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+ | [[1975年]] (昭和50年) 、初めて東京都知事選挙に出馬した際の演説にて対立候補の美濃部亮吉に関して「…もう新旧交代の時期じゃありませんか、美濃部さんのように前頭葉の退化した六十、七十の老人に政治を任せる時代は終わったんじゃないですか」と発言した。しかしながら、彼自身は78歳になってもなお、自らの東京都知事4期目当選を狙って、[[2011年東京都知事選挙|2011年都知事選]]への出馬を表明し、当選した。 | ||
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+ | ==== 在日外国人・諸文化への態度 ==== | ||
+ | [[在日韓国・朝鮮人]]をはじめとする[[日本の外国人]]、及び外国文化を否定・揶揄する発言を頻繁に行い、政治問題化することがよくあるが、一方賛同する意見もある。 | ||
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+ | [[第37回衆議院議員総選挙|1983年の衆議院議員総選挙]]に際して、東京2区で対立していた自民党候補[[新井将敬]]の選挙ポスターに石原の[[秘書|第一秘書]]である[[栗原俊記]]が「'66年北朝鮮より帰化」というシール3千枚を貼って回り、現行犯逮捕された ([[黒シール事件]]) 。この件に対して[[民族派]][[右翼]]の[[野村秋介]]が石原の自宅に押しかけ「日本民族の顔に泥を塗る[[羞恥心|破廉恥]]行為である」として抗議行動を行っている。なおこの際に総務会で「[[帰化人]]に[[被選挙権]]を与えるべきではない。」と述べており後述のとおり[[外国人地方参政権]]に強硬に反対する石原だが帰化人の被参政権にも否定的な見解を持っていると思われる。 | ||
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+ | [[黒シール事件]]参照 | ||
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+ | 2000年 (平成12年) 4月9日の[[陸上自衛隊|陸自]]記念式典において「不法入国した多くの[[三国人]]、外国人が凶悪な犯罪を繰り返しており、大きな災害が起きた時には騒擾 (そうじょう) すら想定される」。石原は自身のウェブサイトでこの発言について、単に外国人犯罪について言及した発言であり[[朝日新聞]]や特定組織に三国人という語の差別性だけを拡大解釈された、との考えを示している。また「謝罪の必要はない」とも述べた。 | ||
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+ | [[2001年]] (平成13年) 5月には、[[中国人]]犯罪について「民族的[[デオキシリボ核酸|DNA]]を表示するような犯罪が蔓延することでやがて日本社会全体の資質が変えられていく恐れが無しとはしまい」と主張した。 | ||
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+ | [[2003年]] (平成15年) 11月2日、[[TBSテレビ|TBS]]『[[サンデーモーニング]]』が「日韓合併を100%正当化するつもりはない」という石原が述べた発言の語尾を編集して「日韓合併を100%正当化するつもりだ」とテロップ入りで事実とは異なる放送をした。石原側はこの放送内容に抗議を行ったもののTBSから誠意ある回答が得られないとして刑事告訴した。その結果、名誉棄損容疑で TBSの社員ら4人が東京地検に書類送検されたが、東京地検は証拠不十分による不起訴処分とした。TBSは「ミス」として番組で謝罪した。 | ||
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+ | [[2004年]] (平成16年) 10月、都庁内であった[[首都大学東京]]の支援組織設立総会で「[[フランス語]]は数を勘定できない言葉だから国際語として失格しているのも、むべなるかなという気がする」「都立大はフランス語の講師が8人いて、受講者は1人もいない」などと発言。これに対し東京都立大学人文学部フランス文学専攻教員らが「石原東京都知事に発言の撤回を求める」と声明を発表した。後にフランス語教育関係者らによる訴訟に発展した。 | ||
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+ | 韓国人については「[[大韓民国|韓国]]に対する差別意識はない。私がもっとも尊敬する政治家は[[朴正煕]]大統領だ」との認識をインタビューで語っている。また[[金田正一]]の項目に引退時のエピソードが詳述されているように[[帰化人]]の金田とも親交があり一部左派が言うように[[在日朝鮮人]]全体に対する嫌悪意識はない。他方で、オリンピックの福岡誘致を応援した[[姜尚中]]を「怪しげな外国人が出てきてね。生意気だ、あいつは」と非難した。 | ||
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+ | ==== 移民「賛成」 ==== | ||
+ | [[移民]]の受け入れについては大賛成との立場をとり「[[アジア]]の人々を秩序ある移民政策のもとで正式に受け入れるべきである」と主張している。 | ||
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+ | ==== 外国人参政権 ==== | ||
+ | 民主党や公明党などが成立を目指す[[外国人地方参政権]]については「危ない試み」「発想そのものがおかしい」「絶対反対」「日本に永住する方なら日本の国籍取ったらいい、問題起こしてないんだったら」等々、反対意見をはっきり述べている。 | ||
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+ | [[2010年]] (平成22年) [[3月3日]]、都議会で、永住外国人に対する地方参政権付与問題について見解を問われ、「絶対反対だ」と答弁、外国人参政権について改めて反対の意思表示をした。 | ||
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+ | ==== 日本人への態度 ==== |
2012年5月2日 (水) 15:44時点における版
石原 慎太郎 (いしはら しんたろう、旧字体:石原 愼太郎、1932年 (昭和7年) 9月30日 - ) は、日本の政治家、作家。東京都知事 (第14・15・16・17代) 。
参議院議員 (1期) 、衆議院議員 (8期) 、環境庁長官 (第8代) 、運輸大臣 (第59代) を歴任した。
所属政党 = (自由民主党→) (無所属→) (自由民主党→) 無所属
- 東京都 第14・15・16・17代東京都知事 当選回数4回
- 1968年7月8日~1972年11月25日第33回衆議院議員総選挙立候補により自動失職
目次
- 1 概要
- 2 略年譜
- 3 学生時代
- 4 作家として
- 5 東京都知事として
- 5.1 主要な政策
- 5.1.1 新銀行東京
- 5.1.2 都立高校改革
- 5.1.3 認証保育所制度の創設
- 5.1.4 福祉改革
- 5.1.5 米軍基地返還
- 5.1.6 外形標準課税
- 5.1.7 カジノ構想
- 5.1.8 「後楽園競輪」復活構想
- 5.1.9 首都大学東京
- 5.1.10 ディーゼル車排ガス規制
- 5.1.11 羽田空港再拡張事業
- 5.1.12 臨海副都心開発
- 5.1.13 首都機能移転に反対
- 5.1.14 東京オリンピック構想
- 5.1.15 東京マラソン
- 5.1.16 三宅島オートバイレース大会
- 5.1.17 築地市場移転計画
- 5.1.18 参議院議員宿舎建て替えに反対表明
- 5.1.19 都立霊園再開発
- 5.1.20 都営住宅・特別養護老人ホームの増設拒否
- 5.1.21 都立児童養護施設の廃止
- 5.1.22 「非実在青少年」規制
- 5.2 選挙公約
- 5.3 浜渦副知事の重用と辞任
