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		<title>Yourpedia - 利用者の投稿記録 [ja]</title>
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		<title>SMブーム</title>
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				<updated>2018-03-09T19:27:06Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;高麗人参: /* 「女子大生ブーム＆アダルトビデオ・ブーム」と「第2次SMブーム」 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''SMブーム'''（えすえむぶーむ）とは、SM専門雑誌、映画（にっかつロマンポルノ）、ビデオ（アダルトビデオ）等において、[[サド]]の男性が[[マゾ]]の女性を性的に責めることが流行したムーブメントのこと。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第1次SMブーム、第2次SMブーム、第3次SMブーム（第2次SMブーム後期）の3つに分類される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===「世界最大のSM大国・日本」===&lt;br /&gt;
昔から、日本はドイツと並び、“世界最大のSM大国”である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは[[明治時代]]以降、日本人の国民性が“陰湿”で“男尊女卑”となったため、日本にはもともと“SMを受け容れる土壌があった”ことが大きな原因である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、日本人は欧米人と違い“手先が器用”であるため、M女を緊縛しやすいという長所があった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===「日活のポルノ転進」と「第1次SMブーム」===&lt;br /&gt;
[[1971年]]、日本の“映画大手5社”の一つである[[日活]]が、経営不振により[[ポルノ]]映画製作に路線転換した。日活と言えば、[[石原裕次郎]]や[[吉永小百合]]らが“社員”として在籍した“名門映画会社”である。この日活が制作を開始した“疑似セックス”による“ペニスをバギナに挿入しないポルノ映画”が、[[にっかつロマンポルノ]]と呼ばれる[[ピンク映画]]である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この影響を受けて、同1971年、SM専門雑誌の『[[SMセレクト]]』と『[[SMファン]]』が創刊された。翌[[1972年]]、官能作家・[[団鬼六]]が『[[SMキング]]』を創刊。同年、『[[SMフロンティア]]』、『[[SMコレクター]]』も創刊された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このように2年間でSM専門雑誌が5誌も創刊された。これを第1次[[SMブーム]]という。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
SM小説を書いて“にっかつの巨匠”となった団鬼六は、“初代・SMの女王”[[谷ナオミ]]と公私にわたるSMパートナーとなり、谷ナオミは“にっかつのドル箱”と呼ばれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===「女子大生ブーム＆アダルトビデオ・ブーム」と「第2次SMブーム」===&lt;br /&gt;
[[1979年]]、『[[SMスナイパー]]』が創刊された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌[[1980年]]、マゾ女優の谷ナオミが一般男性と結婚し、SM女優を引退した（のちSMサークルを主催）。団鬼六は“2代目・SMの女王”として、[[麻吹淳子]]を起用した。、“短大卒”の“一般女優”である麻吹淳子は、“日活ポルノ美人コンテスト第3位”という経歴の持ち主である。麻吹淳子は病気で引退するまでの約1年間に、13本のSM映画に主演した。活動期間は短かったが、非常に活躍したSM女優である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌[[1981年]]、『[[SMマニア]]』、『[[SMクラブ]]』が創刊された。さらに[[1983年]]に『[[SM秘小説]]』が、[[1984年]]に『[[SMスピリッツ]]』が創刊された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このように、1979年から1984年までの5年間にSM誌が5誌も創刊された。これを第2次SMブームという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時、1980年代前半は、[[女子大生ブーム]]の最盛期に当たり、また[[アダルトビデオ]]が誕生して大ブームになっていた。そのため、多くの[[女子大生]]がSMビデオに出演した。SM専門雑誌で[[SMモデル]]になった女子大生も多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
