫など特殊法人の民営化など小さな政府を目指す改革(「官から民へ」)と、国と地方の三位一体の改革(「中央から地方へ」)を含む「聖域なき構造改革」を打ち出し、とりわけ持論である郵政三事業の民営化を「改革の本丸」に位置付けた。特殊法人の民営化には族議員を中心とした反発を受けた。
発足時の小泉内閣の支持率は、87.1%(読売新聞社調べ)と空前の高い率を記録した。「小泉内閣メールマガジン」を発行し、登録者が200万人に及んだことも話題となった。この小泉人気に乗るかたちで同年7月の参議院議員選挙で自民党は大勝した。
終戦の日の8月15日に靖国神社参拝をすることを、小泉は総裁選時に公約としていた。総理の靖国神社参拝は中国・韓国の反発に配慮して長年行われていなかった。小泉は、批判に一定の配慮を示し、公約の8月15日ではなく13日に靖国神社参拝を行った。以後も毎年、日や形式を変えつつも参拝を行った。中国・韓国はこれに強く反発し、首脳の相互訪問が途絶えるなど、中韓との関係は冷え切った。
9月11日、米同時多発テロの発生を受けて、ブッシュ大統領の「テロとの戦い」を支持した。米軍らのアフガニスタン侵攻を支援するテロ対策特別措置法を成立させ、海上自衛隊を米軍らの後方支援に出動させた。宮沢改造内閣の閣議での発言を翻すものであった。
国際情勢が緊迫する中、外務省機密費流用事件などで世論の批判を受けていた外務省は、田中外相が外務官僚や外交族の鈴木宗男と衝突し、スキャンダルの暴露が応酬されるなど機能不全に陥っていた。当初は、混乱を他人事のように語っていた小泉も、2002年2月には遂に田中真紀子を外相から更迭した。人気のあった田中の更迭により小泉内閣の支持率は急落した。なお、田中は8月に秘書給与疑惑が浮上して議員辞職した。
「政治とカネ」のスキャンダルの連発で支持率を落とした小泉だが、2002年9月に電撃的に北朝鮮を訪問して、金正日総書記と初の日朝首脳会談を実現し、日朝平壌宣言に調印した。この訪問で金正日は北朝鮮による日本人拉致を公式に認め、5人の拉致被害者を帰国させた。ところが、8人死亡・1人行方不明とする北朝鮮の回答が不十分なものであり、拉致被害者の家族の帰国が拒まれるなどで、関係者を中心に不満が噴出し、世論も北朝鮮に対して強く反発を見せた。国交正常化交渉は頓挫し、北朝鮮との外交問題は小泉政権を通しての懸案となったが、拉致被害者が帰国したことで一定の成果は上げたとして小泉の支持率はまた上昇に転じた。
2002年9月30日、小泉改造内閣が発足。柳沢伯夫を金融大臣から更迭して、竹中平蔵に兼務させた。これにより、以後は不良債権処理の強硬策を主張する竹中が小泉政権の経済政策を主導した。
2003年3月、アメリカはイラクへ侵攻してフセイン政権を打倒した。小泉は開戦前からアメリカ支持を表明したことで、アメリカ追従外交として野党やマスコミの一部から批判を受けた。日米同盟こそが外交の基軸とのスタンスを崩さず、ブッシュ大統領との蜜月関係を守った。イラク戦後復興支援のための陸上自衛隊派遣が喫緊の課題となり、7月にイラク特措法を成立させた。これに先立つ6月には、長年の安全保障上の懸案だった有事関連三法案(有事法制)を成立させている。
9月に行われた自民党総裁選で平成研究会は藤井孝男元運輸大臣を擁立して小泉降ろしを図ったが、自民党参議院幹事長であった青木幹雄がこれに与せず、藤井は大敗。藤井擁立の中心となった野中広務は10月に政界を引退した。平成研究会(旧経世会)の凋落を示す事件で、清和政策研究会(森派)が党の主導権を掌握することになる。
2003年9月、自民党総裁選で再選された小泉は小泉再改造内閣発足させ、党人事では当選わずか3回の安倍晋三を幹事長に起用する異例の人事を行い、11月の総選挙では絶対安定多数の確保に成功。閣僚を留任させた第2次小泉内閣が発足した。
2004年1月、陸上自衛隊をイラク南部のサマーワへ派遣した。しかし、4月に武装集団がイラクにいた日本人を拉致して「イラクからの自衛隊の撤退」を要求する事件が起きた(イラク日本人人質事件)。小泉は「テロには屈しない」とこれを明確に拒否。人質3人は後に解放された(但し小泉の強硬姿勢が功を奏したわけではなく、地元部族長の仲介によるもの)。さらに2人が拉致され後に解放される。
2004年5月、小泉は再び北朝鮮を訪問、平壌で金正日総書記と会談した。北朝鮮に対する25万トンの食糧や1000万ドル相当の医療品の支援を表明し、日朝国交正常化を前進させると発表した。これに伴い、5人の拉致被害者の子供の帰国を実現した。その後の北朝鮮の対応はおよそ日本の世論を納得させるものではなく、火に油を注ぐ格好になり、日朝国交正常化交渉は再び暗礁に乗り上げ、その後、北朝鮮は日本を無視。小泉はアメリカとの連係を強化して「対話と圧力」の姿勢を維持した。
2004年7月、第20回参議院議員通常選挙で自民党が改選議席数割れになり、安倍が幹事長を辞任、武部勤が後任の幹事長となった。
破綻しかけている年金制度の改革が国民の重大な関心事となっており、6月に年金改革法を成立させるが、抜本的な改革には程遠いものだった。小泉の最大の関心は長年の持論の郵政民営化にあった。参院選を終えたことで小泉は郵政民営化に本格的に乗り出し、2004年9月に第2次小泉改造内閣を発足させ、竹中を郵政民営化担当大臣に任命した。「基本方針」を策定して、郵政民営化を最優先事項とした。
2005年6月、国民保護法が成立し、国と地方自治体の武力攻撃に対する対処法が定められた。
小泉劇場[編集]
詳細は小泉劇場を参照
2005年、小泉が「改革の本丸」に位置付ける郵政民営化関連法案は、党内から反対が続出して紛糾した。小泉は一歩も引かぬ姿勢を示し、党内調整は難航する。反対派は亀井静香、平沼赳夫が中心となり長老の綿貫民輔を旗頭に100人近い議員を集めて気勢を上げた。法案を審理する党総務会は亀井ら反対派の反発で紛糾し、遂に小泉支持派は総務会での全会一致の慣例を破って多数決で強行突破した。これに反対派は猛反発する。ここにおいて、事態は郵政民営化関連法案を巡る小泉と亀井・平沼ら反対派との政争と化した。
衆議院本会議における採決で、反対派は反対票を投じる構えを見せ、両派による猛烈な切り崩し合戦が行われた。7月5日の採決では賛成233票、反対228票で辛うじて可決されたが、亀井、平沼をはじめ37人が反対票を投じた。参議院では与野党の議席差が少なく、亀井は否決への自信を示した。小泉は法案が否決されれば直ちに解散すると表明するが、亀井ら民営化反対派は、衆院解散発言は単なる牽制であり、そんな無茶はできまいと高をくくっていた。
2005年8月8日、参議院本会議の採決で自民党議員22人が反対票を投じ、賛成108票、反対125票で郵政民営化関連法案は否決された。小泉は即座に衆議院解散に踏み切り、署名を最後まで拒否した島村宣伸農林水産大臣を罷免、自ら兼務して解散を閣議決定し、同日小泉は、憲法第7条に基づき衆議院解散を強行した。
小泉は、法案に反対した議員全員に自民党の公認を与えず、その選挙区には自民党公認の「刺客」候補を落下傘的に送り込む戦術を展開。小泉は自らこの解散を「郵政解散」と命名し、郵政民営化の賛否を問う選挙とすることを明確にし、反対派を「抵抗勢力」とするイメージ戦略に成功。また、マスコミ報道を利用した劇場型政治は、都市部の大衆に受け、政治に関心がない層を投票場へ動員することに成功した。それにより9月11日の投票の結果は高い投票率を記録し、自民党だけで296議席、公明党と併せた与党で327の議席を獲得した。この選挙はマスコミにより「小泉劇場」と呼ばれることになる。