- 5.4 政党との関係
- 5.5 情報公開
- 5.6 不透明な政策・私物化疑惑
- 5.1 主要な政策
- 6 政治姿勢・発言
概要
兵庫県神戸市須磨区生まれ。湘南高等学校、一橋大学法学部卒業。
一橋大学では社会心理学の南博ゼミに所属。大学在学中の1956年 (昭和31年) に文壇デビュー作である『太陽の季節』が第34回芥川賞を受賞、「太陽族」が生まれる契機となる。また、同作品の映画化では弟・裕次郎をデビューさせた。作家としては他に芸術選奨文部大臣賞、平林たい子文学賞などを受賞。『「NO」と言える日本 -新日米関係の方策-』 (盛田昭夫との共著) 、弟・裕次郎を題材にした『弟』はミリオンセラーとなった。現在、芥川賞選考委員。
ベトナム戦争を取材した経験から政治家を志し、1968年 (昭和43年) に参議院議員選挙に全国区から出馬し初当選。1972年 (昭和47年) には衆議院に鞍替え出馬し当選、以後当選8回。1975年 (昭和50年) 、現職の美濃部亮吉に挑戦する形で東京都知事選挙に自民党推薦で出馬するも落選。その後衆議院議員に復帰し、1976年 (昭和51年) に福田赳夫内閣で環境庁長官を、1987年 (昭和62年) に竹下内閣で運輸大臣を歴任、1989年 (平成元年) には自民党総裁選に立候補し、海部俊樹に敗れる。1995年 (平成7年) 、議員勤続25年を祝う永年勤続表彰の場で、突如議員辞職を表明した。
1999年東京都知事選挙に出馬。立候補の表明は有力候補中最も遅かったが、舛添要一・鳩山邦夫・明石康・柿澤弘治といった有力候補を抑え初当選する。2003年東京都知事選挙では史上最高の得票率で再選、2007年東京都知事選挙では浅野史郎らを破り3選を果たす。2011年東京都知事選挙では当初不出馬が取り沙汰されたものの、東国原英夫らを破り4選。
都知事就任以降、毎年8月15日に靖国参拝する。新しい歴史教科書をつくる会に賛同している。日本会議代表委員、戸塚ヨットスクールを支援する会会長を務める。江藤淳の後を引き継ぎ、産経新聞にエッセイ『日本よ』を連載している。
趣味はヨット、テニス、スキューバダイビング、射撃。身長181cm、体重77kg、天秤座。俳優の石原裕次郎は弟。家族は妻 (石原典子) と4男 (自由民主党幹事長の石原伸晃は長男、俳優・タレントの石原良純は次男、前衆議院議員の石原宏高は三男、画家の石原延啓は四男) 。
石原は様々な差別的思想の考えを持っており、それに関しての部分が批判されることもあるが、逆に作家としての能力は高く評価されている。
略年譜
- 1932年 (昭和7年)
- 9月30日 - 兵庫県神戸市須磨区にて海運会社山下汽船に勤める石原潔・光子の長男として生まれる。父・潔は愛媛県の長浜町に生まれ、旧制宇和島中学 (現在の宇和島東高校) を中退し山下汽船に入社した。店童 (てんどう) あがりだったにもかかわらず、最後は関連会社の重役にまで出世した。母・光子は広島県厳島の出身。なお石原自身は神奈川県を出身地としている。
- 1934年 (昭和9年)
- 12月28日 - 弟の裕次郎が生まれる。
- 1936年 (昭和11年)
- 1943年 (昭和18年)
- 1945年 (昭和20年)
- 4月 - 神奈川県立湘南中学(後の神奈川県立湘南高等学校)へ進学。
- 1949年 (昭和24年)
- 1951年 (昭和26年)
- 1952年 (昭和27年)
- 1955年 (昭和30年)
- 12月 - 当時18歳だった石田由美子 (後に典子と改名) と結婚。
- 1956年 (昭和31年)
- 1月 - 『太陽の季節』により第34回芥川賞を当時史上最年少で受賞、ベストセラーとなる。一橋大学法学部を卒業。『太陽の季節』が日活で映画化され、弟・裕次郎が日活俳優としてデビューする。また自らも映画初出演を果たし、「太陽族」、「慎太郎刈り」が流行する。
- 映画『太陽の季節』が公開された際、登場人物が強姦・不純異性交遊等を行う反社会的内容から映画を見た青少年への影響が取りざたされ、映画倫理委員会 (通称、映倫) が作られる契機となった。
- 1957年 (昭和32年)
- 4月19日 - 長男・伸晃が誕生。
- 1958年 (昭和33年)
- 1960年 (昭和35年)
- 1962年 (昭和37年)
- 1月15日 - 二男・良純が誕生。
- 1963年 (昭和38年)
- 3月 - 『狼生きろ豚は死ね・幻影の城』を新潮社より出版。
- 1964年 (昭和39年)
- 6月19日 - 三男・宏高が誕生。
- 1966年 (昭和41年)
- - 四男・延啓が誕生。
- 1967年 (昭和42年)
- 1968年 (昭和43年)
- 7月 - 第8回参議院議員通常選挙に自民党から全国区に出馬し、史上初の300万票得票でトップ当選。2位青島幸男・3位上田哲であり、ライバル関係になっていた。
- 1969年 (昭和44年)
- 11月 - 『スパルタ教育』を光文社より出版。
- 1972年 (昭和47年)
- 1973年 (昭和48年)
- 1975年 (昭和50年)
- 1976年 (昭和51年)
- 12月5日- 衆院選で国政に復帰(同区で民社党新人大内啓伍も当選)。同月24日発足の福田赳夫内閣_(改造)で環境庁長官に就任。
- 1981年 (昭和56年)
- - 弟の裕次郎が倒れた際に小笠原諸島から海上自衛隊飛行艇を呼び寄せて帰京し、公私混同として問題になる。燃料代は160万円かかっていた。
- 1983年 (昭和58年)
- 1987年 (昭和62年)
- 1988年 (昭和63年)
- 4月8日 - 『漁業施設がヨットに危険』と発言し、海上保安庁に漁業施設を総点検させることになる。
- 1989年 (平成元年)
- 1990年 (平成2年)
- 2月18日 - 第39回衆議院議員総選挙が旧東京4区で長男の伸晃が初当選し、父子揃って衆議院議員となる。
- 1995年 (平成7年)
- 1996年 (平成8年)
- - 弟の石原裕次郎をテーマに『弟』を発表。
- 1999年 (平成11年)
- 4月11日 - 1999年東京都知事選挙に出馬。立候補表明の記者会見での第一声の、「石原裕次郎の兄でございます」と言う挨拶ギャグが話題を呼ぶ。鳩山邦夫、舛添要一、明石康、柿澤弘治ら有力候補がひしめく中、166万票を得票して当選 (舛添と喧嘩別れした栗本や、栗本が同年末に復党する政党自由連合代表徳田虎雄の支援受けた)
- 2003年 (平成15年)
- 4月13日 - 2003年東京都知事選挙に出馬。308万票(得票率史上最高)を獲得し、樋口恵子、若林義春らを破り再選。石原の圧勝が事前に予想されていたためか、珍しく候補者の少ない都知事選であった。
- 2004年 (平成16年)
- 11月17 - 21日 - 「弟」テレビドラマ化。
- 2007年 (平成19年)
- 4月8日 - 2007年東京都知事選挙に出馬。投票の過半数にあたる281万票を獲得し、浅野史郎、吉田万三、黒川紀章らを破り3選。
- 2010年 (平成20年)
- 4月10日 たちあがれ日本・応援団長就任
- 2011年 (平成23年)
- 4月10日 - 一時は3期目での退任を考慮した中で、2011年東京都知事選挙に出馬を決断し、立候補。東国原英夫、小池晃らを破り、2,615,120票を獲得して四選を果たした (得票率は43.4%) 。
学生時代
『太陽の季節』を引っ提げて華々しくデビューしたとき、マスコミは慎太郎をこぞってとりあげた。「五つの道をゆく“石原慎太郎”批判」と題し、9ページもの大特集を組んだ『サンデー毎日』 (1956年9月9日号) もその一つだった。この記事の中に、湘南高校時代の慎太郎の左翼活動に関する一節がある。
慎太郎が高校一年の時だった。学生運動が盛んになろうとしていた1948年に、民主学生同盟にいち早く入り、学内に社会研究会を作った。日本共産党へのヒロイックな気持にかられていた時、母は“大衆のために両親や弟を、そして地位も財産も捨て、獄につながれても後悔しない自信があるなら、私は反対しないが、その覚悟をしてほしい。それならお父さんが、どんなに反対しても、私は賛成する”この言葉にそのあくる日から彼は学生運動を離れている。
慎太郎は後にこの点について、『芸術生活』編集長の御木白日との対談の中で「女親っていうのはバカだから。主義主張が母親の意見で変わるなんてウソですよ。精神風俗としてそういうものに興味をもったから、親が心配したというだけの話です」と否定的に語っている。
