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東京大空襲(とうきょう だいくうしゅう)は、第二次世界大戦末期にアメリカ軍により行われた、東京に対する焼夷弾を用いた大規模爆撃の総称。
東京は、1944年(昭和19年)11月14日以降に106回の空襲を受けたが、特に1945年(昭和20年)3月10日、4月13日、4月15日、5月24日未明、5月25日-26日の5回は大規模だった。その中でも「東京大空襲」と言った場合、死者数が10万人以上と著しく多い1945年3月10日の空襲を指すことが多い。都市部が標的となったため、民間人に大きな被害を与えた。
目次
空襲の経緯[編集]
1945年3月9日以前の空襲[編集]
1942年(昭和17年)4月18日に、アメリカ軍による初めての日本本土空襲となるドーリットル空襲が航空母艦を使って行われ、東京も初の空襲を受けた。このときの被害はさほど大きなものではなかった。
ドーリットル空襲後、東京への空襲は途絶えていたが、1944年(昭和19年)7月にサイパン島などマリアナ諸島をアメリカ軍が制圧すると、東京がB-29爆撃機の攻撃圏内に入った。アメリカ陸軍航空軍は、第20空軍の第21爆撃集団をマリアナ諸島に展開させ、同年10月末からトラック島や硫黄島に対する手慣らし作戦を行った後、同年11月24日に111機のB-29による北多摩郡武蔵野町の中島飛行機武蔵製作所に対する初の戦略爆撃としての空襲(サン・アントニオ1号作戦)を行った。それ以降アメリカ軍は1945年(昭和20年)2月まで各回70-80機程度を出撃させ、東京や名古屋の軍需工場や港湾施設を目標とした戦略爆撃を続けた。
1945年2月までの時期のB-29による東京空襲は、昼間に8000メートル程度の高高度を編隊で飛びながらノルデン爆撃照準器による目視照準を主用し、悪天候時には雲より高空からレーダー照準を活用する精密爆撃を意図したものだった。工場などが目標のため、使用弾種も焼夷弾ではなく通常爆弾が中心だった。攻撃隊は東京西部からジェット気流に従って侵入し爆撃を行うのが通例で、悪天候で攻撃目標を捉えられない場合にはそのまま東進して市街地を爆撃することがあった。1945年1月27日のエンキンドル3号作戦では、中島飛行機武蔵製作所を狙って出撃した76機のB-29のうち56機が有楽町・銀座地区へ目標を変更、有楽町駅は民間人の遺体であふれた(銀座空襲)。なお、陸上から発進したB-29による空襲のほか、1945年2月15日のジャンボリー作戦を皮切りに、機動部隊から発進した小型機による東京空襲も行われている。
初期の軍事目標への高々度精密爆撃は失敗が多く、カーチス・ルメイ第21爆撃集団司令官の意見で、分散した夜間低空飛行によりレーダー照準爆撃で市街地を目標とする戦術が検討されるようになった。1945年2月25日のミーティングハウス1号作戦では、曇天と吹雪が予想された影響もあって離陸前から目標を市街地へ変更し、従来と同じ日中の高々度爆撃ではあったものの、使用弾種の9割を焼夷弾とする新戦術が導入された。それまでで最多の229機が出撃した2月25日の空襲では神田駅を中心に広範囲を焼失し、新戦術が効果的であることが判明した。
3月10日の空襲[編集]
ミーティングハウス2号作戦と呼ばれた3月10日の大空襲は、高度1600–2200メートル程度の超低高度・夜間・焼夷弾攻撃という新戦術が本格的に導入された初めての空襲だった。その目的は、木造家屋が多数密集する下町の市街地を、そこに散在する町工場もろとも焼き払うことにあった。この攻撃についてアメリカ軍は、日本の中小企業が軍需産業の生産拠点となっているためと理由付けしていた。アメリカ軍の参加部隊は第73、第313、第314の三個航空団で、325機ものB-29爆撃機が出撃した。アメリカ軍が東京大空襲の実施を3月10日に選んだ理由は、延焼効果の高い風の強い日と気象予報されたためである。3月10日が日本の陸軍記念日であることに因むという説も有力だが、アメリカ側の資料で確認されているわけではない。
