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松沼 緑(まつぬま みどり、1971年12月3日 - 1993年11月30日)は、日本の女性騎手。本名は阿井 緑(あい みどり)。
顔立ちは「美人タイプ」。将来を期待されていたが、21歳の若さで突然自殺した。
人物[編集]
東京都生まれ。1990年3月に都立田園調布高を卒業し、同年10月、地方競馬教養センターに入所。1992年9月に騎手免許を取得。競馬の社会に縁故はなく、まったく面識のない大塚三郎調教師に直談判して所属騎手にしてもらったというガッツの持ち主だった。
デビューは1992年10月15日(キョウワセレモニー=9着)。 同年は16戦して2着3回が最高。1993年は4月9日トウカンリジェントで初勝利を挙げ、10月10日には1番人気のセブンステップスに騎乗し逃げ切り勝ちして2勝。通算成績は100戦2勝2着13回で、運対率は1割5分。同期生は6人いたが、2年目の女性騎手としてはいい方だった。年収約500万円。
キックボクシングは、弱かった体を鍛えるために始めたらしく、プロ・ライセンス取得後の1989年9月には、初めての試合が予定されていたが、本人の病気のため流れてしまったという。
暇な時間には、若手の騎手仲間を集めてキックボクシング教室をするなど、ちゃめっけも見せてはいたが、どちらかといえば、自分の殻に閉じこもるタイプ。
謎の首吊り自殺[編集]
1993年11月30日午前6時10分ごろ、東京都品川区の八潮団地内の公園で、首をつって死んでいるのが見つかった。木の枝に三つ編みにしたビニールのひもを結びつけ、両足は地上約60cmのあたりを漂っていたという。最初に発見した男性新聞配達員(19)によると、白と紫のジャージー姿で、運動靴を履いていた。後ろで束ねていた長い髪は前にだらりと下がり、顔を覆っていたという。死亡推定時刻は午前4時ごろ。遺書はないものの、事件性は見られず、自殺と断定された。死体は現場から5分ほどの大井競馬場に移され、場内の厩務員共済会館に安置された。周囲の話では悩んでいるという雰囲気は、以前からあったという。10月18日に吐血して入院したが、その時も「自殺未遂説」が流れていた。
松沼緑さんの葬儀[編集]
葬儀は12月2日、厩務員共済会館で行われ、200人を超える関係者が参列。 式中、父親をはじめ残された家族は憔悴しきった表情。葬儀委員長を務めた 師匠の大塚三郎調教師が「あと3年、我慢してほしかった」と言葉に詰まりながら悲痛なあいさつをすると、 ショッキングな事件だっただけに、参列者からも嗚咽が漏れていた。