作家として
芥川賞受賞
一橋大学在学中に、『太陽の季節』で第34回「芥川賞」を受賞。
『ひばり裕次郎 昭和の謎』によると、「昭和三十年、まだ一橋大生だった石原慎太郎が書いた『太陽の季節』が芥川賞を受賞したが、その余りにえげつない風俗描写に世間は眼を剥 (む) いた。青い海原にうかぶ白いヨットやモーターボートの上でくりひろげられる若い男女の赤裸々なセックス、恋人交換、殺人。そして―、
[裸の上半身にタオルをかけ、離れに上がると彼は障子の外から声を掛けた。“英子さん”部屋の英子がこちらを向いた気配に、彼は勃起 (ぼっき) した陰茎を外から障子に突き立てた。障子は乾いた音をたてて破れ、それを見た英子は読んでいた本を力一杯障子にぶつけたのだ。本は見事、的に当って畳に落ちた。その瞬間、竜哉は体中が引き締まるような快感を感じた (『太陽の季節』) 。〕
この"勃起 (ぼっき) する男性シンボル"場面は文壇にも旋風を巻き起こし、支持派と反対派の真っ二つに分れた。支持派の舟橋聖一は、"若い石原が世間を恐れず、率直に生き生きと《快楽》に対決してその実感を容赦なく描き上げた肯定的積極感が好きだ"と述べ、反対派の佐藤春夫は、"この作者の鋭敏げな時代感覚も、ジャーナリストや興行者の域を出ず文学者のものではない。美的節度の欠如"と評し、カンカンガクガクの論争が続いた」
現在に至るまで
その後『処刑の部屋』 (映画原作) 、『聖餐』といった現代の世相を鋭くえぐり出すのが特徴の同種の作品を多数発表した。1957年10月『新潮』に発表した「完全な遊戯」について、高見順宅へ行った際、『群像』編集長の大久保房男と口論になり、『群像』には一度も執筆していない。
政治家への転身以降、発表する作品数は減ったものの、現在に至るまで一貫して創作活動を行っている。1970年 (昭和45年) に書下ろし長篇『化石の森』で芸術選奨文部大臣賞、1988年 (昭和63年) 、『生還』で平林たい子文学賞を受賞。弟裕次郎を描いた1996年 (平成8年) の『弟』は120万部を売り上げ、毎日出版文化賞特別賞を受賞した。創作以外でも『スパルタ教育』 (1969年、70万部) 『「NO」と言える日本』 (1989年、125万部) 、『法華経を生きる』 (1998年、33万部) 『老いてこそ人生』 (2002年、82万部) などのベストセラーを刊行している。
1995年から2012年まで芥川賞の選考委員を務めていたが、辛口の批評が多かった。石原が推して受賞した者に辻仁成、町田康、青来有一、中村文則、青山七恵、西村賢太などがいる。また1992年から1999年まで三島由紀夫賞選考委員を務めた。2012年の第146回芥川賞の選考会の前に候補作のほぼ全てを中傷したが、選考会後に受賞者の田中慎弥に批判を受けると「田中君の作品は評価していた」と発言をし、その直後に選考委員を辞任した。
映像作家としては、弟の裕次郎を世に送り出すことになった自作の映画化『狂った果実』で脚本を担当して以降、映画やテレビで自作小説の脚色を多く手がけている他、1958年 (昭和33年) 、東宝映画『若い獣』で初監督を務める。2007年 (平成19年) 5月には映画『俺は、君のためにこそ死ににいく』を発表。制作・指揮・脚本を手がけた。
東京都知事として
財政運営面では、財政危機に対応し自らの知事給与を10%カットするなど、人件費の圧縮や福祉・教育及び学術研究予算の削減を行い、一方で「東京から国を変える」をスローガンに自らの発案になる大型プロジェクトや臨海開発事業へは積極的な投資を行うのが石原都政の特徴である。銀行への外形標準課税 (銀行税) の導入、日本初で世界三番目のキャップ・アンド・トレード型排出量取引制度の導入、浮遊粒子状物質 (SPM) を減らすためのディーゼル車排ガス規制での硫黄除去装置導入、中小企業の支援のため1000億円の都予算を投入した新銀行東京 (石原銀行とも) の設立、首都大学東京の開学など、全国に先駆けた政策は注目を浴びた。知事三期目は二度目の東京オリンピックの開催を実現することを選挙公約とした。
特別会計や監理団体なども含めた東京都の連結での負債 (借金) は、バブル経済崩壊後の景気回復の影響を受けた都税収入の増加などにより、都の財政が黒字化して債務は減少しつつある。一方、特別会計や監理団体の財政は厳しく、これまで都が運営してきた多くの施設の財団化、もしくは指定管理者制度の導入による民営化を進めている。
また、日本の警察官の増員、警察官僚出身の竹花豊の副知事への任命など治安対策を重視しており、新宿歌舞伎町などの違法営業店の数が激減した。
2007年 (平成19年) には猪瀬直樹を副知事に起用。猪瀬は東京DC特区構想 (山手線の中側を中心とした区域を政府直轄地にして東京から切り離す) を提案し、オリンピック誘致にも懐疑的であるなど主張が異なる部分もあるが、石原は猪瀬について、「個人的に次の知事にふさわしいと思う」と話している。知事・副知事共に現役の作家というのは異例の組み合わせである。同年、東京マラソンの開催を実現した。
主要な政策
新銀行東京
新銀行東京参照
2003年 (平成15年) 、東京都が石原の発案で「東京発金融改革」と銘打ち、「資金調達に悩む中小企業を救済すること」を理念として設立した。
2008年 (平成20年) 3月までに1016億円の累積赤字となっており、既に東京都の出資分1000億円を超過している。さらに、2005年 (平成17年) 4月から2008年 (平成20年) 1月までに出資した2300社が経営破綻し、285億円が不良債権化している。石原は同銀行の再建について「経営者に責任がある」「不退転の決意で必ず再建する」として、400億円の東京都による追加出資を行う方針を示したが、『産経新聞』や『読売新聞』も社説で銀行廃止を求めたほか、与党自民党も含め都議会の一部も増資に反対した。石原は2008年 (平成20年) 1月11日の都議会で「トップダウンで銀行設立を決めた知事の責任が大きい」との追及に対し、「私が社長ならもっと大きな銀行にしていた」「都民から預かった大事な税金を失いきる前に、私には銀行を再建する責任がある」と反論し、責任を否定すると共に存続を主張した。
世論調査では都民の7割以上が反対していたが、結局都議会は400億円の税金投入による銀行再建を自民、公明両党の賛成多数により可決した。追加出資の400億円は都民1人当たり約3100円に相当し、すでに都が出資した 855億円を合わせて都民の負担は約11000円に達する。この問題ではNPO法人情報公開クリアリングハウスが2009年 (平成21年) 6月、出資金の計1255億円は回収が見込めない、石原と旧経営陣への賠償請求を都に求める住民訴訟を起こしている。
石原は、新銀行東京が2009年 (平成21年) 5月に発表した2009年3月期決算において、同行の赤字が再建計画より少ない金額に留まったことについて「いい成り行きを見せており、とても嬉しい。早く単黒 (単年度黒字) を出すようになってもらいたい」と述べている。
都立高校改革
都立高等学校は、1967年 (昭和42年) の学校群制度導入以来、東京大学を初めとする難関大学への進学実績が大きく落ち込んでおり、1999年に都知事に就任した石原は、学区制を廃止して競争原理を導入し、生徒に選ばれる特色ある学校づくりが必要だという強い思いを持っていた。東京大学の鈴木啓和は、石原の就任後に実現していった「学区制の廃止」や「進学指導重点校」の制度、そして「エンカレッジスクール」は、石原の影響により実現していったものとしている。2000年2月には都立九段高校で特別授業の講師担当。
2001年 (平成13年) 、横山洋吉教育長(のち東京都副知事)は「進学指導重点校」を指定した。第一号に日比谷・西・戸山・八王子東が指定される。これによって「小尾通達」以来、都立学校としてはおよそ35年ぶりに公式に進学指導を打ち出す。「都立復権」をスローガンに各校が特色を出す方針を打ち出し、進学指導も都民の多様なニーズに応える一つの施策として位置づけられる。2003年 (平成15年) には第二号として国立・立川・青山を追加した。2003年 (平成15年) には学区制度を完全撤廃、2005年 (平成17年) には都立学校では初となる附属中学を開校し中高一貫教育に乗り出した。中高一貫となる都立学校は、2010年 (平成22年) には10校まで増える予定である (桜修館・小石川・白鴎・両国・富士・大泉・南多摩・北多摩・武蔵・三鷹) 。2007年には「進学指導特別推進校」に新宿・駒場・小山台・国分寺・町田の5校が指定された。いわゆる中堅校に対しては「中堅校活性化推進事業」を展開し、学区撤廃に伴って各校が特色を出すことを推進。また、需要の少なくなった底辺校定時制や職業科の廃統合を「下から順番につぶす。」「高校の事業整理。」として積極的に行った。自身は学歴感について「オール5を取っても使い物にならない役人にしかなれない。」「自分は東大に50人近く合格者を出した高校で東大へ行けなかったんだから落ちこぼれだった。」「何かひとつ秀でたものがあればいいんだ。」等と著書や講演や息子である良純の書いた著書の中での慎太郎の発言として述べている。