麻吹淳子の引退を受け、1983年に“3代目・SMの女王”になったのが、金沢の老舗料亭のお嬢様、モデルの[[高倉美貴]]である。彼女は団鬼六のスカウトを何度も断ったが、団鬼六の粘り強い説得に根負けし、ついにSM女優となった。高倉美貴も谷ナオミ・麻吹淳子と同様に、団鬼六の公私にわたるSMパートナーとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===「第3次SMブーム（第2次SMブーム後期）」===&lt;br /&gt;
[[1984年]]、日活にスカウトされた“素人”のマゾ女性・[[末次富士子]]らが日活のSM映画で活躍し、SMがワイドショーで取り上げられるまでになった。&lt;br /&gt;
翌[[1985年]]、AVに圧倒されていた日活が起死回生を賭け、“本番セックスでの撮影を導入”した。これを象徴する作品が、[[木築沙絵子]]主演のSM映画『箱の中の女』である。日活は本番映画でAVに対抗しようとした。しかしその経営努力も空しく、[[1988年]]、日活はピンク映画の制作から撤退した（まもなく倒産）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方AVでは、[[1982年]]に設立された[[アートビデオ]]が、SM業界全体を牽引した。アートビデオの創業者は、SM雑誌の元カメラマンだった[[峰一也]]である。主演男優は怪優・[[黒田透]]で、黒田透がアートビデオの専属男優をしていた頃が、SMビデオの最盛期に当たる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1986年]]、AVで[[横浜国大]]の現役女子大生・[[黒木香]]がSMビデオでデビューした。黒木香は“元祖高学歴AV女優”および“元祖AVタレント”として一世を風靡した。黒木香の活躍により、SMは完全にお茶の間の中に入り込むようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この頃、三和出版の『別冊SMマニア』が、誌上で「SM合コン」を企画・主催した。これは当時ブームになっていた「[[一気飲み]]」による合コンブームの影響を受けたもので、『別冊SMマニア』が誌上で“SMプレイの希望者を合コン形式で募集”したものである。「SM合コン」には若い男女が多数応募した。初対面の参加者達は、まず居酒屋で合コンをする。この合コンで参加者達はSMプレイをする相手を決める。合コンが終了すると、参加者達は『別冊SMマニア』のスタッフと共にラブホテルへ直行し、SM乱交プレイを行う。その様子を『別冊SMマニア』のカメラマンが撮影し、後日その写真が『別冊SMマニア』に掲載される、という仕組みである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このように1980年代半ばから1980年代後半には、SM業界で“素人の男女が活躍”するようになった。この頃SM専門雑誌では、“SMのファッション化”進んでSMが“大衆化”する一方で、SM小説がマンネリ化する、SM写真に[[パイパン]]ではないSMモデルが登場する、などの“SMの質の低下”が目立つようになった。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>高麗人参</name></author>	</entry>

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				<updated>2018-03-09T18:53:18Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;高麗人参: /* 「日活のポルノ転進」と「第1次SMブーム」 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''SMブーム'''（えすえむぶーむ）とは、SM専門雑誌、映画（にっかつロマンポルノ）、ビデオ（アダルトビデオ）等において、[[サド]]の男性が[[マゾ]]の女性を性的に責めることが流行したムーブメントのこと。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第1次SMブーム、第2次SMブーム、第3次SMブーム（第2次SMブーム後期）の3つに分類される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===「世界最大のSM大国・日本」===&lt;br /&gt;
昔から、日本はドイツと並び、“世界最大のSM大国”である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは[[明治時代]]以降、日本人の国民性が“陰湿”で“男尊女卑”となったため、日本にはもともと“SMを受け容れる土壌があった”ことが大きな原因である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、日本人は欧米人と違い“手先が器用”であるため、M女を緊縛しやすいという長所があった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===「日活のポルノ転進」と「第1次SMブーム」===&lt;br /&gt;
