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2014年7月9日 (水) 22:11時点における最新版
千葉ロッテマリーンズ(ちばロッテマリーンズ)は、日本のプロ野球球団。パシフィック・リーグに所属する。
千葉県を保護地域とし、同県千葉市美浜区にあるQVCマリンフィールドを専用球場(本拠地)としている。また、二軍(イースタン・リーグ所属)の本拠地は埼玉県さいたま市南区にあるロッテ浦和球場である。
目次
球団の歴史[編集]
東京時代[編集]
毎日時代[編集]
- 1949年9月、毎日新聞社を親会社とする毎日球団が設立され、「毎日オリオンズ(まいにちオリオンズ)」が結成された[1]。毎日新聞社はもともと昭和初期にセミプロ野球チーム『大阪毎日野球団』を組織していた。戦後、正力松太郎からの勧誘を契機に球団結成の気運が高まり、戦前の大阪毎日野球団を基礎に、自ら主催する都市対抗野球の有力選手をスカウトして球団を結成。9月21日、日本野球連盟に加盟を申請。
- リーグ拡大の機運にも乗って加盟を申請したが、毎日新聞のライバル会社であった読売新聞社(読売ジャイアンツの親会社)・中部日本新聞社(中日ドラゴンズの親会社)が強く反発。交渉は平行線を辿り、毎日オリオンズと電鉄系を中心とした毎日オリオンズ加盟賛成派の阪急ブレーブス・南海ホークス・東急フライヤーズ・大映スターズ・西鉄クリッパース・近鉄パールスの7球団からなる太平洋野球連盟(パシフィック・リーグ)と毎日オリオンズ加盟反対派の大阪タイガース・読売ジャイアンツ・中日ドラゴンズ・松竹ロビンス・大洋ホエールズ・広島カープ・西日本パイレーツ・国鉄スワローズの8球団からなるセントラル野球連盟(セントラル・リーグ)が結成される「2リーグ分立騒動」に発展した(詳細はプロ野球再編問題 (1949年)を参照)。
- この騒動の中、大阪タイガースの主力選手であった若林忠志・別当薫・土井垣武・本堂保次・呉昌征が毎日に移籍した。加盟賛成を表明しながらリーグ分立直前に態度を翻した大阪に対し、毎日が意趣返しに大量の選手引き抜きを行ったといわれた。
- 1950年のパ・リーグ公式戦開始より参戦。本拠地は後楽園球場。毎日新聞東京本社運動部長で、戦前は明治大学のエースから前述の大毎野球団の一員となった湯浅禎夫を総監督、前大阪監督の若林忠志を監督(選手兼任)とする二頭制をとり(実質的には湯浅が監督権限を掌握し、記録上の監督も湯浅である)、大阪からの移籍組に、大洋漁業(後の大洋ホエールズ)から獲得した河内卓司・戸倉勝城を加えて「ミサイル打線」を形成、投手では前年の都市対抗野球を制した別府星野組のエース荒巻淳や、大洋から獲得した野村武史が活躍。10月25日、対東急戦に勝利して、活動1年目にしてリーグ優勝[1]、日本シリーズでも松竹ロビンスを4勝2敗で圧倒し、初の日本シリーズで優勝を達成した。打者では別当薫が本塁打、打点王の二冠王を獲得し最優秀選手となり、投手では荒巻淳が最多勝、最優秀防御率の二冠王で新人王となっている。
- 1951年は首位南海と22.5ゲーム差のリーグ3位に終わる。
- 1952年7月16日、福岡・平和台野球場での対西鉄ライオンズ戦で、雨天と日没を悪用し故意に試合をノーゲームにするという毎日側の策略に観客が激怒し暴動が発生(平和台事件)。7月27日、責任を取り総監督の湯浅、監督の若林が2人とも更迭される。この年は南海と争うものの2位に終わる。シーズン終了後に若林、湯浅がそれぞれ復帰[1]。
- 1953年、西宮球場での対阪急戦が、NHKによるプロ野球初のテレビ中継となる[1]。1954年チームは5位に終わる。オフには別当薫が選手兼任で監督就任。1955年、榎本喜八が入団初年度から新人王を獲得する活躍を見せる。チームは3位に終わる。1956年は4位に終わる。
- 1957年、シーズン成績は3位に終わる。11月28日、成績が低迷していた大映ユニオンズ(大映野球)と対等合併し「毎日大映オリオンズ(まいにちだいえいオリオンズ)」に改称。略称は「大毎オリオンズ(だいまいオリオンズ)」。新会社「毎日大映球団」[2]が設立。大映社長の永田雅一がオーナーに就任。
- 毎日オリオンズ時代のユニフォームはホーム用がニューヨーク・ヤンキースタイプで、ビジター用がロサンゼルス・ドジャースタイプだった(毎日オリオンズ時代のユニフォーム)。
大毎時代[編集]
- 1950年の優勝以後、西鉄と南海に水をあけられていた。1950年代後半には、西日本に本拠を置く両チームがリーグの覇権を握り、関東の球団で集客を期待されたオリオンズが優勝できないことがパ・リーグの不人気の原因であるとする指摘が複数なされるほどだった[3]。
- 1958年、大毎の初年度は4位となり、オフには、この年セ・リーグの首位打者となった田宮謙次郎がA級10年選手の権利で阪神より移籍する。翌1959年は、優勝した南海と6ゲーム差の2位に浮上。
- 1960年、西本幸雄が監督に就任。新監督のもと榎本喜八、山内和弘、田宮謙次郎らを擁す破壊力抜群の「ミサイル打線」で10年ぶり2回目のリーグ優勝。結果的に2位の南海と4ゲーム差の僅差だった。しかし、大洋ホエールズとの日本シリーズでは、4連敗で敗退。その時のバント戦法が永田オーナーの逆鱗に触れ、西本は1年で解任される。その後はBクラスに甘んじた(1961年・4位→1962年・阪急と同率の4位→1963年・5位)。
- 1960年をもって毎日新聞社は球団から役員を全員引き上げ、経営から事実上撤退。永田が球団経営を掌握する事になる。パシフィック・リーグ誕生時には、毎日新聞は「リーグの広報」役を期待されていた[4]。毎日の撤退は、その戦略が潰えたことを意味した。毎日新聞社史『毎日新聞百年史』(1972年)ではオリオンズについての記述が著しく少ないという指摘がある[5]。
- 1962年より本拠地は永田が私財を投じて荒川区南千住に建設した専用球場・東京球場に移転。
東京オリオンズ時代[編集]
- 1964年、球団名を「東京オリオンズ(とうきょうオリオンズ)」に改称。現在で言うところの地域密着策というわけではなく、東京都を保護地域とする他球団が「東京」を名乗っていない事に永田が目を付け「東京を本拠地とする球団の中でも、“東京”を名乗る我がオリオンズこそが、東京を代表するチームである」と発案したのがきっかけだった(チーム名に「東京」を冠した球団は当時歴代通算4球団目。この他、ヤクルトが2006年から東京ヤクルトスワローズに改称している)。だが、この改称は毎日新聞社側への根回しがないまま行われた為、毎日側が不快感を示した挙句、毎日新聞社の資本も翌1965年1月に引き上げ、なおかつ後援も1966年度シーズンをもって打ち切っている。これによって球団は完全に永田が掌握することになったが、会社名は「毎日大映球団」を維持した。
- 優勝した翌1961年以降、チームは7年連続Bクラスと低迷する。原因として、主砲の山内一弘や、葛城隆雄といった主力選手をトレードで放出し、田宮謙次郎が引退するなど、それまでのミサイル打線を解体して守りの野球を作ろうとしたが、本拠地がそれまでの後楽園球場より狭い東京球場に移った事で、方針としては逆行しているという指摘が多くあったとされ、1964年から1967年にかけてはチーム本塁打より被本塁打の方が多いという状況で、1968年にジョージ・アルトマン、アルト・ロペスなどを獲得してようやくこの数字を逆転し[6]、チームも8年ぶりのAクラス、3位入りしている[7]。
ロッテ時代[編集]
- 1969年1月18日、永田は友人である岸信介の斡旋により、ロッテをスポンサーに迎えて業務提携を結び、球団名を「ロッテオリオンズ」に改称。ただ、正式な球団買収ではないので球団の経営は従来通り毎日大映球団(=永田側)が行って、ロッテは球団名の冠スポンサー(現在に置き換えれば命名権の制度に近い)を取得する形としてとどまった。このため、ロッテ本社からの人材の派遣は行われなかった。
- 1970年、10年ぶり3回目のリーグ優勝。東京球場での優勝決定時には、観客が次々とグラウンドになだれ込み、そのまま真っ先に永田を胴上げした。しかし、初の同一都道府県内のみでの開催となった日本シリーズ(東京シリーズ)は巨人に1勝4敗で敗れる。
- 1971年7月13日西宮での対阪急戦で江藤愼一のハーフスイングの判定をめぐり濃人渉監督が猛抗議、放棄試合を宣告される。10日後、その責任を取る形で濃人が監督を解任され2軍監督に降格、後任に大沢啓二2軍監督が就任。この年は、優勝した阪急と3.5ゲーム差の2位。39本塁打したジョージ・アルトマンなど[8]チーム193本塁打は1963年の南海が記録した183本を抜いて日本プロ野球記録となった[9]。翌1972年は、一転Bクラスの5位に転落。
- 1971年1月25日をもって永田は球団経営から撤退。ロッテが正式に球団を買収して親会社となり、会社名も球団名と同じ「ロッテオリオンズ」になる[10]。以来40年以上にわたりロッテは球団を保有し続けているが、これはパ・リーグに現存する6球団では最長である。
- 本拠地・東京スタジアムは永田と共通の友人である児玉誉士夫の斡旋で国際興業社主の小佐野賢治が経営を引き継いだが、小佐野は経営不振を理由に単独企業での球場経営の継続は困難であると判断。球団と球場は一体であることが望ましいと考え、ロッテに対し球場の買い取りを要求。しかしながら、ロッテ側は費用対効果の面で難色を示し、賃借継続を要請して交渉は平行線を辿る。結局、1972年シーズンオフに監督に就任した金田正一が「あそこは両翼の膨らみが無くて本塁打が入りやすい。投手泣かせの球場を買い取る必要はない」と猛烈に反対したことなどから交渉は決裂。東京球場は閉鎖され、ロッテは本拠地球場を失った。
仙台時代[編集]
- 1973年から宮城県仙台市の県営宮城球場(現:楽天koboスタジアム宮城=東北楽天ゴールデンイーグルス本拠地)を中心に(1974年から保護地域も宮城県に暫定移転)、首都圏では後楽園球場、明治神宮野球場、川崎球場を転々としつつ主催試合を行った。特定の本拠地を持たない状況は1977年まで続き、この5年間は「ジプシー球団」などと揶揄された(この期間の詳細についてはジプシー・ロッテを参照。また歴代本拠地も併せて参照)。
- 同じ年、日拓ホームフライヤーズから合併を持ちかけられるもこれを拒否。このためフライヤーズは日本ハムに売却されることになった(現:北海道日本ハムファイターズ)。また、1971年からオーナーを務めた中村長芳が西鉄ライオンズ(→太平洋クラブライオンズ)の経営に参画・福岡野球株式会社を設立するため、プロ野球協約の一個人・団体(企業)による複数球団保有を禁じる規定に従い、中村が保有していた株式はロッテに譲渡された。
- この年からパ・リーグは前後期制度を導入。成績は前後期ともに2位で総合では3位に終わる。
- 1974年に金田監督の下で有藤通世、山崎裕之、弘田澄男、投手では成田文男、村田兆治、木樽正明らが活躍して後期優勝。プレーオフでは、前期優勝のを3連勝で破りリーグ優勝。中日との日本シリーズでは4勝2敗で日本一になった。この時の日本シリーズの主催3試合は施設上の問題から仙台ではなく後楽園で行われた(この年と1977年度のパシフィック・リーグのプレーオフは宮城で開催されたが、1977年の日本シリーズにロッテが進出していた場合も、ロッテ主催試合は後楽園で行われることになっていた)。また日本一を決定した後の凱旋パレードも、東京・銀座から新宿にかけて行われたのみで仙台では行われず、これらの行為は仙台市民や一部のスポーツ新聞から「地元無視」と批判されたこともあった。
- 1975年、前年の優勝から一転して前期最下位。後期は2位に浮上するも総合4位に終わる。1976年は前後期ともに3位で総合でも3位に終わる。1977年、前期は5位に終わるも後期は優勝。プレーオフでは前期優勝の阪急と対戦。最終戦までもつれ込んだが3勝2敗で敗退。総合3位に終わる。
川崎時代[編集]
- 1977年、神奈川県横浜市で横浜スタジアムの建設が始まったのに伴い、すでに横浜への移転が内定していた大洋と共に本拠地として使えるよう折衝を行ったものの、横浜使用については折衝に失敗。その後川崎市から誘致を受け、翌シーズンから川崎球場への本拠地移転が決定。10月4日に保護地域を神奈川県に移転することが承認された。
- 1978年から正式に川崎球場を本拠地として使用(なお、県営宮城球場でも引き続き年間10試合前後の主催公式戦を開催)している。移転1年目は、総合4位に終わる。
- 1979年、山内一弘が監督に就任。就任1年目は、総合4位に終わるも、1980年には山内の下、レロン・リー、レオン・リーのリー兄弟、投手陣では仁科時成、水谷則博、倉持明が活躍し前期優勝したが、プレーオフで後期優勝の近鉄に3連敗で敗退した。翌1981年はエース村田の大活躍もあり2年連続前期優勝。プレーオフで後期優勝の日本ハムと対戦、1勝3敗1分で2年連続プレーオフ敗退。
- 1982年、山本一義が監督就任。しかし1982年は5位、翌1983年は球団史上初の最下位となり、山本は同年限りで辞任。翌1984年から稲尾和久が監督就任。なお、稲尾は「埼玉県所沢市に移転したライオンズに替わり、ロッテを数年以内に福岡県に移転させる」という条件で監督要請を受諾したが、移転は行われることなく1986年限りで退任。[11]
- 1982年以降は投手陣が振るわず、チームが低迷する。特に1985年は落合の三冠王以外にも西村徳文、レロン・リー、新人の横田真之が打率3割をマークしてチーム打率1位になったものの、投手陣は肘の手術から復帰した村田が活躍したのみにとどまった。マスコミからは広岡率いる西武の管理野球に対し稲尾の「無手勝流野球」と賞賛され、1984年と翌1985年は2年連続で勝率2位を確保したものの、1985年はリーグ優勝した西武から15ゲームも離された。1986年は、一転Bクラスの4位に終わる。1985年と1986年には落合博満が2年連続で打撃部門三冠王を達成している。