2005年9月21日、小泉は圧倒的多数で首班指名を受け、第89代内閣総理大臣に就任する。10月14日 の特別国会に再提出された郵政民営化関連法案は、衆参両院の可決を経て成立した。この採決で、かつて反対票を投じた議員の大多数が賛成に回った。これにより小泉の長年の悲願はようやく実現された。
ポスト小泉[編集]
詳細は麻垣康三を参照
2005年10月、第3次小泉改造内閣が発足。ポスト小泉と目される麻生太郎が外務大臣に、谷垣禎一が財務大臣に、安倍晋三が内閣官房長官に起用された。
8月15日の終戦記念日に小泉は最初の総裁選の公約を果たして靖国神社へ参拝した。
2006年9月20日の自民党総裁選では、選挙前から確実視された安倍晋三が後継に選ばれる。翌9月21日 に小泉の自民党総裁任期は満了し、9月26日に小泉内閣は総辞職して内閣総理大臣を退任した。新総理には安倍晋三が指名された。任期満了による退任は1987年の中曽根政権以来であり、また、小泉政権は戦後3位の長期政権となった。
総理退任後[編集]
総理退任後は、テレビ出演やインタビューなど、国民の前でほとんど発言していない。マスコミ記者からインタビューを受けても何も言わないで去っていくことが多い。ただし、講演会などをまれに行っており、立ち見が出るほどの大反響になる。
小泉は院政の意思はなく、もともと一匹狼であるため子分もおらず、かつて所属していた森派にも戻っていない。岸信介や田中角栄、中曽根康弘、竹下登など大派閥を擁し退任後も政界に影響力を残した元総理たちのような政治的基盤はない(清和会はもともと森喜朗の派閥で、町村信孝が継承)。
国民人気は根強いが、公的露出を控えることでこの人気を利用する動きは見せていない。これは小泉が露出することによって、安倍首相(当時)より目立ってしまうことを避けるためとされた。国民人気が根強いため、時々発せられるさりげない一言が逆に世間に大きく注目されることがある。
「小泉再登板待望論」も一部で囁かれるが、小泉は再登板を完全に否定してきた。2007年9月12日に、安倍晋三首相(自民党総裁)が辞任を表明した際、ポスト安倍としていわゆる小泉チルドレンたちから小泉に総裁選立候補の強い要請があったが、本人は「100%出馬しない」と出馬の可能性を否定。小泉自身は、「福田さんも小泉政権を支えてくれた人じゃないか」と福田康夫支持を表明したが、これが飯島秘書官に辞任を決意させたとも言われる(飯島は小泉在任中に福田としばしば対立し、2007年の総裁選でも小泉擁立に動いたとされる)[8]。
2006年以降は8月15日(終戦記念日)に靖国神社参拝を実施している。
2007年9月、安倍晋三総理総裁が退陣を発表後、「福田さんも小泉政権を支えてくれた人」と福田康夫支持の意向を示した。また、2008年5月22日には、東京都目黒区(衆議院東京5区)にてかつて岐阜1区で造反した野田聖子議員への刺客だった佐藤ゆかりの応援演説を行った[9]。
議員引退[編集]
麻生内閣が成立した翌日の2008年9月25日、地元支持者の会合において、次回の衆議院選挙に立候補しない意向を明らかにした。総理経験者が総理退任後の衆院選に立候補せずに引退するのは池田勇人や小渕恵三の病気退任を除けば戦後初めて。
ただ、国会の外での政治活動は継続すると表明している。自分の選挙区の神奈川11区には自らの私設秘書である次男の小泉進次郎を後継として立候補させ、進次郎は当選した。
政治手法[編集]
小泉政権の手法については、マスコミ報道を利用した「劇場型政治」や「ワンフレーズポリティクス」などと評され、従来の自民党支持層とは異なる都市部無党派層・政治に関心がない層からも幅広い支持を集めた。小泉旋風は具体的な政策論議よりも小泉自身のキャラクターや話題性に依存する面が大きく、敵対勢力からはポピュリズム政治であるとの評価がしばしばなされる。
政権公約となった政策[編集]
靖國神社への8月15日(終戦の日)参拝[編集]
2001年の自民党総裁選で「私が首相になったら毎年8月15日に靖国神社をいかなる批判があろうと必ず参拝します」と公約。しかしながら、2001年から2005年までは国内外からの批判に配慮して8月15日以外の日に参拝していた。自民党総裁の任期が満了する2006年には8月15日に参拝した。
郵政民営化[編集]
2005年に政府が国会に提出した郵政民営化法案が衆議院において可決された後、参議院において否決されたため衆議院を解散した(郵政解散)。この解散は参議院の意義を否定するものとして一部では問題視されたが、解散により実施された衆議院選挙で自民党は、結果的に法案が参議院で否決された場合でも衆議院で再可決することにより成立させられる3分の2超の議席を与党自民党で確保した。選挙後の特別国会において衆参ともに郵政民営化法が可決された。
タウンミーティング[編集]
タウンミーティングの構想は2001年に行われた小泉純一郎首相の所信表明演説で初めて打ち出され、政権公約となった。タウンミーティングは全国で開かれ、まず特定テーマは設けずに都道府県を一巡し、その後「地域再生」「市町村合併」「教育改革」などをテーマに開かれるようになった。このタウンミーティングでは、謝礼金を使ったやらせ質問の横行、電通社員へ日当10万円の払い、エレベーター係へ一日数万の払い、などといった不透明な実態が明るみに出た。コストは平均2000万円、全国一巡したことで20億円弱もかかっていた。
国債30兆円枠[編集]
小泉内閣は各年度予編成において国債発行額を30兆円以下に抑制することを公約として掲げたが、達成できたのは2001年度と2006年度予算の2回のみだった。その際、「(守れないことは)大したことじゃない」との発言を行った。
ペイオフの解禁[編集]
2001年の自民党総裁選で他の総裁候補と同様にペイオフの解禁を公約に掲げた。しかし、不良債権処理が2004年までかかったため2005年4月まで解禁は先送りされた。
その他の主な政策[編集]
年金改革[編集]
年金制度を変革。老齢者控除廃止や公的年金等控除の縮小をした。
医療制度改革[編集]
医療制度改革関連法案を国会で可決させ、サラリーマンの医療費負担を2割から3割へ引上げた。70歳以上の高所得者(夫婦世帯で年収約621万円以上)について医療費の窓口負担が2割から現役世代と同じ3割へ上げた。2008年度からは70 - 74歳で今は1割負担の人も2割負担になる。
また、2006年度の診療報酬改定では、再診料を引き下げ(病院で10円、診療所で20円)、医療費を削減したほか、病院と診療所で異なっていた初診料の統一、小児・救急医療など医師不足が指摘される分野で重点的に報酬を加算することなどが決まっている。
女系天皇容認[編集]
長い間、皇室に皇位継承権を有する男の子が生まれていなかったことなどから、皇室典範に関する有識者会議を設置し女性天皇・女系天皇を認めさせようとしたが、改正審議の際、秋篠宮家における懐妊ニュースを聞いて断念した。
一内閣一閣僚[編集]
小泉は閣僚が交代するのに批判的で、「一内閣一閣僚」を標榜していた。しかし、田中真紀子外相の更迭で原則を崩し、2002年9月30日に内閣改造を行い、以後1年間をめどに定期的に内閣改造で定期的に閣僚を交代させていった。2001年の小泉内閣誕生から2006年の退任まで、一貫して国務大臣だった竹中平蔵のみが一内閣一閣僚に該当するという意見もある。
他の政策[編集]
内政[編集]
- 自由競争と市場原理を重んじる竹中平蔵を閣僚に起用した。
- 財政再建のための中期財政計画を作成し、多額の歳出削減を行った。歳出削減は初期には公共事業の削減に重点が置かれていたが、後期には福祉の抑制にまで及んだ。