3月9日夜、アメリカ軍編隊が首都圏上空に飛来した。日本軍もその行動を探知し、日本標準時9日22時30分にはラジオ放送を中断、警戒警報を発令した。ところが、アメリカ軍機が従来の空襲とは異なった航路を採ったことから、日本軍は敵機が房総半島沖に退去したものと誤認し、警戒警報を解除してしまった。これにより生じた隙を突くように、3月10日に日付が変わった直後の0時7分、爆撃が開始された。325機の出撃機のうち279機が第一目標の東京市街地への爆撃に成功し、0時7分に
へ初弾が投下されたのを皮切りに、城東区(現在の江東区)にも爆撃が開始された。0時20分には芝区(現在の港区)に対する爆撃も開始された。一部では爆撃と並行して機銃掃射も行われた。爆撃による火災の煙は高度1万5000メートルの成層圏にまで達し、秒速100メートル以上という竜巻並みの暴風が吹き荒れ、さながら火山の大噴火を彷彿とさせた。午前2時37分にはアメリカ軍機の退去により空襲警報は解除されたが、想像を絶する大規模な火災は消火作業も満足に行われなかったため10日の夜まで続いた。
東京大空襲の爆撃のために各B-29には通常の約2倍の搭載量である6トンもの高性能焼夷弾が搭載されていた。ほぼ全ての機関銃および弾薬を爆弾投下機の多くから降ろしてまで、焼夷弾の搭載量が優先されたのである。その背景には、その時点で日本には貧弱な防空能力しか残されていないことが見抜かれていたことが挙げられる。この空襲での爆弾の制御投下弾量は38万1300発、1783トンにものぼった。
当夜の被害が拡大した原因は、以下の各要因が複合したものだった。とりわけ強い冬型の気圧配置という気象条件による強い季節風、いわゆる空っ風は、直接・間接に大きな影響を及ぼした。
- もともと精度に劣る防空警戒用レーダーの精度がますます低下していた。強い季節風によってレーダーのアンテナが揺さぶられたためである。その上アメリカ軍機はウインドウを大量に散布してレーダーによる捕捉に対抗していた。これにより編隊の確実な捕捉や編隊の企図の把握に支障が生じ、空襲警報は極端に遅れて発令されたのは初弾投下8分後の3月10日午前0時15分となった。
- 「低空進入」と呼ばれる飛行法が初めて大規模に実戦導入された。この飛行法ではまず、先行するパス・ファインダー機(投下誘導機)によって超低空からエレクトロン焼夷弾が投弾、その閃光は攻撃区域を後続する本隊に伝える役割を果たした。その本隊の爆撃機編隊も通常より低空で侵入した上、発火点によって囲まれた領域に向けて集束焼夷弾E46を集中的に投弾した。この爆撃の着弾精度は、高空からの爆撃にくらべて高いものだった。
- さらに後続する編隊が爆撃範囲を非炎上地域にまで徐々に広げた。当初の投下予定地域ではなかった荒川放水路周辺や、その外側の足立区や葛飾区、江戸川区の一部の、当時はまだ農村地帯だった地区の集落を含む地域にまで焼夷弾の実際の投下範囲が広げられたことにより、被害が一層拡大した。これは早い段階で大火災が発生した投下予定地域の上空では火災に伴う強風が生じたため、低空での操縦が困難になったためでもあった。
- 投下された爆弾、焼夷弾が、当時の日本家屋を焼き払うために最適化されたものだった。
- 折からの強い北西の季節風によって火勢が煽られ延焼が助長された。規模の大きい飛び火も多発し、特に郊外地区を含む城東地区や江戸川区内で焼失区域が拡大する要因となった。
なお、日本側資料では「アメリカ軍機が避難経路を絶つように市街地の円周部から爆撃した後、中心に包囲された市民を焼き殺した」と証言するものがあるが、そのような戦術はアメリカ軍の資料では確認できない。アメリカ軍の作戦報告書によれば、目標が煙で見えなくなるのを避けるため、風下の東側から順に攻撃する指示が出されていた。体験者の印象による誤解と考えられる。
使用爆弾[編集]