- 1987年、有藤道世が監督就任。「稲尾さんのいないロッテに自分はいる必要がない」と発言した落合博満を牛島和彦・上川誠二・平沼定晴・桑田茂の4選手との1対4トレードで中日に放出[12]。また、同年には女性向けのフリーペーパー「URE・P(ウレピー)」を発行。URE・Pはロッテリアなどで入手でき、本拠地を千葉に移転するまで発行された。これにより観客動員数が10万人ほど増えたという[13]。なおこの年は、やはり落合の抜けた打線は迫力に欠け、トレードで獲得した牛島は期待通りの活躍はするも、首位の西武と20ゲーム差の5位に終わる。
- 1988年、この年は最下位だったが、10月19日の近鉄とのダブルヘッダーがパ・リーグの優勝のかかった大一番となり注目を浴びた(詳細は10.19参照)。1989年、二軍の本拠地が東京都青梅市の青梅球場から埼玉県浦和市(現:さいたま市)のロッテ浦和球場に移転[14]。5月13日の対日本ハム戦に勝利し、村田兆治が通算200勝を達成。有藤が監督を退任。後任には、金田正一が2度目の監督就任。しかし、チーム成績は1990年は5位、1991年は首位の西武と33.5ゲーム差の最下位。
- 1991年に内外野全面への人工芝敷設、スコアボードの電光化など川崎球場の改修工事を実施。「テレビじゃ見れない川崎劇場」を謳い文句にファン拡大作戦を実施した(同年の新語・流行語大賞表現部門で『川崎劇場』が金賞に選ばれた)。この年、観客動員は102万1千人で、球団史上初めて100万人を突破、当時の既存12球団では最後の達成となった[15]。
- 球団成績は低迷していたが、毎年タイトルホルダーが現れた。1984年には石川賢が最高勝率、西村が1986年から4年連続で盗塁王、1990年には首位打者になり、1987年は落合とのトレードで中日から移籍してきた牛島和彦が最優秀救援投手(1988年にもセーブ王に輝く)、1988年は高沢秀昭が首位打者・小川博が奪三振王、1989年は村田が防御率1位、1991年は平井光親が首位打者を獲得。
千葉時代[編集]
八木沢監督時代[編集]
- 1991年9月4日、翌1992年から保護地域を川崎から千葉県、専用球場を同県千葉市美浜区の千葉マリンスタジアムに移転する事がオーナー会議によって承認、発表された。移転に伴う新しい球団名は一般公募により改称される事になり、同年11月21日、新しい球団名は「千葉ロッテマリーンズ(英語で海兵隊)」に決定した。
- この年のオフ、金田が監督を勇退。後任に球団OBの八木沢荘六が就任。本拠地移転や球団名変更に伴い、ユニフォーム・球団旗・ペットマーク・マスコットを一新。
- 1992年、本来開幕権はオリックスブルーウェーブが持っていたが、オリックスから開幕権を譲渡され、新生千葉ロッテは本拠地で開幕を迎えた。4月は首位で終えたが、その後は失速、千葉移転初年度は最下位に沈んだ。それでも移転景気に恵まれ、観客動員が130万人を記録するなど順調な滑り出しを思わせた。しかし1993年も5位に終わると移転景気も潰え、観客動員も93万人に激減。千葉県民の目も徐々に冷ややかになっていった。こうして、川崎時代から続く「12球団最低レベルの観客動員数」という大きな問題点には千葉移転後も苛まれることとなる。この年のオフ、当時パ・リーグ会長だった原野和夫はロッテのチーム力の低下と観客動員数の低迷を強く懸念。重光オーナー代行に対し「もっと努力してほしい」と注意を行った。
- 1994年、開幕当初よりチームは低迷し、八木沢は8月1日をもって休養。その後は、中西太が代理監督を務め、5位に終わる。
第1次バレンタイン監督時代[編集]
- 1995年、日本球界初のGM(ゼネラルマネージャー)として広岡達朗が就任すると、広岡はメジャーリーグでの監督経験のあるボビー・バレンタイン監督を招聘。序盤は出遅れるが、2年目ながらトップバッターに起用された諸積兼司、リーグ打率二位の堀幸一、打点王を獲得した初芝清、外国人ながら本人のプレイだけではなくチームの精神的支柱も担ったフリオ・フランコ。伊良部秀輝、小宮山悟、エリック・ヒルマンの先発三本柱、河本育之、成本年秀のダブルストッパー等投打のかみ合った1年となり、結果的に貯金10の2位で10年ぶりのAクラス入りを果たす。翌年の優勝を期待するムードが大きく高まったが、バレンタインが広岡との確執から解任される。
江尻〜山本監督時代[編集]
- 1996年、バレンタインの後任にはコーチとして入閣していた江尻亮が昇格したものの広岡の大学の後輩ということで「広岡の傀儡政権」と陰口を叩かれる。またチームも投手は伊良部が最優秀防御率・ヒルマンが防御率2位・成本が最優秀救援投手を獲得、河本も前年同様の働きをしたがそれ以外が計算出来なかった。野手は外国人が活躍出来ずに、初芝もマークが厳しくなり勝負強さが発揮できず、堀が孤軍奮闘するが焼け石に水で結局5位に沈み、広岡・江尻ともにこの年限りで辞任。伊良部が球団と衝突し半ば強引な形で大リーグ・ニューヨーク・ヤンキースに移籍。ヒルマンも巨人へ移籍。
- 1997年、近藤昭仁が監督就任。伊良部・ヒルマンの抜けた穴は大きく、去年不振だった小宮山が奮闘し最優秀防御率を獲得、黒木知宏が初の二桁勝利、薮田安彦が初の規定投球回数をクリアしたが、ストッパー成本が大怪我でリタイア。野手では新人の小坂誠が新人王に輝き、投手から打者に転向した福浦和也が台頭したが、外国人は長打不足、初芝・堀も不振。また、前年まで多くのマスクを被っていた定詰雅彦・田村藤夫が相次いで移籍し、ドラフトで大学ナンバーワンと評価された清水将海が開幕戦でスタメンマスクに抜擢されたがプロの壁は厚く苦戦を強いられた。結局投打に渡り駒不足で最下位に終わる。
- 1998年、フリオ・フランコが2年ぶりにチームに復帰。ストッパーの河本が離脱しリリーフ陣が崩壊。日本プロ野球ワースト新記録となる18連敗(途中1引き分けを挟む)を喫した(詳細は後述)。ロッテはこの18連敗の間、シーズン通算23勝43敗1分、勝率.358まで戦績を落として最下位へ転落し、借金は一気に20まで膨れ上がった。全18敗のうち逆転敗戦は9、サヨナラ敗戦は4であった。連敗脱出後はリリーフとして新外国人のブライアン・ウォーレンが加入、河本も戦線復帰でブルペンが強化されチームは復調し、シーズン最終成績は61勝71敗3分、勝率.462。借金10まで盛り返したものの最下位からは脱することができず、結果的にこの18連敗が大きな痛手となった。また、総得失点差でプラス(チーム打率もリーグトップ.271。チーム防御率リーグ2位3.70)でありながら最下位となった。近藤は、シーズン終了後の監督退任会見では「今度やるときはもっと強いチームでやりたい」と発言した。
- 1999年、山本功児が二軍監督から1軍監督へ昇格し、投手陣の充実、新人獲得の地元出身者偏重の解消などチームの構造改革に取り組むも、球団の資金難や貧打線、黒木知宏頼みの投手陣(2001年まで)を克服できず定位置のBクラスからは抜け出せなかった(その黒木が故障離脱した2002年は開幕11連敗とまたしても大型連敗を経験した)。この年のオフにそれまでチームを支えていた小宮山がFA権を行使する意向を球団に伝えた結果、自由契約となった。しかし、この時期にドラフトで獲得した清水直行、渡辺俊介、今江敏晃、西岡剛らは二軍生活を経て後のAクラス入り、日本一に大きく貢献している。
- 2002年オフには2000年限りで横浜ベイスターズを退団したロバート・ローズを獲得するが、翌2003年の春期キャンプ中に、野球に対する情熱がなくなったため退団している[16]。
- 2002年と2003年は特に秋に好成績を収めており、両年とも8月末まで5位に低迷していたのが9月から一気に調子を上げ、日本ハムをかわし4位に浮上している。
- 2003年オフ、韓国・三星ライオンズから李承燁を獲得。
第2次バレンタイン監督時代[編集]
バレンタインが「全権監督」として復帰。サンデーユニフォーム(白地に黒のダンダラ模様を入れた上着を着用。パンツは通常のストライプ)を採用。4位で迎えたシーズン最終戦はプレーオフ進出をかけ西武と対戦。3者連続ホームランで逆転し、西武に勝利するも、3位だった日本ハムも勝利したため、0.5ゲーム差で4位が確定。プレーオフ進出を逃した。しかし、シーズン全体では勝率5割を記録した。
今江敏晃、西岡剛の台頭もあり好スタートを切る。上位から下位までどこからでも点を取る打線は、1998年の横浜ベイスターズの「マシンガン打線」になぞらえて「マリンガン打線」と呼ばれ、4番にサブローを起用する打線が機能する。サブローはまったく新しいタイプの4番打者としてチームに貢献した。3月26日の千葉マリンでの開幕戦では、新球団東北楽天ゴールデンイーグルスと対戦し3-1で敗れ、楽天の公式戦初試合初勝利を献上したが、翌日には2リーグ制以降最多得点差となる26-0で楽天に圧勝している。この年から導入されたセ・パ交流戦では24勝11敗で優勝。「セ・パ交流戦初代チャンピオン」となる。8月17日の対埼玉西武ライオンズ戦に勝ち、10年ぶりの勝ち越しを決めると同時に、34年ぶりの貯金30を達成。8月28日の対オリックス戦で勝利し、プレーオフ進出と10年ぶりのAクラスを確定。9月19日、34年ぶりの80勝を達成し(最終的には84勝)、シーズンを2位で終えた。プレーオフ第1ステージで西武、第2ステージで福岡ソフトバンクホークスを破り31年ぶりのリーグ優勝を果たした[17]。10月22日からの日本シリーズでは阪神を4連勝で下し、31年ぶり3度目の日本一に輝く。11月10日から東京ドームで行われた第一回アジアシリーズに出場。決勝で韓国の三星ライオンズを5-3で下して勝利し優勝している[18]。二軍ではファーム日本選手権で阪神を下し優勝しており、この年は一、二軍合計で年間6冠を達成している。11月20日に千葉市中心部と幕張地区の2カ所で行われた優勝パレードでは合計27万人を動員し、同年の阪神の来場者数・18万人を上回る盛り上がりを見せた。この年のボビー政権は、変則的に打線が入れ替わる日替わり打線などを駆使していた。また、その采配がしばしば成功するので、ボビーマジックと言われた。
この年、渡辺俊介(15勝)、小林宏之(12勝)、ダン・セラフィニ(11勝)、清水直行(10勝)、久保康友(10勝)、小野晋吾(10勝)が2ケタ勝利を挙げた[19]。また久保の新人10勝の記録は毎日時代の1950年の荒巻淳(26勝)・榎原好(16勝)以来球団史上3人目のことだが、荒巻と榎原は左投手なので、右投げの新人投手が2ケタ勝利を挙げたのは球団史上初である。
小坂誠と李承燁が巨人へ金銭トレードされ、セラフィニがオリックスへ移籍。交流戦は2年連続となる優勝となったが、夏場以降は急失速し、最終的にシーズンを4位で終えている。オフには、福岡ソフトバンクホークスを退団したフリオ・ズレータを獲得。
3月24日の開幕戦(千葉マリンの対北海道日本ハムファイターズ戦)が降雨コールドで引き分け[20]。翌日も延長12回で引き分け[21]。投手陣は、中継ぎ陣が藤田宗一の防御率10点台を超える乱調や、小林雅英の度重なる救援失敗により、事実上YFKは崩壊したが、38HPで最優秀中継ぎ投手賞を獲得した薮田安彦が、シーズン終盤に抑えに回り、2年目の川崎雄介と新人の荻野忠寛が活躍し、強固な中継ぎを維持できた。先発陣はエース清水直行が6勝どまりだったものの、渡辺俊介が不振から脱却し、援護が無いものの安定した防御率を残し、小林宏之が自己最多の13勝。そして成瀬善久が16勝1敗、防御率1.817で、最優秀防御率と最優秀投手の2冠を獲得する大活躍を見せた。この3人が柱となり、前年を上回る成績を残した。 一方野手陣は福浦和也、今江敏晃、フリオ・ズレータの故障による離脱・不振などでシーズン通して安定した攻撃力を維持できず、早川大輔の台頭もあり得点はリーグトップだったが、首位日本ハムとは2ゲーム差の2位に終わった。クライマックスシリーズ1stステージではソフトバンクを2勝1敗で勝利したが、2ndステージでは日本ハムに2勝3敗で敗退した。
先発投手陣が揃って不調に陥り、さらに開幕直後に捕手の里崎智也・橋本将・田中雅彦が同時期に故障し、前半戦は一時期最下位に沈んだ。後半戦は不調の先発陣をリリーフ陣が支え、打撃陣がチームを牽引し勝率を5割以上としたが、首位西武と4.5ゲーム、3位の日本ハムと0.5ゲーム差の4位となっている。チーム防御率はリーグ最低となった。野手陣に故障者が多く、復活を期待されていたズレータの不振や今江の骨折による長期離脱なども重なり、チーム打率は前年より上昇したものの打撃力は安定しなかった。投打がうまくかみ合わず、大量得点しても大量失点してしまうという試合が多かった。12月21日、球団はバレンタインと5年目以後の監督契約は結ばず、4年目の2009年シーズン限りとする旨を発表。
ロッテが東京オリオンズのスポンサーとなって40周年を記念したマークを導入。5月21日、淑徳大学とパートナーシップ包括協定を締結。シーズン中に、バレンタインの監督退任騒動が浮上。その影響もあってチームは低調な成績に終わり、2年連続Bクラスの5位でシーズンを終了。バレンタインの後任にはヘッドコーチの西村徳文が監督に昇格。韓国・ハンファ・イーグルスからFA宣言した金泰均を獲得。
西村監督時代[編集]
シーズン序盤はルーキー荻野貴司や金泰均らの活躍で快調なスタートを切ったものの、荻野貴と唐川侑己の長期離脱など相次ぐ主力の故障や夏場の金泰均の打撃不振などが続き、交流戦以降は徐々に調子を落としたが、楽天以外の5チームによるAクラス争いの中で終盤まで首位戦線に食い込み、首位ソフトバンクと2位西武からは2.5ゲーム差、4位の日本ハムと0.5ゲーム差の3位でシーズンを終えた。
クライマックスシリーズのファーストステージでは、西武に2連勝。ファイナルステージでは、ソフトバンクに王手をかけられながらその後、3連勝で4勝3敗で連破し、クライマックスシリーズを制覇。史上初のリーグ3位からの日本シリーズ進出となった。日本シリーズでセリーグ優勝の中日を4勝2敗1分で下し、5年ぶり4度目の、日本一となり、パリーグ初のリーグ優勝せず[22]に日本シリーズを制した球団となった[23]。3位からの日本一は史上初めてである。11月13日、日韓クラブチャンピオンシップではSKワイバーンズを3-0で降して日韓王者に輝いた。
12月27日、本拠地の千葉マリンスタジアムがテレビショッピング専門チャンネル・QVCジャパンによる命名権導入に伴い、名称を「QVCマリンフィールド」に改めることを発表した。
オフには小林宏之が阪神へ、西岡が大リーグ・ミネソタ・ツインズへそれぞれFA移籍している。
