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		<title>広島抗争 - 変更履歴</title>
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				<updated>2009-10-24T04:27:17Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;新しいページ: &amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;広島抗争&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;（ひろしまこうそう）は、&lt;a href=&quot;/wiki/1950%E5%B9%B4&quot; title=&quot;1950年&quot;&gt;1950年&lt;/a&gt;頃から&lt;a href=&quot;/wiki/1972%E5%B9%B4&quot; title=&quot;1972年&quot;&gt;1972年&lt;/a&gt;に掛けて&lt;a href=&quot;/mediawiki/index.php?title=%E5%BA%83%E5%B3%B6&amp;amp;action=edit&amp;amp;redlink=1&quot; class=&quot;new&quot; title=&quot;広島 (存在しないページ)&quot;&gt;広島&lt;/a&gt;で起こった&lt;a href=&quot;/mediawiki/index.php?title=%E6%8A%97%E4%BA%89&amp;amp;action=edit&amp;amp;redlink=1&quot; class=&quot;new&quot; title=&quot;抗争 (存在しないページ)&quot;&gt;抗争&lt;/a&gt;の総称。警察庁による名称は&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;...&amp;#039;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;b&gt;新規ページ&lt;/b&gt;&lt;/p&gt;&lt;div&gt;'''広島抗争'''（ひろしまこうそう）は、[[1950年]]頃から[[1972年]]に掛けて[[広島]]で起こった[[抗争]]の総称。警察庁による名称は'''広島けん銃抗争事件'''。狭義には映画「[[仁義なき戦い]]」のモデルとなった'''第二次広島抗争'''（[[1963年]][[4月17日]]&amp;amp;#xff5e;[[1967年]][[8月25日]]。'''広島代理戦争'''とも呼ばれる）を示すことがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
広島抗争と呼ばれるものには第二次の他、'''第一次広島抗争'''（[[1950年]]頃）と'''[[第三次広島抗争]]'''（[[1970年]]11月&amp;amp;#xff5e;[[1972年]]5月）が広く知られるが新井組[[粛清]]、血の粛清と呼ばれる青木組粛清の内部抗争を含め5次と数える向きもある。 ここでは、第一次から第二次までについて言及する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==第一次広島抗争と広島ヤクザの系譜==&lt;br /&gt;
第一次広島抗争は[[戦後]]の[[広島市]]の博徒・[[岡敏夫|岡 敏夫]]（岡組組長）の勢力拡大に伴う地域覇権争い&lt;br /&gt;
&amp;lt;ref&amp;gt;岡組は戦後の新興団体であり、客のアゲサゲの修行を積み業界の信用を得た上で「カッチリと[[テラ銭]]が上がってくる[[賭場]]」を経営する[[金筋]]の[[ヤクザ]]ではなく、[[闇市]]に割拠した[[三国人]]と手を組んだ[[被差別部落]]出身者を中核とする団体である。[[地方都市]]の需要に応じて何でもやるのが[[商売]]であり、ここから闇市での利権を巡り[[的屋]]の[[村上組]]と闘争することとなる。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[終戦]]直後に広島で岡組が勢力を伸ばす過程で、[[1950年]]に岡組舎弟・[[打越信夫]]（[[打越会|打越組]]組長）が、対立する葛原一二三を[[東広島]]で射殺し岡組内で勢力を伸ばす結果となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
戦後の混乱期を経て、広島の勢力図は広島市では岡&amp;lt;!-- 敏夫 --&amp;gt;の勢力が拡大し、&lt;br /&gt;
その中でも舎弟・打越&amp;lt;!-- 信夫 --&amp;gt;、若衆・[[網野光三郎]]、[[服部武|服部 武]]などの勢力が台頭した。 また[[呉市]]では、[[山村辰雄]]（[[山村組]]組長）の勢力が拡大し、若頭・[[佐々木哲雄]]、若衆・[[美能幸三]]らが台頭していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
岡組の実力者である打越&amp;lt;!-- 信夫 --&amp;gt;は[[1950年]]から[[1952年]]頃にかけて、岡組（広島市）内の網野&amp;lt;!-- 光三郎 --&amp;gt;、服部&amp;lt;!-- 武 --&amp;gt;だけでなく、山村組の若頭・佐々木&amp;lt;!-- 哲雄 --&amp;gt;、美能&amp;lt;!-- 幸三 --&amp;gt;ら有力者と個々に兄弟盃を交わし縁戚関係を拡大していった。 この打越の縁組は後に抗争を、いわゆる「[[仁義なき戦い]]」へと導く一つの要因となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==岡 敏夫の後継問題と山口組の中国地方進出==&lt;br /&gt;