この爆撃において投下された爆弾の種類は、この作戦で威力を発揮した新型の集束焼夷弾E46(M69)を中心とする油脂焼夷弾、黄燐焼夷弾やエレクトロン焼夷弾などである。有名なのはゼリー状のガソリンを長さ約50センチメートルの筒状の容器に詰めたナパーム弾である。この焼夷弾は、投下時には各容器が一つの束にまとめられており、投下後に空中で散弾のように各容器が分散するようにされていたため、「束ねる」という意味を込めて「クラスター焼夷弾」と呼ばれた。
使用された焼夷弾は当時の通常爆弾とは異なる構造のものだった。つまり、通常の航空爆弾では、瞬発または0.02–0.05秒の遅発信管が取り付けられており、破壊力は主に爆発のエネルギーによって得られる。しかし木造の日本家屋を標的にそのような爆弾を用いても、破壊できる家屋が爆風が及ぶ範囲のものに限られ、それを免れた家屋は破壊されず散発的な被害にとどまってしまう。そこでアメリカ軍は、市街地を火災により壊滅させるため、爆発力の代わりに燃焼力を主体とした焼夷弾を用いることとし、その焼夷弾も日本家屋に火災を発生させるために新たに開発した。
より詳細には、まず、投下時に確実に日本家屋の瓦屋根を貫通させるため、上述した形状が選ばれるとともに、空中での向きを制御する吹流し状のものも個々の容器に取り付けられた。これにより、各容器が家屋の内部に到達して内部から火災を発生させる確率が高められた。都内では当時すでに、関東大震災を教訓にした燃えにくい素材で建物を補強する対策がなされていた。しかし、防火性のある瓦屋根を貫いて建物の内部で着火剤を飛散させ、中から延焼させる仕組みのこれら焼夷弾の前にその対策は徒労に終わった。この焼夷弾の開発の参考にされたのは、皮肉にも同盟国ドイツによるロンドン空襲において回収された不発弾だった。
爆撃の際には火炎から逃れようとして、隅田川や荒川に架かる多くの橋や、燃えないと思われていた鉄筋コンクリート造の学校などに避難した人も多かった。しかし火災の規模が常識を遥かに超えるものだったため、至る所で巨大な火災旋風が発生し、あらゆる場所に竜の如く炎が流れ込んだり、主な通りは軒並み「火の粉の川」と化した。そのため避難をしながらもこれらの炎に巻かれて焼死してしまった人々や、炎に酸素を奪われて窒息によって命を奪われた人々も多かった。焼夷弾は建造物等の目標を焼き払うための兵器だが、この空襲で使われた焼夷弾は小型の子弾が分離し大量に降り注ぐため、避難民でごった返す大通りに大量に降り注ぎ子供を背負った母親や、上空を見上げた人間の頭部・首筋・背中に突き刺さり即死、そのまま爆発的に燃え上がり周囲の人々を巻き添えにするという凄惨な状況が多数発生していた。また、川も水面は焼夷弾のガソリンなどの油により引火し、さながら「燃える川」と化しており。仮にうまく水中に入れたとしても、冬期の低い水温のために凍死する人々も多く、翌朝の隅田川・荒川放水路等は焼死・凍死・溺死者で川面が溢れていたという。これら水を求めて隅田川から都心や東京湾・江戸川方面へ避難した集団の死傷率は高かった一方、内陸部、日光街道・東武伊勢崎線沿いに春日部・古河方面へ脱出した人々には生存者が多かった。
この爆撃に先だってアメリカ軍は江戸時代の度重なる大火や関東大震災(1923年)における被害実態を事前に徹底的に検証し、木造住宅の密集する東京の下町が特に火災被害に遭いやすいことをつきとめていた。この成果を上述の爆弾の選定や攻撃目標の決定に反映させたため、東京大空襲の被害地域・規模は関東大震災の延焼地域とほぼ一致し、そして大震災時を大幅に上回っている。
被害規模[編集]
当時の警視庁の調査での被害数は以下の通り。
- 死亡:8万3793人
- 負傷者:4万918人
- 被災者:100万8005人
- 被災家屋:26万8358戸
なお人的被害の実数はこれよりも多い。上記の被害数の死者数は、早期に遺体が引き取られた者を含んでおらず、またそれ以外にも行方不明者が数万人規模で存在するためである。民間団体や新聞社の調査では死亡・行方不明者は10万人以上と言われており、単独の空襲による犠牲者数は世界史上最大である。