3月11日に発生した東日本大震災では、本拠地・QVCマリンフィールドに目立った外傷はなかったが周辺が液状化現象を起こすなどあり、この年のQVCでのオープン戦はすべて中止となっている[1]。また開幕が当初予定の3月25日から4月11日に延期となったことから、開幕戦はQVCでの楽天戦となり[24]、6対4で敗れ開幕戦は6年連続敗戦となった。5月19日の対中日戦(QVC)の敗戦で勝率5割として[25]以降は借金生活となり、6月8日の対阪神戦(QVC)の敗戦で最下位に転落[26]。交流戦は8勝14敗2分の10位[27]。6月29日にはサブローが工藤隆人プラス金銭で巨人にトレードされる[28]。前半戦は借金1の3位で折り返す。9月7日の対西武戦(西武ドーム)に勝利し球団通算4000勝達成[29]するが、9月29日には9年ぶりの11連敗を記録[30]、翌日対日本ハム戦(QVC)に勝利連敗を止めるものの、この日3位オリックスが勝利してBクラスが確定[31]、10月9日の対楽天戦(Kスタ宮城)に敗れたことで最下位が確定。前年日本一のチームが最下位になるのは日本プロ野球3度目、パ・リーグでは初めて[32]。最終的には54勝79敗11分、首位ソフトバンクと33.5ゲーム、3位西武と13ゲーム差[33]。得点は球団史上最低記録となる432[34]、チーム本塁打は46本で球団史上最少、50本以下だったのは1959年の近鉄以来。2桁本塁打の選手がいなかったのは球団史上初。この年の本塁打王の西武中村剛也の48本を下回り、1959年の近鉄以来の記録となった[35][36]金泰均が打撃不振や怪我がありシーズン途中9月に帰国、退団している[37]。12月23日、この年6月に巨人に移籍したサブロー[38]がFA移籍で半年でロッテに復帰[39]。
開幕戦から1952年以来の60年ぶりの4連勝をするなど[40]、序盤から首位争いをし5月11日に対ソフトバンク戦(QVC)に6対4で勝利し首位浮上[41]。交流戦は12勝7敗5分で3位。前半戦を42年ぶりの首位で折り返した[42]。しかし後半戦は7月31日の対日本ハム戦(QVC)に5対3に敗れ、2カ月半ぶりに首位陥落し[43]。8月31日からは途中球団ワースト記録となる6試合連続1得点以下もあり[44]、9連敗するなど順位を落とし、ソフトバンク、楽天とクライマックスシリーズ進出を争うが、10月3日に対オリックス戦(京セラD)に2対1で敗れたことで2年連続のBクラスが確定し[45]、最終的に62勝67敗、優勝した日本ハムから10ゲーム、3位ソフトバンクと3.5ゲーム差の5位に終わる。角中勝也が首位打者を獲得、独立リーグ出身の打者としては初めてとなった[46]。 二軍はイースタンリーグ優勝、ファーム日本選手権でもソフトバンクを3対1で下し2年ぶり3度目の日本一になっている[47]。益田直也が中継ぎとしてリーグ2位、新人最多記録の72試合に登板し、新人記録となる41ホールド、43ホールドポイントを挙げ最優秀新人賞を獲得。
10月8日、西村が監督退任[48]、15日にはヘッドコーチの高橋慶彦ら8コーチも退団[49]。10月18日、監督に伊東勤[50]が就任。
伊東監督時代[編集]
5月9日に7年ぶりの8連勝で首位に立つ[51]。交流戦は13勝10敗1分の5位。7月3日に2位の楽天に敗れ、首位に並ばれると、6日には4連敗で2位[52]、前半戦を2位で折り返した[53]。9月26日の対日本ハム戦(札幌ドーム)に5対6で敗れ、楽天が対西武戦(西武ドーム)に4対3で勝利した事で楽天の優勝が決まり、優勝を逃すが[54][55]、10月4日にソフトバンクが対日本ハム戦(札幌ドーム)に4対5で敗れた為、この日試合のなかったロッテの3年ぶりのクライマックスシリーズ進出が決定[56]。10月8日に西武ドームでの西武とのシーズン最終戦は共に勝った方が2位確定となったが、西武に敗れ3位となった[57]。クライマックスシリーズファーストステージ(西武ドーム)は西武に2勝1敗で勝利したが[58]、ファイナルステージ(Kスタ宮城)は楽天に1勝4敗で敗れて敗退した[59]。
チーム成績・記録[編集]
- リーグ優勝 5回(1950年、1960年、1970年、1974年、2005年)
- クライマックスシリーズ優勝 1回(2010年)
- 日本一 4回(1950年、1974年、2005年、2010年)
- アジアシリーズ優勝 1回(2005年)
- 日韓クラブチャンピオンシップ[60]優勝 1回(2010年)
- セ・パ交流戦優勝 2回(2005年、2006年)
- 前期優勝 2回(1980年前期、1981年前期)
- 後期優勝 2回(1974年後期、1977年後期)
- Aクラス 26回(1950年 - 1952年、1954年 - 1957年、1959年、1960年、1968年 - 1971年、1973年、1974年、1976年、1977年、1980年、1981年、1984年、1985年、1995年、2005年、2007年、2010年、2013年)
- Bクラス 38回(1953年、1958年、1961年 - 1967年、1972年、1975年、1978年、1979年、1982年、1983年、1986年 - 1994年、1996年 - 2004年、2006年、2008年、2009年、2011年 - 2012年)
- 連続Aクラス入り最長記録 4年タイ・2回(1954年 - 1957年、1968年 - 1971年)
- 連続Bクラス最長記録 9年タイ・2回(1986年 - 1994年、1996年 - 2004年)
- 最下位回数 8回(1983年、1988年、1989年、1991年、1992年、1997年、1998年、2011年)
- 最多勝 85勝(1955年)
- 最多敗 85敗(1963年)
- 最多引分 15分(1978年、1980年、1984年)
- 最高勝率 .704(1950年)
- 最低勝率 .361(1983年)
※1974年は阪急とのプレーオフを制して優勝(併せて、前後期通算での最高勝率=.580を達成)。以来、39年間年間最高勝率が無く、12球団で最もリーグの年間最高勝率から遠ざかっている。また、これは横浜ベイスターズの大洋時代から続く1961年 - 1997年の37年間を超え、NPB最長記録となっている。
その他の記録[編集]
- 最小ゲーム差 1.0ゲーム(1952年)
- 最大ゲーム差 39.5ゲーム(1983年)
- 最多本塁打 193本(1971年)
- 最少本塁打 46本(2011年)
- 最高打率 .287(1985年)
- 最低打率 .232(1965年)
- 最高防御率 2.40(1956年)
- 最低防御率 5.12(1983年)
- 最多連勝 18(1960年)※途中1引き分け挟む、引き分けを挟まない記録は14(同年)
- 最多連敗 18(1998年)※途中1引き分け挟む、引き分けを挟まない記録は12(同年)
- 1イニング最多得点 15得点 (2009年6月11日対広島6回裏・日本プロ野球記録)
チームの特徴[編集]
- 1982年まで、前身球団を含めて当時の12球団では唯一、最下位がなかった。前後期制であった1975年前期と1982年前期はともに最下位に沈んでいるが、年間通算での最下位は1983年が球団史上初である。但し、それ以降は低迷が続き、1983年から2011年までの29年間で8回も最下位に沈んでいる。
- チームの生え抜き選手が監督に昇格する読売ジャイアンツや阪神タイガース、広島東洋カープなどと比べ外様監督が多い事でも知られている。このため、生え抜き監督は西本幸雄・戸倉勝城・山内一弘・有藤道世・八木沢荘六・西村徳文の6人しかいない。但し、コーチはオリオンズ・マリーンズOBが多く、山本功児が監督を務めていた時は山本も含めてコーチ全員が球団OBだったこともある。
- 過去に4回、日本選手権シリーズを優勝しているが、フランチャイズ制が確立されていなかった1950年以外の3回はいずれもロードの球場(1974年・中日球場、2005年・阪神甲子園球場、2010年・ナゴヤドーム)で胴上げをしており、本拠地(後楽園、東京、仙台、川崎、千葉)での日本一の胴上げは未だ成し遂げられていない。但し、リーグ優勝に於ける胴上げはある(1970年・東京、1974年・仙台=プレーオフ優勝。他に年間優勝ではないが、1981年前期の優勝を川崎で達成している。本拠地での日本一の胴上げを未だ成し遂げられていないのは、現存する11球団では他に阪神タイガース〔1985年・西武ライオンズ球場〕のケースしかない。)。
- 球団創立以来、オリックスとともに沢村賞を受賞した投手が1人もいない(2013年現在)。
- 完全制覇[61]は1950年のみしかなく、全球団の中で最も遠ざかっている。
東京・仙台・川崎時代[編集]
- 以前のニックネーム「オリオンズ」は星座のオリオン座が由来。球団創立以来1991年まで使われた。チームの愛称は一般公募され「オリオンズ」は得票数5位だったが、星が当時の親会社・毎日新聞社の社章でもあることから付けられた。
- 大映ユニオンズと合併した際、毎日側は新球団名として「毎日スター」を提案。これを受けた永田雅一は一応納得はしながらも「以前、毎日新聞は『大毎』(大阪毎日新聞の略称)と呼ばれ親しまれていた。今でも自分は毎日を大毎と思っている。何故この新球団を『大毎オリオンズ』としないのか」と反論。毎日側も納得し、新球団名は永田案が通った。しかし実際には「プロ野球には我が大映が先んじて進出しているのだから、後発の毎日よりも前に大映を示す“大”の文字が入るのが当然である」という永田の思惑によるところが大きかったといわれる。
- 毎日新聞がオリオンズの経営から手を引いたのちも、球団誕生に合わせて改称した喫茶店「茶房オリオンズ」が毎日新聞大阪本社ビルに(ビル建て替えに伴う移転を乗り越えて)存在し、名残をとどめていたが、2014年4月25日限りで閉店した[62][63]。閉店に際して開かれた「感謝の集い」には、千葉ロッテ球団からも集いに対する祝電が寄せられた[62]。
千葉時代[編集]
- 1992年から愛称を「オリオンズ」から「マリーンズ」に変更。公募されたものの1位は「ドルフィンズ」だった。しかし中日の略号「D」と被る為に、他に使用例のない頭文字「M」の「マリーンズ」が選ばれた。これは本拠地である千葉マリンスタジアムの名称にちなんだものであるが、綱島理友が「マリーンズを日本語に訳すとどういう意味になるのか」と疑問に感じたため球団事務所に電話で問い合わせたところ、球団からは「一応、海の勇者という意味で使っています」との公式回答があったという。ただし英語における名詞形のmarineには「海兵隊員」以外の意味合いはなく、このため公式サイト上の試合速報でも海兵隊の文字が散見される。オーナー企業であるロッテは菓子の製造・販売を主たる事業としており、球団名との関連は無い。なお公募の際、「パラダイス」票が最終選考まで残った。また変更なしの「オリオンズ」票も多数あった。千葉に因んで有名な千葉を本拠地にした架空のチームを舞台にした漫画『すすめ!!パイレーツ』と同じ「パイレーツ」も多く票を集めたが、作品との混同とそれにまつわる権利上のトラブルを避けたのと、作中でのパイレーツが(基本的には)笑い者にさえされている弱小チームであるため、実在のチームに名付けるのはイメージが悪いという判断で却下されている。この時、1950年のみ存在した球団の西日本パイレーツ及び、MLBのピッツバーグ・パイレーツとは関係ない。
- FAによる選手の補強には消極的である。1995年オフに仲田幸司が阪神から移籍、2011年オフにサブローが巨人からFAで加入(厳密には古巣に復帰)、2013年オフに涌井秀章が西武から移籍しているのみ。
- また、球団からFA宣言した選手とは再契約をしない方針をとっている(例外は1998年オフの初芝清、堀幸一)
チームスローガン[編集]
- 1993年:「心・技・体 '93」
- 1994年:「激闘」
- 1996年:「One at a time(一つ一つを大切に)」
- 1998年:「Play Hard '98」
- 1999年:「For The Team」
- 2000年:「For the Team 2000」
- 2001年:「For the Team Strive for Victory(チームのために勝利に向かって奮闘しよう)」
- 2002年:「For the Team」
- 2003年:「Ambition for Victory (勝利への執念)」
- 2004年:「This year is beginning of the future.(今年から未来が始まる)」
- 2005年:「BUILDING OUR DREAM!~夢をみんなで~」
- 優勝直後には「We built our dream(夢を叶えたぞ)!」の文字が公式サイトに現れた。
- 2006年:「Let us do it again(もう一度夢をみんなで)」
- 2007年:「All Hands to The Flag! ~結束、フラッグのために~」
- 2008年:「A Passion for Our Dream,A Commitment to The Flag(夢に情熱を、フラッグに誓いを)」
- 2009年:「Remember ~1969―2008、2009~」
- 2010年:「和」
- 2011年:「和 2011」「今こそみんなで和の力」
- 「今こそみんなで和の力」は東日本大震災復興スローガン。
- 2012年:「和のもとともに戦おう」
- 2013年:「翔破~頂点を目指して~」
- 2014年:「翔破 ~頂点へ、今年こそ。~」
マスコット[編集]
現在のマスコットであるマーくんは4代目でカモメがモチーフ。ペットマーク等に使用されているほか、千葉県や千葉市のキャンペーンなどにも起用されている[64]。
- マーくん
- 6才・メインキャラクター
- ユニフォーム姿(背番号なしでネーム「MAR-KUN」のみ)。
- チーム・マイナス6%メンバー(744号)
- また、韓国のロッテジャイアンツには、マーくんによく似たマスコットキャラクターがいる(事実、ジャイアンツのペットマークに使用されている)。