- 竹中平蔵、菅義偉に地方公共団体の財政健全化基準を作成させた。
- 銀行に対して厳格な審査を行い、自己資本が不足した銀行に対して公的資金を貸し付けることで、150兆円にも及ぶ銀行の不良債権処理を行い、金融システムを正常化させた。
- 時限立法である株式会社産業再生機構法を成立させて財務体質が問題である企業を個別に支援した。
- 共産党以外のすべての党から賛成を得て労働基準法と労働者派遣法を改正し、派遣社員の派遣期間を3年から無制限に延長した。
- 同様に労働基準法の改正で、企業による解雇権濫用を無効とした。
- 2003年の通常国会において、有事関連法案を与党自民党と民主党の賛成を得て可決させた。
- 介護保険では特別養護老人ホームなど施設入所者の居住費、食費を保険から外した。
- 国民負担率の維持を試みたが、日本医師会の反対により医療費の伸び率管理を断念した。
- 財政再建のため、診療報酬の引き下げ(2002年に1.3%、2006年に1.36%)、サラリーマンの窓口負担の増加(2割→3割)、保険料の引き上げ(月収をベースとした算定→年収をベースとした「総報酬制」)の三方一両損[10]を行った。
- パソコン等の製造業者にリサイクルを義務付ける資源有効利用促進法を成立させた。
- 道路関係四公団の民営化法案成立。
- 構造改革特区により規制緩和を促進。
- 特殊法人(住宅金融公庫など)の独立行政法人化。
- 「健康保険法等の一部を改正する法律」(2006年6月21日公布)を与党多数で採決し、後期高齢者医療制度を導入。
- 2006年には谷垣禎一財務相、中川昭一農水相の反対を押し切って、6.5兆円の不良債権(2007年3月期)を抱える政策金融機関の統合民営化(株式会社日本政策金融公庫)を推し進めた。
- 三位一体の改革として地方交付税の削減、地方への税源移譲。
- 生活保護費や児童扶養手当の削減。
- 最低資本金制度の特例措置(後に会社法の制定)により1円から企業を立ち上げることを可能にした。
- 国家戦略本部]を設置。
- ハンセン病訴訟において、国側の責任を認め患者・遺族側と和解。
- 特別会計合理化法案(仮称)を閣議決定し、特別会計透明化の方向性をつけた。
- 障害者自立支援法を成立。受益者は介護・訓練費用の1割を負担することとなった。
外交[編集]
- 従来の事務協議の積み重ねの延長である外交から、首相が自らの意見を積極的に主張し首脳間の信頼関係の下で国家間の合意を取り付ける首脳外交に転換した。
- 在任中合計51回、実数では49ヶ国延べ数81ヶ国を訪問した。また訪問先の決定も外務省を始め、関係省庁が作ったシナリオに従うのではなく、官邸が積極的に関与した。さらに多数の電話での首脳会談も行い積極的な官邸外交を繰り広げた。
- 国別では、米国8回、韓国7回、ロシア4回、インドネシア4回、中国3回、タイ、マレーシア、ベトナムにそれぞれ2回訪問した。またブルネイ、シンガポール、フィリピン、ラオス、カンボジア、モンゴルなどのアジアの国々や今まで首相がほとんど訪問していなかったウズベキスタンやカザフスタン、イスラエル、ヨルダン、パレスチナ、サウジアラビア、エジプト、トルコなどの中近東諸国にも訪問している。
- アジア太平洋経済協力会議首脳会議(APEC)に5回、アジア諸国連合(ASEAN)+日中韓首脳会議に5回、アジア欧州会議(ASEM)首脳会議に3回などのようにアジア地域の中心の多国間協議に総理として積極的に参加していた。
- また、多くの国を訪問し多くの国際会議の常連メンバーであったため、当時のアジア各国首脳、フィリピンのアロヨ大統領や、マレーシアのマハティール首相、シンガポールのゴー・チョク・トン首相などとも非常に親しかった。
- サミットにも5回出席の常連メンバーであり、そのつど各国首脳と多国間・二国間の会談を重ねている。そのため、アメリカのブッシュ前大統領だけではなく、フランスのシラク前大統領、ドイツのシュレイダー前首相、ロシアのプーチン前大統領、イギリスのブレア前首相とも「率直に話のできる顔見知りの仲」であり、重要な案件でも首脳同士が直接電話で話をして決めることもあった[11]。
- またウズベキスタンやカザフスタンなどに対し、資源の優先的供給を受けるための資源外交・経済外交の展開を始めた。
- 郵政民営化など米国からの要望をまとめた年次改革要望書の内容を実行に移した(ただし、郵政民営化については1970年代から主張していた)。
- 靖国神社参拝により、中国・韓国の態度を硬化させ、在任期間中は首脳会談はもとより、首相特使派遣すらできないほどまでに関係が悪化した。
- アメリカ同時多発テロ後にテロ対策特別措置法を制定し、アメリカのアフガニスタン侵攻では海上自衛隊をインド洋に派遣し、イラク戦争後は米国主導の「イラク復興事業」に支援活動として陸上・航空自衛隊の派遣を決定したが、派遣した国の首脳の中で唯一、現地慰問を行わなかった。
- 戦略的外交諮問機関 を設立。
- 日本に観光客を呼び込むYOKOSO!JAPANキャンペーンを実行。その一環として、中国人や韓国人、台湾人等の観光客に対するビザ免除等を行った(日本国籍保持者は相互主義により相手国でビザ免除となる)。その甲斐もあり、2003年の時点で524万人であった訪日外国人旅行者数は2007年には834万人となり過去最高を記録した。
- 北朝鮮に訪朝し金正日総書記と正式会談。北朝鮮政府は日本人拉致への直接関与を認めた。また、5人が生存して日本へ帰国(交渉継続中)。
外国からの評価[編集]
- 明確な主張や気さくで明るい人柄などから諸外国からは高い評価を受けた。
- 2002年のサミットにおいて、カナダの主要紙であるグローブ・アンド・メール紙の「サミットのベストドレッサー」に選ばれた。
- 2002年の国連総会において、演説終了後、演台裏手のロビーで小泉総理に挨拶を求める各国代表の列において国連職員が「こんなに長い列ができるのは珍しい」というほどの長蛇の列ができた。
- 2003年の国連総会においては、演説終了後300人近くの各国代表者などが演台の後ろのロビーに並んで小泉総理の演説に対する賞賛の意を表した。讃辞の列は次の代表の演説も終えた頃まで続き、多くの国連関係者を驚かせた。
- 2002年にシンガポール訪問時に、シンガポールのナザン大統領を表敬訪問した際、ナザル大統領から「自分の孫娘が小泉総理のファンなので一緒に写真を撮ってもらえないか」と頼まれ、快く応じた。
- 2006年のアメリカ訪問時に「アメリカは一人で悪に立ち向かっているわけではありません。常に多くの同盟国、友好国とともにあります。そして日本はアメリカとともにあるのです」と演説をし、鳴り止まないほどのスタンディング・オベーションを浴びた。
対外関係[編集]
- 明確な主張と気さくな人柄と交渉能力に裏打ちされた積極的な外交活動、そして5年という長い期間政権を担っていたことなどから多くの国々および各国首脳と強い信頼関係を結んだ。
- 小泉外交は出身派閥である清和政策研究会の伝統的な親米路線に則っている。ただし、小泉首相自身がアジアのアジアやアフリカなどの国々にも積極的に訪問し、サミットをはじめ、ASEAN、APEC、ASEM、日・EU定期協議、アジア・アフリカ首脳会議など、多国間協議へ25回も参加していることからも、日米の二国間関係だけに依存した外交ではなく、アジアを重視した多国間外交を重視しているといえる。
- アメリカのブッシュ大統領とは仲の良さをアピールし、日本の首相としては初めてエアフォースワンに搭乗しキャンプデービッドの別荘に招かれた。この親密ぶりを渡辺宜嗣は、「『ロン・ヤス関係』を超えた」と評した。