[[1971年]]、日本の“映画大手5社”の一つである[[日活]]が、経営不振により[[ポルノ]]映画製作に路線転換した。日活と言えば、[[石原裕次郎]]や[[吉永小百合]]らが“社員”として在籍した“名門映画会社”である。この日活が制作を開始した“疑似セックス”による“ペニスをバギナに挿入しないポルノ映画”が、[[にっかつロマンポルノ]]と呼ばれる[[ピンク映画]]である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この影響を受けて、同1971年、SM専門雑誌の『[[SMセレクト]]』と『[[SMファン]]』が創刊された。翌[[1972年]]、官能作家・[[団鬼六]]が『[[SMキング]]』を創刊。同年、『[[SMフロンティア]]』、『[[SMコレクター]]』も創刊された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このように2年間でSM専門雑誌が5誌も創刊された。これを第1次[[SMブーム]]という。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
SM小説を書いて“にっかつの巨匠”となった団鬼六は、“初代・SMの女王”[[谷ナオミ]]と公私にわたるSMパートナーとなり、谷ナオミは“にっかつのドル箱”と呼ばれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===「女子大生ブーム＆アダルトビデオ・ブーム」と「第2次SMブーム」===&lt;br /&gt;
[[1979年]]、『[[SMスナイパー]]』が創刊された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌[[1980年]]、マゾ女優の谷ナオミが一般男性と結婚し、SM女優を引退した（のちSMサークルを主催）。団鬼六は“2代目・SMの女王”として、[[麻吹淳子]]を起用した。、“短大卒”の“一般女優”である麻吹淳子は、“日活ポルノ美人コンテスト第3位”という経歴の持ち主である。麻吹淳子は病気で引退するまでの約1年間に、13本のSM映画に主演した。活動期間は短かったが、非常に活躍したSM女優である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌[[1981年]]、『[[SMマニア]]』、『[[SMスピリット]]』、『[[SMクラブ]]』が創刊された。さらに[[1983年]]、『[[SM秘小説]]』が創刊された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このように、1979年から1983年までの4年間にSM誌が5誌も創刊された。これを第2次SMブームという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時（1980年代前半）は[[女子大生ブーム]]の最盛期に当たり、また[[アダルトビデオ]]が誕生して大ブームになっていた。そのため、多くの[[女子大生]]がSMビデオに出演した。SM専門雑誌で[[SMモデル]]になった女子大生も多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
麻吹淳子の引退を受け、1983年に“3代目・SMの女王”になったのが、金沢の老舗料亭のお嬢様、モデルの[[高倉美貴]]である。彼女は団鬼六のスカウトを何度も断ったが、団鬼六の粘り強い説得に根負けし、ついにSM女優となった。高倉美貴も谷ナオミ・麻吹淳子と同様に、団鬼六の公私にわたるSMパートナーとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===「第3次SMブーム（第2次SMブーム後期）」===&lt;br /&gt;
[[1984年]]、日活にスカウトされた“素人”のマゾ女性・[[末次富士子]]らが日活のSM映画で活躍し、SMがワイドショーで取り上げられるまでになった。&lt;br /&gt;
翌[[1985年]]、AVに圧倒されていた日活が起死回生を賭け、“本番セックスでの撮影を導入”した。これを象徴する作品が、[[木築沙絵子]]主演のSM映画『箱の中の女』である。日活は本番映画でAVに対抗しようとした。しかしその経営努力も空しく、[[1988年]]、日活はピンク映画の制作から撤退した（まもなく倒産）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方AVでは、[[1982年]]に設立された[[アートビデオ]]が、SM業界全体を牽引した。アートビデオの創業者は、SM雑誌の元カメラマンだった[[峰一也]]である。主演男優は怪優・[[黒田透]]で、黒田透がアートビデオの専属男優をしていた頃が、SMビデオの最盛期に当たる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1986年]]、AVで[[横浜国大]]の現役女子大生・[[黒木香]]がSMビデオでデビューした。黒木香は“元祖高学歴AV女優”および“元祖AVタレント”として一世を風靡した。黒木香の活躍により、SMは完全にお茶の間の中に入り込むようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この頃、三和出版の『別冊SMマニア』が、誌上で「SM合コン」を企画・主催した。これは当時ブームになっていた「[[一気飲み]]」による合コンブームの影響を受けたもので、『別冊SMマニア』が誌上で“SMプレイの希望者を合コン形式で募集”したものである。「SM合コン」には若い男女が多数応募した。初対面の参加者達は、まず居酒屋で合コンをする。この合コンで参加者達はSMプレイをする相手を決める。合コンが終了すると、参加者達は『別冊SMマニア』のスタッフと共にラブホテルへ直行し、SM乱交プレイを行う。その様子を『別冊SMマニア』のカメラマンが撮影し、後日その写真が『別冊SMマニア』に掲載される、という仕組みである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このように1980年代半ばから1980年代後半には、SM業界で“素人の男女が活躍”するようになった。この頃SM専門雑誌では、“SMのファッション化”進んでSMが“大衆化”する一方で、SM小説がマンネリ化する、SM写真に[[パイパン]]ではないSMモデルが登場する、などの“SMの質の低下”が目立つようになった。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>高麗人参</name></author>	</entry>