- 2012年3月1日からはtwitterのアカウントが独立[65]。元々千葉ロッテマリーンズの公式アカウントでつぶやいていたものの、専用のアカウントが出来たことで発言の頻度が増している(2012年4月現在)。千葉ロッテマリーンズの公式アカウントでつぶやいていたころの名残か、つぶやく際に毎回「マーです」と名乗っている。
- リーンちゃん
- 4歳・マーくんの彼女
- ポニーテールでピンクのサンバイザーに白のトレーナー若しくはピンク系のスタジャン・白またはピンクのプリーツミニスカ姿。
- 「M☆splash!! ダンスアカデミー」の校長を務めている。
- チーム・マイナス6%メンバー(745号)
- ズーちゃん
- 3歳・マーくんの弟
- 前後逆に被った黒のキャップに灰色のパーカーと水色のハーフパンツ姿で左頬に絆創膏。
- チーム・マイナス6%メンバー(746号)
- クール(COOL)
- イワトビペンギンをモチーフにサングラス(登場当初はビン底メガネ。環境問題に関するレクチャーを行なう時には掛け替えたりもする)
- 「ロッテオリオンズ応援団」と書かれたハッピやチーム・マイナス6%のロゴ入りのビジターユニフォーム(背番号なし)などを着用
- マリーンズ誕生後の1992年、オリオンズのマスコットとなるべく川崎球場にやってきてしまい、チームを探して日本や世界中をあちこち探し回ってようやく千葉にたどり着いたという設定。2005年8月3日、謎の新マスコットとして突然デビュー。8月24日に名前が正式発表される。登場当初は「ビジターチームのファンを盛り上げる」ということで相手チームのビジターユニフォームを羽織り、レフトスタンドや三塁側スタンドに陣取ったビジターチームのファンを盛り上げていたが、正マスコットの座を狙う「悪のマスコット」というポジションに変更された。
- 2006年8月に小池百合子環境大臣(当時)より「環境戦士」に任命され、「環境戦士COOL」として環境問題啓発活動も行っている。チーム・マイナス6%メンバー(546号)
- 2007年4月にテーマ曲『COOLだぜ!』(作詞・作曲・演奏 伝承歌劇団-エウロパの軌跡-)が作られた。
- 運転免許(普通・8トン未満限定中型一種)を持っているらしく、マイクロカーの運転までしてのける。
いずれも基本的には喋らないが、キャラクターショーでは野球マスコットにしては珍しく喋る(声優不明)。また、イベント限定キャラクターとして、まれにコアラの「チャンスくん」(「コアラのマーチ」にちなむ。「戦」ユニフォームで背中に顔シルエットと“CHANCE”の文字)が登場する。
コスチュームの基本は上述の通りだが、夏には4人とも浴衣を着たり、アロハシャツに半ズボン・麦藁帽子姿になったりする。
- 過去のキャラクター
- 初代マスコットは東京オリオンズ時代の「桃太郎(刀の代わりにバットを持っている)」である。
- 2代目マスコットはロッテオリオンズ時代の「風船ガム坊や(バブリー君という説もある)」である。
- 3代目マスコットはピンクのユニフォームのころのカモメのマスコット(名称不明)である。現在のマーくんとは容姿が異なる。
営業・ファンサービス[編集]
瀬戸山隆三が球団代表に就任し、ボビー・バレンタインが監督に復帰した2004年以降、千葉マリンスタジアムの「ボールパーク化構想」が方針付けられ、積極的なファンサービスに尽力するようになった。プロ野球再編問題によりロッテが千葉を去る可能性が取りざたされたことをきっかけに地元行政側との協力関係が結ばれるようになると、地域密着型のファンサービスがより積極的に展開された。セ・パ交流戦の際にこれを見た阪神タイガース前オーナーの久万俊二郎は「これこそファンサービス」と感動したという。また、京葉線の最寄り駅の海浜幕張駅の発車メロディも2005年3月26日から「We Love Marines」に変更するなど、スタジアム周辺の随所で地域との共存がアピールされ続けている。一連のファンサービス向上には、荒木重雄事業本部長(当時)の貢献が大きく、荒木の在任時には、「12球団の中でファンサービスが一番良いのはマリーンズ」と評されていた。
ボールパーク化構想[編集]
「ボールパーク化構想」の最大の障害となっていたのは、球団側と行政側との溝であった。千葉移転以降のロッテの観客動員数の伸び悩みや市の財政難などにより、千葉市など行政側は施設の改修や増設にあまり積極的ではなく、球団がファンサービスの企画を立案しても行政側が条例を盾に認可を渋るケースが多々あった。また、千葉マリンスタジアムは球場内が千葉市、幕張海浜公園の一部である駐車場などの球場外の敷地が千葉県の管理となっていた。そのため、過去には売店の設置やフェンスの企業広告掲出が一切出来ず、球団に収益が全く入らない状態だった。2004年以降は県と市の協力を得てこれを改善し、スタジアム敷地内に売店や屋台等を設置したり、動物とふれあう場所を作ったり、スタジアム内でもフェンス広告の掲出を開始したり、スタンド内にベビーベッドが設けられるなどの展開があった。
2004年のプロ野球再編問題における10球団構想では、ロッテとダイエーを合併して「福岡ロッテホークス」とする案が取り沙汰された。ロッテが千葉を去る可能性から行政側には危機感が生まれ、県と市は条例の改正などで千葉マリンスタジアムの使用規制を大幅に緩和し、更に2006年度からは指定管理者制度を導入して、球団を千葉マリンスタジアムの指定管理者に指名して運営を委託するなど、現在では球団と行政とが一体となって地域密着策を展開している。
プロ野球球団が本拠球場の指定管理者になるのは、ロッテが初のケースとなった。この他2009年には、広島東洋カープが同年開場した本拠地のMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島の指定管理者となった他、都市公園法に定める「管理許可制度」の適用による運営体制を導入しているケースとしては、オリックス・バファローズが2004年まで本拠地(2005年以後は準本拠地)としていたほっともっと神戸と、2005年以後の東北楽天ゴールデンイーグルスの本拠地のクリネックス(旧フルキャスト)スタジアム宮城での例がある。
360度全席自由席[編集]
ロッテは2005年から「360度全席自由席」と銘打って、本拠地の千葉マリンスタジアムの場内全席を自由席としてチケットを均一料金に割り引くファンサービス企画を、毎年夏の2試合を対象に行っている。
そもそも、この全席自由席企画は2005年6月28日と6月29日に予定していた韓国での公式戦(対福岡ソフトバンクホークス)が中止となったことから(後述)、その代替企画として打ち出されたものである。韓国での開催が中止となった2試合は千葉マリンで代替開催することになったものの、週末に比べて動員力の低い平日のナイトゲームで、更に韓国開催を前提にシーズンシートの契約対象外としていたことから、球団営業部はイベントの実施を決定した。
こうして立案されたのが「来場者に色々な席で、様々な角度からゲームを見てもらえるように」という発想からスタンドを全席自由席とし、入場料も大人1500円、子供500円の均一料金にするという、NPB12球団の一軍公式戦としては初の試みだった。加えて当日の企画案を検討した結果「夏前のフェスティバルのノリで、ビアガーデンのように盛り上がれる企画」という方向性が決まり、ビールを通常の半額(1杯300円、ソフトドリンクも200円に割り引き)で販売するなどのサービス実施を決定、企画タイトルは「360度ビアスタジアム」と銘打たれた。結果、2日間とも通常の平日のナイターを大幅に上回る観客を集め、概ね好評だった。「ビアスタジアム」は翌2006年シーズンも6月27日の対北海道日本ハムファイターズ戦、8月30日の対ソフトバンク戦の2度実施され(但しドリンク類はブースのみでの販売とし、売り子の巡回販売は行わず)、6月の試合では観衆の一人単位までの発表を開始してから当時最多の29,152人を記録した。
更に2007年はイベントのアイディアを一般ファンから募集し、全席自由席企画を「応援スタジアム」と「ビアスタジアム」の2本立てとして実施することとなった。まず「応援スタジアム」は7月3日の対オリックス・バファローズ戦で実施。通常の外野スタンド右翼側だけでなく内野スタンド一塁側も応援席とし、イニング間には応援ボードコンテストなどを実施。また、ゲストとして渡辺真知子を招聘するなど(一部後述)、様々な企画が行われた。恒例となった「ビアスタジアム」は7月31日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦で行われ、全席自由席企画では最多となる30,016人の観客を集めた。
この全席自由席企画においては、スタンド内を全席自由とすることによって観客の動向が通常時と大きく異なることから、球団営業部では開催当日の場内を細やかにリサーチしている。調査項目は「スタンドのどの席にニーズがあるのか」「どのような観戦スタイルをしているか」など細部にわたっており、調査結果は今後のファンサービスや座席設定など、球団の営業戦略に反映されている。
なお、マリンスタジアム場内に設けられている特別シートは、この企画を実施する際の対応が異なっている。一・三塁側のファウルエリアに設けられた「フィールドウィング・シート」のチケットを希望する場合は、あらかじめ前売入場券を購入した上で抽選に申し込む必要があり、当選者に限り座席指定券が発行される。また内野1階席三塁側の「ピクニックボックス」のチケットを希望する場合も抽選に申し込む必要があり、当選者に限りチケットが販売される(販売価格は通常の15000円が7500円となる。定員5名であるため、1人換算1500円)。この措置は観客の安全性を確保する上で、両座席については規定の定員を遵守しなければならないため「指定席」の扱いとなることによるもので、これら抽選の申込受付はマリーンズオンラインチケットショップで開催日の3週間前に行われる。但し、ネット裏のプレスブースに隣接する「マリーンズ・プレスシート」は座席設定・価格とも対象外で、通常時と同じ設定となっている。
その他の営業・ファンサービス[編集]
- 夏休み期間中(7月下旬 - 8月いっぱい)の千葉マリンでの公式戦は全試合ナイター開催で、5回終了後に花火が打ち上げられる「京成グループ花火ナイター」は毎年恒例である。
- 始球式は一部の例外(ロッテOBによるものなど)を除いてプレーボール直前ではなく、野手が守備位置につく前に行われる。
- チア・パフォーマーチームM☆Splash!!がホームゲームやイベントなどでパフォーマンスを行う。
- 2005年、東北楽天ゴールデンイーグルスが「スタメンに次ぐ控え選手の一人」として、背番号10をファンのための欠番にしたことが話題になったが、それに先駆けてマリーンズでは、ファンを「一軍の25人に次ぐ26番目の選手」として背番号26を欠番とした。元々サッカーでは同様の理由で12番を欠番にしたり、サポーターが「12」という大きな横断幕を作っているが、マリーンズファンもそれに倣ってライトスタンドを覆う「26」をモチーフとしたデザインのビッグフラッグと呼ばれる大横断幕を試合開始前に広げるパフォーマンスを背番号26が欠番になる前から行っている。スタジアム前の6冠記念モニュメントにも2005年当時の監督と選手のサイン付き手形レリーフと共にユニフォームマークの形でプレートが嵌め込まれている。
- 過去にはホーム戦でのラッキー7の攻撃前に「Take Me Out to the Ball Game」が演奏されていた(現在はマリンに集う我ら)。
- 地元千葉県の地方銀行である千葉興業銀行が、同球団およびファンクラブTEAM26のスポンサーになっている。2004年4月からは毎年、同球団の成績により金利が変動する(通常金利に0.026パーセント加算、リーグ優勝で0.26パーセント加算)「マリーンズ応援団定期預金」を販売している。
- 2010年のクライマックスシリーズでは全試合において千葉マリンスタジアムでパブリックビューイングが行われた。入場無料ながら特別ゲストに立川隆史を迎えたほか球団マスコットも総動員されるなど通常の試合以上のような盛り上がりを見せ、千葉市の熊谷俊人市長も応援に駆け付けたほか、日本シリーズ進出が決まった試合では内野1、2階席が解放され約1万3000人の観客が訪れた。
- 2013年から交流戦では他球団を挑発するポスターが毎年制作されている[67]。
独立リーグへの派遣構想(2007年)[編集]
2007年10月1日のプロ野球運営実行委員会で、瀬戸山球団社長は、5 - 8人程度の育成選手を獲得した上で、独立リーグである四国アイランドリーグ(現:四国アイランドリーグplus)の徳島インディゴソックスに派遣する構想を表明した。当日の委員会では結論が出ず、継続審議の扱いになった。一部球団からは「イースタン・リーグの混成チームであるフューチャーズの活用が先ではないか」といった意見が出された。その後、社会人野球側から「育成選手制度の本来の趣旨と異なる」という指摘がなされ、NPB内部の他に社会人野球側とも調整が必要な状況となった。
2007年11月6日のプロ野球運営実行委員会でも合意には至らず継続審議となったが、次回の委員会の前にドラフト会議を迎えるため、来季の派遣については困難という報道がなされた。2007年のドラフト会議で獲得した育成選手5名は、支配下登録を受けた1名を除き2009年のシーズン終了後に戦力外通告を受けて退団した。
約4年半が経過した2012年3月1日にNPB実行委員会が、育成選手に限り四国アイランドリーグplusとベースボール・チャレンジ・リーグへ選手の派遣を認めた[68]。ただし、ロッテはこの制度による選手派遣を実施していない(2013年現在、派遣実績がある球団は広島東洋カープのみ)。
ユニフォームの変遷[編集]
東京・仙台・川崎時代[編集]
毎日時代[編集]
- 1950年(シーズン開幕前) - 練習用(プロトタイプ)として、白を基調としたものとグレーを基調としたものを使用した。
- 白地・濃紺ツバの帽子、白地のシャツ・パンツ(ズボン)、濃紺のアンダーシャツ。シャツには「Mainichi」の胸マーク(筆記体)が入った。
- 濃紺地の帽子、グレー地のシャツ・パンツ、濃紺のアンダーシャツ。シャツには「Mainichi」の胸マーク(筆記体)、左袖に毎日新聞社社旗を流用したデザイン(赤い社章と二本線)が使われた。
