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		<title>松平清康 - 変更履歴</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;新しいページ: &amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;松平 清康&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;（まつだいら きよやす） は、&lt;a href=&quot;/wiki/%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)&quot; title=&quot;戦国時代 (日本)&quot;&gt;戦国時代&lt;/a&gt;の&lt;a href=&quot;/mediawiki/index.php?title=%E6%AD%A6%E5%B0%86&amp;amp;action=edit&amp;amp;redlink=1&quot; class=&quot;new&quot; title=&quot;武将 (存在しないページ)&quot;&gt;武将&lt;/a&gt;である。通称は二郎三郎&amp;lt;ref&amp;gt;&lt;a href=&quot;/mediawiki/index.php?title=%E4%B8%89%E6%B2%B3%E7%89%A9%E8%AA%9E&amp;amp;action=edit&amp;amp;redlink=1&quot; class=&quot;new&quot; title=&quot;三河物語 (存在しないページ)&quot;&gt;三河物語&lt;/a&gt;には、...&amp;#039;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;b&gt;新規ページ&lt;/b&gt;&lt;/p&gt;&lt;div&gt;'''松平 清康'''（まつだいら きよやす） は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]である。通称は二郎三郎&amp;lt;ref&amp;gt;[[三河物語]]には、清康、案（安）祥之三郎殿、という呼称で登場する。&amp;lt;/ref&amp;gt;。また世良田姓を称す。初名は清孝。[[三河国|三河]][[松平氏]]の第7代当主。第6代当主[[松平信忠]]の子で、[[松平広忠]]の父、[[徳川家康]]の祖父。前妻は松平昌安の娘。後妻は青木貞景の娘、[[華陽院]]。三河国[[安祥城]]城主のち[[岡崎城]]に移る。娘は碓井姫（[[松平政忠]]室のち[[酒井忠次]]室）、[[吉良義安]]室（香樹院）。養女はお久（[[松平信忠]]女、[[松平乗勝]]室のち[[鈴木滋直]]室）、瀬戸之大房（[[松平信忠]]女、[[吉良持広]]室）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==経歴==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[安城松平家]]は、清康の代で岡崎に居城を移し、武威をもって離反していた一族・家臣の掌握を進め、[[西三河]]の地盤を固める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[大永]]3年（[[1523年]]）に一門衆が信忠を隠居させて、清康に[[家督]]を継承させる。大永6年（[[1526年]]）（または大永4年（[[1524年]]））、清康は[[山中城 (三河国)|山中城]]を攻撃して西郷信貞（[[松平昌安]]）を屈服させる。信貞の居城であった旧岡崎城は破棄し、現在地の新岡崎城に移転。足助城の[[鈴木重政]]を攻めてこれを降伏させる。このころ、清和源氏のひとつ、[[新田氏]]一門である[[得川氏]]の庶流・世良田姓を称し、'''世良田次郎三郎'''と称したという。これが後に孫の家康が松平から徳川改姓をおこなうことにもつながっているという。この経緯については[[世良田氏]]の項も参照。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
清康は更に、東西に軍を進めて三河国統一を目指し勢力を広げる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[享禄]]2年（[[1529年]]）、尾島城（小島城；[[西尾市]]所在）を攻め取る。享禄3年（[[1530年]]）、[[尾張]]にも出兵、岩崎郷（[[日進市]]岩崎）・品野郷（[[瀬戸市]]品野町）を奪う。その一方、[[東三河]]にも進出して[[牧野氏]]の[[今橋城]]（後の吉田城）を攻め落とした。清康は更に吉田城の南方・[[渥美郡]][[田原城 (三河国)|田原]]に進軍。[[戸田氏]]は戦わずに降服したので清康は吉田城に兵を戻して10日間在城。この間に北方・[[設楽郡]]の[[山家三方衆]]の[[菅沼氏]]一族と[[奥平氏]]、[[宝飯郡]][[牛久保城|牛久保]]の牧野氏等の東三河国人衆の多くが従属を申し出た。