認証保育所制度の創設
国の認可保育所に申し込み、用件を満たしているものの、保育所の不足により、入所待ちを余儀なくされている待機児童が増加しており、都内にはその受け皿となる無認可保育所が存在していた。しかし無認可のため、有資格者が不足していたり、環境が劣悪なところもあった。そこで石原は国の認可保育所に頼るのではなく、都独自の基準を設けて、都市型保育のニーズに応える認証保育所を創設。2001年8月1日に都内三カ所でオープンし、2011年現在で615ヶ所の認証保育所が設置されるに至っている。
福祉改革
「何が贅沢かといえば、まず福祉」の主張に基づき、石原都知事主導で「福祉改革」 (社会保障費の削減・合理化) を行った。1999年 (平成11年) から2004年 (平成16年) までに以下の政策によって福祉予算を661億円削減した。
- シルバーパス (敬老パス) を年間1千円に有料化
- 寝たきり高齢者への老人福祉手当の段階的廃止
- 障害者医療費助成の対象を縮小
- 特別養護老人ホームへの補助を4年間で181億円 (85%) 削減
- 難病医療費助成の対象から慢性肝炎を除外
- 盲導犬の飼育代、盲ろう者のための通訳者養成講座の廃止
石原の主導で、「利用者指向の『開かれた福祉』」を目的として下記のとおり「東京都福祉改革推進プラン」が行なわれている。
- 利用者が「選択」するために必要なサービスの質と量の確保
- 安心して「選択」できるためのしくみづくり
- 利用者指向のサービス実現のための「競い合い」の促進
- 「地域」の力と特性を活かした身近なサービスの提供
- 社会の変化に合わせた一歩先の福祉を構想
平成18年度の東京都の福祉保険局予算は7,114億5,200万円となり、東京都予算 (一般会計総額6兆1,720億円) 全体に占める割合は11.5%となっている。
米軍基地返還
青山公園参照
米軍横田基地の返還・軍民共同利用を公約とし、また麻布ヘリコプター基地 (赤坂プレスセンター、ハーディバラックス) が不法占拠している都立青山公園の該当部分返還を要求している。
外形標準課税
一定規模以上 (資金量の残高が5兆円以上) の大手銀行を対象に、5年間の時限措置として外形標準課税を導入した (いわゆる銀行税) 。しかし銀行側は「狙い撃ち」と反発し訴訟に発展、東京高裁・森脇勝裁判長は銀行への課税自体は合法と認めた上で、税率負担の水準が不公平で高すぎるとして違法と判断、都側は事実上敗訴した。平成12年度から15年度までの銀行税収入は3173億円にのぼったが、銀行側と税率引き下げを条件に和解し年率4.1 - 4.5%という高率で発生した還付加算金123億円を含め2344億円を銀行側に返還した。
敗訴の結果、銀行税は導入時の3%から、過去10年間の銀行の納税額の平均である0.9%へと引き下げられ、都の税収は同税導入以前の水準とほぼ同じ829 億円に留った。「税収を増やす」という本来の目的としては失敗したものの、自治体の独自課税の動きに大きな影響を与えた。
カジノ構想
税収を増やすためにお台場カジノ構想を提案していたが、現行の法律ではそれができず、実施には国会による法改正を必要とするので実現見通しが立たず2003年 (平成15年) に正式に断念を発表(現在の日本においては、公営競技や宝くじ、スポーツ振興くじ等別途法令で指定された以外の賭け事は全て、賭博開帳図利罪に問われるギャンブルである)。このお台場カジノ構想に関しては、2003年 (平成15年) に公開された映画『踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』にてそれらしきものが描写されている。また「千里眼/マジシャンの少女」 (小学館文庫) [文庫]ISBN:978-4094032604松岡圭祐 (著) でもお台場カジノ構想をテーマにした物語が描かれている。
「後楽園競輪」復活構想
上述のカジノ構想断念を受け新たな税収源を求めるべく2003年 (平成15年) 6月に、東京ドームの地下に現在未使用である競輪用走路が収納されており、また同地の前身が後楽園競輪場であった背景も踏まえ、「後楽園競輪」復活構想を掲げた。その後、三宅島災害復興支援を名目に都議会にも議案を諮ったが、同地の所在地である文京区の住民による反対運動に後押しされた当時の同区区長・煙山力が早速反対の姿勢を表明したばかりか、都議会議員の多くが消極的な姿勢に終始したこともあって難航。加えて、競輪復活計画のまとめ役を務めていた当時の副知事・浜渦武生が問責決議により、同職を辞することになったため、この時点で事実上頓挫した。
首都大学東京
設立前後の経緯と大学の詳細については首都大学東京を
「全く新しい大学をつくる」と公約。東京都立大学の改編により2005年 (平成17年) に設立された大学である。
一般の名称公募では「東京都立大学」が最多だったが、石原の意向で名称が「首都大学東京」となった。都からの一方的なトップダウンの大学改組や雇用不安定化に対し大学教員側が反発、著名な教授などを含めた多数の教職員が他の大学へ移籍した。また、都立大法科大学院の入試が延期され、近代経済学グループ16名中15名が大学を去り経済学コースが設置できなくなり、採択された21世紀COEプログラム「金融市場のミクロ構造と制度設計」の補助金を返上するなど問題が発生した。
石原は経済学部のCOE返上問題について「一部のバカ野郎が反対して (COEの) 金が出なくなったが、あんなものどうでもいい」と発言している。
ディーゼル車排ガス規制
ディーゼル車の実態と法規制についてはディーゼル自動車
青島都政の政策を引き継ぎ、かねてより環境研究者に指摘されてきた、国の自動車排出ガス規制での対応では不足となっていた東京都の自動車排ガス公害の深刻さに対応するため、ディーゼル車への粒子状物質排出規制を首都圏の他の自治体と共同して行い、2000年 (平成12年) には、都民の健康と安全を確保する環境に関する条例 (通称: 環境確保条例) を制定し、粒子状物質排出基準を超えるディーゼル車の、新車登録7年経過後の走行を禁止した (条例第37条、第38条) 。
この条例については、違法な上乗せ条例であるとの見解や、地域的な特殊性を考慮した適法な条例であるとの見解がある[1]。石原はディーゼル車の数は全ての自動車の中の2割に過ぎないが、全ての自動車から排出される窒素酸化物の約7割と浮遊粒子物質(SPM)のほとんどを排出していることを示し、東京でディーゼル自動車の排気に含まれ排出される粉塵の量が、1日に500ccのペットボトル12万本分にも達するとして、会見等でペットボトル入りの煤を撒いて見せた。このような訴えは、環境省始め国による環境規制の強化を促したとされる。しかし、国は自動車から排出される窒素酸化物及び粒子状物質の特定地域における総量の削減等に関する特別措置法などで窒素酸化物の排出量がガソリン車の10倍であるディーゼル車からガソリン車への転換を図る政策をとっているが、それに乗じCO2排出量が少ないディーゼル車に対する過度の規制や、殊更にディーゼル車を悪者視するかのようなパフォーマンスは地球温暖化対策に逆行するという主張もある。
関連して、環境汚染の原因になるだけではなく脱税の温床となっている不正軽油の撲滅にも注力している。
羽田空港再拡張事業
2010年 (平成22年) 10月に完成・供用が開始された東京国際空港の四本目の滑走路 (D滑走路) は、世界が時間的・空間的に狭小なものとなってきた国際化の時代に、空からのアクセスが国力の維持に絶対に必要なこととの考えのもと、当時政調会長であった親友の亀井静香とともに、当時の運輸省と協議して、15分の交渉で調査費をつけさせ着手に持ちこんだものとされる。
臨海副都心開発
東京臨海副都心参照