- 1950年〜1957年 - ホーム用は当時のニューヨーク・ヤンキース、ビジター用は当時のロサンゼルス・ドジャースをイメージして作られた。1950年シーズン途中から左袖には毎日新聞社の社章に代わりトリコロールのワッペンが付いた(1951年からは月桂樹の枝と「1950」(優勝年)の金糸文字が入った。1952年シーズン途中〜1955年は平和台事件を起こした責任を取る形で廃止したが、1956年には「Orions」ロゴが入る形で復活)。
- シャツ・パンツは、白地に濃紺縦じま(ホーム用)、グレー地(ビジター用)。
- アンダーシャツは、濃紺。
- 胸マークは、ホーム用 - 左胸に「M」マーク(飾り文字書体。濃紺・白縁取り)・ビジター用 - 「Mainichi」(筆記体。濃紺。1950年)、「Orions」(セリフ風書体。濃紺・白縁取り。1950年シーズン後半より使用)。
- 帽子は濃紺地に白い「M」マークの入ったもの。1950年には、白地に濃紺縦じまに白「M」マーク・濃紺ツバの入ったもの(ホーム)、グレー地に白「M」マーク・濃紺ツバの入ったもの(ビジター)も使用された。
- 1956年には、グレー地などを基調としながら、首周り・袖・ズボンサイドにラインが入ったビジター用を、1957年には、「Orions」に代わり「TOKYO」の胸マーク(ヤンキースの「NEWYORK」に似た書体)が入り、ラインを外したビジター用をそれぞれ使用した。
大毎→東京オリオンズ時代[編集]
- 1958年〜1965年 - 球団名が毎日大映オリオンズとなり、胸マークも「Orions」となるが毎日時代のスタイルを踏襲。また、大映からゴシック体の番号フォントが継承された。ビジター用は最初「DAIMAI」だったが、1960年から「TOKYO」に変更される。この間、腰番号や胸番号が付く。
- 1966年 - 赤色をふんだんに使ったホーム用ユニフォームが登場。左袖のワッペンは小さくマイナーチェンジされたもの(「Orions」の文字なし)が使用されたが、シーズン途中の6月22日の対近鉄戦より左袖にペットマーク(バットを持った桃太郎のイラストが描かれたもの)がつく。
- 帽子マークは「T」(赤色・白縁取り)。胸マーク・番号・ライン(首周り・袖・ズボンサイド) - 赤色・濃紺縁取り。
- 1967年〜1968年 - ホーム用がドジャース風(ただし、青ではなく紺を基調としており、胸マーク・背番号は赤、胸番号は紺)となり、縦縞が廃止される。左袖には桃太郎のマークが形を変え引き継がれた。当初首周り・袖・ズボンサイドに赤ラインがあったが翌年廃止され、さらにドジャースに近くなった。このデザインはロッテになってからも引き継がれた。帽子は、濃紺地に白文字の「T」。
ロッテ時代[編集]
- 1969年〜1972年 - 株式会社ロッテがスポンサー(1971年から正式な親会社)となり、球団名がロッテオリオンズに改称。ユニフォームは東京時代のスタイルを踏襲(ただし、紺→青になる)。ホーム、ビジター用共胸番号が消え、赤の「LOTTE」だけのシンプルものになり、「Orions」のロゴは左袖に移る(色は青)。背番号(赤色)はオリジナル書体。また帽子のマークがLとOとの組み合わせと星のマークがついたものになる。
- 1973年〜1991年 - 金田正一監督就任に伴い、ユニフォームを一新。帽子・アンダーシャツが青から紺に代わる。また、金田監督のアイデアを取り入れたニット素材の特徴を生かし、肩、袖、パンツからボディにかけて、両サイドを紺で挟む赤の太ラインが入る。「LOTTE」の胸ロゴは紺色に赤の縁取りのゴシック体(背番号も同様)となり、「Orions」のロゴは消滅(基本ユニフォームとなるホーム用に企業名のみを表したということ)。また、背番号の上に選手名が入り、胸番号が復活する(胸番号・選手名は紺)。帽子のLOと星マークに、赤の縁取りが入る[69]。
- ホーム用はオフホワイト地。
- ビジター用はスカイブルー地で、胸ロゴはホーム同様「LOTTE」。
- 翌1974年より、胸ロゴ・背番号の色が赤色に紺の縁取りへ変更され、ボタンの素材が、白の2つ穴から透明4つ穴タイプに変わる。
- 1984年より、スパイクの色が黒地に白ラインから白地に紺ラインに変わる。
- 1989年より、ボタンの素材が透明からユニフォームの地色と同じ色に変わる。
- 金田監督より、ラインは生地の上に乗せるのではなく、生地と生地との間にはめ込むよう要望があり、当時の技術では非常に苦労したという。
- 背番号の書体の中で「1」については、下に「_」の付かないスタイルであったが、背番号1の選手(ジム・ラフィーバー→ラファエル・バチスタ→高橋博士→愛甲猛)については「_」が付いていた。
千葉時代[編集]
- 1992年〜1994年 - 本拠地が千葉市に移転し、球団名が千葉ロッテマリーンズとなり、初めてプルオーバー・タイプを採用。サンライズ・ピンクとカレント・ブルー(ブルーグレー)で千葉県のイメージを前面に押し出した。
- 帽子は、黒色地に帽子マークはピンクの縁取りに黒文字でCLM(Chiba Lotte Marinesの略)で真ん中に波模様が入ったもの。
- シャツ・パンツは、白(ホーム)、ブルーグレー(ビジター)をそれぞれ採用。
- 首周り・袖口には、黒・ピンクのライン(外側にピンク)が、ズボンサイドにはピンクを黒で挟んだラインが入る。
- 胸マークには「Marines」(筆記体)を、左袖にはホーム「CHIBA」ビジター「LOTTE」(親会社ロッテのロゴマーク)のマークをそれぞれ採用。
- 胸マーク・番号にはピンク・黒縁取り、左袖マーク・背ネームには黒を使用。
- 背番号の「1」の書体は、「_」の無いもの(ただし、左上の欠けていない書体)が引き続き採用されたが、背番号1の愛甲猛については引き続きオリオンズ時代と同様の書体が採用された。
- 1995年〜2003年 - 後述する事情から、広岡達朗GMの提案によりユニフォームを一新。チームカラーを白と黒を基調にしたものになる。毎日オリオンズ時代から東京時代まで使われていた縦縞が29年ぶりに復活し、シカゴ・ホワイトソックスを模したデザインになる。さらに、当時球界で主流になりつつあったユニフォームのパンツ裾を足首まで下げるスタイルを、広岡GMが非常に嫌っていた為、オールドスタイルを実現すべく長めのストッキングを採用(上部に白いMマークの刺繍が入る)。ちなみにビジターユニフォームの胸の文字はホームユニフォームの“M”に対し、“Marines”の文字が入ったものだった。また、スパイクは黒地にホワイトのラインのものに変更。
- 2000年〜2004年 - ビジターでの負けが多い事から、上下グレーのビジター用ユニフォームを上が黒、下がグレーの新たなユニフォームに変更した(球団史上初の上下ツートンカラーのユニフォームである)。ビジターゲームでマリーンズファンが「黒の軍団」と称されるのは、この頃からである。
- 2003年〜2004年 - サードユニフォームとして上下グレーのビジターユニフォームが採用(翌年はセカンドビジターユニフォーム)。このサードユニフォームの胸の文字はホームユニフォームと同じ“M”であり、胸番号は無く、背番号の上には選手の名前が書かれていないものだった。このユニフォームは金曜日、土曜日、日曜日のビジターゲームに使われ、その他の曜日のビジターゲームでは黒い上着のユニフォームが使われた。おおむね、同時期の阪神タイガースのビジターユニフォームに、既存のロッテのユニフォームのマーク・背番号を張り替えたようなデザインだった(ただし、ラインは阪神と違い白に黒を挟んだものであり、阪神のそれと比べ細かった)。
- 2004年〜2007年 - 復帰したバレンタイン監督の提案で、上記のホーム用ユニフォームにプラスする形で、黒いダンダラ帯のはいったサンデーユニフォームが登場。初年度は縦縞の入ったホーム用の白パンツとの組み合わせだったが、翌年から法被に合わせてデザインされた新たな白パンツが登場した。
- 2005年よりユニフォームの名称を変更し、法被と白パンツを組み合わせたものを「誠(まこと)」、法被と黒パンツの組み合わせを「侍(さむらい)」、それまで使われてきた上下縦縞を「戦(いくさ)」とした。また、上下グレーのセカンドビジターユニフォームは廃止され、ビジター用のユニフォームは1種類のみとなった。黒地のビジターユニフォームの胸の文字が“Marines”から帽子のマークと同じ“M”に変更され、濃いピンクのラケットラインが入る。パンツも「誠」と同じものへ変更。「戦」以外のホーム時やビジターでは、帽子のツバには濃いピンクと白のギザギザがデザインされ、Mの文字にはピンクのシャドウが入ったものを使用。ホームゲームでどのユニフォームを着るかは、メジャーと同じく先発投手が自由に選んで決められる方式にした。(基本的に連勝中は縁起担ぎで変えた投手はいなかった)この年の後半にはいい状態でチーム状態が継続していたため、普段は「戦」を選択する清水直行さえ縁起担ぎで「誠」を使用。ポストシーズン(プレーオフ・日本シリーズ・アジアシリーズ)のホームゲームでは「誠」で戦い全勝した。
- しかし、「戦」「誠」が選手に受け入れられたのに対し、「侍」は「格好が悪い」ために選手から敬遠されていた。実際、2005年に公式戦で「侍」が着用されたのはホームゲーム連敗中の5月14日の対ヤクルト戦の1回だけで、先発のダン・セラフィニがこのユニフォームを選択したが、その試合は3-11と大敗。その後「縁起が悪い」と敬遠されたのか、「侍」を選択した先発投手はいなかった。
- 2006年〜2009年 - 2005年のアジアシリーズ制覇を記念したチャンピオンエンブレムが袖に入る。図案は「CHIBA LOTTE MARINES」の白文字入り黒リングで囲まれたボールを背景に「05 Marines ASIA」の文字、「CHAMPIONS」の白文字が入った赤リボン、最下部に6冠を表す銀の六連星。
- 2008年〜2009年 - デサント社がオフィシャルサプライヤー契約を締結、デザインをマイナーチェンジ。チームカラーを「白、黒、赤」とし、ホーム用は従来のストライプタイプ「戦」と、「誠」の袖のダンダラ帯と胸ラインを赤色にした2タイプがある。ビジター用は黒を基調とし、上から下へ向かって黒から白へと徐々にグラデーションしたもの(日本プロ野球史上初のデザイン)である。またビジター用ユニフォームには右胸に球団ペットマークが浮き上がって出るようにあしらわれている。「戦」以外は、背番号の書体も丸い斜体文字へ変更されている(ホーム用「誠」は赤、ビジター用は黒)。
- 2009年 - ロッテのプロ野球参入40周年を記念した「ORIONS-MARINES 40th ANNIVERSARY」エンブレムが袖に入る。図案は“ORIONS-MARINES”のアーチと“40th ANNIVERSARY”“1969-2009”の帯で囲まれた中に、青空と海をバックに歴代のユニフォームを模した色(左からオリオンズ初代、オリオンズ2代目、マリーンズ初代、マリーンズ現行)で空を飛ぶ4羽のカモメ。
- 2010年〜2013年 - バレンタイン監督退任に伴い、「戦」以外のユニフォームのデザインが変更(各ユニフォームのニックネームも廃止)。チームカラーの一つとされていた赤が消えた。ビジター用はグラデーションを廃止し、黒地に白のカットラインが入る。サードユニフォームはラグランスリーブ部に黒を配した。ビジターとサードにはそれぞれ右袖には2段組みで「CHIBA LOTTE」の文字が入る(ホームは今までどおり「LOTTE」のみ)。帽子は従来の黒帽子で統一された。右袖に2006年から付けられていたアジアシリーズチャンピオンエンブレムが廃止。右胸のワッペンスポンサーがハートフォード生命保険からネクソンに変わる。なお、サードユニフォームが使われたのは、2010年は4月25日、6月30日、8月1日の3試合(対戦相手はいずれもソフトバンク)、2011年は6月8日の阪神タイガース戦の1試合、2012年は7月16日、17日の楽天戦の2試合のみであった。2013年は、後述の2012年の限定ユニフォームがサードユニフォームとして着用された。
- 2014年〜 - ホーム、ビジター共に新素材を使いユニフォームを軽量化。また、ビジターユニフォームはデザインを変更し、「闘志あふれる勝利への執念」を表している。前年まで使用したユニフォームと同様に黒地に白のカットラインが入る。胸ロゴが「Marines」(胸ロゴ・胸番号・背番号共に白字で赤で縁取り)、背ネームは白字。両袖に赤のライン、左袖に丸にカモメのロゴマークが入る。なお、ビジターユニフォームには2段組の「CHIBA LOTTE」の文字は無し。ズボンはグレーで、赤のラインが入る。帽子は黒でロゴが「M」(白字で赤で縁取り)、ツバの縁が赤。また、ホーム、ビジター共にズボンにオカムラホームの広告が入る[70]。ホーム用は帽子が前年まで使用していたもので、つばのふちが白。
限定ユニフォーム[編集]
- 2008年8月13日〜18日の2カードで、ロッテのプロ野球参入40周年記念として、オリオンズ時代のホーム用ユニフォーム(1991年まで使用)を復刻した[71]。
- 「1」の書体については、当時のものは左上が欠けていたが、復刻版は欠けていない書体(カギカッコのような書体)を使用した。
- 2009年8月18日〜20日のオリックス戦で、前年に続いてロッテのプロ野球参入40周年記念として、オリオンズ時代の1972年まで使用されたホーム用ユニフォームを復刻した。
- 2011年、千葉移転20周年を記念してホームゲーム限定で、1992年から94年までのホームユニフォームを復刻使用している。
- 上記の2008年のユニフォーム同様、「1」の書体については欠けていない書体(カギカッコのような書体)を使用した。
- 2012年、千葉移転20年を記念した「Thanks 20 years“ALL for CHIBA"シリーズ」のイベントの一環として、白をベースに両肩と両わき腹に黒いライン。胸に黒文字で「CHIBA」と記したロゴが入ったユニホームを着用する。なお、マリーンズのユニホームに「CHIBA」のロゴが入ったのは92年の移転後初。1軍の公式戦・5試合で着用するほか、2軍の公式戦でも数試合限定で着用。2013年シーズンにサードユニフォームとして着用。