この空襲で一夜にして、東京市街地の東半部、実に東京35区の3分の1以上の面積にあたる約41平方キロメートルを焼失した。
なお、この作戦におけるアメリカ側の損害は、撃墜・墜落が12機、撃破が42機だった。
外国人の被害[編集]
東京大空襲での日本人の被害の詳細が追及されていく一方で、外国人の被害はあまり取り組まれていないのが現状である。そうした中で、「東京大空襲・朝鮮人罹災の記録する会」など、体験者の証言から当時の状況を記録する運動もある。
その他[編集]
初弾が投下された前述の4カ所の地域では、現在の地名に相当する地域についてはテレビ番組によって曖昧な点がある。
1978年3月9日に放送されたNHK特集「東京大空襲」(NHK制作)では、
と紹介されていたが、2008年3月10日に放送された「3月10日東京大空襲 語られなかった33枚の真実」(TBS制作)では、
と紹介されるなど、同じ地域でも位置が微妙に異なる点が存在する。
その後の空襲[編集]
その後も東京への空襲は続けられた。4月13日には王子区(現在の北区北部)を中心とした城北地域が、翌15日には大森区・蒲田区(現在の大田区)を中心とした城南地域が空襲・機銃掃射を受け死傷者4004人、約22万戸もの家屋を焼失した。さらに5月25日には、それまで空襲を受けていなかった山の手に470機ものB29が来襲した。皇居も被災し宮殿を焼失した。これにより死傷者は7415人、被害家屋は約22万戸と3月10日に次ぐ被害となった。 また当時、東京陸軍刑務所に収容されていた62人のアメリカ人捕虜が焼死している(東京陸軍刑務所飛行士焼死事件)。
3月から5月にかけての空襲で東京市街の50%を焼失した。また、多摩地区の立川、八王子(八王子空襲)なども空襲の被害を受けている。その後、空襲の矛先は各地方都市に向けられていく。
大規模な実験[編集]
アメリカ軍は日本家屋を再現した実験場を作り、大規模な延焼実験を行っている。実験用に立てられた日本家屋は、室内の畳を日系人の多いハワイからわざわざ取り寄せて精巧に作り上げられた。これらの実験がクラスター焼夷弾開発の参考とされたことにより、東京大空襲を初めとする日本本土への無差別爆撃で効果的被害を与えることに成功している。
日本軍による迎撃[編集]
八丈島のレーダーは機影を捉えていたが、日本列島では猛烈な風のために本土防空隊は迎撃に出撃することができずにいた。その後爆撃隊がサイパンへの帰還中に迎撃可能となり爆撃隊を迎撃した。その際の戦果と陸軍の高射砲部隊の戦果を合わせて12機を撃墜、42機を撃破する戦果を挙げた。5月25日に464機のB-29が来襲した際は、26機撃墜、86機撃破と本土空襲の中で最も大きな損害を与えた。なお、この時墜落機の搭乗員の一人が逃亡途中で警防団員を射殺、逮捕された後に処刑されている(東京上野憲兵隊事件)。
米軍にとっての空襲[編集]
当初1944年(昭和19年)11月24日にヘイウッド・ハンセル准将の指揮により始められた日本本土空襲は、軍需工場、製油所などの目標地点のみを攻撃する計画だった。なぜならハンセルは非戦闘員たる一般市民を巻き込む無差別爆撃に対して非人道的だという感情を抱いていたからだった。
しかし、元々米軍による日本本土空襲は、戦闘員同士の通常の戦闘では米軍側の被害も多く出るので、それを回避しつつ日本の降伏を早めることが狙いだった。そのためには「軍需工場のみならず、軍需工場の労働者の家や使用する道路、鉄道を破壊することが効果的だ」というヘンリー・アーノルド大将の意を受けて、翌年の1945年(昭和20年)1月21日にカーチス・ルメイ少将と交代した。ルメイは大規模な無差別攻撃を立案、その手始めに東京を選んだ。 ただし、かなりのリスクを背負っていた。それは、
- 燃料節約のためB-29は編隊を組まないで、単独飛行にしたこと。コースを外れる危険性があった。
- 高度7000–8000フィートの低高度から焼夷弾を投下する。日本上空の強い風を避け、目標を絞りやすいが、対空砲火や日本の戦闘機の標的になりやすい。