鈴木都政下で開始されたお台場の臨海副都心開発計画は多額の負債を出して赤字となっているが、石原は事業推進の立場に立っている。当選直後の1998年度 (平成10年度) には第三セクター3 社に対して270億円の財政支援をおこなう計画を追認、さらに都によるビルの借り上げ支援や土地代の減免、収益事業の丸投げなどさまざまな支援策を継続した。その後も投資は継続され、「首都東京の活力と創造力を生み出す新しい重要な事業」として投資や土地の提供など就任後の7年間で2兆5000億円 (2006年まで) を費やした。これに対しゼネコン・ハコモノ重視の土建屋行政という批判がある。
2006年 (平成18年) 5月12日には第三セクター3社(東京テレポートセンター、東京臨海副都心建設、竹芝地域開発)が財政破綻し、最終的な負債総額は3668億円と確定した。
首都機能移転に反対
首都機能移転参照
首都機能移転には「膨大な経費をかけて新都市を建設するよりも、首都東京の歴史的文化的蓄積を活用すべき」とし、強く反対している。東京が「首都」であることを死守することも念頭に、都立大の後身となる大学の名称には、石原の意向により首都という言葉が組み込んだ「首都大学東京」が採用された。2001年 (平成13年) 11月21日の衆院の「国会等の移転に関する特別委員会」では1990年 (平成2年) に衆参両院で可決された「国会等の移転に関する決議」を「ばかな決議」と批判し、問題となった。しかし、その際に同委員会の委員長から「新聞社の写真等を見る限り、石原参考人は (同決議の際に) 起立していた」と指摘された。この指摘を受けて「周囲を確認するためだった」との回答書を提出した。
東京オリンピック構想
2016年夏季オリンピックの東京都での開催を目指し、招致活動を進めた。2006年 (平成18年) 8月30日には国内候補地選定委員会において福岡市を破った。招致経費は55億円とされている。東京都は開催に向けて2006年度すでにオリンピック基金1000億円を積み立てており、その後3年間でさらに3000億円積み立てると表明した。
「五輪が決まれば国が動かざるをえない。東京の欠点は交通渋滞。五輪を引き金に東京の暮らしがよくなる」とオリンピック招致の理由の一つとして道路渋滞の解消を挙げた。
開催都市が決定する2009年 (平成21年) 10月2日に各国の候補都市から東京が選ばれない場合については、「責任を取らなきゃいかんでしょうね」と発言している。
2008年 (平成20年) 6月には皇太子徳仁親王に招致活動への支援を求めるつもりである旨発言。宮内庁東宮職から「招致活動の段階からというのは…」と難色を示された事について「政府が正式に申し込んだら別な話だと思うね。宮内庁ごときが決めることじゃない。国家の問題なんだから。木っ端役人が、こんな大事な問題、宮内庁の見解で決めるもんじゃない」と述べた。この発言は都議会民主党に7月、「64年東京、72年札幌、98年長野、いずれの招致にも皇族は関与していない。"一種の国家の総力戦”なる発言は国際親善を旨とする皇族の活動とは相容れない、"皇太子が日本のために一席弁じてもらうことに反対する人は誰もいない"なる発言は是非の議論を封じる危険な側面さえ持つ」と批判されている。
また、瑞穂町議会で招致賛同決議案が否決されたことに対して「頭がどうかしているんじゃないのか、あとでほえ面かくな」と発言した。
なお、2016年夏季オリンピックは、2009年 (平成21年) 10月のIOC総会でリオデジャネイロにて開催される事が決定した。この結果に対して6日、「ブラジルの大統領が、聞くところ、アフリカの人にかなり思い切った約束をしたというようです。サルコジ大統領もフランスの戦闘機を買ってくれるなら、ブラジルを支持するとか」と裏工作の存在を臭わせる発言を行ない、ブラジルの国内委員会から"聞き捨てならない。ルール違反でありIOCに通知する"とクレームを表明されたが、石原は「本当の事を言ったまでのことだけ」と反論している。
石原は2009年 (平成21年) 11月9日、2020年夏季オリンピックにも東京都を再度立候補させる意向を表明した。
東京マラソン
東京マラソン参照
2003年、石原は「経済波及効果、スポーツや観光の振興につながる」と述べ、銀座などの目抜き通りを走る構想を発表。石原の提唱により、東京都と日本陸上競技連盟で大都市マラソンを開催することを目指して協議を開始し、2005年両者は「東京マラソンに関する基本合意」を締結。
制限時間について事務局サイドが7時間を想定したのに対し、公道を警備する警視庁は5時間を求めたが、石原がニューヨークシティマラソンのランナーから東京マラソンでは7時間にするよう要望されたことが念頭にあり、組織委員会の実務責任者だった遠藤雅彦は「7時間を一歩も譲るな」と担当者に指示、折衝は難航を極めるが、最終的には石原の後押しもあって事務局サイドの主張が通る形となった。2007年の第1回大会には9万5千人の応募者から抽選で選ばれた約3万人が参加し、沿道には178万人の観衆が集まった。
大会会長を務める石原は、2008年2月15日の会見において当初よりも参加枠を広げていることを示し、「将来的に5万人」にして世界の市民マラソンに匹敵する大会にしたいという目標を述べた。また、2009年3月19日の定例会見では「多額の参加費を支払う人の別参加枠を 1,000人ほど設けて、参加費を超える部分をチャリティに使いたい」と目標を述べ、2010年10月15日の定例会見においてチャリティー枠を1,000人募集すると発表。2011年大会では参加費10万円のチャリティー枠に応募した707名から約7,300万円の寄付金が集まり、寄付金は東日本大震災の復興支援などに充てられた。応募者が参加枠の1000名を超えると期待していた石原は707名という応募者数について、他国の事例からすると募集をアナウンスしてから締め切るまでの時間が短すぎたことが誤算であったとし、それでも7000万の寄付金が集まったことは良い事例ができたものであり、翌年からはもっと多くの応募があることを期待しているという声明を出した。
ウォール・ストリート・ジャーナル日本語版の山口肇記者は、石原の肝いりで始まった東京マラソンは市民ランナーの増加に大きく貢献してきたとし、2011年大会において石原が都知事最後となる可能性があったことから、石原が都知事を辞めた場合、2012年以降の大会運営が気になるとして、後任知事の「事業仕分け」の対象になることを危惧するという一市民ランナーとしての見解を伝えた。
三宅島オートバイレース大会
石原は2000年 (平成12年) に発生した三宅島火山の噴火による観光客減少への対策として、イギリスのマン島で行われているマン島TTレースを参考に、日本初となる一般道路を使用した本格的なオートバイレースを三宅島で開催することを提唱した。レースは東京都と三宅村が主催し、2007年 (平成19年) 11月9日から11日に開催が予定されていたが、「公道でスピードを競うのは危険すぎる」との意見が本田技研工業など二輪大手4社から続出し、中止が決定した。都は、専門家による検討経費などに4000万円、都道改修に3億円を2007年度予算に計上していた。結局、三宅村では代替イベントとしてチャレンジ三宅島モーターサイクルフェスティバルを開催することを発表している。
東京都が2006年 (平成18年) に三宅島で実施したテスト走行に参加したプロレーサー3人のうち2人が報告書で危険性を指摘し、公道レースの開催に反対を表明していることが2007年 (平成19年) 2月23日の都議会で明らかになっており、バイクレースの専門家からも「殺人レースだ。絶対にやめるべし」と批判されていることに対し、石原は「レースは危険があるからエキサイトする。ある程度ライダーの自己責任もある」として同レースを強行する姿勢を示していた。また、『朝日新聞』は「三宅島は現在も火山ガスが噴出しており航空路は再開していないため、観光客誘致の起爆剤となるのかは未知数」と報じた。石原は観光客や機材の輸送には海路を用いる考えを示していた。
築地市場移転計画
石原は、中央区築地にある築地市場を、施設の老朽化やアスベスト問題のため、2012年度を目処に江東区豊洲地区へ移転させる方針を明らかにしているが、予定地である東京ガスの工場跡地において、環境基準を超える毒物 (鉛・ヒ素・六価クロム・シアン・水銀・ベンゼンの6種類が国の環境基準を超えており、発癌性物質であるベンゼンにいたっては国の基準の1500倍である) が検出されるなど土壌汚染が判明している。また、土壌を入れ替え、アスファルトで被覆する都の対策では不十分との指摘がある。一部の関係者は「生鮮食品を扱う市場の移転先としては論外」とし、築地市場移転反対派の団体「市場を考える会」が中心となって移転反対運動を行っている。