- 2002年カナダで開催されたカナナスキスサミットの際、冗談めかして「君にはこうしなくちゃいけないだろうな」と言い両手両足をついてブッシュ米大統領の足元にひれ伏すという日米関係を象徴するかのようなパフォーマンスを演じた。
- 2002年のカナナスキスサミットの際、2003年のエビアン・サミットの日程とロシアのサンクトペテルブルク建都300周年記念行事の日程が重なっていたため、各国首脳がその記念行事に参加できないという悩みをプーチン大統領が抱えていると知った小泉総理は、サミットの日程を2日ずらすことを進言し、シラク大統領も了解したことから、各国首脳はサンクトペテルブルクを訪問した後にエビアンに行くという日程になった。このことに対してプーチン大統領は「感謝に堪えない。公表できないがシベリアに金正日がくるので協力できることはないか」ということとなり、その後プーチン大統領は金正日に小泉総理のメッセージを伝えることを約束した。
- その後も、プーチン大統領との友好関係は続き、2003年にロシアを訪問した際には晩餐会終了後に、プーチン大統領のクレムリンの個人住居に招かれ、通訳を交えただけの2人きりで約1時間半にわたって懇談した(なおロシアでは大統領が非公式に外国の首脳と懇談するのは異例のことである)。このプーチンとの個人的な友好関係も手伝い、小泉は政界引退後の現在も露日経済協議会理事長の職にあり、また北方領土問題解決に強い関心を持っているといわれる。
- 2002年のカナナスキスサミット終了後、ドイツのシュレーダー首相が政府専用機のスケジュールの調整ができずに日韓ワールドカップのドイツ対ブラジル決勝戦を見に行けないと悩んでいることを知り「だったら日本の政府専用機に乗っていったらいいじゃないか」という話になった。そしてシュレーダー首相は日本の政府専用機に乗り日本に向かいワールドカップ最終戦を観戦した。その際機内では首脳会談が持たれ、懇談の際にはサッカー談義にも花が咲いた。外国首脳が日本の政府専用機に搭乗したことはこれが初めてのことである。
- 2004年マレーシアで開催された東アジアサミットの際は、共同宣言に署名する際に、自分のペンを使わず、当時関係が冷却化し日本との首脳会談を拒んでいた中国の温家宝首相からわざわざペンを借りて署名した。両国の関係改善を示唆するパフォーマンスに各国首脳から拍手が送られた。
- 北朝鮮に対しては対話と圧力を掲げて、硬軟取り合わせた対応を行った。2006年のミサイル発射問題では関係国中最も強硬な国連外交を展開した。
- 靖国神社への参拝をめぐり反発する中国・韓国との関係は悪化。反日デモで自身の肖像が燃やされる事も度々あった。
人物像[編集]
学生時代[編集]
- 慶應横須賀学生会の元メンバーは「当時の小泉はナンパ系学生の代表格だった。横須賀の現役慶應大生で作る『慶應横須賀学生会』の会長をしていた彼はOLや女子学生を集めてはダンスパーティを開いていた」と述べている[12]。
信念・容姿[編集]
- 身長169cm。前任の森喜朗(175cm)よりも低いが、肥満型の森と比較して痩せ型のためか森よりも高身長に思われていた様である(長男の小泉孝太郎は177cm)。21世紀に総理大臣を務めた人物では最も小柄である(安部晋三は175cm、福田康夫は171cm)。
- 人と会話するとき身振り手振りを交えながら一言一言を短く簡潔に言いたいことをわかりやすく表現する喋り方が特徴。
- 郵政民営化や道路公団民営化などに反対する議員・団体・勢力を「抵抗勢力」と呼んだ。
- 国会演説や記者会見などで、国民に対して自助と自律の精神を呼びかけた。
- 愛読書は『ああ同期の桜』(海軍飛行予備学生第14期会編)。
- 尊敬している人物は吉田松陰。
- 国会では「極東国際軍事裁判を受諾し、A級戦犯は戦争犯罪人と認識している」と答弁している。
- 2006年9月の自民党総裁任期満了をもって総理及び総裁の両役職を辞める旨を会見などで早くから発言し、任期満了までに時間がある時点からポスト小泉人事が話題となっていた。小泉総理自身は総理・総裁辞任後は院政を敷くつもりはないと発言し、総裁選直前には安倍晋三支持を明確にした。
- 髪型がライオンのたてがみに似ているとして、ライオンのイメージキャラクターが作られた。なお、2005年冬に米国俳優のトム・ハンクスと米国で対面した際、トム・ハンクス本人から「今、小泉総理のヘアースタイルが、米国ですごく流行っている」と言われ、小泉は照れ笑いに終始した。
- 人からの贈り物は、ほとんど受け取らない。バレンタインのチョコレートも送り返している。
- 政治家として結婚式の仲人もした事があるが、式の席上で仲人の新郎新婦紹介の際、「結婚はそんな甘いものじゃあない!」と発言し、列席者全員を驚かせたことがある。
- 米国俳優のリチャード・ギアと面会した際、「ジャパニーズ・リチャード・ギア」と紹介された。
対人関係[編集]
- 福田赳夫に師事した。
- 第43回衆議院議員総選挙で落選した盟友・山崎拓を首相特別補佐官として登用している。その後、靖国参拝問題や人事などで山崎との関係は疎遠化したとも言われている。
- 長年選挙対策本部長を務めた竹内清(前小泉正人議会議長)は、暴力団稲川会の元組員であり、石井会長と非常に親しい関係にあった[13]。
音楽・芸術関係[編集]
- 解散したロックバンド、X JAPANの大ファンであると公言している。(X JAPANは2008年3月に再結成)その流れから自民党のCMにX JAPANのヒット曲『Forever Love』を採用した。
- オペラ(歌劇)、狂言、歌舞伎、映画鑑賞が趣味。
- 中でもオペラへの関心は高く、2003年のドイツ公式訪問では本人の強い希望でバイロイト音楽祭を訪問し、リヒャルト・ワーグナー作のタンホイザー全3幕を鑑賞した。2001年に日本でメトロポリタン・オペラが公演を行ったときも、『サムソンとデリラ』を鑑賞している。
- 多くの映画音楽を手掛けている音楽家エンニオ・モリコーネのファンでもあり、2005年(平成17年)10月5日に発売されたチャリティアルバム「私の大好きなモリコーネ・ミュージック」の選曲を務めた。
- 「好きな映画ベスト3」は「ショーシャンクの空に」「ニュー・シネマ・パラダイス」「フィールド・オブ・ドリームス」であると毎日新聞に掲載された。(2000年)
- オールディーズ時代のロックンローラー、エルヴィス・プレスリーの大ファンである。首相就任後の2001年には、自ら選曲し解説を著したエルヴィスのCDアルバムを発表した。
- 小泉内閣最後の官邸メールマガジンに、ありがとう / ささえてくれて / ありがとう / 激励協力 / 只々感謝 という自作短歌を掲載した。
スポーツ・芸能関係[編集]
- 大相撲に興味があり、しばしば本場所を訪れる。
- 首相就任直後の2001年5月の夏場所では、たいていは内閣官房副長官(政務)が担当する総理大臣杯の授与を自ら行い、前日の負傷を押して出場し22回目の幕内優勝を勝ち取った横綱貴乃花光司に対して「痛みに耐えてよく頑張った! 感動したっ! おめでとう!」との賛辞を送った。「感動したっ!」は流行語ともなった。ただし、この負傷が原因となって、貴乃花はこの優勝を最後に現役を引退した。
- 2005年11月の九州場所では、総理大臣杯の授与を、再び自ら行った。年6場所全制覇など3つの大記録を達成した横綱朝青龍明徳に対して、「新記録! 大記録! みごとだ! おめでとう!」と賛辞を送った。貴乃花の時は東京両国国技館であったが、この時は福岡国際センターである。わざわざ福岡まで行った理由について、年6場所を全て制覇したら行くという約束を、その年の初めに朝青龍とかわしていたと記者団に語った。