- 2013年、パ・リーグ共同企画「レジェンド・シリーズ2013」の一環で、オリオンズ時代の1991年まで使用されたビジター用ユニホームを復刻。ただし、復刻ユニフォームの右胸にはネクソン、パンツ左側には君津住宅の広告が付く。
先祖帰りのユニフォーム[編集]
「千葉ロッテマリーンズ」となった1992年にチームのイメージカラーとしてピンクが登場、球団旗・ペットマーク・ユニフォームに採用された。明るいパステル調のこのピンクは「サンライズピンク」と名付けられ、「陽気さ・親しみやすさ・楽しさを表し、未来へと広がる千葉のイメージをも表している」と説明された。またビジター用ユニフォームの地色となった水色も「カレントブルー」と名付けられ、「千葉県沖合における親潮と黒潮のぶつかり合い」と定義付けられた。
- ところが、1995年に監督に就任したボビー・バレンタインはピンクの「Marines」ロゴが入ったユニフォームを「戦う者の着るユニフォームではない」と批判。そのためユニフォームの変更を余儀なくされたが、その時に広岡GMの提案で出来たのが、白地に黒の縦縞で、左胸には黒に銀の縁取りが施された“M”一文字の入ったユニフォームであった(2005年に「戦」と名付けられたユニフォームに当たる)。全体的に毎日創立時のデザインと似通っていたため、「先祖がえりともいわれ、多くのファンに歓迎された。」と、先述の書籍『プロ野球ユニフォーム物語』221ページに、先述の変更へのいきさつとともに記述されている。
その他[編集]
2012年8月17日~8月19日の日本ハム戦(札幌ドーム)で、日本ハムがブラックを基調とした特別ユニフォームを着用するのに伴い、普段のブラックのビジター用ユニフォームではなく、ホーム用のストライプユニフォームを着用。
「ブラックブラックナイト」と呼ばれる、ホームの試合で普段のホーム用のストライプユニフォームではなくビジター用ユニフォームを着用する試合を毎年1試合程度行っている。
球団旗の変遷[編集]
- 1950年〜1970年 - 上から赤・白・青のトリコロールカラー、左端に☆を三つ。中央の白の部分に黒文字で「Orions」とロゴが染め抜かれた。その後も3回の球団名変更後もそのまま使用される。
- ちなみに、このトリコロールカラーは当時の親会社・毎日新聞社のグループ企業にも波及しており毎日放送やスポーツニッポン新聞社の社旗にも採用されている(但し、両社とも上部は赤ではなく濃い橙色)。
- 1971年〜1991年 - ロッテが正式な親会社となるが、球団名は変わらなかった。おおまかなデザインはそのままだが中央の「Orions」の左に赤文字で「LOTTE」のロゴが入る。
- 1992年〜1994年 - 球団名が千葉ロッテマリーンズとなる。白地にマリーンズのロゴ(MARINESが筆記体で描かれており、その下にCHIBA・LOTTEの文字)、そして下の部分は当時のユニフォームの基調の色にも採用された「サンライズピンク」と「カレントブルー」のツートンライン。「千葉沖の海流のぶつかり合い」をイメージ。
- 1995年〜 - シルバーを地色に、上に黒文字で小さく「CHIBA LOTTE」、その下に大きく「Marines」ロゴ。右斜め上に球団のマスコットにも使われているカモメを1羽。
スポンサー[編集]
- ユニフォーム右胸 ネクソン(オフィシャルスポンサー、2010年度~)
- パンツ左側 オカムラホーム(オフィシャルスポンサー、2014年度~)
- ヘルメット右側 クレバリーホーム
- スコアボード下部+レフト壁面 ソウルマッコリ[3](オフィシャルスポンサー、2012年度~)
歴代本拠地[編集]
- 1950年〜1962年 - 後楽園球場 ※1
- 1962年〜1972年 - 東京スタジアム ※1
- 1973年〜1977年 - 宮城球場 ※2
- 1978年〜1991年 - 川崎球場
- 1992年〜 - 千葉マリンスタジアム ※3
- ※1 1962年5月まで後楽園を使用、同年6月より東京スタジアムへ移転。
- ※2 東京スタジアムの閉鎖に伴う暫定処置。1973年シーズンは地域保護権を東京都に置き、宮城球場と首都圏の他球団本拠地などで主催公式戦を行った(このため名目上の専用球場としての届け出はこの年できなかった)。同年12月21日の実行委員会で翌1974年から暫定的に保護地域を宮城県に移転することが決まり、1974年から1977年の間は同県を保護地域とした。しかし球団事務所は従来と同じく東京都に置き、試合の開催方法も1973年とほぼ同様だった。
- ※3 2011年からの呼称は「QVCマリンフィールド」
歴代監督[編集]
- 1950年 - 1952年 : 湯浅禎夫
- 1952年 : 別当薫(第1次)
- 1953年 : 若林忠志
- 1954年 - 1959年 : 別当薫(第2次) ※1
- 1960年 : 西本幸雄
- 1961年 - 1962年 : 宇野光雄
- 1963年 - 1965年 : 本堂保次 ※2
- 1966年 : 田丸仁
- 1967年 : 戸倉勝城
- 1967年 - 1971年 : 濃人渉 ※3
- 1971年 - 1972年 : 大沢啓二
- 1973年 - 1978年 : 金田正一(第1次) ※4
- 1979年 - 1981年 : 山内一弘
- 1982年 - 1983年 : 山本一義
- 1984年 - 1986年 : 稲尾和久
- 1987年 - 1989年 : 有藤道世
- 1990年 - 1991年 : 金田正一(第2次) ※5
- 1992年 - 1994年 : 八木沢荘六 ※6 ※7
- 1995年 : ボビー・バレンタイン(第1次)
- 1996年 : 江尻亮
- 1997年 - 1998年 : 近藤昭仁
- 1999年 - 2003年 : 山本功児
- 2004年 - 2009年 : ボビー・バレンタイン(第2次)
- 2010年 - 2012年: 西村徳文※8
- 2013年 - : 伊東勤
※太字は優勝達成監督
- ※1 ここから毎日大映オリオンズ
- ※2 ここから東京オリオンズ
- ※3 ここからロッテオリオンズ
- ※4 1975年は4月22日まで指揮、5月6日に復帰するまでは高木公男が代行
- ※5 1990年は6月23日まで指揮、7月27日に復帰するまでは徳武定之が代行
- ※6 ここから千葉ロッテマリーンズ
- ※7 1994年は7月31日まで指揮、残り試合は中西太が代行
- ※8 優勝は達成無し、日本一を達成
永久欠番[編集]
2014年現在永久欠番は無い。
- 準永久欠番
- 8 有藤道世(1987年-1991年)- 元は永久欠番だが、1992年の千葉移転後、マックス・ベナブルが付けたことで永久欠番ではなくなる。後に平野謙(1994年〜1996年)、清水将海(1997年〜2002年)、波留敏夫(2003年〜2004年)を経て、2005年から現在に至るまで今江敏晃が付けている。
- 26 マリーンズファン(2005年-)- 千葉ロッテマリーンズは2005年度以降、背番号26を東北楽天ゴールデンイーグルスの10番同様にファンのための欠番としている(ベンチ入り25人に次ぐ「26番目の戦士」の意)。最後に26を付けた選手は酒井泰志(2003年〜2004年)。試合中はダッグアウトの壁に、個人ネーム無しの背番号26ユニフォームがハンガーで掛けられており、試合に勝った時には、ヒーローインタビューを受けた選手が、ファンへの感謝を込めてそのユニフォームをファンの前に掲げる(マスコットのマーくんが掲げることもある)。2006年からはこれに因み、ファンクラブ制度を大幅にリニューアル、TEAM26と命名する。
主な歴代の球団歌[編集]
- 戦う男達のテーマ(1960)
- わがオリオンズ(毎日球団の歌)
- われらロッテ親衛隊
- ビバ!オリオンズ!
- WE LOVE MARINES
- マリンに集う我ら
- 千葉、心つなげよう
主なキャンプ地[編集]
- 鹿児島市県立鴨池球場ほか(1972年 - 1995年、1997年 - 2007年)
- アメリカ合衆国・アリゾナ州ピオリア(1995年 - 1998年)
- オーストラリア・ジーロング(2006年 - 2007年)
- 沖縄県石垣市石垣市営球場(2008年 - )
- 千葉県鴨川市総合運動施設(2008年ファーム)
- 鹿児島県薩摩川内市総合運動公園(同)
キーワード[編集]
最長試合[編集]
1969年10月10日、日本生命球場での近鉄バファローズ戦のダブルヘッダー第2試合は試合時間が5時間15分(4-4のまま決着付かず延長13回、当時の規則に基づき時間切れ引き分け)となり、当時の最長試合時間となった。5時間超えは当時の日本プロ野球史上初の出来事でもあった。
その後、この日本最長記録は更新(全てセントラル・リーグ、またはセ・パ交流戦)されているが、2009年7月2日、西武ドームでの埼玉西武ライオンズ戦では、セ・パ交流戦を除いたパ・リーグの公式戦では当時歴代最長となる延長12回、5時間42分を戦い9-8で勝利した。
また、ポストシーズンでは1981年のプレーオフ、川崎球場での日本ハムファイターズとの第1戦では9回の最長試合時間記録である5時間17分を戦い4-4の引き分けに終わった。2010年の日本シリーズ、ナゴヤドームでの中日ドラゴンズとの第6戦では延長15回、5時間43分を戦い、2-2で引き分け、日本シリーズにおける歴代最長試合時間記録を35年ぶりに塗り替えている。
幻の合併計画[編集]
現在の千葉ロッテマリーンズの前身である毎日オリオンズは1949年に創設され、1957年に大映ユニオンズと合併し、その後経営権の移転や改称などを経て現在に至るが、同年以降、プロ野球再編に絡むなどして球団合併構想に巻き込まれたことが2度ある。
- 1973年、日拓との合併構想
1973年、ロッテオリオンズはジプシー時代最初のシーズンを終えた。一方、ロッテと同じく東京都を保護地域としていた東映フライヤーズはオーナー企業の経営難等により、同年2月7日に球団の経営権が東映から日拓ホームに譲渡され「日拓ホームフライヤーズ」に改称したが、同年もパ・リーグは観客動員の面では苦戦を強いられた(ただ同年、ロッテはパ史上最多の観客動員を記録している)上、プレーオフを制して日本シリーズに進出した南海ホークスも読売ジャイアンツ(巨人)の前に1勝4敗で散り、巨人のV9を許した。この当時の状況に、日拓のオーナー・西村昭孝はシーズン終了後「パ・リーグに将来性はない」と判断、日拓とロッテを合併し、更に1リーグ制への移行を画策し始めた。
前述の通り、当時ロッテはジプシー生活を強いられていたため首都圏で常時主催試合を開催できる環境を求めていた。またロッテのオーナー・重光武雄も球団経営にあまり執心がないと憶測されたことから、合併調印は時間の問題といわれていた。更には関西でも球団合併構想が取り沙汰され、「10球団1リーグ化へ」などと先走った報道もなされた。
しかし重光はこの合併を否定。結局、合併そのものも程なく破談となり、球界に嫌気がさした西村は球団経営権を日本ハムに売却、事態は収束した(この一連の詳細はプロ野球再編問題 (1973年)を参照)。
- 2004年、球界再編問題
また2004年には、大阪近鉄バファローズとオリックス・ブルーウェーブの合併構想に端を発し、1リーグ制移行に加え、球団数が奇数となるため更なる球団数削減が取り沙汰される再編問題が勃発した(詳細はプロ野球再編問題 (2004年)を参照)。
この過程でロッテは、当時親会社ダイエーの経営難から球団の維持が困難といわれていた福岡ダイエーホークスに合併を申し入れた事が判明。オーナー企業はロッテ、本拠地は福岡ドーム、2軍の本拠地に千葉マリンスタジアムとし、球団名は「福岡ロッテホークス」とするなど、具体案についても報じられたが、結局実現には至らなかった。また、ロッテと西武ライオンズを合併して、「ロッテライオンズ」、東京ヤクルトスワローズと合併して「ロッテスワローズ」とする構想もあったが[74]、これも西武とヤクルトが単独での球団保有を表明したため実現しなかった。
結局同年オフ、ダイエーは産業再生機構の支援を受けて経営再建を図る事となり、ホークスはソフトバンクに売却されて福岡ソフトバンクホークスとなった。
ロッテ本社は1971年から球団を保有しており(球団名のスポンサーとしては1969年から)、2012年現在パ・リーグの現存6球団の中では最も古くから経営権を所有している。
なお福岡移転問題はこれが最初ではなく、川崎球場時代の1984年に稲尾和久が監督に就任した際、平和台球場への移転の実現を前提として就任を受諾したとされているが、この時も本拠地の移転は実現しなかった。
ライオンズとの遺恨[編集]
悪夢の18連敗[編集]
1998年、6月13日から7月8日までの19試合で、日本プロ野球ワースト新記録となる18連敗(途中1引き分けを挟む)を喫した。球団公式サイトのチームヒストリーでも「悪夢の18連敗」と記されている[1]。
月日 | スコア | 開催球場 | 勝敗 | 責任投手 |
---|---|---|---|---|
6月12日 | ロッテ 2-1 オリックス | 千葉マリン | ○ | 黒木知宏 |
6月13日 | ロッテ 4-6 オリックス | 千葉マリン | ● | 小宮山悟 |
6月16日 | ロッテ 8-12 近鉄 | 藤井寺 | ● | 竹清剛治 |
6月17日 | ロッテ 6-9 近鉄 | 藤井寺 | ● | 近藤芳久 |
6月18日 | ロッテ 5-7x 近鉄 (延長11回) |
藤井寺 | ● | 竹清剛治 |
6月19日 | ロッテ 0-7 日本ハム | 東京ドーム | ● | 小宮山悟 |
6月20日 | ロッテ 2-3 日本ハム | 東京ドーム | ● | 黒木知宏 |
6月21日 | ロッテ 10-11x 日本ハム | 東京ドーム | ● | 黒木知宏 |
6月23日 | ロッテ 0-4 西武 | 富山市民 | ● | 薮田安彦 |
6月24日 | ロッテ 5-6x 西武 (延長11回) |
富山市民 | ● | 竹清剛治 |
6月26日 | ロッテ 1-3 近鉄 (延長11回) |
千葉マリン | ● | 藤田宗一 |