石原は「築地は古くて清潔でない。都民や消費者の利益を考えれば、市場を維持するわけにはいかない。ほかに適地はない」と述べて、移転計画に変更は無いとし、移転後の跡地には「2016年東京オリンピック」のメディアセンターを建設する構想を明らかにしている。
また、石原は2006年 (平成18年) 9月8日の定例記者会見において築地市場跡地に「NHKが移転する」と発言したが、NHKは「そんな計画はない」と否定している。
2007年 (平成19年) 10月6日には、東京都は移転予定の豊洲において調査した56カ所のうち14カ所で有害物質のベンゼンが基準値の1000倍の値で検出されたと発表した。
参議院議員宿舎建て替えに反対表明
都心部である千代田区紀尾井町に残るわずかな緑の空間を候補地にした、参議院による新清水谷議員宿舎建て替えに反対を表明した。宿舎立て替えは2011年現在、まだ着工には至っていない。
都立霊園再開発
谷中霊園や青山霊園など、使用料の払われていない無縁墓地を整理・除去し、空いたスペースを2003年 (平成15年) より新たな貸付スペースとしている。併せて、霊園内の再開発の理由も相まって、舗道の敷石の撤去、前述の新たな貸付スペース確保の理由と合わせて大木など木々の伐採が進み、さらに側溝板の設置などにより、そこを寝床等にしている周辺の小動物などに影響が出ている。また、無縁墓地の改葬には外人墓地は含まれないことになり、日本人墓地だけが対象となっている。
都営住宅・特別養護老人ホームの増設拒否
石原は、前記の通り「何が贅沢かと言えば、まず福祉」とする政策の下、都営住宅・特別養護老人ホームの増設を一切拒否しており、これら高齢者用の施設への入居を必要としながら入居することのできない高齢者が2011年4月1日の時点で4万3千人を超えている。2009年3月30日、群馬県渋川市の無届老人ホーム「たまゆら」で火災が発生し、入居していた高齢者10人が死亡したが、そのうち7人は東京都内に入居できる施設がなく、最終的に都外の「たまゆら」へ追いやられた高齢者であったと東京土建労働組合は主張している。
都立児童養護施設の廃止
石原は、前記の通り「何が贅沢かと言えば、まず福祉」とする政策の下、病弱児の児童養護施設・成東児童保健院をはじめ、都外に設置されていた3か所の都立児童養護施設を廃止した。 これらの施設に入っていた子どもたちは、「ぼくたちの安心の居場所をなくさないで」と訴えたが願いは聞き入れられなかったと共産党は主張している。
「非実在青少年」規制
東京都議会の平成22年第1回定例会で「児童ポルノや子供への強姦等を描いた漫画の蔓延を、見て楽しむだけなら個人の自由である、いかなる内容であっても表現の自由である、と許容することは、これは自由の履き違えであり、青少年を守り育てる大人としての責任と自覚を欠いた、未成熟な人間の自己保身に他ならない」と述べて成人向け漫画の愛好家達を糾弾し、「青少年健全育成条例(東京都青少年の健全な育成に関する条例)を改正し、児童ポルノの根絶とこの種の図書類の蔓延の防止に向けて都が、都民、事業者と一体となって取り組み、現在のおぞましい状況にこの東京から決別していきたい」と宣言した。3月19日の定例会見では「私は残念ながらね、 (規制の) 対象となっているものは読んでもいないし、見てもいないのでねぇ」と言う一方で、漫画やアニメが青少年に害悪を与えることがあるのかどうかについては「ありますよ、そりゃ。 (記者に向かって) ないと思うのか君」と根拠を示さずに断言した。
同条例改正案は2010年 (平成22年) 6月14日都議会総務委員会において民主共産両党と生活者ネットワーク・みらいの反対票によって否決、同16日に本会議でも否決された。都議会で知事提出の条例案が否決されるのは12年ぶり。修正の上で民主、自民、公明の3党が再提出した結果、2010年 (平成22年) 12月15日に可決され成立した。
石原本人の著作には18歳未満の児童に対する強姦・輪姦や、障害者女性に対する輪姦などを扱った物があり (『太陽の季節』『完全な遊戯』等。前者の映画化で内容が問題となり設置されたのが映倫である。また、『処刑の部屋』の映画に誘発された犯罪が実際に発生している) 、この点について ちばてつやは「知事が小説家としてどういう作品を書いてデビューしたかは皆さんご存じだと思う、表現は自由であり若者の支持を得てデビューした原点は忘れないで欲しい、文化が滅びる」と批判している。
2010年 (平成22年) 12月17日、過去に行った「いかなる書物であっても、子供たちを犯罪や非行に教唆することはない」という自分の発言を撤回した。その際、発言当時には変態を是認するような作品は存在しなかったと釈明した。
『J-CASTニュース』によれば、2011年 (平成23年) 5月17日、東京国際アニメフェアとこれに対抗して予定されていた「アニメ コンテンツ エキスポ」が共に東日本大震災の影響で中止されたことについて、生番組内で「両方とも震災でパーになった。ざまぁみろだ」と発言し、同時に、エロマンガを子どもの手の届くところに置くなという条例を作ったもので、なぜこれが言論統制なのか、と条例案への批判は当たらないとの見方を示し、その場に同席した 田原総一郎は「例えば大人の本でも、ヌードが多い本なんかは、ビニールで囲ってある。その程度のことをやれってことでしょ?」と同意を示した。この際の石原の「ざまぁみろ」の発言に関して、朝日新聞は「このような発言を続ける人物が首都の首長でいられること、そして選んだ都民の神経を疑う」という読者の投書を載せた。
選挙公約
- 選挙公約 (1期目)
- 都が主導の債券市場にYES
- 踏切のない東京にYES
- 健康を損なう排ガスにNO
- 福祉に立ちはだかる規制にNO
- 借金漬けの財政にNO
- 横田返還にYES
- 首都移転にNO
- 住みやすい東京にYES
- 命が守れない危機管理にNO
- 新しい道徳教育にYES
- 選挙公約 (2期目)
- 安心・安全の確保、都市の再生から始める「都民福祉の充実」
- 中小企業の能力を引き出す「新しい銀行を創設」
- 都民、国民の健康を損なう「大気汚染を解消」
- 利用者から高い評価を受けている「認証保育所を大増設」
- これまでの日本にない「まったく新しい大学を実現」
- 千客万来の「観光都市を実現」
- 雇用促進のため、利用者に便利な「職業紹介を都独自に実施」
- 都庁の一層の合理化と「第二次財政再建に着手」
- 選挙公約 (3期目)
- 環境革命の続行
- 子育て支援プログラムと中学3年生まで医療費ゼロ
- 都立施設や都立小中高校の食事・給食に東京ブランドの食材導入推進
- 神奈川県・千葉県・埼玉県の各知事と首都圏知事連合をつくって、道州制を実現
- 2016年に東京オリンピックを招致 (2009年に招致失敗)
- 高齢者の起業やNPO法人の活動を支援する機関を作る
- 都庁の展望台や都の保有財産を有効利用して、歳入を増やす
- 公立小中高校グラウンドの芝生化
浜渦副知事の重用と辞任
浜渦武生参照
石原は衆議院議員時代の公設秘書で青嵐会の裏方も務めた浜渦武生を副知事に就任させた。石原自身の登庁が週2 - 3日程度であるため、実質的な政務は浜渦がトップダウンでおこなった。意に沿わない幹部を早期勧退させるなど、浜渦の威圧的な姿勢は「知事の威光を背に絶大な権力を振るう“側近政治”」「恐怖独裁」として共産党などから批判された。特に、東京都交響楽団の予算削減問題では、音楽関係者からの反発に加えて、サンデー・プロジェクトに生出演した石原自身に疑問が投げかけられ、石原が弁明する場面などもあり、同交響楽団に対する浜渦による予算削減は、トーンダウンしている。 2005年 (平成17年) 3月には、都が練馬区に建設した東京都社会福祉総合学院について都議会予算委で浜渦が民主党に質問を依頼した事実が35年ぶりに設置された百条委員会で判明し、同年5月12日には同委員会は質問依頼を否定した浜渦の偽証を認定した。6月2日の都議会では浜渦の問責決議が可決され、浜渦は7月に副知事を辞職した。