- プロ野球では神奈川県を本拠地とする横浜ベイスターズを応援している。同球団の2軍が独立採算制の湘南シーレックスとなった際には、本拠地が地元・横須賀市である事もあり、後援会の結成に協力している。また堤義明とも親交が深く、総理大臣就任以前は堤がオーナーだった西武ライオンズのホームゲームを観戦に西武ドームへ何度も足を運んだ。横浜高校出身の松坂大輔が高卒新人時代に先発した試合を堤とVIPシートで観戦した事もあった。
- サッカーの2002 FIFAワールドカップでは、ホスト国・日本の首相として大会運営に協力した。大会直前の親善試合では日本代表の激励のために国立競技場を訪問し、約5万人のサポーターから「コイズミニッポン」コールを受けた。また、6月30日の決勝戦がドイツ対ブラジルになったのを受け、カナダのカナナスキスサミット(第28回主要国首脳会議)で同席したドイツのシュレーダー首相を日本国政府専用機に乗せ、横浜国際総合競技場に招待した。外国の要人が日本国政府専用機に乗った最初の例である(一般に政府公用機は民間航空機とは異なり駐機中でも機体所有国の法令が適用される(治外法権)など特別な事情があり、外国の元首や要人が同乗するのは異例)。
- スポーツで日本人選手や日本代表が活躍をすると、記者会見で称賛などのコメントを行っている。
- 1998年、世界のワイン名士・著名人に贈られるメドック・グラーヴ・ボンタン騎士団騎士の称号を送られた。
- 1999年に放送されたドラマTEAM(フジテレビ系)に文部大臣として出演したことがある。また同じ年に、同じくフジテレビ製作のSMAP×SMAPのビストロスマップのコーナーにも出演している。番組中に中居正広は「総理大臣になるのではないか?」と冗談で言ったが、現実のものとなった。JPNテレビ製作のモー。たいへんでした にも出演した。
- 小泉の選挙区内の横須賀出身で横浜高校から東京帝拳入門したバンタム級プロボクサー大和心を応援していた。
- 2002年5月26日に東京競馬場で行われた東京優駿(日本ダービー)に来場し、表彰式で優勝馬(タニノギムレット)の馬主(谷水雄三)に「内閣総理大臣賞」を授与した。現職首相のダービー観戦は、1958年の岸信介首相以来の44年ぶり2回目。
- みのもんたによれば、小泉は「65歳位で引退しようかな、もうその頃が引き際だ」と発言していたという[14]。
- 2009年の映画『大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE』にてウルトラマンキングの声を担当している。
人物評[編集]
- 首相就任以来、毎日通常2回、官邸で総理番記者の質問(ぶら下がり)に立ち止まって答えた。(小泉以前の首相は答えない場合もあったり、質問に答える場合でも歩きながらという慣習であった)
- YKKでは、人徳の山崎、政策の加藤に対比して、政局の小泉と評された。
- 1998年の自民党総裁選に出馬した際田中真紀子は小渕恵三を凡人、士官学校卒の梶山静六を軍人、そして小泉を変人と評した(総裁選で選ばれた際の真紀子の演説では「変人の母でございます」)。以後このニックネームが定着したが、このとき本人は「『変人』とは『変革の鉄人』のことである」と述べている。2005年の郵政解散の折には、参議院での法案否決による衆議院解散を思いとどまるよう説得に訪れた森喜朗に「変人以上」と評されている。
- 「自民党をぶっ壊す」「私の政策を批判する者はすべて抵抗勢力」と宣言して総裁選に勝利、発足時の内閣支持率は戦後最高を記録した。一部では「ナチズム」「ブーランジスム」と揶揄される程の驚異的支持率であった。
- 2001年9月の臨時国会における所信表明演説ではチャールズ・ダーウィンの進化論を経済社会にも取り込むよう発言した。ただ、ヒトラーが進化論を演説に取り込んだこともあり、欧米では演説に細心の注意が払われる傾向にある。
- 田中真紀子(当時外相)の更迭時には支持率が急落するものの、終始40%以上の支持率を保ち続けた。
- 「聖域なき構造改革」として、国民に対して痛みを伴う改革を主張した(野党には「痛みしか伴わない」と言われた)。
- 衆議院選挙における小選挙区比例代表並立制に一貫して反対し、選挙の際は重複立候補していない(2005年の郵政選挙では一時期小泉本人の重複立候補が決まりかけていたが、最終的に取りやめとなった)。1996年の衆院選で当選が決まったあと、選挙事務所からTV中継されたインタビューにおいても「選挙区で落選した議員が比例区で当選するというのはおかしい。だから私は重複立候補はしない」と述べている。しかし2005年の選挙では自身が否定的なその比例代表並立制の特徴を存分に活用して新人議員を多数当選させる。
- 靖国神社に参拝する理由を問われると一貫して「心の問題」と強弁して押し通した。他方で政教分離原則に反すると議論を呼んだ。ただ、総裁就任以前には参拝の習慣は無かったようで、靖国参拝は日本遺族会からの支持を期待しての公約だったとの見方もある。
- 2001年の総裁選においては田中真紀子から出馬を強く勧められたことを明かし、「立ちなさいと女性から言われて、男として立たないわけにはいかない」と挨拶した。
主な発言一覧[編集]
- 「橋本首相だったらたいして変わらない。私になったら劇的に変わる。そこがこの総裁選の最大のポイントです」(1995年9月)
- 自身初となる自民党総裁選に立候補したときの発言。
- 「変人の生みの親から『変革の人』と言っていただき、これほど力強いことはない」(2001年1月27日、自民党本部出陣式)
- 次期自民党総裁選に“小泉”を推す事を表明した田中真紀子の応援に応えての発言。
- 「私が、小泉が、自民党をぶっ潰します!」(2001年4月)
- 「首相に就任したら8月15日の戦没慰霊祭の日に靖国神社を、いかなる批判があろうと必ず参拝します」(2001年4月18日、自民党総裁選討論会)
- 「構造改革なくして成長なし」(2001年5月7日)
- 「痛みに耐えてよくがんばった! 感動した! おめでとう!」
- 「私の内閣の方針に反対する勢力、これはすべて抵抗勢力だ」(2001年 - 2002年)
- 「この程度の約束を守らないのは大したことではない」(2003年1月23日、衆院予算委員会)
- 「今イラクのどこが非戦闘地域で、どこが戦闘地域か、そんなの私に聞かれたって分かるわけがないじゃないですか!」(2003年7月23日、党首討論)
- 民主党菅直人代表の「非戦闘地域というのはフィクションではないか。1ヵ所でもいってみてください」という質問に対しての発言。
- 「集団的自衛権を認めるなら、憲法を改正した方がいい」(2003年7月25日、参院外交防衛委員会)
- 「おだやかで快活な冗談を飛ばす頭の回転の速い人だ」、「独裁者の国では交渉が(その後の協議)で変わる。独裁者の考えは私自身が確かめるしかない」(参院・イラク武力攻撃事態特別委員会)
- 金正日総書記の印象をこう語った
- 「野球界にも権力闘争があるんだね」
- 原辰徳の辞任を聞いた小泉純一郎は、記者団にこのようにコメントした。
- 「人生いろいろ、会社もいろいろ、社員もいろいろ。岡田さんの会社だって、みんながみんな同じように働いてるわけじゃないでしょう?」(2004年6月3日、党首討論)
- 「自衛隊の活動しているところは非戦闘地域である」(2004年11月10日、党首討論)