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				<updated>2018-03-09T18:46:39Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;高麗人参: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''SMブーム'''（えすえむぶーむ）とは、SM専門雑誌、映画（にっかつロマンポルノ）、ビデオ（アダルトビデオ）等において、[[サド]]の男性が[[マゾ]]の女性を性的に責めることが流行したムーブメントのこと。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第1次SMブーム、第2次SMブーム、第3次SMブーム（第2次SMブーム後期）の3つに分類される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===「世界最大のSM大国・日本」===&lt;br /&gt;
昔から、日本はドイツと並び、“世界最大のSM大国”である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは[[明治時代]]以降、日本人の国民性が“陰湿”で“男尊女卑”となったため、日本にはもともと“SMを受け容れる土壌があった”ことが大きな原因である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、日本人は欧米人と違い“手先が器用”であるため、M女を緊縛しやすいという長所があった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===「日活のポルノ転進」と「第1次SMブーム」===&lt;br /&gt;
[[1971年]]、日本の“映画大手5社”の一つである[[日活]]が、経営不振により[[ポルノ]]映画製作に路線転換した。日活と言えば、[[石原裕次郎]]や[[吉永小百合]]らが“社員”として在籍した“名門映画会社”である。この日活が制作を開始した“疑似セックス”による“ペニスをバギナに挿入しないポルノ映画”が、[[にっかつロマンポルノ]]と呼ばれる[[ピンク映画]]である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この影響を受けて、SM専門雑誌の『[[SMセレクト]]』と『[[SMファン]]』が創刊された。翌[[1972年]]、官能作家・[[団鬼六]]が『[[SMキング]]』を創刊。同年、『[[SMフロンティア]]』、『[[SMコレクター]]』も創刊された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このように2年間でSM専門雑誌が5誌も創刊された。これを第1次[[SMブーム]]という。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
SM小説を書いて“にっかつの巨匠”となった団鬼六は、“初代・SMの女王”[[谷ナオミ]]と公私にわたるSMパートナーとなり、谷ナオミは“にっかつのドル箱”と呼ばれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===「女子大生ブーム＆アダルトビデオ・ブーム」と「第2次SMブーム」===&lt;br /&gt;
[[1979年]]、『[[SMスナイパー]]』が創刊された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌[[1980年]]、マゾ女優の谷ナオミが一般男性と結婚し、SM女優を引退した（のちSMサークルを主催）。団鬼六は“2代目・SMの女王”として、[[麻吹淳子]]を起用した。、“短大卒”の“一般女優”である麻吹淳子は、“日活ポルノ美人コンテスト第3位”という経歴の持ち主である。麻吹淳子は病気で引退するまでの約1年間に、13本のSM映画に主演した。活動期間は短かったが、非常に活躍したSM女優である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌[[1981年]]、『[[SMマニア]]』、『[[SMスピリット]]』、『[[SMクラブ]]』が創刊された。さらに[[1983年]]、『[[SM秘小説]]』が創刊された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このように、1979年から1983年までの4年間にSM誌が5誌も創刊された。これを第2次SMブームという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時（1980年代前半）は[[女子大生ブーム]]の最盛期に当たり、また[[アダルトビデオ]]が誕生して大ブームになっていた。そのため、多くの[[女子大生]]がSMビデオに出演した。SM専門雑誌で[[SMモデル]]になった女子大生も多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
麻吹淳子の引退を受け、1983年に“3代目・SMの女王”になったのが、金沢の老舗料亭のお嬢様、モデルの[[高倉美貴]]である。彼女は団鬼六のスカウトを何度も断ったが、団鬼六の粘り強い説得に根負けし、ついにSM女優となった。高倉美貴も谷ナオミ・麻吹淳子と同様に、団鬼六の公私にわたるSMパートナーとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===「第3次SMブーム（第2次SMブーム後期）」===&lt;br /&gt;