石原は浜渦が民主党にやらせ質問を依頼したことについて、「やっぱり責任政党の自民党が質問してくれたら一番よかったと思うし、だから僕はそうさせろと言った」と述べ、自民党に質問を依頼するよう指示したことにも言及している。また、「どうも自民党も動きそうもない。それで、民主党ということになったのかな」と述べた。石原は「やらせ質問」の是非に関しても「話題になれば非常にいいなと思った。それが議会ってもんじゃないの?」と肯定的な見解を示している。
石原は定例記者会見で浜渦を「非常に有能な腹心」「余人を持って代え難い」と再三持ち上げ、「最後は浜渦と私で涙を流して話した。泣いて馬謖を切る以上に大事な人材」と心境を吐露した。
また、浜渦が度々暴力事件を起し、問題になっていたことについては「 (殴り合いなど) 男の世界には良くあること。むしろ無い方が嘆かわしいね」と発言している。
浜渦の天下りと再雇用
浜渦は副知事辞任直後の2005年 (平成17年) 9月から、東京都が出資している外郭団体である第3セクターのビル会社東京交通会館の副社長に就任した。
石原は「その後の就職の世話を都としてするのは当然じゃないですか」「あの人材を埋もらせるわけにいかないでしょう、それっきりにして。東京都のためにこれからも働いてもらいますよ」との見解を示し、2006年 (平成18年) 7月22日に浜渦を年度末まで都の参与(都政の課題について知事に助言する非常勤の特別職)に迎えたことを明らかにした。
政党との関係
東京都議会では自民党と公明党が一貫して与党である。民主党や生活者ネット、社民党 (ただし、社民党は2001年東京都議会議員選挙で公認候補全員落選以降議席0が続いている) なども、都知事選挙では対立候補を立てるものの、都議会での議案に対する姿勢などから通常はいわゆるオール与党であるという意見があり、日本共産党からは選挙前の批判はポーズに過ぎないと批判されている。2007年(平成19年)の知事選以降、民主党などは距離を取ることが増えていたが、政権交代後は築地市場の移転関連予算計上に一転賛成したりなど再接近の機会も増えている。共産党は初期には「是々非々」の立場を取っていたが、次第に対決姿勢を強めている。
石原は自民党の都議の選挙には選挙ポスターに一緒に写ったり、応援の演説などを行っていたが、3 期目の知事選出馬の表明後は早々に自ら自民党に推薦を依頼していたが、2007年 (平成19年) 2月19日に突如「政党の看板に支えられた選挙は合わない」と自民党からの推薦を辞退することを表明した。石原は同年2月22日の都議会において、「手打ち」として都議補選の自民党候補に協力することを約束したが、メンツを潰された自民党都議団は「安倍内閣の支持率が落ちていることを気にしたのだろうが、知事は小心過ぎる」と不満を露わにした。
また、石原は2007年 (平成19年) 3月21日に公明党に協力を要請しており、公明党側も実質的な支援を決定した。しかしかつては公明党及びその支持母体である創価学会を痛烈に批判していたこともあった。
2010年 (平成22年) 4月10日、「たちあがれ日本」の命名者として、平沼新党の結党の発起人に名を連ねた。
情報公開
全国市民オンブズマン連絡会議による2006年 (平成18年) の第11回全国情報公開度ランキングでは、東京都は閲覧手数料を徴収するという理由により「失格」となり、ランキング外となった (他の失格自治体は香川県のみ) 。情報公開度のポイント評価は全国47都道府県中ワースト3に相当する位置付けとなっている。東京都のこの調査における失格評価は石原都政以前も含み2007年まで10年連続である。石原は「公開請求の55%は都外の人で、東京での業務展開に必要とする人が多い。都民の税金を使うわけにいかず、『失格』というのはとんちんかん」と反論している。
不透明な政策・私物化疑惑
トーキョーワンダーサイトと四男
トーキョーワンダーサイト#石原慎太郎一家による私物化疑惑参照
東京都の若手芸術家支援事業トーキョーワンダーサイトを2002年 (平成14年) に設立。石原都政下では既成の都文化施設に対する予算の減額とは対照的に、ワンダーサイトのみが別格として増額されているが、芸術家としては無名の四男・石原延啓を重用したり、家族や知人を運営に参画させるなど、事業計画・予算決算の不透明な点について公私混同の疑いを指摘されている。
新銀行東京
新銀行東京は本来の目的である中小企業向け融資が1225億円で貸出金全体の約52%にとどまるなど、設立目的が揺らいでいる。また、融資の大半が三男・石原宏高の地盤である品川区と大田区の企業に集中していたことから、身内の選挙対策との疑いも持たれている。石原は設立当時の記者会見 (2003年5月) では、貸し倒れが多くなった場合の都税投入の可能性について「公私混同であり幼稚・粗雑・週刊誌的発想」と否定していたが、2008年 (平成20年) には都税400億円が経営再建のために出資された。
官官接待
私的な飲食に公費を流用したとして、2000年 (平成12年) 6月から2003年 (平成15年) 12月まで78件の飲食費支出は違法だとして計1,194万円の返還を求め、葛飾区の市民団体が知事を提訴していた。
判決が違法支出として認定したのは、2003年 (平成15年) 6月、東京都中央区築地の高級料亭で石原、棚橋都参与ら8人の会食計341,992円、2003年 (平成15年) 3月、石原、特別秘書・高井英樹、民放テレビプロデューサーの3人が中央区銀座の割烹料理店で行った会食計58,065円の計約34万1000円の飲食費を支出した2件である。78件中67件は住民監査請求の期限が過ぎているとしたり、残りの9件については棄却した。2007年 (平成19年) 1月30日、東京地方裁判所の鶴岡稔彦裁判長は2件分の計約40万円については「社会通念を逸脱する違法な支出にあたる」と認定し、石原と特別秘書に対し同額を都に返還するよう命じた。原告側は請求が容認されなかった残件について控訴したが東京高等裁判所は1件のみを認める判決に変更。また最高裁判所 (中川了滋裁判長) も2009年5月20日、原告の上告を不受理とした。
現金2000万円受け取り疑惑
石原が元衆院議員や支援者ら計3人 (糸山英太郎、水谷建設元会長の水谷功、埼玉県の石材業者T) が用意した現金2000万円を受け取りながら、政治団体の政治資金収支報告書に記載していなかったと共産党機関紙である「赤旗」が主張し、「都内の男性ら」が、石原と資金管理団体の会計責任者を務める特別秘書の2人について、政治資金規正法違反の疑いで東京地検に告発状を提出した。
石原は料亭で元衆院議員らと会食したことを認めているが、現金については「疑惑は一切ない」と全面的に否定し、宴席に同席した糸山も「焼酎は渡したが、現金など渡すわけがない」「作り話」としている。
一方、同じく同席した水谷は金銭授受について「直接はやってない。Aさん (=女性経営者) が用意してた」と、女性経営者が500万円を立て替えたことし、2000万円の金銭授受についても「その話は聞いた」「 (石原は) そりゃ、感謝してたわな!」「 (宴席後は) みんな上機嫌だった」と話したと『週刊朝日』 (2006年12月29日号) は伝えた。
東京マラソン
石原の主導で2007年 (平成19年) から始まった東京マラソンに関して、次男・石原良純がフジテレビからスペシャルサポーターとして現場での司会と選手などへのインタビューを担当した。良純は今回の出演を依頼される以前に石原から「何かあったら広報として力を貸してくれ。頼むよ」と言われていたことをフジテレビの広報ページで語っている。石原が良純に協力を依頼した後にフジテレビ出演が決まったことから、「週刊朝日」は石原とフジテレビの関係に疑問を呈した。
選挙対策と見做された花粉症対策ポスター
2007年 (平成19年) に入ってから、"STOP花粉"という文字と石原の写真が大きく写った花粉症対策のポスター5万2000枚が、都内23区と全ての市町村に配布された。東京都森林課により製作され、デザイン、印刷等に要した費用は227万円である。石原は都庁における花粉対策会議の席上「自分ができることをしたい」と積極的な姿勢を示し、15の図案から自身の顔が一番大きく写っている図の採用を決めた。
この「顔写真ポスター」に対し、中央区など7つの区や町内会が、選挙運動期間中の候補者や政治団体による文書図画の頒布を禁じた公職選挙法第146条に抵触する恐れがあるとして、掲示板への掲載を拒否していたが、残りの16区や町内会は問題がないとして掲載していた。
政治姿勢・発言