- 岡田民主党代表に「戦闘地域と非戦闘地域とについて具体的にどういう状態をさすのか」と聞かれての発言
- 「おれの信念だ。殺されてもいい」(2005年8月6日、官邸で森喜朗前首相に)
- 参議院で参院郵政民営化法案の否決が濃厚になり衆議院解散を思いとどまらせようと会談した森前首相にこう答えたという。
- 「今回の選挙は、いわば、郵政選挙であります。郵政民営化に賛成してくれるのか、反対するのか、それを国民に問いたい」(2005年8月8日、衆議院解散後の記者会見)
- 「その時ガリレオは、『それでも地球は動いている』と言ったそうであります」(2005年8月8日、衆議院解散後の記者会見)
- 「新記録! 大記録! みごとだ! おめでとう!」
- 「格差が出ることが悪いとは思わない。今まで悪平等だという批判が多かったし、能力のある人が努力すれば報われる社会にしなければならない」 (2006年2月1日、参院予算委員会)
- 「総理大臣である、人間小泉純一郎が参拝しているんです」(2006年8月15日、靖国神社参拝後の記者質問に対して)
- 「政治家は使い捨てにされることを嫌がってはいけない。総理大臣だって使い捨て。甘えちゃだめです。『使い捨てされるなんて嫌だ』なんて言った人は、国会議員にならないほうがいい」(2006年11月7日、日本夢づくり道場での講演)
- 「おれにはそんな金はないよ」(2007年6月13日、自民党の中川秀直幹事長から、年金支給漏れ問題で歴代厚生大臣の責任により給与返納に言及されたときの返事)
- 「人生には上り坂もあれば下り坂もあります。もう一つ坂があるんです。『まさか!』という坂であります。まさかあのような形でね、安倍さんが退陣するとは思わなかった」(2007年10月4日)
- 「政界では、権力闘争は当たり前だ。敵をどう味方に変えるかが大事だ。造反組は政治の信念を曲げ、土下座するようなことを引き受けたのだから、認めてやってもいいのではないか」
- 総理辞任後、小泉チルドレンに向けて言い放った。
- 「5人の候補者の全員が小泉内閣の閣僚だった。だから私も今の時点で誰を(支持する)と言うのはちょっと躊躇してるんですよ。(競泳五輪金メダリストの)北島選手じゃないけど、今の時点では『何も言えねえ!』と」(2008年9月、ポスト福田について)
- 「わたしは最近の麻生太郎首相の発言について、怒るというよりも笑っちゃうくらい、ただただあきれているところだ」「わたしについても、(首相が)常識の通じない男だとかね、奇人変人とか言っているようだが、わたしは自分では常識をわきまえている普通の人だと思っている」(2009年2月12日)
家族 親族[編集]
- 実家
- 自家
- 他家
- いとこ・井料克己(いりょう かつみ、政治家・元横須賀市議会議長)
系譜[編集]
- 小泉家
- 祖父小泉又次郎は武蔵国久良岐郡六浦荘村大道(現在の神奈川県横浜市金沢区大道)にとび職人の二男として生まれた[16]。又次郎が小学校へ入学する頃、一家は横須賀に移り、海軍工廠に大工、左官、人夫、等を送り込む人入れ業を始める[17]。又次郎は明治40年(1907年)横須賀市議会議員、明治41年(1908年)衆議院議員となり浜口雄幸内閣、第2次若槻禮次郎内閣で逓信大臣を務めた。父小泉純也は鹿児島県川辺郡東加世田村(現・南さつま市)の漁業鮫島家に生まれ、32歳の若さで代議士となり、第3次池田勇人内閣、第1次佐藤榮作内閣で防衛庁長官を務めた。神一行の著書『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』236 - 237頁に「さてその小泉の閨閥であるが名門といわれるほどのものではない。むしろ小泉の性格は三代続く政治家家系の血筋とみてよい。」とある。
藤田丈吉━━━━泰道正年 ┣━━━━━┳━泰道一正 泰道照山━━┳━芙蓉子 ┗━泰道真也 ┣━泰道三八 ┗━志計子 ┣━━━━━━━佳代子 宮本氏 ┣━━━━━┳━小泉孝太郎 ┏━小泉純一郎 ┣━小泉進次郎 鮫島氏━━━━━小泉純也 ┃ ┗━男 ┣━━━━━┫ 小泉又次郎━━━芳江 ┗━小泉正也 ┃ ┏━石田重蔵━━━━石田吉之輔━━━美枝子 ┗━石田光治━━━━典子 ┣━━━━━┳━石原伸晃 ┏━石原慎太郎 ┣━石原良純 ┗━石原裕次郎 ┣━石原宏高 ┗━石原延啓
年譜[編集]
- 1942年1月8日 - 神奈川県横須賀市に父・純也、母・芳江の長男として出生。
- 1960年3月 - 神奈川県立横須賀高等学校卒業。
- 1967年 - 慶應義塾大学経済学部卒業。ロンドン大学留学(1964年の説もある)[18]。実父の急死で1969年8月帰国。
政歴[編集]
- 1969年12月27日 - 第32回衆議院議員総選挙に自由民主党公認で立候補するも落選
- 1970年 - 衆議院議員福田赳夫(後に首相)の書生となる。同い年の同僚に佐藤静雄
- 1972年12月10日 - 第33回衆議院議員総選挙において自民党公認で衆議院議員に初当選、以後連続当選。飯島勲が秘書となり、二人三脚で進む。
- 1979年11月 - 大蔵政務次官に就任(第2次大平内閣)
- 1988年12月 - 厚生大臣に就任(竹下内閣改造内閣)
- 1992年12月 - 郵政大臣に就任(宮澤内閣改造内閣)
- 1995年9月 - 自民党総裁選に出馬。橋本龍太郎に敗れる。
- 1996年11月 - 厚生大臣に就任(第2次橋本内閣)
- 1998年7月 - 自民党総裁選に出馬。小渕恵三に敗れる。
- 2000年4月 - 森喜朗の首相就任により、清和会(森派)会長に就任
- 2001年4月24日 - 3度目の挑戦で、自民党総裁に選出
- 2001年4月26日 - 第87代内閣総理大臣に就任(第1次小泉内閣)
- 2001年8月13日 - 首相就任後初の靖国神社参拝
- 2001年11月 - テロ対策特別措置法を公布
- 2002年1月29日、田中眞紀子外務大臣を更迭。1月31日まで外務大臣を兼務。2月1日から川口順子環境大臣に交代
- 2002年9月17日 - 北朝鮮の平壌で金正日総書記と初の日朝首脳会談、日朝平壌宣言に調印
- 2002年9月30日 - 小泉改造内閣発足
- 2002年10月15日 - 北朝鮮の日本人拉致被害者5人帰国
- 2003年1月 - ロシア連邦を訪問
- 2003年6月 - 有事関連3法を公布
- 2003年8月 - イラク特措法を公布
- 2003年9月20日 - 小泉再改造内閣発足
- 2003年11月19日 - 第88代内閣総理大臣に就任(第2次小泉内閣)
- 2004年1月 - 自衛隊のイラク、サマワへの出兵を命令
- 2004年4月 - イラク日本人人質事件。武装集団が「イラクからの自衛隊の撤退」を要求するも拒否。人質3人は後に解放。さらに2人が拉致され後に解放される。
- 2004年5月22日 - 再訪朝し平壌で金正日総書記と会談。北朝鮮に対する25万トンの食糧及び1000万ドル相当の医療品の支援を表明し、日朝国交正常化を前進させると発表。5人の拉致被害者の家族の帰国を実現。このとき反対派からデマ報道で攻撃されている。
- 2004年5月28日 - 朝鮮総聯第20回全体大会に対して歴代首相、自民党総裁として初めて祝辞を贈った。
- 2004年7月、第20回参議院議員通常選挙で自民党が民主党に僅差で敗れる。
- 2004年9月27日 - 第2次小泉改造内閣発足
- 2004年10月 - イラク日本人青年殺害事件。イラク聖戦アルカーイダが「イラクからの自衛隊の撤退」を要求するも拒否。人質は殺害された。
- 2005年3月27日 - フランスのジャック・シラク大統領と首脳会談