6月27日 | ロッテ 1-3 近鉄 | 千葉マリン | ● | 武藤潤一郎 |
6月28日 | ロッテ 2-6 近鉄 | 千葉マリン | ● | クロフォード |
6月30日 | ロッテ 5-5 西武 (延長12回) |
福井 | △ | - |
7月1日 | ロッテ 4-7 西武 | 石川県立 | ● | 礒恒之 |
7月3日 | ロッテ 3-4 ダイエー | 千葉マリン | ● | 小宮山悟 |
7月4日 | ロッテ 7-10 ダイエー (延長11回) |
千葉マリン | ● | 礒恒之 |
7月5日 | ロッテ 3-10 ダイエー | 千葉マリン | ● | クロフォード |
7月7日 | ロッテ 3-7x オリックス (延長12回) |
GS神戸 | ● | 藤田宗一 |
7月8日 | ロッテ 4-6 オリックス | GS神戸 | ● | 薮田安彦 |
7月9日 | ロッテ 9-6 オリックス | GS神戸 | ○ | 小宮山悟 |
1試合最多得点完封勝利試合[編集]
2005年の開幕2連戦、ロッテはこの年から活動を開始した新球団である東北楽天ゴールデンイーグルスを地元・千葉マリンに迎えて対戦した。
開幕戦となった3月26日の1回戦は1-3で敗れ楽天に球団初白星を献上。だが翌27日の2回戦はロッテが一方的にゲームを展開し、26-0で圧勝した。打っては楽天の6投手から24安打14四死球をマークし、とりわけ2回には10者連続得点を含んで一挙11点を挙げるなど終始攻撃の手を緩めず、守っては先発の渡辺俊介が相手打線を1安打1四球に抑え込んだ上、その許した走者をいずれも併殺で退け、結局打者27人で完封勝利を記録した。
26点差での完封勝利は1946年7月15日、富山県の高岡工業専門学校グラウンドでの公式戦で近畿グレートリングがゴールドスターを相手に同じく26-0で大勝して以来、完封試合では実に59年ぶりとなる日本プロ野球史上最多得点及び得点差のタイ記録で、2リーグ分立後初の快挙となった。また、1試合最多得点の球団記録も、毎日時代の1950年5月31日に対東急フライヤーズ戦で記録した23得点を55年ぶりに更新した。
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 計 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
楽天 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
ロッテ | 2 | 11 | 1 | 0 | 1 | 4 | 0 | 7 | x | 26 |
韓国での公式戦開催構想[編集]
ロッテと福岡ダイエーホークス(当時)は日本プロ野球の東アジアでの市場拡大を視野に、2004年シーズン中から韓国と台湾での公式戦開催について検討を行ってきた。その結果、翌2005年シーズンの6月28日と29日の2日間、日本プロ野球史上2度目となる日本国外での公式戦として韓国での開催が決定。カードはロッテ主催の対福岡ソフトバンクホークス2連戦とし、釜山の社稷(サジク)野球場、ソウルの蚕室(チャムシル)総合運動場野球場で各1試合を開催する予定だった。しかし、首都のソウルでの試合が予定されていた蚕室野球場での開催が困難となり(韓国プロ野球のLGツインズと斗山ベアーズの2チームが本拠地として使う球場のため、全く空き日がない)、代替としてソウルの衛星都市である仁川の文鶴(ムナク)野球場での開催に変更したものの、当時の韓国プロ野球人気の低迷から採算が取れないと判断され、開催は断念せざるを得なくなった。
だが、この開催中止がきっかけとなり、同年夏に新たなファンサービス企画「360度全席自由席」が生まれることとなる(詳細は前述)。
1イニング最多記録を7つ樹立[編集]
ロッテは2009年6月11日の対広島東洋カープ4回戦(千葉マリン)で、6回裏に延べ20人の猛攻で15点を挙げ、チーム1イニングの攻撃に関する7つのプロ野球記録(チーム記録6、個人記録1)を樹立した(以下の太字は新記録及びタイ記録)。
1イニング12安打は史上2位タイで、最多記録に1本及ばなかったものの、打者2巡・1イニング打者20人はこれまでの18人を更新する新記録。1イニング15得点、1イニング15打点も、過去にセ・リーグで通算4回記録された13得点・13打点を上回った。打者3人目の井口資仁から15人目の里崎智也まで3四死球を挟んで記録した10打数連続安打は、通算3回目となる当時の最多連続タイ記録。加えて里崎の後にはチェイス・ランビンと今江敏晃も死球と失策で出塁し、過去の13者連続を更新する15者連続出塁の新記録(失策による出塁を含む参考記録)。さらにこの間、井口からランビンまで記録した14連続得点も、1992年7月26日にオリックス・ブルーウェーブが対福岡ダイエーホークス21回戦(GS神戸)で記録した12連続を17年ぶりに更新する新記録となった。
また、この回先頭の福浦和也は2打席目に代走を送られたが、続く大松尚逸は日本プロ野球史上初の1イニング3打席を記録した。だが2打席目で2点適時二塁打を放ったものの1打席目と3打席目では凡打に倒れ、試合後には「不思議な感じ。自分はアウトを2つ取られた。損したのか得したのか分からない」と苦笑いしていた。
結局ロッテの6回裏の攻撃は約48分にも及び、試合は23-2で圧勝。ロッテが挙げた23得点は、セ・パ交流戦開催1シーズン目の2005年6月12日に読売ジャイアンツが対西武ライオンズ6回戦(東京ドーム)で記録した19得点を更新するセ・パ交流戦最多得点の新記録となり、交流戦初の20得点以上をマークした。
ロッテは前日の6月10日、広島先発のコルビー・ルイスに苦しめられるなど11残塁13三振を喫する拙攻で完封負けを喫していただけに、試合後のボビー・バレンタイン監督は「昨日はラッキーな安打が出なくて苦労したのに、今日はそんな安打が何本も出たね」と満足そうだった。一方、大量失点を喫して敗れた広島のマーティ・ブラウン監督は「まるでラグビーだね」と怒りを通り越して呆れ返り「今日の勝者はマリーンズじゃない。むしろ、これだけ点差があっても応援し続けてくれた左翼席のカープファンこそが真の勝者だ」と悔しさをにじませていた。
球団ではこの記録達成を記念して、このイニングに出場した12人が当日使用していたバットを納めた「1イニング15得点記念モニュメント」を作成し、8月1日から千葉マリンスタジアムの内野スタンド2階Bゲート付近にて展示している。
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 計 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
広島 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 |
ロッテ | 0 | 2 | 5 | 0 | 0 | 15 | 1 | 0 | x | 23 |
- ロッテ6回裏の攻撃(括弧内は得点数)
- 福浦 左前安打
- 大松 三飛
- 井口 中前安打
- 橋本将 右前安打 (1)
- サブロー 四球
- 里崎 中前安打 (1)
- ランビン 左前安打 (1)
- 今江 四球 (1)
- 早坂 死球 (1)
- 福浦 右前安打 (1)
- 大松 右二塁打 (2)
- 塀内 右前安打 (2)
- 橋本将 中前安打
- サブロー 中前安打 (1)
- 里崎 中前安打 (1)
- ランビン 死球
- 今江 遊ゴロ失策 (1)
- 田中雅 中犠飛 (1)
- 堀 中前安打 (1)
- 大松 右飛
1イニング最多連続打席安打[編集]
2010年6月7日の対東京ヤクルトスワローズ4回戦(明治神宮野球場)で、7回表に10者連続安打・連続得点の猛攻で10点を挙げ、前年のヤクルトなどが計8回記録した1イニング最多連続打席安打のプロ野球記録(9者連続)を更新した。
ロッテは1点ビハインドのこの回、一死無走者から里崎が四球を選んで出塁したのを皮切りに、南竜介の左前安打から連打攻勢がスタート。代打青野毅が中前安打で満塁とすると、西岡剛の遊撃と左翼の間に落ちる2点適時打で逆転に成功、ヤクルト先発の村中恭兵をKOした。さらに今江も安打で続き、井口の内野適時打で1点を追加。続けて金泰均が15号満塁、サブローも10号ソロと2者連続で本塁打を放ち、再び打順が回ったフアン・ムニスが二塁打で出塁すると、里崎も8号2ラン本塁打を放ち前年に続いて10連続得点を達成。そして南がこの回2本目の中前安打を放って10者連続安打の新記録を達成した。
青野の代打で送られた岡田幸文が三塁ゴロに倒れ、連続記録はストップ。岡田は試合後「すみません。知りませんでした」と平身低頭だった。同日、ロッテがこの記録を達成した直後にはオリックス・バファローズが対広島東洋カープ4回戦(福山市民球場)の6回表に、やはり1イニング10者連続安打のタイ記録を達成しており、両チームがまとめて従来の記録を更新したことになる。試合は結局14-2で大勝。西村徳文監督は試合後「同じ日に同じ事をやるとは思わなかった」と驚嘆しつつも、報道陣の「もう1本続いていれば単独新記録だった」という問いに対しては「そんな贅沢は言ってられない。よく繋いでくれた」と笑顔を見せ、快挙を達成したナインを讃えた。
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 計 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
ロッテ | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 10 | 3 | 0 | 14 |
ヤクルト | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 |
- ロッテ7回表の攻撃(括弧内は得点数)
- ムニス 投ゴロ
- 里崎 四球
- 南 左前安打
- 青野 中前安打
- 西岡 左前安打 (2)
- 今江 中前安打
- 井口 三塁安打 (1)
- 金泰均 左本塁打 (4)
- サブロー 左本塁打 (1)
- ムニス 左中間二塁打
- 里崎 右中間本塁打 (2)
- 南 中前安打
- 岡田 三ゴロ
- 西岡 遊飛
1イニング10打数以上の連続安打を2度記録したのは、前述のヤクルトに次いでロッテが史上2チーム目。ヤクルトが1度目に達成したのは1998年4月22日の対中日ドラゴンズ戦でのもので、2年連続での達成は史上初のケースである。さらにロッテが1イニング10連続以上の得点を記録したのは前述の2005年の楽天戦(10連続)、2009年の広島戦(14連続・プロ野球記録)に次いで、これが通算3度目。2桁連続得点は阪神タイガースが通算5度と最も多く、ロッテは中日と並んで2位タイ、パ・リーグではオリックスの2度を抜いてリーグ最多である。
加えてこの日開催されたセ・パ交流戦の6試合で、パ・リーグ6球団が挙げた総得点は55得点(オリックス21、ロッテ14、日本ハム13、西武4、ソフトバンク3、楽天0)で、1日あたりのリーグ総得点の新記録も更新している。
鬼門の仙台[編集]
ロッテは宮城県仙台市の宮城球場(2008年から施設命名権によりクリネックススタジアム宮城)での公式戦において、10連敗以上を2回記録している。同球場を暫定的に本拠地としていた1973年から1977年にかけての5シーズンでは2桁連敗の経験はなかったが、首都圏に本拠地を再移転してからはこれを2度喫している。
1度目は1991年から1994年にかけ、ロッテ主催の地方開催試合で足掛け4シーズンにわたって喫した12連敗。2度目は2009年7月9日から2010年9月19日にかけ、足掛け2シーズンにわたって喫した16連敗。宮城球場は2005年から東北楽天ゴールデンイーグルスの本拠地となっており、後者の連敗はいずれも対楽天戦でのものである。ロッテはこの間、同カードのビジター戦では2010年4月21日に郡山総合運動場開成山野球場で開催された同5回戦に6-0で勝利したのみで、仙台では全敗を喫していた[75]。9月20日の同22回戦、延長12回の末に9-7で勝利して連敗を16で止めると、翌9月21日の同23回戦は12-2で大勝して同年シーズンの仙台での試合を終えたものの、結局このカードのビジター戦は2年連続で3勝9敗と大きく負け越した。
なお、同一球場・同一カードの最多連敗記録は、1954年から1956年にかけ、大映スターズが後楽園球場での対南海ホークス戦で記録した21連敗である。
放送[編集]
テレビ・ラジオ中継[編集]
テレビ中継は全てハイビジョン制作
- CTCマリーンズナイター(チバテレ):千葉マリンスタジアムビジョンの公式映像(解説・実況はチバテレ制作)
- J SPORTS STADIUM(J SPORTS):球団の公式映像(解説・実況はJ SPORTS制作。かつては千葉マリンスタジアムビジョン制作協力。現在はExpress制作協力)2012年で終了
- FOXスポーツジャパン(fox bs238・FOXチャンネル):球団公式映像。2013年開始
- TwellV プロ野球中継(TwellV):2008年シーズンからTwellVでマリーンズ主催試合(公式戦)の内およそ60試合をハイビジョンで生中継。(チバテレ、J SPORTSと同じ千葉マリンスタジアムビジョンの公式映像。解説・実況は球団制作で、後述の動画中継と同じもの)
- スーパーベースボール(テレビ朝日・BS朝日):BS朝日の中継についてはCTCマリーンズナイターの同時中継(2007年まで)、2008年からは上記のTwellVでも使われる球団制作の中継。
- 侍プロ野球(TBSテレビ・BS-TBS)
- enjoy! Baseball(フジテレビ・BSフジ)
- 全力闘球(テレビ東京・BSジャパン)
- NHKプロ野球(NHK総合テレビ・BS1):BS1の中継のみ千葉マリンスタジアムビジョンの公式映像
- ラジオ日本マリーンズナイター(RFラジオ日本 なお同局は読売新聞グループの一員であり「ラジオ日本ジャイアンツナイター」を放送している事にも見られるように、通常は読売ジャイアンツ戦が主である)
- 文化放送ライオンズナイター(文化放送):俳優・かわのをとやをマリーンズ専任リポーターとして起用