[[1960年]]頃から岡 敏夫の健康問題から後継争いが起きる。 最有力候補は打越信夫だが、網野光三郎、服部 武も実力は伯仲していた。 そのような折の[[1961年]]5月、[[美空ひばり]]の公演のため三代目[[山口組]]の組長・[[田岡一雄]]と若衆・[[山本健一 (ヤクザ)|山本健一]]（[[山健組]]組長）が&lt;br /&gt;
広島を訪れていた。 実力者の後ろ盾を得て岡組の後継争いを有利に進めようとした打越は、&lt;br /&gt;
山本&amp;lt;!-- 健一 --&amp;gt;と美能幸三の仲介により山口組舎弟・[[安原政雄]]（[[安原会]]会長）と兄弟盃を交わすことに成功した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
広島外部の勢力の進出を快く思わなかった岡は この盃を嫌い、[[1962年]]5月に跡目を呉の山村辰雄に指名した。 かくして山村&amp;lt;!-- 辰雄 --&amp;gt;率いる山村組は呉から広島に進出し[[山陽地方|山陽]]最大の勢力を持つようになった。 また、岡組勢力も山村組に組み込まれる形となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当然この事態は打越側に衝撃を与え、&lt;br /&gt;
同年6月には打越の舎弟と山村組の縁戚の間で[[抗争]]が起き、その手打ちのため打越は[[指詰め|指を詰め]]た。 打越はそうした窮状を再三に渡り山口組本家に訴え支援を要請した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時は山口組側にも思惑があった。 1960年に入り山口組は積極的に[[中国地方]]に進出を図り、[[山陰地方|山陰]]においては1961年に[[本多会]]の[[松山芳太郎]]&amp;lt;!-- （[[松山組]]組長） --&amp;gt;を殺害し、[[鳥取県|鳥取]]に進出。 翌年には その鳥取に進出していた直参の[[小西音松]]率いる[[小西一家]]が地元勢力と抗争を起こし&lt;br /&gt;
山陰進出を着々と進めていた。 山陽においては山口組若頭・[[地道行雄]]（[[地道組]]組長）が[[岡山]]・三宅芳一率いる[[現金屋]]の内紛に介入して[[熊本親|熊本 親]]（後の[[熊本組]]組長、四代目山口組舎弟）を支援し岡山を支配下に組み入れるべく展開中だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このように中国地方全域を攻略することを目的として活動していた山口組にとって&lt;br /&gt;
山陽の重要拠点広島は避けて通れない場所だった&lt;br /&gt;
&amp;lt;ref&amp;gt;このような意見が、「仁義なき戦い」以降形成されているが、基本的に中国ではなく[[関西]]圏、[[近畿地方|近畿圏]]を対象としていた&amp;lt;!-- 神戸 --&amp;gt;山口組が、小領主が割拠している狭く小さい中国筋を力で押していく方針であったかどうかは疑問があり、現在でもなお「[[神戸市|神戸]]から広島に進出したのではなく[[尾道市|尾道]]筋まで勢力圏を伸ばしていた[[合田一家]]への対抗策であった」とする声もある。この背景には同一家の総長・[[合田幸一]]が山陽道の親分衆から畏敬された存在である点、中国・[[四国]]の組の殆どは その内部に多くの派閥（背景には[[被差別部落]]の問題があるとされる）を抱えていたため統制をとるのが困難だった点、が指摘される。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そこで支援を必要としていた打越と思惑が一致した。 打越&amp;lt;!-- 信夫 --&amp;gt;は、[[1962年]]9月に田岡&amp;lt;!-- 一雄 --&amp;gt;の舎弟となり、&lt;br /&gt;
打越組が山口組の配下に入り打越会と改称することになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
打越が山口組の舎弟となったことに対抗するため山村&amp;lt;!-- 辰雄 --&amp;gt;は、&lt;br /&gt;
神戸の本多会会長・[[本多仁介]]と兄弟盃を[[1963年]]2月に交わした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==山口組の本格的な介入==&lt;br /&gt;
この時点で打越会と山村組の広島を巡る地域対立は、[[山口組]]と[[本多会]]という大組織の[[代理戦争]]の様相を呈するようになった。 山口組は以後、打越会を通じて抗争に本格的に介入するようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まず、山村辰雄と懇意にしているということで、打越会若頭の[[山口英弘]]（[[十一会|山口(英)組]]組長）を絶縁とする一方、指を詰めて手打ちをしたことにより現山村組幹部で元岡組の網野光三郎、服部 武、原田昭三らと打越信夫との兄弟縁を復縁させた（山村組勢力の取崩しを図った）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
山村組内でも打越を通じて山口組と懇意にしだした美能幸三を破門とし、&lt;br /&gt;
その美能は打越陣営に参画し山村&amp;lt;!-- 辰雄 --&amp;gt;と対決姿勢を鮮明にした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このように広島の勢力図が打越会―山口組派と反山口組の山村組派とに分かれる中、[[1963年]][[4月17日]]に美能組幹部の&lt;br /&gt;