- 2005年4月23日 - 中国の胡錦涛国家主席と首脳会談
- 2005年4月26日 - 旧首相官邸を改築した新公邸に転居
- 2005年7月5日 - 郵政民営化関連法案が衆議院本会議で可決
- 2005年8月8日 - 郵政民営化関連法案が参議院本会議で否決。衆議院解散を閣議決定し、署名を拒否した島村宣伸農林水産大臣を罷免し自ら兼務。同日、憲法7条に基づき衆議院を解散。この解散を「郵政解散」と命名
- 2005年8月11日 - 兼務していた農林水産大臣の後任に岩永峯一起用
- 2005年8月15日 - 1995年に発表された戦後50周年の終戦記念日にあたっての村山首相談話を踏襲した首相談話を発表し、第二次世界大戦中に行われた日本のアジア諸国に対する侵略と植民地支配を謝罪
- 2005年9月11日 - 第44回衆議院議員総選挙において自由民主党だけで296議席、与党で327議席の大勝
- 2005年9月21日 - 第89代内閣総理大臣に就任(第3次小泉内閣)
- 2005年10月14日 - 特別国会に再提出された郵政民営化法案が衆参両院の可決を経て成立
- 2005年10月31日 - 第3次小泉改造内閣発足
- 2006年6月-政権最後となる訪米を実施。ブッシュ大統領よりテネシー州のエルヴィス私邸を公務として訪問。実質これが首相としての「卒業旅行」
- 2006年7月15日 - ロシアサンクトペテルブルグサミットにG8各国首脳と共に参加。
- 2006年7月25日 - 野口英世アフリカ賞の創設を正式に発表。
- 2006年8月15日 - 終戦記念日に靖国神社へ参拝
- 2006年9月21日 - 自民党総裁任期満了
- 2006年9月26日 - 小泉内閣が総辞職。内閣総理大臣を退任
- 2006年12月15日 - 自民党の国会議員らで作る「改革加速議員連盟」の顧問に就任。
- 2007年9月13日 - 飯島勲が辞表提出。
- 2008年9月25日 - 次期総選挙に出馬せず、政界引退を表明。
- 2009年7月21日 - 衆議院解散により議員の地位を失い政界引退。
テレビ番組[編集]
- アンテナ22特別編 [内閣総理大臣小泉純一郎 歴史に残る2000日 5つの謎を解く](岩城滉一が、小泉を演じた。)
- 独占取材! 今明かす 小泉純一郎の「正体」(フジテレビの特別番組)
- ザ・決断!世紀の決戦
著書[編集]
- 『選挙法改正について各党の意見をきく(上)』(討論集会シリーズ No.21)(小泉純一郎、山田芳治、内藤功 共著、尾崎行雄記念財団、1975年)
- 『郵政省解体論―「マルチメディア利権」の読み方』(小泉純一郎、梶原一明 共著、光文社、1994年)ISBN 4-334-01291-4
- 『官僚王国解体論―日本の危機を救う法』(光文社、1996年)ISBN 4-334-05234-7
- 『小泉純一郎の暴論・青論―政界のイチローが語る、痛快本音エッセイ』(集英社、1997年)ISBN 4-08-780251-5
- 『日本政治の過去・現在・未来―慶應義塾大学法学部政治学科開設百年記念講座』(小林良彰編集、慶應義塾大学出版会、1999年)ISBN 4-7664-0743-1
- 『郵政民営化論―日本再生の大改革!』(小泉純一郎、松沢しげふみ 共著、PHP研究所、1999年)ISBN 4-569-60916-3
- 『コイズム』(小泉純一郎・著、業田良家・画、メディアレブ、2001年)ISBN 4-944182-11-2
- 『第30回シンポジウム「構造改革の加速」記録』(21世紀政策研究所、2003年)
- 『決断!あの時私はこうした―自民党総理・総裁・官房長官が語る』(自由民主党編集、[中央公論事業出版]、2006年)ISBN 4-89514-275-2
- 『小泉純一郎です。―「らいおんはーと」で読む、小泉政権の5年間』(小泉純一郎[他]共著、時事画報社、2006年)ISBN 4-915208-12-5
- 『自民党の底力』(小泉純一郎[他]共著、成甲書房、2007年)ISBN 978-4-88086-214-9
参考文献[編集]
- 鴨志田孝一 『Koizumi 小泉純一郎写真集』 双葉社、ISBN 4-575-29294-X
- 小泉純一郎&デイヴィッド・セイン、『断行 Lion heart アメリカ人の目が見た小泉純一郎語録 全英訳付』三修社、ISBN 4-384-02651-X
- 涛川栄太 『小泉純一郎を読み解く15章』 文芸社、ISBN 4-8355-2514-0
- 大下英治 『小説小泉純一郎 信を貫いて恐れず』 幻冬舎、ISBN 4-344-00097-8
- 飯島勲 『代議士秘書 永田町、笑っちゃうけどホントの話』 講談社、ISBN 4-06-273095-2
- 小泉純一郎&業田良家、 『コイズム』 メディアレブ、ISBN 4-944182-11-2
- 上之郷利昭 『小泉純一郎の痛快語録』 ぱる出版、ISBN 4-89386-878-0
- 小泉純一郎 『小泉純一郎の暴論・青論』 集英社、ISBN 4-08-780251-5
- 緒方邦彦 『小泉純一郎革命 変人宰相は日本をどう変えるのか』 イースト・プレス、ISBN 4-87257-259-9
- 花岡信昭 『小泉純一郎は日本を救えるか』 PHP研究所、ISBN 4-569-61800-6
- 浅川博忠 『人間小泉純一郎 三代にわたる「変革」の血』 講談社、ISBN 4-06-273218-1
- 小泉純一郎、 TBSブリタニカ編集部、阪急コミュニケーションズ 『万機公論に決すべし 小泉純一郎首相の「所信表明演説」』 ISBN 4-484-01214-6
- 鈴木棟一、 『小泉は日本を変えられるか 永田町の暗闘』 ダイヤモンド社、ISBN 4-478-18030-X
- 読売新聞政治部 『小泉革命 自民党は生き残るか』 中央公論新社、ISBN 4-12-150010-5
- 新川典弘&スタッフ 『小泉さんに学ぶスーパー世渡り術』 徳間書店、ISBN 4-19-892114-8
- 榊原英資&櫻井よし子&福田和也&舛添要一&松野頼三、『変人内閣 全閣僚を採点する』『文藝春秋』2003年9月号)
- 柳田邦男、「『精密検証「小泉以前」と「小泉以後」』『文藝春秋』2003年11月号
- 屋山太郎 『日本再生への道筋をつけた男 小泉純一郎宰相論』 海竜社
- 清水真人 『官邸主導―小泉純一郎の革命』 日本経済新聞社
- 瀧澤中 『狂気のリーダー学 小泉純一郎強さの秘密』 ぶんか社
- サミュエル・ライダー著 『トラ・トラ・ライオン』
- 平野貞夫 『亡国 民衆狂乱「小泉ええじゃないか」』 展望社 2005年
- 藤原肇 『小泉純一郎と日本の病理』 光文社 2005年
- 岩崎大輔 『ダークサイド・オブ・小泉純一郎』 洋泉社 2006年
- 梅田功 『変革者 小泉家の3人の男たち』 角川書店 2001年
- 『財界家系譜大観 第一版』 常盤書院 1972年
- 宮崎学 『ヤクザと日本―近代の無頼』筑摩書房、2008年
脚注[編集]
- ↑ 入れ墨を入れている者は軍人になることができなかった。又次郎が背中から二の腕、足首まで彫った入れ墨は、九門竜だったとも「水滸伝」の魯智深(ろちしん)、すなわち花和尚だったともいわれる(佐野眞一 著『小泉純一郎――血脈の王朝』140頁)。藤原肇 著『小泉純一郎と日本の病理』39-40頁に「巷間(こうかん)いわれている“軍人になるのを諦めるために刺青を彫った”という話は作り話であり、やはりテキ屋の親分になるために彫ったという方が真相に近いと私は解釈している」とある。彫り師凡天太郎は「とくに港町ともなれば素性もわからないような流れ者がゴロゴロ集まった。そんな彼らの上に立つには、刺青を彫るような人物ではないと現場を仕切れなかったろう」と述べている(岩崎大輔 著『ダークサイド・オブ・小泉純一郎』58頁)