- 爆撃の効果を上げるために搭乗員を減らしてまで、焼夷弾や燃料の搭載量を増やした。迎撃に遭遇しても反撃できなかった。
というものだった。
このルメイの立案の低空飛行に兵士が難色を示すと、ルメイは葉巻を噛み切って「なんでもいいから低く飛ぶんだ」と言ったという。空襲時の東京を空から一定の時間おきにスケッチするため高度1万メートルに留まっていた飛行機もあり、帰還後ルメイはそのスケッチを満足げに受け取ったという。
ルメイは、「この空襲が成功すれば戦争は間もなく終結する。これは天皇すら予想できぬ」、「我々は日本降伏を促す手段として火災しかなかったのだ」と述懐している。一方で、「もし、我々が負けていたら、私は戦争犯罪人として裁かれていただろう。幸い、私は勝者の方に属していた」とも語っている。
その後[編集]
戦争犯罪[編集]
これ以降も、日本側の産業基盤を破壊し、また戦意を挫くため、全国各地で空襲が行なわれ、その結果多くの一般市民が犠牲となった。建前では軍施設や軍需産業に対する攻撃だが、東京大空襲は東京そのものの殲滅を目的とする無差別爆撃で多数の非戦闘員たる民間人が犠牲になっており、戦争犯罪ではないかとの指摘も強い。しかし、日本政府は、サンフランシスコ平和条約により賠償請求権を放棄している。
1964年(昭和39年)12月4日に日本本土爆撃を含む対日無差別爆撃を指揮したカーチス・ルメイに対し勲一等旭日章の叙勲を第1次佐藤内閣が閣議決定した。
当時非難の声があり国会で追及されたが、佐藤栄作首相は「今はアメリカと友好関係にあり、功績があるならば過去は過去として功に報いるのが当然、大国の民とはいつまでもとらわれず今後の関係、功績を考えて処置していくべきもの」と答える。小泉純也防衛庁長官も「功績と戦時の事情は別個に考えるもの」と答えている。
勲一等の授与は天皇親授が通例だが、昭和天皇はルメイと面会することはなかったという。
後年『NHK特集 東京大空襲』でのNHKの取材で戦争責任についての問いにルメイは勲章を示して見せている。 「自分たちが負けていたら、自分は戦犯として裁かれていた」とも述べたという。ルメイの前任者だったハンセル少将は、高高度からの軍事目標への精密爆撃に拘った故に解任されている。
2013年(平成25年)5月7日、第2次安倍内閣は東京大空襲についての答弁書を閣議決定した。答弁書では、「国際法の根底にある基本思想の一つたる人道主義に合致しない」点を強調する一方、「当時の国際法に違反して行われたとは言い切れない」とも指摘し、アメリカへの直接的な批判は避けている。
記録[編集]
3月10日の空襲の惨状は、警視総監より撮影の任務を受けた、警視庁の石川光陽によって、33枚の写真が残された(上の画像参照)。それらは戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)から引き渡すよう命令が下るが、石川はこれを拒否し自宅の庭に埋めて保管したという。この33枚の写真は、東京大空襲の悲惨さを伝える貴重な資料となっているが、石川自身は本当はこのような写真は撮りたくないと言っている。なお、石川はほかにも1942年(昭和17年)のドーリットル空襲から1945年(昭和20年)5月25日の空襲まで記録写真を撮影しており、東京の空襲全体では撮影枚数は600枚を越える。
慰霊[編集]
身元不明の犠牲者の遺骨は関東大震災の犠牲者を祀った「震災記念堂」に合わせて納められた。このため1951年(昭和26年)には、震災記念堂から東京都慰霊堂に名称が改められた。慰霊堂では毎年3月10日に追悼行事が行われているほか、隣接する東京都復興記念館に関東大震災及び東京大空襲についての展示がある。
東京都は1990年(平成2年)、空襲犠牲者を追悼し平和を願うことを目的として、3月10日を「東京都平和の日」とすることを条例で定めた。東京都では墨田区の横網町公園に「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」を設置し、遺族などからの申し出により判明した1942年から1945年の空襲犠牲者の犠牲者名簿を納めている。