[[1984年]]、日活にスカウトされた“素人”のマゾ女性・[[末次富士子]]らが日活のSM映画で活躍し、SMがワイドショーで取り上げられるまでになった。&lt;br /&gt;
翌[[1985年]]、AVに圧倒されていた日活が起死回生を賭け、“本番セックスでの撮影を導入”した。これを象徴する作品が、[[木築沙絵子]]主演のSM映画『箱の中の女』である。日活は本番映画でAVに対抗しようとした。しかしその経営努力も空しく、[[1988年]]、日活はピンク映画の制作から撤退した（まもなく倒産）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方AVでは、[[1982年]]に設立された[[アートビデオ]]が、SM業界全体を牽引した。アートビデオの創業者は、SM雑誌の元カメラマンだった[[峰一也]]である。主演男優は怪優・[[黒田透]]で、黒田透がアートビデオの専属男優をしていた頃が、SMビデオの最盛期に当たる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1986年]]、AVで[[横浜国大]]の現役女子大生・[[黒木香]]がSMビデオでデビューした。黒木香は“元祖高学歴AV女優”および“元祖AVタレント”として一世を風靡した。黒木香の活躍により、SMは完全にお茶の間の中に入り込むようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この頃、三和出版の『別冊SMマニア』が、誌上で「SM合コン」を企画・主催した。これは当時ブームになっていた「[[一気飲み]]」による合コンブームの影響を受けたもので、『別冊SMマニア』が誌上で“SMプレイの希望者を合コン形式で募集”したものである。「SM合コン」には若い男女が多数応募した。初対面の参加者達は、まず居酒屋で合コンをする。この合コンで参加者達はSMプレイをする相手を決める。合コンが終了すると、参加者達は『別冊SMマニア』のスタッフと共にラブホテルへ直行し、SM乱交プレイを行う。その様子を『別冊SMマニア』のカメラマンが撮影し、後日その写真が『別冊SMマニア』に掲載される、という仕組みである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このように1980年代半ばから1980年代後半には、SM業界で“素人の男女が活躍”するようになった。この頃SM専門雑誌では、“SMのファッション化”進んでSMが“大衆化”する一方で、SM小説がマンネリ化する、SM写真に[[パイパン]]ではないSMモデルが登場する、などの“SMの質の低下”が目立つようになった。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>高麗人参</name></author>	</entry>

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		<summary type="html">&lt;p&gt;高麗人参: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''SMブーム'''（えすえむぶーむ）とは、SM専門雑誌、映画（にっかつロマンポルノ）、ビデオ（アダルトビデオ）等において、[[サド]]の男性が[[マゾ]]の女性を性的に責めることが流行したムーブメントのこと。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第1次SMブーム、第2次SMブーム、第3次SMブーム（第2次SMブーム後期）の3つに分類される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===「世界最大のSM大国・日本」===&lt;br /&gt;
昔から、日本はドイツと並び、“世界最大のSM大国”である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは[[明治時代]]以降、日本人の国民性が“陰湿”で“男尊女卑”となったため、日本にはもともと“SMを受け容れる土壌があった”ことが大きな原因である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、日本人は欧米人と違い“手先が器用”であるため、M女を緊縛しやすいという長所があった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===「日活のポルノ転進」と「第1次SMブーム」===&lt;br /&gt;
[[1971年]]、日本の“映画大手5社”の一つである[[日活]]が、経営不振により[[ポルノ]]映画製作に路線転換した。日活と言えば、[[石原裕次郎]]や[[吉永小百合]]らが“社員”として在籍した“名門映画会社”である。この日活が制作を開始した“疑似セックス”による“ペニスをバギナに挿入しないポルノ映画”が、[[にっかつロマンポルノ]]と呼ばれる[[ピンク映画]]である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この影響を受けて、SM専門雑誌の『[[SMセレクト]]』と『[[SMファン]]』が創刊された。翌[[1972年]]、官能作家・[[団鬼六]]が『[[SMキング]]』を創刊。同年、『[[SMフロンティア]]』、『[[SMコレクター]]』も創刊された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このように2年間でSM専門雑誌が5誌も創刊された。これを第1次[[SMブーム]]という。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