- ↑ この結婚に佳代子の父親的な存在だった泰道照山は反対だったとされる。宮本家の血縁者は「結局、泰道家とは絶縁寸前までいった。“出て行くならその身体一つでいけ”という具合。それでも小泉さんから“何の心配もいらない。僕たちの結婚には関係ない。白紙のままで来てほしい。”と言われ、その言葉を信じて嫁に行った」と述べている(岩崎大輔『ダークサイド・オブ・小泉純一郎』 176-177頁)。
- ↑ この離婚について純一郎の弟正也は週刊朝日(2001年6月1日号)の中で「あちらのことは何も知らされてなくてね。結婚してから、あちらの親族が亡くなったというので葬式へ行って初めて創価学会員だということがわかった。(中略)結婚前にそういう重要なことを何も知らされてなかったというのが問題だということです。」と述べている。しかし岩崎大輔の著書『ダークサイド・オブ・小泉純一郎』 179頁には「宮本家の遠い筋の親戚に学会員はいるが、佳代子にはまったく身に覚えがない言い掛かりだ。」とある
- ↑ 1993年5月7日、閣議での発言
- ↑ 『朝日新聞』1993年5月7日
- ↑ 「自衛隊員に警護をさせるというのは、いままでの国会の議論と違う。させるべきではない。自衛隊であろうが、文民警察官であろうが、戦闘状態のところに行くという想定はしていない。戦闘状態に合わせて対策を取ったり、自衛隊になにかをさせようというのは間違っている。今後、そのような意見が表に出てくるようであれば、私も国会での議論を踏まえて発言していく」1993年5月14日の閣議後の記者会見
- ↑ 『朝日新聞』1993年5月14日夕刊
- ↑ [飯島勲氏、小泉純一郎前首相の秘書を辞職…福田支持に反発?(2007年9月14日 サンスポ)]
- ↑ 『週刊FLASH』2008年6月10日号
- ↑ 「三方一両損」という言葉で自らの改革を自画自賛したが、国会で故山本孝史議員から「三方一両損」の意味を知っているのかと質され返答できなかった。三方一両損は大岡裁きで知られる大岡忠相(大岡越前)のいわゆる大岡政談に出てくる話で、三両を落とした大工とそれを拾った左官が互いに譲り合って受け取ろうとしなかったので、大岡が自分の一両を足して二両ずつ分け合わせたという話。小泉の改革では保険機構はまったく損をしていないばかりか、被保険者は日頃の保険料も、窓口負担もともに増えているので三方一両損の比喩は全く当たらない。
- ↑ 飯島勲『小泉官邸秘録』
- ↑ 岩崎大輔『ダークサイド・オブ・小泉純一郎』 126頁
- ↑ 『ダークサイド・オブ・小泉純一郎』 24 - 53頁 -[政治経済の真実]
- ↑ 『おもいッきりイイ!!テレビ』(2008年9月26日放送)より。
- ↑ 梅田功 著『変革者 小泉家の3人の男たち』17頁
- ↑ 小泉正人梅田功 著『変革者 小泉家の3人の男たち』28頁に「又次郎が生まれた当時、鎌倉街道に面したこの地は、戸数わずか三十二戸の小さな村であったという。父・小泉由兵衛は村の代々の鳶職だったが、のちに軍港横須賀に進出して、海軍に労働者を送り込む軍港随一の請負師になった」とある
- ↑ 当時の横須賀では沖仲仕の手配師として目兼の大親分と小泉組が縄張りを競い合い、博徒たちの賑やかな出入りが繰り返されていたという(藤原肇・著『小泉純一郎と日本の病理』29頁)。宮崎学の著書『ヤクザと日本―近代の無頼』54 - 55頁には「1884年(明治17年)に海軍鎮守府が置かれた横須賀は、日清戦争(1894~1895年)から日露戦争(1904~1905年)にかけて軍港として急速に発展したが、ここでも、軍艦に砲弾や燃料の石炭、食糧などを積み込む仲仕の組織が発達し、これを仕切る仲仕請負からやくざ組織が生まれていったのである。当時、横須賀でこの仲仕の仕切りでしのぎを削ったのが、博徒の目兼組と鳶の小泉組であった。この縄張り争いは、近世以来の古い型の博徒である目兼組を抑えて、新興の小泉組が制していく。そして、この小泉組を率いていた鳶の親方・小泉由兵衛が跡目を継がせた息子の又次郎がこの帰趨を決定的にし、小泉組は軍港のやくざとして一大組織を築くことになった。この又次郎こそが、のちの首相・小泉純一郎の祖父であった。この小泉組も、吉田磯吉と同じ時期、同じ環境から生まれてきた近代ヤクザのひとつにほかならない。」とある
- ↑ 慶應で同級だった学者の栗本慎一郎は「パンツをはいた純一郎」の中で「みんなから浮いているのではなくて、沈んでいるんです。友人から無視されるような存在でした。おそらく、高校時代も同じでしょう。その社会性の欠如とそこから来る孤独感が彼の奇矯な政治行動の原点だと思います。…彼とは2年間、同じクラスでした。というのも、彼は単位が足りなくて3年に上がれず、そのままロンドンに留学したからです。もっとも、私らは誰も気づきませんでした。クラス委員の私にも届けがなかったし、彼は2年の後半は大学に来ていなかったので、誰もいなくなったことに気づかなかったくらいです。一人寂しくロンドンに旅立ったわけです。」と述べている。栗本の証言が正しければ、1963年に留学したことになる。同級生たちはみな1963年渡欧と思っているという
関連項目[編集]
官職 | ||
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先代: | 内閣総理大臣 第87・88・89代 : 2001年 - 2006年
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次代: |
先代: | 厚生大臣 第74代 : 1988年 - 1989年
第86代 : 1996年 - 1998年 |
次代: |
先代: | 郵政大臣 第55代 : 1992年 - 1993年
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次代: |
先代: | 外務大臣 第132代 : 2002年(兼任)
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次代: |
先代: | 農林水産大臣 第38代 : 2005年(兼任)
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次代: |
党職 | ||
先代: | 自由民主党総裁 第20代 : 2001年 - 2006年
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次代: |
先代: | 清和政策研究会会長 第5代 : 2000年 - 2001年
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次代: |
歴代内閣総理大臣 | |||||
第85・86代 森喜朗 |
第87・88・89代 2001年–2006年 |
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第代 [[]] |
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第代 [[]] |
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