2001年開館を目指して東京都平和祈念館の建設も計画されたが、実現していない。東京都江戸東京博物館には東京大空襲に関する展示がある。
空襲を免れた地区[編集]
東京の市街地でも空襲を免れた区域がある。
周囲が空襲で甚大な被害を受けながらも奇跡的に延焼を免れた地域としては、神田区須田町(現在の千代田区神田須田町)や向島区(現在の墨田区京島)が挙げられる。須田町では神田川が、京島では東武亀戸線沿いを流れていた小川がそれぞれ防火線となり、住民が川の泥や豆腐などを投じてまで懸命な防火活動にあたったことから、被害を免れた。またこの地区にも焼夷弾が落ちたが、空中で分解されずにそのまま落下したため不発弾となって軟弱な土中に深く埋まってしまい、そのため亀戸線で限られた地域が焼け残った。この両地域は空襲以前にも関東大震災の際にも延焼を免れ、ほぼ大正初期の路地構成や建物の面影を今に残す、下町一帯の中では希有な地域である。但し「生き残った」ことにより、自動車も通れない明治大正期の極狭路地が迷路のように走る同地帯は、現在では防災面で深刻な問題のある地域として懸念され、現在にいたるまでさまざまな防災に関するまちづくり、取り組みが行われている[1]。ただし、自動車が通らないがゆえに重大交通事故発生を大幅に防ぐことができているという実態もある。中央区の佃島・月島地区も晴海運河が延焼を食い止めたことから戦火を免れ、現在も戦前からの古い木造長屋が残っている。前述の通り対岸部の深川区(現在の江東区)が3月10日の下町空襲で壊滅状態となったのとは、明暗が分かれた形となった。
丸の内・有楽町付近では東京府庁と東京駅が空襲を受け全半壊したものの、内堀通り一帯の第一生命館や明治生命館などが立ち並んでいた界隈は空襲を免れている。これは、占領後の軍施設に使用することを想定していたと言われている。宮城は対象から外されていたが、5月25日の空襲では類焼により明治宮殿が炎上した。このため、松平恒雄宮内大臣が責任を取って辞任している。
東京帝国大学付近はロックフェラー財団の寄付で建てられた図書館があったことから空襲の被害は軽微だったが、懐徳館を焼失している。
また築地や神田神保町一帯が空襲されなかったのも、アメリカ聖公会の建てた聖路加国際病院や救世軍本営があったからとも言われるが定かではない。神保町を空襲しなかった理由に古書店街の蔵書の消失を恐れたためという俗説もあるが、アメリカ軍は5月14日の名古屋大空襲で国宝名古屋城を焼いたり、ドイツのドレスデン爆撃などで文化財の破壊を容赦なく行っていることから信憑性は低い。なお日本正教会のニコライ堂(東京復活大聖堂)およびその関連施設も空襲を免れ現代に残っている。遺体の収容場所が足りなくなったことによる本郷の町会の要請により、大聖堂には一時的に遺体が収容された。
東京大空襲で落命した著名人[編集]
- 3月10日の下町大空襲
- 5月25日の山手大空襲
† 行方不明(死亡確定)
東京大空襲で被害を受けた建造物[編集]
- 宮城 - 明治宮殿
- 参謀本部庁舎
- 海軍省・軍令部合同庁舎
- 外務省庁舎
- 司法省庁舎
- 大審院
- 霞関離宮
- 駐日ドイツ国大使館
- 東京府庁舎
- 東京駅 - 丸の内赤レンガ駅舎
- 明治神宮 - 本殿・隔雲亭
- 浅草寺 - 観音堂・五重塔
- 増上寺 - 伽藍・徳川家霊廟・五重塔
- 寛永寺 - 弁天堂・徳川家霊廟
- 麻布山善福寺- 本堂
- 池上本門寺 - 仁王門・祖師堂・鐘楼・釈迦堂
- 伝通院 - 山門・本堂
- 日枝神社 - 本殿・幣殿・拝殿・中門・透塀
- 愛宕神社 - 本殿・幣殿・拝殿・社務所
- 穴八幡神社 - 隨神門
- 富岡八幡宮
- 東京帝国大学 - 懐徳館(旧前田邸)
- 早稲田大学 - 恩賜記念館・大隈会館(旧大隈重信邸)
- 慶應義塾大学 - 図書館旧館・三田大講堂
- 拓殖大学 - 恩賜記念講堂
- 明治座
- 歌舞伎座
- 東京大司教座聖堂・関口教会
- 両国の国技館(のちの日大講堂、現在の両国国技館とは位置が異なる)