亀井 貢が山村組系組員に射殺され戦いの火蓋が切って落とされた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==第二次広島抗争の勃発と激化==&lt;br /&gt;
亀井 貢の葬儀後、美能幸三は山本健一と兄弟盃を交わし報復の体制を整えた。 その報復を待たずして さらに追い討ちを掛けるように&lt;br /&gt;
[[1963年]][[5月26日]]には打越会を絶縁された山口英弘&amp;lt;!-- （山口英組） --&amp;gt;の若衆が&lt;br /&gt;
打越会の組員を殴打する事件が起きた。 直後に打越会の報復に先駆けて山口(英)組側が打越会の賭場を急襲、&lt;br /&gt;
路上で銃撃戦となり抗争が一気に激化した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
打越側の報復は打越信夫の手際の悪さから上手く組織が機能せず、&lt;br /&gt;
当初打越側は一方的にやられっぱなしの状況となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
業を煮やして打越&amp;lt;!-- 信夫 --&amp;gt;を見限った山口組若頭・地道行雄は美能に亀井の組葬を指示し、[[葬儀]]名目で1340人の山口組系組員を広島へ派遣した。 しかし[[広島県警察|広島県警]]が大量動員を掛けて抗争の首謀者である美能&amp;lt;!-- 幸三 --&amp;gt;を7月5日に逮捕した。美能を逮捕された山口組は報復を出来ずに帰らざるを得なかった。 その際、報復に消極的な打越&amp;lt;!-- 信夫 --&amp;gt;に対して山本&amp;lt;!-- 健一 --&amp;gt;は激怒し、「われはもう引っ込んどれ! ボケナスのタクシー野郎(打越はタクシー会社を経営していた)!!」と怒鳴りつけ、&lt;br /&gt;
山口組と広島のパイプを美能組にシフトした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1963年[[9月19日]]に ようやく腰を上げた打越会が山村組幹部・原田昭三宅を[[ダイナマイト]]で爆破、&lt;br /&gt;
さらに山村組との市街戦を展開するなど攻勢に出た。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
山村組の服部 武は混迷する事態の中、周囲の声に押されて命懸けの[[特攻隊]]を組織し、山口組本部の便所を[[ピース缶爆弾]]で爆破させた（玄関のガラスも割れた）。 名乗りは上げなかったがピース缶が広島で使われていた事もあり直後から山村組の仕業と思われていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
山村組側は打越会・山口組勢力に対抗するため山村組を発展的に解消し、[[1964年]]5月に政治結社[[共政会]]（初代会長・山村辰雄）を結成して組織固めを行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==警察の介入と抗争終結==&lt;br /&gt;
1963年9月 堪り兼ねた警察は山村辰雄、打越信夫を[[逮捕]]した。 &lt;br /&gt;
1965年6月9日、山村&amp;lt;!-- 辰雄 --&amp;gt;は引退を声明し、広島県警で長年のヤクザ生活から足を洗うと述べた。&lt;br /&gt;
解散した打越会の元組員に危害を及ぼさないための共政会、打越会の手打ちが1967年[[8月25日]]に&lt;br /&gt;
実施された。翌26日、打越信夫は弁護士とともに広島西警察署を訪れ、打越会を解散し堅気になることを誓った。 こうして死者9人、負傷者13人、被逮捕者168人を出し、&lt;br /&gt;
中国地方最大の抗争となった広島抗争は終結した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
山口組は実害が無かった（被害は全て打越会に出た）ものの、&lt;br /&gt;
結果的に広島進出に失敗し進出の機会が当分閉ざされることとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==参考文献==&lt;br /&gt;
この事件については[[毎日新聞社]]の『組織暴力の実態』、広島県警の『暴力許すまじ』、[[中国新聞社]]の『ある勇気の記録』、美能の手記を編纂した[[飯干晃一]]の『[[仁義なき戦い]]』がある。 また[[向江璋悦]]が山口組組長宅ピース缶爆破事件で起訴された山村、服部らを弁護した『無罪の記録』がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==脚註==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references/&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:暴力団抗争事件|ひろしまこうそう]]&lt;br /&gt;
[[Category:山口組|ひろしまこうそう]]&lt;br /&gt;
[[Category:本多会|ひろしまこうそう]]&lt;br /&gt;
[[Category:共政会|ひろしまこうそう]]&lt;br /&gt;
[[Category:広島県の歴史|ひろしまこうそう]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Fromm</name></author>	</entry>

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