SM小説を書いて“にっかつの巨匠”となった団鬼六は、“初代・SMの女王”[[谷ナオミ]]と公私にわたるSMパートナーとなり、谷ナオミは“にっかつのドル箱”と呼ばれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===「女子大生ブーム＆アダルトビデオ・ブーム」と「第2次SMブーム」===&lt;br /&gt;
[[1979年]]、『[[SMスナイパー]]』が創刊された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌[[1980年]]、マゾ女優の谷ナオミが一般男性と結婚し、SM女優を引退した（のちSMサークルを主催）。団鬼六は“2代目・SMの女王”として、[[麻吹淳子]]を起用した。、“短大卒”の“一般女優”である麻吹淳子は、“日活ポルノ美人コンテスト第3位”という経歴の持ち主である。麻吹淳子は病気で引退するまでの約1年間に、13本のSM映画に主演した。活動期間は短かったが、非常に活躍したSM女優である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌[[1981年]]、『[[SMマニア]]』、『[[SMスピリット]]』、『[[SMクラブ]]』が創刊された。さらに[[1983年]]、『[[SM秘小説]]』が創刊された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このように、1979年から1983年までの4年間にSM誌が5誌も創刊された。これを第2次SMブームという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時（1980年代前半）は[[女子大生ブーム]]の最盛期に当たり、また[[アダルトビデオ]]が誕生して大ブームになっていた。そのため、多くの[[女子大生]]がSMビデオに出演した。SM専門雑誌で[[SMモデル]]になった女子大生も多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
麻吹淳子の引退を受け、1983年に“3代目・SMの女王”になったのが、金沢の老舗料亭のお嬢様、モデルの[[高倉美貴]]である。彼女は団鬼六のスカウトを何度も断ったが、団鬼六の粘り強い説得に根負けし、ついにSM女優となった。高倉美貴も谷ナオミ・麻吹淳子と同様に、団鬼六の公私にわたるSMパートナーとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===「第3次SMブーム（第2次SMブーム後期）」===&lt;br /&gt;
[[1984年]]、日活にスカウトされた“素人”のマゾ女性・[[末次富士子]]らが日活のSM映画で活躍し、SMがワイドショーで取り上げられるまでになった。&lt;br /&gt;
翌[[1985年]]、AVに圧倒されていた日活が起死回生を賭け、“本番セックスでの撮影を導入”した。これを象徴する作品が、[[木築沙絵子]]主演のSM映画『箱の中の女』である。日活は本番映画でAVに対抗しようとした。しかしその経営努力も空しく、[[1988年]]、日活はピンク映画の制作から撤退した（まもなく倒産）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方AVでは、[[1982年]]に設立された[[アートビデオ]]が、SM業界全体を牽引した。アートビデオの創業者は、SM雑誌の元カメラマンだった[[峰一也]]である。主演男優は怪優・[[黒田透]]で、黒田透がアートビデオの専属男優をしていた頃が、SMビデオの最盛期に当たる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1986年]]、AVで[[横浜国大]]の現役女子大生・[[黒木香]]がSMビデオでデビューした。黒木香は“元祖高学歴AV女優”および“元祖AVタレント”として一世を風靡した。黒木香の活躍により、SMは完全にお茶の間の中に入り込むようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この頃、三和出版の『別冊SMマニア』が、誌上で「SM合コン」を企画して主催した。これは当時ブームになっていた[[一気飲み]]による合コンブームの影響を受けたもので、『別冊SMマニア』が誌上で“SMプレイの希望者を合コン形式で募集”したものである。「SM合コン」には若い男女が多数応募した。初対面の参加者達は、まず居酒屋で合コンをする。この合コンで参加者達はSMプレイをする相手を決める。合コンが終了すると、参加者達は『別冊SMマニア』のスタッフと共にラブホテルへ直行し、SM乱交プレイを行う。その様子を『別冊SMマニア』のカメラマンが撮影し、後日その写真が『別冊SMマニア』に掲載される、という仕組みである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このように1980年代半ばから1980年代後半には、SM業界で“素人の男女が活躍”するようになった。この頃SM専門雑誌では、“SMのファッション化”進んでSMが“大衆化”する一方で、SM小説がマンネリ化する、SM写真に[[パイパン]]ではないSMモデルが登場する、などの“SMの質の低下”が目立つようになった。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>高麗人参</name></author>	</entry>

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