- 野々宮写真館アパート
- 子規庵
東京大空襲で被害を受けた美術工芸[編集]
東京大空襲訴訟[編集]
2007年(平成19年)3月9日、「東京空襲犠牲者遺族会」の被災者・犠牲者の遺族112人(平均年齢74歳)は、日本政府に対し、謝罪および総額12億3,200万円の損害賠償を求めて東京地方裁判所に集団提訴をおこなった。アメリカ軍の空襲による民間の被害者が集団となって日本国に責任を問うのは初。目的は、旧軍人・軍属が国家補償を受けているのに対して国家総動員法に寄って動員された民間人は補償が行なわれていないことを理由に、「東京空襲が国際法違反の無差別絨毯爆撃だったことを裁判所に認めさせ、誤った国策により戦争を開始した政府の責任を追及する」ことである。
2009年12月14日の1審判決で請求棄却 。原告側は控訴したが控訴棄却。2013年5月9日に最高裁が原告側の上告を棄却し、原告側の全面敗訴が確定した。棄却の理由で、空襲被害者救済は裁判所では判断が出せず、国会が立法で行うとした点は、国民の受忍限度とした旧来の判断から踏み込んだと弁護団は敗訴だが評価した。
2010年8月14日、日本政府が空襲被害者に補償をおこなう「空襲被害者等援護法」の制定を目指した「全国空襲被害者連絡協議会」が結成。
毒ガス散布計画[編集]
連合国は東京に効果的に毒ガスを散布するための詳細な研究を行っており、散布する季節や気象条件を始めとして散布するガスの検討を行い、マスタードガス・ホスゲンなどが候補にあがっていた。
脚注[編集]
出典[編集]
- ↑ 原 啓介:まちづくり・地域づくり(6)「こわれない」を目指す下町のまちづくり--東京都墨田区京島地区『地理』 56(10), 20-32, 2011年10月号
池田ほか:3012 耐震防火同時補強技術の木造密集市街地への適用可能性と延焼シミュレーションによる火災延焼抑制効果の検討 : 墨田区京島地区におけるケーススタディ(防火)『研究報告』 2010(I), 533-536, 2011年3月など多数
参考文献[編集]
- A・C・グレイリング(著)、鈴木主税・浅岡政子(訳) 『大空襲と原爆は本当に必要だったのか』 河出書房新社、2007年。ISBN 978-4-309-22460-2
- A. C. Grayling, "Among The Dead Cities: The History and Moral Legacy of the WWII Bombing of Civilians in Germany and Japan," Walker & Company, March 20, 2007. ISBN 0802715656
- 早乙女勝元 『図説 東京大空襲』 河出書房新社〈ふくろうの本〉、2003年。ISBN 4-309-76033-3
- 東京都(編) 『東京都戦災誌』 明元社、2005年。ISBN 4-902622-04-1
- 平塚柾緒(編・著) 『米軍が記録した日本空襲』 草思社、1995年。ISBN 4-7942-0610-0
- 村上義人 『手拭いの旗 暁の風に翻る』 福音館書店〈福音館日曜日文庫〉、1977年。ISBN 4-8340-0549-6
- 山本茂男ほか(著)『B29対陸軍戦闘隊―陸軍防空戦闘隊の記録』 今日の話題社、1985年、新版。ISBN 4-87565-304-2
東京大空襲を題材とした作品[編集]
関連項目[編集]
- ゲルニカ爆撃
- コヴェントリー爆撃
- ドレスデン爆撃
- 重慶爆撃
- 極東国際軍事裁判
- チャールズ・ブロンソン(B-29爆撃機の後部機関銃手として東京大空襲を戦った)
- 日本本土空襲
- 太平洋戦全国戦災都市空爆死没者慰霊塔
- 空軍力の勝利 - 1943年に公開された実写・アニメ合成のディズニー映画。ウォルト・ディズニー・プロダクション)制作。終盤、空襲で東京を焼き尽くすシーンがあり、東京大空襲を予言したと思わせる。
- 門前仲町駅 - 建設現場から空襲で被災した親子らの遺体6体が発見された。