- 東京球場・ジプシー・川崎球場時代
- CTCダイナミックナイター(千葉テレビ。東京球場時代。1971年5月1日開局の事実上第1号番組は東京球場でのロッテ対東映戦のデーゲーム生放送だった)
- TVKハイアップ・ナイター(パ・リーグナイター)(テレビ神奈川。宮城を主戦場としたジプシー時代と川崎球場時代)
- TBCダイナミックナイター(東北放送ラジオ。ジプシー時代、及び川崎球場を本拠としたあとも準本拠として使用していた時代)
- 応援番組
インターネット中継[編集]
パシフィック・リーグはセントラル・リーグの球団と比べテレビや大新聞への露出が少ないためか、インターネットへの情報掲載や動画配信が非常に盛んであり、IT系の資本である福岡ソフトバンクホークスや東北楽天ゴールデンイーグルスはもちろん、北海道日本ハムファイターズも2006年シーズンからインターネット配信へ参入。それなりの通信品質でインターネットの接続環境を確保できればファンは地球の裏側からでも生中継感覚で試合観戦ができる状況になっている。
各球団が様々な形で主催試合をインターネット配信している中、千葉ロッテマリーンズは2005シーズンの佳境でパソコンテレビGyaO(ギャオ)を通して主催試合をインターネット配信し大きな反響を得た(なお、GyaOでの放送は、日本国外からは視聴不能)。その施策を一歩進める形で2006年5月1日にはインターネット放送局「marines.tv」を開局した。
「marines.tv」は、千葉ロッテマリーンズのネット動画配信におけるポータルサイトとしての性格が強く、6種類のコンテンツをテレビのチャンネルになぞらえてインターネット配信している。
中でも「マリンスタジアムでの主催試合55試合を完全生中継」する1ch「Game Live!」はGyaOの「Boom up! BASEBALL 千葉ロッテマリーンズLIVE 2006」とリンクした目玉コンテンツである。
2006年シーズンは「marines.tv」が開局する直前の4月7日、東北楽天ゴールデンイーグルス戦からGyaOで無料でライブ配信されており、「marines.tv」開局後は「marines.tv」の1chとしてポータルサイトからリンクされるようになった。また、NTT東日本のインターネット接続サービス「フレッツ」利用者専用のサイト「フレッツ・スクウェア」においても「千葉ロッテマリーンズ on フレッツ」と銘打った動画コンテンツの配信を実施しており、複数のコンテンツをNTT東日本地域のフレッツ利用者向けに配信していた。
2007年シーズンはGyaOからYahoo!動画に移り無料ライブ配信を行っている(専用のビュアーが必要)。フレッツ配信は終了。
いずれもコンテンツの詳細については外部リンクの項を参照のこと。
ロッテレビ[編集]
JCN千葉制作により放送されている千葉ロッテマリーンズの情報番組。千葉県内のJCNグループのケーブルテレビ局(JCN千葉・JCN船橋習志野・JCN市川・JCNコアラ葛飾のJCNチャンネル(コミュニティチャンネル)で放送されている。
千葉へ移転した1992年に番組がスタート。正式な番組名は「ロッテレビ~マリーンズフリークス~」。タイトルの由来は、"マリーンズ一筋""マリーンズ命"などの意味から生まれた『マリーンズ狂』を示す。
番組のコンセプト・モットーは、マリーンズファンとチーム・選手の架け橋。選手の素顔や人柄を紹介する『ロングインタビュー』や『マークンファミリーの取材』『球団主催行事取材』など、試合中継で見ることができないマリーンズの魅力を紹介している。またゲーム観戦等でスタジアムを訪れるファンから選手へ質問してもらうコーナーなどもある。リポーターは黒木宏子(愛称:クッキー)。
マリーンズ・ベースボール・アカデミー[編集]
2010年4月10日からTwellVにて放映されている、少年野球向けテレビ講座。これまでも「プロ野球チームによる野球講座」を映像ソフトとして制作・発売している球団は存在したが、テレビ放送として行なうのは日本球界では初の試み(ただし、同年4月4日からフジテレビジョンにて東京ヤクルトスワローズが制作協力にあたっている「スワローズキッズアカデミー」の放送を開始している)。ロッテ球団が千葉県内の少年野球選手を対象として行なっている野球教室「マリーンズ・アカデミー」で講師を務めている武藤一邦・高沢秀昭・園川一美・平井光親の他、現役のロッテ選手も登場を予定している[76]。司会進行はこなつ。
ミュージアム[編集]
毎日時代の当時からの記録が展示保存されている「マリーンズ・ミュージアム」を持つ。千葉マリンスタジアム#設備を参照。
脚注[編集]
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 [1]ロッテ球団公式サイト
- ↑ 一部の資料では「株式会社大映毎日球団」とする記述もある
- ↑ 井上章一『阪神タイガースの正体』(太田出版、2001年)P164。ここでは1958年に『週刊サンケイ』に載った中澤不二雄の意見と、1959年の『週刊読売』の記事が紹介されている。
- ↑ 井上2001年、P163および永井良和・橋爪紳也『南海ホークスがあったころ』(紀伊國屋書店、2003年)P155
- ↑ 上記井上2001年、P166および永井・橋爪2003年、P155
- ↑ 本塁打95本、被本塁打76本
- ↑ 講談社刊 宇佐美徹也著「日本プロ野球記録大鑑」427-428ページ
- ↑ 他に有藤通世27本、江藤愼一25本、アルト・ロペス24本、山崎裕之21本
- ↑ 講談社刊 宇佐美徹也著「日本プロ野球記録大鑑」427-428ページ
- ↑ 球団の経営権利譲渡で、連盟登記の球団名やユニフォームなどを全て従来のままとしたケースはこれが初めてであり、類似のケースとしては2001年の横浜ベイスターズが挙げられる(球団をマルハからTBSに譲渡した時、連盟登記の球団名やユニフォームなどは全て従来のままとした。)。
- ↑ 88年にもロッテを福岡に移転させる計画があったが、ホークスが南海からダイエーへの売却で福岡に移転する事により話が無くなった。
- ↑ ロッテ、ついに落合放出 中日と1対4のトレード発表 - スポーツニッポン
- ↑ このことは後年、フジテレビの番組「トリビアの泉」でも紹介された。
- ↑ その後、1998年に現在の球団寮が竣工した。
- ↑ 講談社刊 宇佐美徹也著「日本プロ野球記録大鑑」1082ページ
- ↑ [2]
- ↑ プレーオフ第2ステージ勝利チームがリーグ優勝チームとされていた
- ↑ なお、この年のアジアシリーズも初回大会であり、毎日時代のパ・リーグのリーグ戦、日本シリーズ、ロッテ時代のセ・パ交流戦、アジアシリーズと4つの初代王者の称号を手に入れた事になる。
- ↑ 同一チームから2ケタ勝利投手が6人出たのは1956年と1963年の南海ホークス以来である。
- ↑ パ・リーグでは1966年の東映対阪急戦以来41年ぶり2回目の出来事。
- ↑ 開幕2連戦の引き分けはパ・リーグでは1974年のロッテ対阪急戦以来33年ぶり2回目の出来事となった。
- ↑ レギュラーシ-ズンが2位以下で 日本一となったのは2005年のロッテなどがある
- ↑ セ・リーグでは2007年の中日が2位から日本一となっている
- ↑ 本来は3月25日のKスタ宮城での楽天戦だった
- ↑ 連夜の逆転負け…ロッテ3連敗で貯金なくなったスポーツニッポン 2012年10月21日閲覧
- ↑ ロッテ ついにリーグ、交流戦でダブル最下位スポーツニッポン 2012年10月21日閲覧
- ↑ 2011年度 交流戦 チーム勝敗表NPB公式サイト
- ↑ サブロー選手と読売ジャイアンツ・工藤隆人選手プラス金銭でのトレードについてロッテ球団公式サイト
- ↑ 唐川、連敗止めた!ロッテ、通算4000勝に到達スポーツニッポン 2012年10月21日閲覧
- ↑ ついに11連敗 西村監督「みんな空回りしている」スポーツニッポン 2012年10月21日閲覧
- ↑ ロッテ、サヨナラ勝ちも…CS進出の可能性消滅スポーツニッポン 2012年10月21日閲覧
- ↑ 日本一から最下位…ロッテ パ史上初の屈辱スポーツニッポン 2012年10月21日閲覧
- ↑ 2011年度公式戦成績NPB公式サイト
- ↑ これまでの記録は1958年の435
- ↑ 近鉄27本、中西太31本
- ↑ ロッテ2桁アーチ0人おかわり以下のチーム合計46発スポーツニッポン 2012年10月21日閲覧
- ↑ <野球>金泰均「日本では野球の面白さを感じることができなかった」中央日報 2012年10月21日閲覧
- ↑ 巨人時代の登録名は本名の大村三郎
- ↑ 大村三郎選手との契約についてロッテ球団公式サイト
- ↑ 60年ぶり!ロッテ開幕4連勝…最下位から下克上再びスポーツニッポン 2012年10月21日閲覧
- ↑ 「http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/05/11/kiji/K20120511003232420.html ロッテ逃げ切り首位浮上!通算千投球回の成瀬が3勝目]スポーツニッポン 2012年10月21日閲覧
- ↑ ロッテ前半戦サヨナラ締め“快足”荻野貴ダイブ生還スポーツニッポン 2012年10月21日閲覧
- ↑ グライ背信で首位陥落も…西村監督「あした頑張ればいい」スポーツニッポン 2012年10月21日閲覧
- ↑ ロッテ6試合連続1得点以下リーグワーストにあと1スポーツニッポン 2012年10月21日閲覧
- ↑ ロッテCS消滅 今季5度目のサヨナラ負けでBクラス確定スポーツニッポン 2012年10月21日閲覧
- ↑ 角中初の首位打者!出身独立Lへ「活躍することが恩返しになる」スポーツニッポン 2012年10月21日閲覧
- ↑ ロッテ弟V!“中田キラー”植松今季ベス投スポーツニッポン 2012年10月21日閲覧
- ↑ 西村監督退団についてロッテ球団公式サイト 2012年10月8日閲覧
- ↑ コーチ契約に関するお知らせロッテ球団公式サイト 2012年10月15日閲覧
- ↑ 伊東勤新監督 就任記者会見についてロッテ球団公式サイト2012年10月18日閲覧
- ↑ ロッテ 8連勝!奪首 延長11回、暴投でサヨナラ勝ちスポーツニッポン2013年5月9日配信
- ↑ ロッテ 今季ワーストタイの4連敗…2位に転落スポーツニッポン2013年7月6日配信
- ↑ ロッテ2年連続2位以上ターンは42年ぶりスポーツニッポン2013年7月18日配信
- ↑ 楽天 7月上旬から首位快走!星野監督 史上3人目の3球団Vスポーツニッポン2013年9月26日配信
- ↑ マー君どうする?胴上げ投手プラン実現なら記録はストップスポーツニッポン2013年9月26日配信
- ↑ ロッテ CS進出決定 伊東監督「日本一への挑戦権が取れたことはひと安心」 スポーツニッポン2013年10月4日配信
- ↑ 西武、8連勝締め!2位死守でCS本拠地開催決めたスポーツニッポン2013年10月8日配信
- ↑ 2013年10月15日朝日新聞夕刊スポーツ面
- ↑ 楽天 日本シリーズ初進出!26日から34度目進出の巨人と対戦スポーツニッポン2013年10月22日配信
- ↑ アジアシリーズの振り替え大会
- ↑ 1年を通してレギュラーシーズン1位の状態で日本一。
- ↑ 62.0 62.1 喫茶店「茶房オリオンズ」」:閉店の名残惜しむ 感謝の集い /大阪 毎日新聞大阪版2014年4月26日
- ↑ 「余録」毎日新聞2014年4月28日、1面
- ↑ 千葉市
- ↑ マリーンズ公式マスコットキャラクター『マーくん』公式twitterアカウントを開設!!- 球団公式ホームページ 2012年4月2日閲覧
- ↑ 18時半開始はパ・リーグでは過去に西武ライオンズが1985年ごろまで実施。更にオリックスが阪急西宮球場本拠地最終年となった1990年の主催ナイターを18時半に全て開始した事例がある。セ・リーグではヤクルトが1989年まで神宮での試合を大学野球の都合もあり、通年で18時半開始としていた他、横浜ベイスターズも2009年の火曜日の一部の試合でテレビ中継(当時19時55分から21時48分にナイターを放送)の都合上18時半開始とした試合があった
- ↑ ロッテが今年も挑発ポスター 「惨劇の」巨人? 竜?コアラ? 東京新聞
- ↑ 独立リーグ結果&ニュース : 育成選手の独立リーグ派遣OKに-スポーツコミュニケーション2012年3月1日
- ↑ ちなみにこのときのユニホームデザインは、韓国・ロッテジャイアンツのユニホームにも応用された。
- ↑ 新ビジターユニフォーム発表のお知らせ
- ↑ ちなみにこの年はヤクルト、ソフトバンク、西武、広島も交流戦を中心に過去のユニフォームを着用しており、復刻ユニフォームの当たり年である。
- ↑ 「やくやくスポーツらんど」第1巻参照。
- ↑ このデザインのユニフォームは2014年現在、NPB12球団で最も歴史の長い通常使用のユニフォームとなっており、また2014年で使用20シーズン目となり、1973年~1991年にかけて19シーズン使用されたユニフォームを上回り、球団史上最長使用のユニフォームともなっている。
- ↑ 両計画とも、本拠地は千葉マリンスタジアムとすることを構想していた。
- ↑ ロッテはこの他、東京ドームで開催された2010年4月20日の同4回戦でも2-8で敗れている。
- ↑ テレビ野球教室番組『マリーンズ・ベースボール・アカデミー』放送開始のお知らせ- 球団公式ホームページ 2010年3月5日閲覧
関連項目[編集]
- 千葉ロッテマリーンズの年度別成績一覧
- 千葉ロッテマリーンズの選手一覧
- 千葉ロッテマリーンズ主催試合の地方球場一覧
- 淑徳大学 - パートナーシップに関する包括協定を締結している。
- 千葉日報・千葉テレビ - 応援をしている地元マスコミ。
- スポーツニッポン - 毎日新聞社がかつてオーナー企業だった関係で、祝勝紙面を提供する。
- 千葉ロッテマリーンズの応援団
- 千葉商科大学 - サービス創造学部の公式サポーター企業
外部リンク[編集]
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