政治的には、歯に衣着せぬ発言が支持を得る一方、他の民族・文化に対する否認や揶揄と受け取られる発言などが批判され、訴訟に発展するケースもある。しかしながら批判にたいしては安易な謝罪や訂正を拒否し、臆することなく堂々と反論を表明するという強気のスタンスを貫き、結果的にこれまで発言によって公職を辞任に追い込まれたことはない。
ABCからはフランスの極右政治家に例えて「日本のル・ペン」、中央日報からは「極右勢力の代表」、フィガロやリベラシオンからは「国家主義的思想の持ち主」「右翼ポピュリスト」と呼ばれるなど外国マスコミからは極右政治家と認識されている。
天皇・君が代に対する姿勢
天皇に関しては、「天皇が国家の象徴などという言い分は、もう半世紀すれば、彼が現人神だという言い分と同じ程度笑止千万で理の通らぬたわごとだということになる、というより問題にもされなくなる、と僕は信じる」と過去に発言したことがある。また、オリンピック誘致活動において皇族の協力を求めている。今上天皇へ皇居のライトアップを奏上したことを公表し、宮内庁に咎められたこともある。これに対して石原は「宮内庁ごときが決める問題ではない」と宮内庁を批判し皇族の協力を要求した。また東日本大震災後の記者会見では復興に邁進する国民を賞賛した上で「戦前の日本は天皇を現人神とあがめるなどおかしな国だった。今の北朝鮮と大差がなかった。」と戦前の国体等に否定的な発言をしかつて復古主義的だと一部左派勢力から批判された言動とは一線を画す発言をしている。
また、2008年 (平成20年) 2月には「あそこで装備を見せることで国民の自覚、危機感が出てくる」として弾道ミサイルを地上から迎撃する航空自衛隊の地対空誘導弾ペトリオットPAC-3を皇居前広場で展開すべきとの見解を示した。
毎日新聞 (1999年3月13日付) のインタビューにて「日の丸、君が代を学校の行事に強制しますか?」という質問に対し「日の丸は好きだけれど、君が代って歌は嫌いなんだ、個人的には。歌詞だってあれは一種の滅私奉公みたいな内容だ。新しい国歌を作ったらいいじゃないか。好きな方、歌いやいいんだよ。」と答えている。しかし、都知事就任後は文部省の決定に則して都立学校の公式行事における君が代の斉唱と国旗掲揚の徹底をし、君が代を起立して斉唱しなかった教師に対し懲戒処分を行った。
天皇の靖国神社親拝を期待する発言を行う一方、A級戦犯の靖国合祀に関しては異議を唱えており[2]、「戦争の明らかな責任者を外して合掌している」と述べている。拳銃が決して致命に至らぬ最小の22口径で自決しようとした東条英機より、潔く自決した大西滝治郎中将や阿南惟幾陸相を靖国へ合祀しない事に異議を唱え、さらに東條を嘲笑した文章を述べ、これに日本文化チャンネル桜で東條由布子も抗議した。石原は東条の「戦陣訓」の中の「生きて虜囚の辱めを受けず」なる文言が当時の日本の社会の中でいかに恐ろしい拘束力を持ち、いかに多くの犠牲者を生み出したか、と述べている。ただし石原自身かつて小谷喜美との対談の中で「日本が行った戦争がすべて侵略だから靖国に参拝するななんていう進歩的文化人の連中はおかしい。」とも述べている。
障害者に対する発言
1999年 (平成11年) 9月に東京都知事として府中療育センター (重度知的・身体障害者療育施設) を視察した後、記者会見で「ああいう人ってのは人格あるのかね。ショックを受けた。ぼくは結論を出していない。みなさんどう思うかなと思って。 絶対よくならない、自分がだれだか分からない、人間として生まれてきたけれどああいう障害で、ああいう状態になって」と発言した。次いで「おそらく西洋人なんか切り捨てちゃうんじゃないかと思う。そこは宗教観の違いだと思う。ああいう問題って安楽死につながるんじゃないかという気がする」と発言意図を説明した。
上記の発言が一部のメディアで問題発言として報道され、知的障害者団体からも抗議された。石原は「文学者としての表現」と弁明している。
東京新聞はさらに詳しく発言を取材しており、視察の帰りがけに「入所者は自分がだれだか分からない。 (彼らに) 人生がない、というくくり方をする人もいるが、それなりの人生があるんだという一つの確信を持って仕事をしているのは、素晴らしいことだ」と発言していることを報じた。
石原は自身の発言を差別発言として報道した朝日新聞社に対して、産経新聞紙上で「卑劣なセンセーショナリズムであり、アジテーションであり、社会的には非常に危険なこと」として批判している。
老人に対する発言
1975年 (昭和50年) 、初めて東京都知事選挙に出馬した際の演説にて対立候補の美濃部亮吉に関して「…もう新旧交代の時期じゃありませんか、美濃部さんのように前頭葉の退化した六十、七十の老人に政治を任せる時代は終わったんじゃないですか」と発言した。しかしながら、彼自身は78歳になってもなお、自らの東京都知事4期目当選を狙って、2011年都知事選への出馬を表明し、当選した。
在日外国人・諸文化への態度
在日韓国・朝鮮人をはじめとする日本の外国人、及び外国文化を否定・揶揄する発言を頻繁に行い、政治問題化することがよくあるが、一方賛同する意見もある。
1983年の衆議院議員総選挙に際して、東京2区で対立していた自民党候補新井将敬の選挙ポスターに石原の第一秘書である栗原俊記が「'66年北朝鮮より帰化」というシール3千枚を貼って回り、現行犯逮捕された (黒シール事件) 。この件に対して民族派右翼の野村秋介が石原の自宅に押しかけ「日本民族の顔に泥を塗る破廉恥行為である」として抗議行動を行っている。なおこの際に総務会で「帰化人に被選挙権を与えるべきではない。」と述べており後述のとおり外国人地方参政権に強硬に反対する石原だが帰化人の被参政権にも否定的な見解を持っていると思われる。
黒シール事件参照
2000年 (平成12年) 4月9日の陸自記念式典において「不法入国した多くの三国人、外国人が凶悪な犯罪を繰り返しており、大きな災害が起きた時には騒擾 (そうじょう) すら想定される」。石原は自身のウェブサイトでこの発言について、単に外国人犯罪について言及した発言であり朝日新聞や特定組織に三国人という語の差別性だけを拡大解釈された、との考えを示している。また「謝罪の必要はない」とも述べた。
2001年 (平成13年) 5月には、中国人犯罪について「民族的DNAを表示するような犯罪が蔓延することでやがて日本社会全体の資質が変えられていく恐れが無しとはしまい」と主張した。
2003年 (平成15年) 11月2日、TBS『サンデーモーニング』が「日韓合併を100%正当化するつもりはない」という石原が述べた発言の語尾を編集して「日韓合併を100%正当化するつもりだ」とテロップ入りで事実とは異なる放送をした。石原側はこの放送内容に抗議を行ったもののTBSから誠意ある回答が得られないとして刑事告訴した。その結果、名誉棄損容疑で TBSの社員ら4人が東京地検に書類送検されたが、東京地検は証拠不十分による不起訴処分とした。TBSは「ミス」として番組で謝罪した。
2004年 (平成16年) 10月、都庁内であった首都大学東京の支援組織設立総会で「フランス語は数を勘定できない言葉だから国際語として失格しているのも、むべなるかなという気がする」「都立大はフランス語の講師が8人いて、受講者は1人もいない」などと発言。これに対し東京都立大学人文学部フランス文学専攻教員らが「石原東京都知事に発言の撤回を求める」と声明を発表した。後にフランス語教育関係者らによる訴訟に発展した。
韓国人については「韓国に対する差別意識はない。私がもっとも尊敬する政治家は朴正煕大統領だ」との認識をインタビューで語っている。また金田正一の項目に引退時のエピソードが詳述されているように帰化人の金田とも親交があり一部左派が言うように在日朝鮮人全体に対する嫌悪意識はない。他方で、オリンピックの福岡誘致を応援した姜尚中を「怪しげな外国人が出てきてね。生意気だ、あいつは」と非難した。
移民「賛成」
移民の受け入れについては大賛成との立場をとり「アジアの人々を秩序ある移民政策のもとで正式に受け入れるべきである」と主張している。
外国人参政権
民主党や公明党などが成立を目指す外国人地方参政権については「危ない試み」「発想そのものがおかしい」「絶対反対」「日本に永住する方なら日本の国籍取ったらいい、問題起こしてないんだったら」等々、反対意見をはっきり述べている。
2010年 (平成22年) 3月3日、都議会で、永住外国人に対する地方参政権付与問題について見解を問われ、「絶対反対だ」と答弁、外国人参政権について改めて反対の意思表示をした。