ただし、三河の東端[[八名郡]]に在った[[宇利城]]の[[熊谷氏]]だけが服属を拒んだため、これを包囲し、[[11月4日 (旧暦)|11月4日]]に攻め落とした&amp;lt;ref&amp;gt;清康の吉田城攻めを宇利城攻め直後とする説もあり、またこの時降伏した吉田の牧野氏が[[天文 (元号)|天文]]元年（[[1532年]]）にまた叛いたので再度これを攻めて滅ぼしたとされる。&amp;lt;/ref&amp;gt;。ここに三河国統一を成し遂げている。ただし、一説によれば宇利城攻め以後、叔父・[[松平信定|内膳信定]]との不仲を悪化させたとも言われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その理由に挙げられるのが、宇利城攻略戦での出来事。大手門を攻める叔父・[[松平親盛]]（左京亮）を失った際に、支援の遅れた信定を清康が罵倒したという。清康自身は、その場限りの叱責であったのだろうが、言われた信定にしてみれば、遺恨を抱き続け、宗家簒奪の機を窺う決意を固めたものと考えられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
三河統一の勢いに乗った清康は、余勢をかって尾張に進軍。天文4年（[[1535年]]12月）、清康は尾張に侵入し[[織田信秀]]の弟の[[織田信光|信光]]の守る[[守山城]]を攻めた。この守山の陣の最中、清康は大手門付近で突如、家臣の[[阿部正豊|阿部弥七郎正豊]]に斬られて殺された。これを'''「[[森山崩れ]]」'''という。弥七郎がこの際に使ったのが千子[[村正]]と伝えられる&amp;lt;ref&amp;gt;以後、村正の刀は「[[妖刀]][[村正]]」と呼ばれ、徳川家に災いをもたらした不吉な刀とされた。&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[享年]]25。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
墓所は[[岡崎市]]鴨田町広元5-1の[[大樹寺]]。法名、善徳院殿年叟道甫大居士。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人物評価 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「[[常山紀談]]」には、「善徳公（御諱清康安祥二郎三郎殿と世に称し申す）士卒をあはれみ、勇材おはしませしかば、人々其徳になびき従ひ奉れり」とあり、「[[三河物語]]」にも清康について、小柄だが小鷹に優る目つきをもつ勇姿を伝え、かつまた身分の差無く慈悲深いので家臣の信頼を得た様子が記されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
家督相続からの10年余だけで遺した突出した事績を鑑みても[[松平氏]]歴代の中で傑出した存在であったが、清康の予期せぬ死により求心力を失った松平氏は苦難の道を辿ることになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[三河物語]]では、松平清康が、熊谷が城へ押し寄せた際に、四方[[鉄砲]]を打ち込むと記載されている。享禄三年（1530）のこととされる。[[鉄砲記]]の記述とは矛盾するが、この時、すでに鉄砲を装備していたという、伊賀忍者の服部半蔵保長も松平清康の時代に仕えていることから、火薬・鉄砲の取り扱いに慣れていた伊賀衆からもたらされた可能性もある。また、この時、西三河の人数８千を動員しており、石高の低い三河国で圧倒的な戦力を保有していたことが伺える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==三葉葵家紋の由来==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『新編柳営続秘鑑』十二巻（「葵之御紋来由」）によると、[[松平信光]]の時代に、[[安祥城]]攻めの際に、酒井氏に三葵の葉の家紋を与えたというが、[[松平長親]]の時代に、三河に侵攻してきた今川軍の[[北条早雲]]に勝利した暁に、[[酒井氏]]から返却してもらい、松平家の家紋としたという。この時、[[酒井氏]]は、酸漿（カタバミ=酢漿）の家紋となったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[松平郷]]のある西三河の賀茂郡は、[[賀茂神社]]の神領で、松平氏が[[賀茂神社]]の氏子であったことから、もともと葵紋であったともいう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただし、「[[藩翰譜]]」（[[新井白石]]著；各大名家の家系図と事跡を記したもの）では、松平清康の[[吉田城 (三河国)|吉田城]]攻めの際に、伊奈城主の本多正忠の立葵の家紋をもらったという。'''柳営秘鑑の記述と大きく矛盾する。'''藩翰譜は、各大名家の自己申告であるため、尾張中村の農民出身であるはずの加藤清正が、藤原氏の家系になっているなど問題が多く、通説と大きく矛盾する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;references/&amp;gt;&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>捏造の全滅（無限の正義）</name></author>	</entry>

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